心に私なき時は疑うことなし
(五)
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 しかし、その水のような声が弦一郎の奥まで染みこんで届くや否や、弦一郎は、自分の頭と心臓が、今にも爆発するのではないかと思った。
 息ができないほど心臓がうるさく鼓動を打ち、顔に、頭に、真夏の京都の気温よりも熱い熱が上ってくる。薄暗いのでわかりづらくとも、弦一郎の顔は、これ以上なく真っ赤になっていた。

「あっ、弦ちゃん、これ……」
 今にも頭から湯気が出そうな弦一郎の様子に気づいているのかいないのか、紅梅はすっかり安心しきったようににこにこしながら、袂から、小さな黒いものを取り出した。
 真新しいそれは、言わずもがな、新しい守り袋である。
「う、む、あ、ああ、それ、ああ……」
 未だかつてなく動揺している弦一郎は、紅梅が差し出したものが何なのかだけ反射的に理解し、意味不明な声を出すと、ポケットから、少し角がほつれた、同じものを取り出した。自分の指が震えているのに気づき、弦一郎は一度、ぐっと拳を握りしめる。

 指が震えているのを気付かれないように、まず紅梅に、古いお守りを渡す。紅梅はどこか慎重にそれを受け取り、胸の合わせ目に仕舞った。自分が差し出したものを彼女がそうやって懐に仕舞ったというだけで、弦一郎はどぎまぎする。
 次いで、紅梅が新しいお守りを差し出したので、弦一郎は、ふらりと誘われるように手を出した。小さなお守りが、ぽとりとその上に落とされる。
 それだけでなく、紅梅が両手で弦一郎の手を包むようにして、新しいお守りを握らせてくる。さらには祈るように俯いて、日本髪を結って顕な額付近にその拳を引き寄せたので、弦一郎は思わずひゅっと息を吸い込み、止めた。

「──ご利益、ありますように」

 毎年お守りを渡されるときにされる、仕草。
 自分が毎年どうやってこの瞬間を乗り切ってきたのか、弦一郎は我ながら理解不能だった。毎年のことだったはずだ。それなのに、自分はなぜ生きているのだろう、と、何やら一周回って冷静になりつつある──というよりは、どこかが吹き飛んで空回りしているような頭で思う。
 かつて、組み合って、じゃれあったはずの手。彼女の手は、こんなに白く、柔らかく、美しかっただろうか。化粧をした顔と違って何も隠されていない素肌のままの小さな手を、弦一郎は、どこかうっとりとした心地で見る。

「百度参りを」

 弦一郎は、熱に浮かされたような心地のまま、言った。
 すると紅梅が跳ね上げるように顔を上げ、目を丸くして弦一郎を見る。手は握ったままだ。
「していると、……聞いた」
「だ、誰に、そんな」
「蓮二に」
 根拠、ソースが確かな情報に関しては誰にも引けをとらないデータマンの名を出すと、紅梅はウウと小さく呻き、俯いた。
「……言わんでて、言うたに……」
 ごく小さな、ぽそりと呟くような声。

「毎年、やっているのか?」
「え、っと……あ、佐和子おばあさまの時、あん時から……」
「そうか」
 ならば、五年である。五年間、単純計算で五百日、彼女は自分のために祈ってくれたのだと思うと、弦一郎は感動し、震えた。

「……写真も見た」
「いやあ!」
 紅梅は叫び、弦一郎の手を離した。柔らかい手の感触がなくなったのは惜しかったが、おろおろと慌てた彼女の反応に、弦一郎はどきどきした。
「ちゃう……、ちゃうのや」
「何がだ?」
「ちゃうん……あん時はな、たまたま寝坊してな……。そやけど天神はんに明日も来ますて言うたに、行かんかったら縁起悪おすやろ? いつもは朝にな……」
 何に言い訳をしているのかわからない言い訳を連ねる紅梅を、弦一郎は、まじまじと見つめる。いまの彼女の姿を、一瞬足りとも見逃したくなかった。
「そうだな。いつもは朝早く起きてしている、と聞いた。夜遅いのに、何時に起きているんだ」
 どうにもどぎまぎするので、自分が落ち着くための、世間話のつもりだった。そして、百度参りなどという面倒なことをしてくれていた彼女に礼を言うための布石の会話のつもりで、弦一郎は尋ねた。

