心に私なき時は疑うことなし
(四)
 俺は留守番をせねばならないので、と言って蓮二がついてきてくれなかったのは、紅梅へ散々不義理をした弦一郎への、ちょっとした罰でもあるのだろう。
 初めて来る土地、しかも大阪の鉄道はなかなか複雑な作りをしていて、更に乗り換えの主要となる大阪駅やなんば駅などの大きな駅が軒並み巨大な地下街と連結しているため、非常に迷いやすい。
 弦一郎は地図を読むのは得意な方だし、電車の乗換もあまり迷わないタイプであるが、それでもやはりすいすい行けるというわけにはいかなかった。
 しかし驚くべきことに、ここ大阪では、地図とメモを持って所在なさげにうろうろしていると、誰かしらが声をかけてくるので、弦一郎はさほど困ることもなかった。

 中でも、大阪駅で迷いかけていた弦一郎に声をかけてくれた中年サラリーマンのグループは、殊の外親切だった。
 彼らは、弦一郎が、待ち合わせをしていてなんとしても会わなければいけない、順調にいっても二十分くらいしか会えないので、と少し焦った様子で軽く事情を説明した途端に全員が凄まじく親身になってくれ、乗り換えの駅まで一緒に走ってくれさえした。
「ヨッシャ、あとはここんとこバーッとまっすぐ行ってキュッて左曲がって、またガーッて行ったらええで!」
「……ありがとうございます」
 しかし、親切なのは大変ありがたいのだが、誰も彼もいちいち説明に謎の擬音語がつくのはどうしたものなのだろう、と弦一郎は思いつつ、サラリーマンのグループに礼儀正しく頭を下げて、走りだした。
 走り去ってゆくその背中に、「頑張れよー!」「青春やな〜」などと声がかけられる。



  丸竹夷に押御池
  姉三六角蛸錦
  四綾仏高松万五条
  雪駄ちゃらちゃら魚の棚
  六条三哲通りすぎ
  七条越えれば八九条
  十条東寺でとどめさす……


 大阪の町は蟻の巣のようにごちゃごちゃしていたが、京都は京都で整然としすぎていて、自分がどこにいるのかわからなくなる。
「通り覚えるんになァ、お唄があるんよ」
 と、弦一郎は、紅梅がかつて教えてくれたことを、不思議と鮮明に思い出した。特にわかりづらい、京都市の中心部の東西・南北の通りの名を覚えるために、通りの名前を編み込んだ唄がいくつも作られているのだ。
 紅梅は何かというとそれを口ずさむ癖があったので、弦一郎もぼんやり覚えている。こうして現地に来れば、朧気な記憶はすっかり蘇り、弦一郎も唄を全て諳んじることが出来た。
 そして、相変わらず彼女の素顔はよく思い出せないが、岩にもすぅと染みこむ水のような彼女の声を、弦一郎は突然、鮮明に思い出した。

  坊さん頭は 丸太町
  つるっとすべって 竹屋町
  水の流れは 夷川
  二条で買うた 生薬を
  ただでやるのは 押小路
  御池で出逢うた 姉三に
  六銭もろうて 蛸買うて
  錦で落として 四かられて
  綾まったけど 仏仏と
  高がしれてる 松どしたろ……

 彼女が生まれて育った、京都の町。一度も来たことのないはずのその古都に降り立った途端、弦一郎は、不思議な既視感に見舞われる。
 ──ああ、手紙の向こうの町だ。と、弦一郎は思った。紅梅の寄越す手紙に綴られる京都の町が、今ここにある。手紙の中でしか知らなかった彼女の世界が今、弦一郎の目の前で、はっきりとした実感をもって像を結んでいく。

 彼女は、彼女の住んでいる町は、手紙の中の虚像ではないのだと、弦一郎は碁盤の目の通りを駆け抜けながら思い知る。

 彼女にひどい不義理をした言い訳、というわけではないが、そもそも弦一郎には、想像力というものが決定的に不足している。
 目の前で起きたことや具体的な説明でないと、実感を伴った理解が難しい性格。それは余計な雑念に囚われず、一つのことを集中してやり遂げる、といったようなことで大いに助けになってもいたが、同時に、致命的に残念な効果も発揮していた。
 電話で声を聞いたり、写真で姿を確認するようなやり取りがあれば、まだ、ここまでではなかったのかもしれない。しかし二人の今までのやり取りは、正真正銘、手紙だけだ。

