心に私なき時は疑うことなし
(二)
 ──強い。
 と、跡部景吾は率直に感じた。イギリスで散々自分より強い選手に囲まれてきた景吾だが、これはその比ではない。己の“眼力インサイト”をもってしても、ただ強い、それ以上のことがまるでわからない。
 それはまるで、鉄壁──、いや、巨大な山を前にして、その雄大なまでの巨大さばかりに圧倒され、ただ敵わぬという実感しか湧かぬような感覚と、とても良く似ていた。
(なるほど、“山”ね。そのものじゃねーの)
 しかしそこで絶望せず感嘆し、敵わぬものの存在を認める度量でもって、登れずとも頂点を見極めようとするのが跡部景吾であった。にやりと笑った彼に、まるでオーケストラの如き氷帝のコールが浴びせられる。跡部景吾は、胸を張った。

 ──関東大会決勝戦、立海大付属中学校対、氷帝学園中等部。

 S1、真田弦一郎VS跡部景吾。
 景吾はもちろん勝つためにここにいるが、王たるもの、勝つことを疑ってはならぬと同時に、負けた時に我が国がどうなるかということも考えておかねばならぬものだ。
 そして勝とうと負けようと、王は王でなくてはならない。勝った時にはもちろん、負けた時でさえさすが我が王よと崇められるようでなくては、真の王とはいえないからだ。
 そして景吾は、王として、胸を張り、不敵な笑みを浮かべて、ラケットを振るのである。どうなろうとも、決して膝を屈することなく。

「──Game set! Won by 真田弦一郎!」

 そして立海大附属中学校テニス部は、決勝にて氷帝学園を破り、関東大会を優勝した。






 ──翌日、日曜日。
 夏休みや日曜日であろうとも練習を欠かさぬ立海大付属テニス部であるが、さすがに大会決勝戦の翌日は休みである。しかし弦一郎は制服を着込み、東京にやってきていた。
 周囲に溢れかえるのは、皆それなりにフォーマルな装いをした人々。相変わらず大きく豪華な入り口には、木板に筆で見事に書かれた出演者表。そしてその中でもひときわ大きく、いかにも目玉とわかるように書かれた演目と演者の名前を、弦一郎は見た。

  重要無形文化財保持者・上杉紅椿
  花井流 名取・上杉 紅梅
    演『京鹿子娘二人道成寺』


「オイオイ何だ、俺様に勝ったってえのに辛気臭ェ顔しやがって」
 後ろから聞こえた覚えのある声に、弦一郎ははっとして振り返る。
 そこには、洋服のことはわからぬ弦一郎でもひと目で高級品と分かるスーツを着こなした、跡部景吾が立っていた。
 斜め後ろに控えるようにして、樺地崇弘もいる。氷帝学園一年生にして、今年の大会でもレギュラーであった少年である。一年生どころか中学生としても規格外の体格をしており、弦一郎よりもはるかに背が高く、筋力もありそうだが、黙って立っている姿は静かで、いっそ清廉ですらある。

「……跡部」
「昨日ぶりだな」
「ああ」
 昨日、死闘とも言われるような試合を繰り広げたばかりとは思えない、あっさりしたやりとりである。
 弦一郎は景吾を特に好きとも嫌いとも思っていないつもりだが、一年生にして部員二百名程度を完全に纏め上げている手腕はかなりのものと認めているし、テニスの実力についても同様だ。そしてこの、これはこれ、それはそれ、と完全に割りきれる性格も、割と好ましく感じている。
「優勝したってのにそんなツラしてやがるのは、お前ぐらいだぜ」
「フン。優勝したとて、戦いたい相手と戦えぬのではな」
「手塚国光か。まあ、そりゃ確かに」
 景吾は、納得したように頷いた。

 手塚国光は、関東大会にレギュラー出場した。が、彼が属する青春学園は、都大会では氷帝学園の優勝に次いで準優勝。そして関東大会では四位の結果に終わり、全国大会への出場資格は与えられなかったのである。
 国光は海外での実績から注目度も高く、実力は誰にも認められているが、初出場ということもあり、青春学園内ではあくまでルーキーの扱いであった。そのためダブルスを組まされていたり、S3やS2の割り当てが多く、メインの戦力として扱われている感が薄い。
 これは弦一郎を始め、国光の実力を知っている者達からすればまさに宝の持ち腐れ、あるまじきことであった。そして国光はシングルスであれば危なげなく対戦相手を下したが、他の選手が負けてしまえば意味は無い。
 蓮二の知り合いでありデータマンでもあるという乾貞治、新人戦以降、ダブルスとしてはかなりの実力を見せつつある大石秀一郎と菊丸英二、そして時に手塚国光にも及ぶ実力と言われる天才・不二周助という二年レギュラーも随分健闘したが、やはり彼らも初出場であり、全体の決定力が欠けている感は否めなかった。