「…………よ」
「何?」
「……よ、よじ」
「四時?」
 それは弦一郎にとって、とても親しみのある時刻だった。物心つく頃からずっと変わっていない、弦一郎の起床時間である。
「……天満宮の門は、そんなに早くから開いているのか?」
「う、ううん、五時から」
「では、もう少し遅く起きてもいいのではないのか」
 この辺りから北野天満宮はそう遠くないはずだ、と弦一郎は続けた。
 紅梅も基本的に早寝早起きだそうだが、それは座敷がない時の話である。単に夜更かしをしているのならまだしも、やむを得ず遅く寝る日がある彼女が、無理をして早起きをすべきとは、さすがに弦一郎も思わない。むしろ、きちんと睡眠をとったほうがよいのでは、という心配とともに、弦一郎はわずかに眉を寄せた。

「……そやかて、弦ちゃんが」
「俺が?」
「弦ちゃんは、いっつも、四時に起きてお稽古しはるて……」
「そう、だが」
 伊達に長年、手紙をやりとりしていない。それに弦一郎は世間一般基準よりもはるかに常に規則正しい生活サイクルを送っているので、彼が今神奈川で何をしているのか、遠い京都にいる紅梅にも、概ねの予測がつくのである。

「そやから……弦ちゃんが四時に起きるていうから……。おんなじ時間に起きてお稽古して、そしたら、ああ今弦ちゃんも起きたんかなとか、今お稽古してはるんかなて思うんな……? そういうん、ちょっと楽しゅうて……」

 恥ずかしそうに白状する彼女に、弦一郎は、膝から崩れ落ちそうになった。
 弦一郎の顔は先ほどから真っ赤だが、白塗りの彼女もまたそうなのだろう。もちろん顔色など白粉でわからないが、ピアスの穴も開いていない、そしてきっちり結い上げられた日本髪のせいで顕な素のままの丸い耳が、血が出そうなほどに赤いのを、そして目弾き紅で目尻が彩られた目が潤んでいるのを、弦一郎は、食い入るように見た。

「もう……やや……」
「な、なぜ、嫌だ」
「そやかて、気色悪いやろ」
「は?」
「百度参りとか、一緒の時間に起きるとか、うち、気色悪い……」
 そういうん、なんちゅうの、“重い”て思わはる人多いて聞いたえ、と、紅梅は、消え入りそうな声で言った。先ほどの、安心しきった様子とは全く違う、非常に不安げで、おどおどした様子である。

「重……? よ、よくわからんが、気色が悪いなどというのは、ないぞ」
「ほ、ほんま?」
 紅梅が、不安そうな顔を上げて、弦一郎を見た。弦一郎の心臓が、またどくりと大きな音を立てる。

「お、俺は、むしろ」
「えっ」
「むしろとても、……その、嬉しかった」
 弦一郎は、俯いた。
 目に入るのは、彼女の履いたおこぼとその赤い鼻緒、そして真っ白な足袋。そして同時に弦一郎は、あの写真を思い出した。このおこぼも足袋も脱ぎ、白い小さな裸の足を晒して、石畳の上を歩く彼女の姿を。

「とても、嬉しい」

 その言葉通りの、偽りのない喜び、そして言いたいことが言えた喜びが、弦一郎の中にいっぱいに広がった。

「ほんま……? 嫌やない? うっとおしゅうない?」
「自分のためにこんなにしてもらえて、嫌なわけがあるか」
「う、うん」
 はっきりと言った弦一郎に、紅梅は、なんだかもじもじとした。寄せられる小さな爪先を、弦一郎はつい目で追う。
「お、おおきに」
「例を言うのは、俺の方だろう」
「へェ、そやけど……うちが好きでしとることやもん」
 にっこり微笑まれて、弦一郎は、目眩がした。