 そのため、長く手紙だけのやり取りをするうちに、弦一郎にとって、紅梅は長らく、根本的に、手紙の向こうの存在として意識されてしまうようになってしまっていた。そのくせ彼女が自分にとても甘く親切なことばかりをちゃっかり覚えているのだから、始末に終えない。

 しかしやはり、人は自分にとって良い所ばかりをよく覚えているものなのだ。
 手紙の中に見る彼女の世界は女性らしい繊細さに溢れ、美しく、幽玄的だ。その世界の中から弦一郎に向けられる、心配、労い、励ましや称賛の言葉。時折、決して押し付けがましくない程度の、ささやかな提案。それを弦一郎は長い間ずっと受け取り、密やかに心に仕舞い、大事にしてきた。それは事実だ。

 だが、だからこそ──遠くに居ながらにしてむしろ常にふたりきりのような関係性だったからこそ、弦一郎は、彼女が常に自分だけのために存在しているような錯覚を持ってしまっていたのだった。
 彼女にも生活があり、学校があり、弦一郎以外との人付き合いがある。そんなごく当たり前のことを、弦一郎は失念していた。その上、あの、非現実的な白塗り化粧の姿が、彼女が生きた人間であること、ただ弦一郎を親身に気遣う稀有な存在であることを、忘れさせてしまっていた。
 そしてそんな思い込みに囚われた弦一郎は、本格的に忙しそうな生活や、舞台のこと、跡部景吾とのやりとりなどに、不満を抱いてしまったのだ。
 ──独り善がりにも程がある、と、今ならわかる。

  寺御幸麩屋富柳堺
  高間東車屋町
  烏両替室衣
  新町釜座西小川
  油醒ヶ井で堀川の水
  葭屋猪黒大宮へ
  松日暮に智恵光院
  浄福千本果ては西陣……

 夏の太陽は引っ込むのが早く、空はすっかり夜空である。
 定規で引いたような真っ直ぐな通りに、提灯や灯籠の風雅な光が灯り始めた。普段ならその風流さに感心していたのだろうが、明るくとも迷いやすい通りが幽玄な姿になることによって更に行く者を惑わせ、まるで迷路である。
 しかも、暑い。京都の夏が厳しいというのは一般論でも紅梅からの手紙でも知っていたが、うだるようである。風はなく、そのくせ昼間さんざん太陽に熱された石畳からじりじりと熱気が立ち上り、狭い小路に篭もりきっている。
 弦一郎は、焦った。一本でも道を間違えたら、会えない。

 風雅な夜の古都に、滝のような汗で変色したTシャツと、ジョギングでもする時のようなスポーツメーカーのズボンを履いて全力疾走する弦一郎はとても浮いていて、道行く人々から、何事かと視線が集まる。
 しかし弦一郎は、形振り構わず、走った。

「──紅梅

 自然、彼女の名を呼んだ。それは呟くような声で、思わず、といった風だった。
 実感はないが、祖父が出入り禁止を言い渡されているこの街で、真田の性を持つ自分が彼女の名を呼ぶのは、もしかしたらよろしくないことなのかもしれない、とも思う。だが弦一郎は、呼ばずにはいられなかった。

 大通りから細い路地に入り込み、直角の角を数度曲がって、きょろ、と、辺りを見回す。
 蓮二に渡された地図によれば、ここで間違いないはずだ。しかし黒い壁の町家の並びはどれもこれも同じに見えて、弦一郎は不安になる。
 そのとき、『瓢屋』という、覚えのある、そして蓮二からも目印だと言われている屋号が見えて、弦一郎ははっとした。──料亭、瓢屋。弦一郎が紅梅に手紙を出す時、宛先に使う住所である。つまり弦一郎の出した手紙は、この料亭に届いているのか。
 自分の手紙の宛先を実際に見ることで、ひときわ重い実感を味わいながら、弦一郎は、いかにも高級そうで、一見さんお断りの店構えを見た。『瓢屋』がここにあるのなら、紅梅が住む『花さと』もこの近くにあるのだろう。置屋は看板を出しているわけではないので、多分歩きまわってもわからないだろうが。