 そして結局、青春学園は関東大会四位となり、全国大会への出場権は得られなかった。つまり、弦一郎は、またも手塚国光との対戦の機会を失ったのである。

「だが……手塚の実力は更に増していた。……あれは、風林火山では足りぬ」
「アーン? それを俺に言うかね、テメエは」
 “山”を前にして敗れた景吾は、皮肉げに言う。
 弦一郎はこの関東大会までに“風林火山”を完成させ、これを打倒手塚国光のための奥義としてきた。しかし実際に国光の試合を見て、弦一郎は確信したのである。

 ──風林火山では、勝てぬ。

 さらなる鍛錬、いやもはや自分のテニスそのものを次の次元に昇華させる必要がある、と弦一郎は確信していた。

「ま、それはともかく。柳もいるんだろ? 一緒じゃねえのか」
「蓮二はご家族とともに招待席にいるはずだ。今日は会っていない」
「ふぅん? ……ああ、バレるからか」
 景吾の言葉に、弦一郎は目元を顰めた。
「確かに、今年も紅葉女将が来てるからな。でも後で──、おい」
「もう始まる」
 弦一郎はさっと踵を返し、足早に観客席に入っていってしまう。景吾は「ったく」と片眉を上げて呆れた顔をし、自分も観客席に足を踏み入れた。



 弦一郎は、去年とそう変わらぬ席に着く。少し警戒したが、紅葉女将はいなかった。

 二人舞とは、連れ舞、ともいう。文字通り、二人の舞手で舞うことを指す。
 だがそれは二役がいる演目、ということではない。ひとつの役を、同じ振りを、二人で、同じように、同じ衣装を着て、同時に並んで舞うのである。
 特に娘道成寺で行うそれは『二人道成寺』と呼ばれ、主役である白拍子・花子を、二人の舞手が演じる。

 そしてそれを今日、人間国宝であり、この『京鹿子娘道成寺』を十八番とする上杉紅椿と、その後継者としてもうすっかり認知されている最年少名取・上杉紅梅が舞うのである。

 この催し、演目の話題性は、十分以上のものであった。
 二人舞はふつう、同等の実力を持つ舞手同士を組ませて行う。しかし時に、ベテランと有望な若手を組ませ、その差異を楽しみ、また若手がベテランにどれだけ追いつけるかを見極める、といったこともある。
 今回は、思い切り後者の目論見。紅椿といえば、道成寺。“紅椿”の名を継ぐ少女の実力を見極めるのに、『京鹿子娘道成寺』のほかの演目など考えられない、という理由からだった。

 観客たちが、大きな期待の込められた目をしているのが、弦一郎にもわかる。
 現紅椿は、もう高齢である。未だああして化け物のように矍鑠としてはいるが、現役で舞える時間は、そう長くないだろう。だからこそ、皆が求め、愛し、崇める、人間国宝・紅椿がこれから先も受け継がれていくのを、ここにいる観客たち、そして日舞界の全ての者達は、心の底から期待しているのだ。

 上杉紅椿は、若い頃から長い時間をかけて京舞を研究し、京舞を極めた舞踊家として認められ、天衣無縫と呼ばれ、人間国宝にまでなった。
 だからこそ、いま、京舞の最高峰は紅椿以外の何物でもない。少なくともあと百年はそうだろう、と言われている。
 伝統とは、受け継いでいくこと。そこに不純物が混ざることは、その伝統の完成度が高ければ高いほど許されない。

 ──紅梅は、若干十一歳で、名取になった。一差しだけとはいえ、紅椿と全く同じように舞える、という理由で。
 人間国宝の舞の完全トレースという行為が、そこに滲む狂気がどれほどのことか、日舞の良し悪しのわからぬ弦一郎でも、さすがにわかる。
 そして今、彼女は、それを最も厳しい形で試されようとしている。他でもない、天衣無縫と謳われた紅椿の十八番、『京鹿子娘道成寺』、しかも現紅椿との二人舞によって。

 ──おばあはんはもう、あの世界ではもう神様やから

 彼女は、紅椿になろうとしている。
 神のようになろうとしている。天衣無縫を纏おうとしている。

 その高みは、弦一郎にとって、もはや手が届かぬほど遥かな場所である気がした。

「──聞いたか、聞いたか」
「──聞いたぞ、聞いたぞ」

 シテ方が、聞いたか坊主の台詞を言う。
 幕が上がり、二人の白拍子──清姫の化身たちが、その姿を現した。






「──弦一郎!」

 例年よりも興奮に包まれた会場、そのロビーで、蓮二が弦一郎の背中に呼びかける。
 立海の制服である白いカッターシャツの背中が、ゆっくりと振り向いた。
「何だ、蓮二」
「なんだ、じゃないだろう。こんなところで何をしているんだ? まさかこのまま帰ろうというのではないだろうな」
 弦一郎は、答えなかった。だが彼がいるのは、ホール出入口。敷地内である広場などに繋がるところではなく、一度出てしまったら半券を提示しないと再入場できない、唯一の出入口である。