「……そうか。いつも、ありがとう。礼を言う」

 ああ、これだ。
 ──と、弦一郎は、自分で言った言葉が、自分の心の隙間にぴったりはまる感覚を覚えた。
 出会った頃から、いつも自分のために言葉を綴り、こうしてはっきりと行動してくれる彼女に、弦一郎はとても感謝している。なぜこんなに大事なことを今まで忘れ、疎かにしていたのだろうかと、弦一郎は心底反省した。

「……ふぇへ」

 完璧に作った舞妓姿とは不釣り合いな、奇妙で、少し不格好ですらある笑い声。
 紅の塗られた小さな口から漏れたその声と、蕩けるように潤んだ目が細まって笑みの形を作るのに、弦一郎は魅入られた。
 ──ああ、彼女だ。自分が知っている彼女。
 着物姿のまま走り回って、汗まみれになりながらラケットを振る姿。
 髪を振り乱して全力で弦一郎の手を握り、裾や襟が乱れるのも構わず脚を踏ん張り、眉をしかめて頬を膨らまし、歯を食いしばる顔。ズルをしたくせにどや顔を浮かべ、疲れ果てているくせに負け惜しみを言う姿を、弦一郎は、彼女がほんとうに嬉しい時に漏らすその奇妙な笑い声を鍵にして、突然、鮮明に思い出した。

 すっかり彼女の素顔を思い出すと、この白塗りの顔と記憶の中の彼女の顔が、完全に一致する。そして、確かに素顔がわかりにくくなる化粧の最たるものではあるが、表情が変わるわけではないことぐらい、すぐに知れることだということにも気づく。
 ──ああ、たかが白塗りの化粧であるというだけで、自分はなぜ彼女の素顔が分からぬだの、人ではないようだなどと思っていたのだろうか、と、そのとき弦一郎はしみじみ思った。化粧をしていようがなんだろうが、彼女はこんなにも表情豊かで、人間らしく、──かわいいというのに。

「うん、ほな、次もお百度、するえ。……してもええ?」
「う、うむ、ありがとう。だが、無理はするな」
「へぇ、おおきに」
 礼を言い合うのはなんだか間抜けだが、紅梅はにこにこしているし、弦一郎も、思わず顔が笑ったのを自覚した。笑ったというより、だらしなく蕩けたような感覚がしないでもないが。

「あっ、そや。明日の準決勝な、四天宝寺どすやろ」
「うむ、そうだ」
 弦一郎は、しっかりと頷いた。
「急なんやけど、明日、試合観に行けるよぅなったん」
「なにっ!? ……ほ、本当か」
「へぇ。大阪やし、すぐや」
 驚いて目を見開いた弦一郎に、紅梅は、にこにこして頷いた。
「お三味のお師匠はんの都合で、お稽古お休みんなったん。ほんで、学校の子ォが四天宝寺の応援行くていうん、ついていくんよ」
 うちが応援するんは、四天宝寺やのぉて立海やけど、と、紅梅は少し悪戯っぽい口調で続けた。
「あと、蓮ちゃんも試合出はるんやろ? 芙蓉はん姐はんからも、うちのぶんまで応援したってて言われたさかいな。お母はんにも、蓮ちゃんの応援行くて言うとるん」
「そうか」
 紅梅が正式な大会を見に来るのは、初めてである。紅梅もなんだかそわそわした感じで話しているが、弦一郎も浮足立った。

「蓮ちゃんと弦ちゃん、試合なんばんめ?」
「うむ……、本来は試合当日に発表することであるが」
「あっ、ほな、言うたらあかんのやね」
 口元を押さえる仕草をした紅梅が愛らしく、弦一郎は、少し笑った。
「いや、俺達の場合は、もう概ね順が決まっているからな。蓮二がS3で俺がS2だ」
「シングルス3と2やね。ほな最初のダブルス二試合終わって蓮ちゃんで、次が弦ちゃんやな」
「そうだ。……団体戦を見たことがあるのか?」
「舞子坂で練習試合しとるん、ちょっとだけ」
 紅梅が通う舞子坂中学校は、伝統文化特待生制度があることもあって、京都ならではの古い家業を持つ子息がよく通う学校でもある。が、男子テニス部もそこそこ強く、地区大会なら入賞は珍しくないし、今年も予選で負けたとはいえ、全国大会にも出場している。
「短い間やからすぐ帰らなあかんけど、試合は絶対見れるえ」
「ああ、わかっ……」