 ──しゃりん

 と、音がして、弦一郎は振り向いた。
 小さな金属がこすれ合うような、かすかな音。しかしどこか華やかな、音楽のような音だ。

 その音に導かれるように、弦一郎は、『瓢屋』の裏手に回る、更に細い小路を覗きこむ。

「──あ」

 と言ったのは、弦一郎だったろうか。それとも、向こうだっただろうか。

 弦一郎は、小路の奥、行き止まりになったその空間に、呆気にとられた。
 なぜならそこにあった眺めは、今までの現実感を一気に吹き飛ばすが如く幽玄で、この世のものでないようだったからだ。
 石畳の小路、黒塗りの壁。小さな行灯の明かりがふたつほどしかない行き止まりのそこに、だらり帯の舞妓と、半だら帯の舞妓見習いが立っている。

 京都独特の暑さと、その中を全力疾走してきたがゆえに汗だくの弦一郎と違って、彼女らはとても涼やかだった。
 厚着というにも足りないような衣装を着ているはずなのに、白塗りの化粧が汗で溶けるような様子は一切ない。何をどうすればあんなに涼しげでいられるのか、弦一郎は見当もつかなかったし、そういうところが、彼女たちを夢現の存在のように思わせた。

「ヘェ、来はったわ。甲斐性かいしょなし」
 まず聞こえてきたのは、弦一郎がここに来る途中にずっと思い出していた水のような声ではなく、凛とした、風鈴のように涼しい声だった。
「……蓮華さん、ですか」
「いまは芙蓉どす。紅芙蓉」
 すっかり京ことばが板についている柳蓮華こと紅芙蓉は、蓮二によく似た切れ長の目を半目にして、じろりと弦一郎を見た。
「来はらんかったらどないしたろ思とったわ」
「……すみません」
「謝るんは、うちとちゃいますやろ」
 ごもっともである。
 弦一郎は言い訳をせず、会釈というには深い角度で、蓮華に頭を下げた。蓮華は小さくふんと鼻を鳴らすと、ころんと音を立てておこぼの足を踏み出し、そっと言った。
「うちは、瓢屋はんの玄関で待っとおす。お座敷まであと二十分もないくらいや。時間のうなったら呼びに来るえ」
「はい。ありがとうございます」
「弦一郎君」
 凛々しい声だ。紅芙蓉、夏に咲く大輪の花の名を冠した舞妓は、言った。
「……泣かしたら承知しないから」
 弦一郎にしか聞こえぬ声で言うと、彼女はころんころんと音を立てて彼の横を通り過ぎ、一見さんお断りの店構えの瓢屋に、あっさりと入っていく。
 古い引き戸が閉まる音を聞き届けてから、弦一郎は、恐る恐るという心持ちで、ゆっくりと振り返った。

 ──ああ、

 言葉が出ない、という経験を、弦一郎は、初めて味わった。
 電車を乗り継ぎ、全力で走りながら、弦一郎は、彼女に言うべき言葉をずっと考えてきた。しかし、まず謝ろう、あれも言おうこれも言おう、などという細かい思考は、彼女の姿を見た瞬間、跡形もなく消し飛んでしまったのだった。

 なんと、美しいのだろうか。

 言葉が出ない代わりに、走ったせいだけではない、長く深い溜息が、弦一郎の口からこぼれ出た。
 かなり薄暗い行き止まりの小路で、彼女は、なんだかぼんやり光っているようにも見えた。日本髪に飾られ、しゃらり、しゃりん、と音を立てる金属の飾りや、豪華な着物の刺繍が、行灯が放つ僅かな光を、ふんわりと反射しているからかもしれない。
 それに、誰も彼もがこの薄闇で顔がはっきりわからなくなっているというのに、白塗りの彼女の顔は、とてもよく見えた。そもそもあの白塗り化粧は、電灯などなかった時代に、暗い座敷でも顔がよく見えるようにという目的があってされたものだという蓮二から聞いた薀蓄が、実感を伴う。
 紅芙蓉よりもおとなしめの髪飾りと着物、しかしどこか堂に入って、この小路にこれ以上なくしっくり馴染んだ佇まいの半だら帯の見習い舞妓が、白塗りの顔を弦一郎に向けている。
 そしてその表情はどこか固く、弦一郎の様子を伺うように、僅かに上目遣いの様子だった。警戒する猫に対するような緊張感でもって、弦一郎は一度ごくりと唾を飲み込んでから、そうっと口を開く。