「……だったらどうした」
「お前……」
 蓮二は、絶句していた。彼らの関係にある種の憧れを抱き、去年のことも含めて常に彼らを応援してきた彼だからこそ、弦一郎の態度と行動はショックだったのだ。
「……おは、お前に会えるのを楽しみにしているぞ」
「そうか?」
 弦一郎は、苦笑とも嘲笑ともとれぬ、どこか歪んだ笑みを浮かべた。
「あれほどの人に囲まれているのだ。俺がいなくとも、特にどうということはないだろう」
 弦一郎の目線の先には、紅椿に、そして紅梅を一目見ようと押しかける大勢の人々の姿がある。その中でも、いかにも雰囲気のある幾人かの面々の胸元やベルトに、紅梅のファンクラブ、後援会の会員証代わりだという扇が挟まっているのが確認できた。
「そんなわけがないだろう。何を言っているんだ、お前は──、おは」
「だいたい、ああも人が詰めかけている中で会うのはさすがに不可能だろう。今年も女将が来ているようであるし──」
「……弦一郎!」
 蓮二と目を合わさぬまま話す弦一郎に、焦れた蓮二が鋭い声を飛ばす。
「あの人だかりは今だけだ。後で、跡部が開く食事会がある。そこで──」
「相変わらず跡部が面倒を見ているのか。ではやはり俺は帰ったほうがいいな」
「──おい」
 蓮二の声ではない、低い呼びかけ。そして、弦一郎がそれに反応するより先に、弦一郎の肩がぐいと強く掴まれた。

「跡部……」

 弦一郎の肩を掴んで引いたのは、景吾だった。
 彼はいつもの不敵な笑みも浮かべず、ただ真顔で、じっと弦一郎の目を覗きこんでいる。アイスブルーの輝きが、まっすぐに目に飛び込んでくる。痛みにも似た鋭さに、弦一郎はつい顎を逸らした。
「“kingmaker”」
「……何?」
「榊監督の渾名だ」
 突然脈絡もないことを言われ、弦一郎が怪訝な顔をする。しかし景吾は相変わらずまっすぐ弦一郎の目を見たまま、続けた。
「榊監督は、主に若者の才能の支援を生きがいにしていらっしゃる。多くは、才能があっても経済支援や後ろ盾がないと大成できない世界──例えばフィギュアスケート、フェンシング、クラシックバレエなんかが典型的だ。伝統芸能の職人の後継の教育にも力を入れている」
「何だ、突然」
「最初は偶然だったそうだ。経済的に難があって才能を開花できずにいた知り合いを支援なさった。そして彼は大成し、今ではその世界の期待の星だ。そこから榊監督は才能があってもやむを得ずそれを活かすことの出来ない者に手を差し伸べ、支援するという活動をするようになった」
 しかし景吾は弦一郎の疑問を無視して、続けた。
「榊監督の支援した者の多くは、その世界でかなりの実力を示し、ふさわしい地位を手に入れている」
「それで、“kingmaker”か」
 蓮二が口を出す。すると、弦一郎には返事をせぬ景吾も、「そうだ」と頷いた。

 ──キング・メイカー。
 意味はそのまま、王を作る者。つまり王、広義の意味でその分野の頂点などを意味する者の選出や退陣、教育に、裏方で大きな影響力を持つ者のことである。

「数年前、榊の家からある程度手を引くことにした監督は、それを機会にこの若者の後援活動を本格的に行っておられる。氷帝学園で教師をなさっているのも、日本の教育現場を知るためだそうだ。氷帝学園だけでなく、様々な学校の教育の実情について把握しようとしていらっしゃると同時に、才能を燻らせている人材発掘もしている」
「だから、それが、何だというのだ」
 苛々をあからさまに滲ませた弦一郎が言うと、景吾は一瞬黙ってから、言った。
「榊監督がこうして本格的な活動を始めようとしたきっかけが、上杉紅梅だ」
「……何?」
「詳しい経緯は俺も知らねえ。だが上杉紅梅は、榊太郎を“先生”と呼んだ最初の人間で、彼女との関係が、榊太郎が教師になることを決めた理由の一つだそうだ」
 たろセンセ、と彼女が太郎のことを呼ぶのを、弦一郎も知っている。だがよもや、それほど深い縁とは知らず、弦一郎はわずかに目を見開く。