 その時、からり、と、引き戸が開く音がした。

ちゃん、そろそろ行くえ」
「あ、──へェ、芙蓉はん姐はん」
 途端、紅梅の表情が引き締まる。
 とはいっても浮かべているのは微笑みであるが、まるで人形師や絵師が描いたような理想的な顔になった紅梅に、弦一郎は現金にも、なんと美しいのか、と思って見惚れた。
 人でないような、などと思っていたその顔も、しっかり彼女なのだと理解すれば、こんなにも印象が違う。

「ほな、弦ちゃん」
「うむ……」
 紅梅が、弦一郎の横を通りすぎる。
 ──別れが、惜しい。弦一郎は、これまでの逢瀬とは比べ物にならぬほど、強くそう感じた。
 汗まみれの弦一郎は、美しい彼女を汚さぬように、間違っても触れようとはしない。しかしそのかわり、夏の京の町よりもじりじりと熱い視線を絡めて、彼女を見つめた。紅梅も、じっと弦一郎を見ている。

「ちゃんと、汗ふいてな。帰ったら、シャワーして。早めにお布団入って、休んで」
「うむ」
「帰りは、走らんでな? 信号無視多おすよって、車、気ぃつけて」
「わかった」
 少しずつ歩きながら、半だら帯の後ろ姿を見せながら。しかし振り返り振り返り、紅梅は言う。彼女も別れを惜しんでくれている、それがわかって、弦一郎の心は躍った。

「弦ちゃん」

 顔が、頭が、胸が、熱い。
 この、己を呼ぶ声を、ずっと聞いていたい。

「──あんじょう、お気張りやす」
「無論だ」

 しっかり頷いてみせれば、紅梅は、にっこりした。
 ちゃん、と、紅芙蓉の呼ぶ声がする。表通りに、橙色の明かりで艶めく、黒塗りの人力車が停まっていた。

「また、来年……」

 そう言って、紅梅は、行ってしまった。
 花のような香りのする手ぬぐいと、真新しい黒いお守りを握りしめて、弦一郎は、まっすぐな古都の道を遠ざかっていく人力車を、じっと見送った。






「……なんか、真田の奴、ボーッとしてね? 大丈夫かあれ」
「こっち、風邪流行ってるみたいだしなあ……おいおい、勘弁してくれよこの土壇場で」

 翌日、全国大会準決勝。
 会場に向かうバスの中で、ブン太とジャッカルがひそひそと言い合っていた。
 しかし、それも無理もない。昨日、汗まみれで、門限ぎりぎりに帰ってきた弦一郎は、どこかぼんやりとした風だった。門限ぎりぎりになったのは、電車を二度も乗り間違えたからだという。いくら土地勘のない場所とはいえ真田弦一郎らしからぬ失敗であるし、そもそもどこに行っていたのかときいても、彼は答えず、ただ何かを握りしめたまま、じっと黙っていた。
 そして今も、ひとりでバスの一番後ろの端に腰掛け、ぼんやりと外を眺めている。雅治が悪戯でクラッカーを鳴らそうとも、ブン太がお菓子を食い荒らそうとも、何も言おうとはしない。いつもなら、たるんどるだの場所を考えろだの、風紀委員節を炸裂させているというのに。