「──こ、うめ

 うだるような、京の暑さのせいではない。それ以上の熱気とともに、弦一郎は、彼女の名前を口にした。
 すると、白塗りの化粧の目が、細まる。

「──弦ちゃん」

 ──記憶にある、水のような声が、弦一郎の鼓膜に染みこむ。
 彼女だけが使う、自分の呼び名。
 そして、暗闇の中のための化粧のせいだけではなく、ほんとうにその表情が輝いた瞬間を、弦一郎は見た。
 弦一郎が名前を呼んだだけで、この世のものではないほど美しい、作り物のような白い顔が、蕩けそうに微笑む少女の顔になった瞬間。そしてその瞬間は、弦一郎の息が止まった瞬間でもあった。
 美しさのあまり、愛らしさのあまりに呼吸が止まることがあるというのを、弦一郎は、今体験したのである。

「お久しゅう……」
「あ、あ」
 無様なほどにぎこちなく、弦一郎は返事をした。紅梅は本当に嬉しそうに微笑みながら、弦一郎をまっすぐ見ている。弦一郎は、自分の鼓動が痛いほどに大きくなるのを感じた。自分の心臓が、内側から弦一郎の胸を殴りつけているようだ。
 息苦しい。どうしたらいいかわからない。しかも、紅梅がころんころんとおこぼを鳴らして近づいてくるので、弦一郎はなおのこと硬直した。
「ひゃあ。汗、凄おすえ」
「い、いかん」
 顔を覗き込むようにして近づいてきた紅梅から、弦一郎は、一歩退く。すると、紅梅は一瞬呆けたような顔をして、次いで、しょんぼりと眉尻を下げた。残念そうな、何かを諦めたような、しょうがない、というような顔。
「……かんにん」
 消えそうな声で謝罪され、弦一郎は、心臓に痛みを感じた。まるで刃物で刺されたような、鋭い痛み。息の根を止められるような痛みだった。

「ち、違う!」
「へぇ?」
 大きな声を出した弦一郎に、紅梅が、驚いた顔をする。
「その、違う、汗が、その。汗だくだ。汚い」
「ああ」
 必死な様子が通じたのか、紅梅は、納得した様子で頷いた。弦一郎は、心の底からほっとする。しかし、心臓の鼓動は相変わらず激しかった。この音が、彼女に聞こえてしまいはしないかと思うくらいに。
「気にせんでええのに」
 気にしないわけがないだろう、と、弦一郎は、叫ぶような心地で思った。男の汗臭いのがどれだけむさ苦しくて不快なものか、弦一郎はよく知っている。部活の後の密閉された部室など、地獄そのものだ。
 ひっきりなしに滴る汗の一滴でも彼女にかかってしまったらと思うと、弦一郎は恐怖を覚える。あってはならないことだ、と思った。そしてこの、汗の一滴もかいておらず、夢現のように美しい彼女の前で、急いで飛び出してきたからとはいえ、汗でびしょ濡れでよれたTシャツと履き古したズボンという自分の姿が、いまさらになって酷く恥ずかしかった。

「ほんまに走って来てくれはったんやねえ」
 紅梅はそう言って、袂から、何か取り出した。弦一郎は何故かびくつきながら、紅梅がそっと差し出したものを見る。梅の咲いた枝の染め抜きが見えるように畳まれたそれは、手ぬぐいのようだった。
「拭いて?」
「い、いい」
「明日、準決勝やないの。ちゃんとせんでカゼでもひいたらあきまへん」
 叱るような口調で言われて、弦一郎はおとなしく、手ぬぐいを受け取った。
 紅梅が、監視するようにじっと見ている。その視線を、弦一郎はばつが悪く思い、そして彼女が自分を心配して世話を焼き、こうしてじっと見るのに、不思議なほど高揚を覚えた。
 その視線に観念したように、汗を拭く。何度も洗濯されているのだろう、柔らかくなった木綿の生地は非常に吸水性が良く、とりあえず顔や首の汗を拭うと、非常にさっぱりとする。だが、顔を拭く時、手ぬぐいからとてもいい匂いがしたので、弦一郎は動揺した。
「……大会中やのに、来てくれはって。かんにんなァ」
「いや……!」
 弦一郎は、はっとして、身構えた。自分には、言わなければならないことがある。

「──すまな、かった。その、会いに行かずに」

 言い訳はしない。
 弦一郎のいいところの一つは、自分の非を認めれば、どこまでも潔いところだ。弦一郎はしっかり頭を下げ、紅梅に謝罪する。
 罵られ放題罵られても仕方のないことを自分はしたし、いっそそうなってもいい、と弦一郎は思っていた。

「へェ、ややわ、ええ? 頭あげて?」

 しかし、深く下げた頭の上から降ってきたのは、恵みの雨のように柔らかく染みこむ、どこか困惑したような声だった。
「ええんよ。……うちこそ、手紙仰山出しすぎてうっとおしかったやろ。かんにんな」
 あないしつこくしたら、会いとうものうなるわなァ、と自嘲するように言った紅梅に、弦一郎は勢い良く頭を上げる。
「違う!」
「そやけど……」
「違う、それは、俺が、勝手に……その、独り善がりに臍を曲げて……だから」
 弦一郎は、自分が説明下手であるのを、ここまで恨めしく思ったことはない。紅梅は不思議そうに小さく首を傾げていて、少し困ったように微笑んでいる。その様子が、弦一郎には非常にもどかしい。その仕草を、──ものすごくかわいい、と思うと同時に。

「……とにかく、手紙の返事がおろそかになっていたのも、そうだ。すまなかった」
「忙しかったんやもん。しゃあないわ。うちのほうが、そんな時にどんどん手紙出して……」
「忙しかったのは本当だが、それはお前も同じことだろう」
「まあ、そやけど……」
 紅梅は、ひたすら困ったような様子である。
 ──困らせたいわけではないのに、と、弦一郎は唇を噛んだ。自分が言っても全く説得力がないし、思う資格もないのかもしれないが。

 ──少し、泣いていた

 蓮二が言ったことは、本当だろうか。いや、蓮二の言うことだから、本当なのだろう。
 自分は、この美しくて、親切で、健気で、愛らしい娘を、困らせるどころか、泣かせたのだ。しかも、その涙さえ見ることもなく。蓮二に教えてもらわなければ、知ることさえなかったのだ。
 しかし、泣いたのか、とは、聞けなかった。勇気がなかったわけではない。弦一郎はこれ以上、何一つ彼女を傷つけたくなかった。
 何も気の利いたことが言えない自分が情けないことこの上ないが、今自分が感じているひどい胸の痛みを彼女も感じて泣いたのならば、自分もそれを甘んじて受けるまで、と、弦一郎は背筋を正す。

「……嫌われたんちゃうかなあて、心配したん」
「そんなことは、ない!」
 弦一郎は、ひときわ強い声で言った。縋るようにも聞こえる、必死の声。我ながら無様極まる、と思いながらも、弦一郎は甘んじた。
「……その心配をせねばならんのは、どう考えても俺の方だ。本当に、すまなかった」
「……うちんこと、嫌やない? うっとおしゅう、ない?」
「ない! あるわけがない」
 弦一郎は、ぶるぶると首を振った。髪についていた汗が石畳に飛んで雫の跡を作ったので、彼女にかかってはならないと、すぐにぴたりとやめたが。

「ほぅか」

 紅梅は、にっこりした。先ほどよりも更に蕩けそうな、このうだるような暑さの中だというのに、今が夏ではなく、花の咲き乱れる春であると錯覚しそうなほどの笑顔だった。
 花の香がする気がした。いや、実際、彼女はひどくいい匂いがするのだ。さきほどから、少し風が吹くと弦一郎の鼻にその香りが届くので、弦一郎は、空気が少し動く度に心臓を掴まれる心地がしている。

「うちも、弦ちゃんのこと、好きえ」
 / 目次 / 
BY 餡子郎
トップに戻る