「心配するな。弦一郎が風邪を引いている確率は0パーセントだ」

 ひとり、訳知り顔といった風の蓮二が言う。全員が、彼を見た。
「ピヨッ……どういうことかの」
「チームメイトとして気になります。どういうことですか、柳君」
 片や単に野次馬根性といったふうに、片や眼鏡を光らせつつ真面目な顔で、雅治と比呂士が言う。
「まあ、近いうちにわかるさ」
「気になるのう」
「弦一郎も、試合に影響させるほど馬鹿ではないさ。むしろいつもより調子が良くなるだろう確率97パーセント」
「……まあ、それならいいのですが」
 情報開示の意志がないらしいデータマンに、皆は渋々自分の席に戻っていった。

「……ねえ。あいつが行ってたのって、京都?」

 こそ、と小声で耳打ちしてきた精市に、蓮二はにやりとした笑みを浮かべた。
「おや。なぜそう思う」
「だって、真田があれじゃね。それくらいしか考えつかないし。乗り間違えたって言ってた駅って、確か京阪線の駅だし」
「なるほど、それでは見当もついてしまうか。ああ、そのとおりだ。こじれそうだったので尻を蹴飛ばさせてもらった」
「ふーん」
 精市は、半眼になって頷いた。

「なるほどね。じゃあ、風邪じゃないけど、病気なのには変わりないってことだ?」
「上手いことを言うな、精市」

 恋の病というやつだ、とは、二人共、言わないでおいてやった。



 ──そして、準決勝。
 ダブルス2はブン太とジャッカル、ダブルス1が雅治と比呂士である。
 D2は危なげなく勝利したが、D1は相手が四天宝寺の前部長とベテランレギュラーのペアだったこともあり、惜しくも敗北してしまった。

「お笑いテニス……侮りがたいッ……!」
「ピヨ……俺らも何かああいう要素を取り入れるべきかのう……」
 試合中、テニスと全く関係ないネタ披露などで翻弄され、結局負けてしまった雅治と比呂士は、真剣な顔で検討しつつ戻ってきた。
「こらこら、惑わされるんじゃない」
「しかしですね、柳君!」
「各々、キャラクターというものがある。お前たちと彼らは、持っているものが違うのだ。何か演出するにしても、自分の持ち味を活かしたやり方にした方がいい」
「なるほどの。少し考えてみるぜよ」
「君らはテニスの話をしてるの? それともM1にでも出るの?」
 ベンチの陰から、白けた顔で、精市が言った。

「もちろん、テニスだが。……なぜ隠れているんだ、精市」
「だってちゃん来てるんだろ」
 その行動と同じくこそこそと、精市は言った。
「そろそろ、いまさらだと思うが。……さて、俺の番だな。行ってくる」
「行ってらっしゃい」
 全国大会準決勝とは思えぬ緩さで、蓮二はコートに出た。精市は、ベンチの陰から手だけだして、小さく振って彼を見送った。

 ──そして、危なげなく、どころか、相手のデータを搾り取るだけ搾り取って勝利し戻ってきた蓮二は、もうぼんやりとはしていないものの、どこかそわそわとした様子の弦一郎の傍まで行って、ラケットを軽く構えた。

「うぉっ!?」
「しっかりしろ、弦一郎」
 蓮二にラケットで見事に膝かっくんをかまされた弦一郎は、たたらを踏みながらも、何とか持ち直した。
「す、すまん」
「……西側、中央通路手前二列目だ」
「なに?」
 ぼそりと告げた蓮二に目を見開きつつ、しかし言われた通りの場所に、弦一郎が目を向ける。
 観客席西側、中央通路手前二列目。そこには、弦一郎が先程から探している姿があった。──四天宝寺の制服の中で目立つ、涼しげな薄水色の和服を着て佇む姿。
 あたりまえだが、舞妓姿ではない。白塗り化粧もしておらず、髪も日本髪ではなかった。しかしさすがに、いくら弦一郎の視力が良くとも、ここまで離れていては、顔を判別するのは難しい。それでもその姿は、確かに紅梅だった。

「まあ、頑張れ」

 それは、試合のことか。それとも、別のことだろうか。

「……ありがとう、蓮二」
「どういたしまして」

 頼れるデータマンに感謝を告げて、弦一郎は、コートに進み出た。
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BY 餡子郎
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