「そして俺も、榊太郎を師と仰ぐ者の一人だ」

 テニス部の監督というのとはまた別の、個人的なことだ、と景吾は言った。
 ちなみに、太郎が氷帝学園テニス部の顧問・監督をしているのは、景吾が頼み込んでのことだそうだ。もしこれぞといった才能の持ち主がいれば、ぜひ支援してやってほしい、という願いとともに。
「俺は経済的にも立場的にも全く困っちゃいねえが、榊監督にはかなり学ばせて貰ってる。なぜならあの姿こそ、俺が目指すものだからだ。まあ、リスペクトってやつだな」
 太郎の話から景吾の自分語りが始まったので、弦一郎は更に怪訝な顔をした。しかし相変わらずそんな弦一郎を無視して、だが同時にやはり弦一郎の目を真っ直ぐにアイスブルーの視線で射抜いたまま、景吾は続ける。

「だから上杉紅梅と俺は、同じ師を持つ者同士、同門の仲ってやつでもある。そして俺は、榊太郎の一番の生徒である上杉紅梅を後援することで、師である榊太郎に近づこうとしている。つまるところ俺達は、榊太郎という師の期待を裏切らないよう、協力しつつも張り合ってるような間柄だ」
 そう言って、景吾は初めて笑みを見せた。試合の時のような、好戦的な、にやりとした笑みである。弦一郎が、僅かに、困惑したような、呆気にとられたような顔をした。
「あいつには、上杉紅梅には、才能がある。その才能は、榊監督のこと抜きで俺も認めてる。でないと後援なんぞしようともしねえよ。あいつは俺が認めたビジネスパートナーだ」
「……パートナー」
「言葉が悪かったか? まあ、とにかくそういうこった。あいつと俺は切磋琢磨することはあっても、慣れ合うことも支えあうこともねえ。常にプライドと意地張りあってこそ認め合える関係だ」
「先程から、何が言いたい」
 苛々と弦一郎が言うと、景吾は片眉を上げ、フンと鼻を鳴らした。

「無粋な野郎だな。要するに、お前が心配してることは何もねえって言ってやってんだよ」
「……ますますわからん。俺が何を心配しているというのだ」
「アーン?」
 今度は、景吾が怪訝な顔をした。彼は顔を近づけ、更にまじまじと弦一郎の目を見る。
 精市とはまた別のベクトルの、ヨーロッパ系の人種の美の混ざった景吾の美貌は同性であっても動揺してしまうもので、しかも、“眼力インサイト”とも呼ばれる、何物をも見透かすアイスブルーの目がこれ以上なく間近にあるのに、弦一郎は非常に居心地の悪い思いをした。
「何なのだ! 離れろ気色悪い!」
「……なんてこった。テメェ、自覚なしか」
「自覚?」
 弦一郎が疑問符を浮かべると、景吾は、信じられない、とでもいわんばかりの顔をした。救いようがない、とも表現できるような表情だ。相変わらず日本人離れした欧米的な仕草なので、弦一郎は余計にむかついた。

「五年だか六年だか付き合ってて、あれだけ弦ちゃん弦ちゃん言われてて、これか。いつもはうぜぇと思ってたが、あいつが気の毒になってきたぜ」
「まったくだ」
「……蓮二!?」
 心底同意、というような声で口を出した蓮二に、弦一郎はぎょっとする。
「どうも情緒が鈍いようでな。そのくせ悋気は一丁前で困る」
「なんて面倒臭ェ男だ」
「だから、何なのだ! さっきから!」
 とうとう弦一郎は癇癪を起こし、怒鳴った。何事だ、と周囲の人々からにわかに注目が集まる。

「……もういいだろう。俺は帰る」
「待て」
 踵を返そうとした弦一郎の肩を、またも景吾が掴んで引き止める。
 弦一郎は、苛苛しているどころか、今にも爆発しそうな顔で振り返った。
「何だ! しつこいぞ」
「帰りたきゃ帰れ。でもひとつだけ聞いとけ」
 景吾は、はっきりと言った。

上杉紅梅は、“kingmaker”に認められた者だ。近い将来、頂点に立つだろう」

 予言のようなその言葉は、未来のことでありながら、決定が間違いないという説得力を持っていた。
「俺は榊監督やあいつに恥じないように、王になる。お前はどうだ?」
「どういう、意味だ」
「お前は、天衣無縫の隣に立てるだけの男になる気があるのか?」

 弦一郎は、何も言わなかった。ただ景吾の手を振り払い、荒々しい足取りでホールを出て行ってしまう。
 あっという間に見えなくなった後ろ姿に、蓮二が、はああ、と、深く長い溜息をついた。

「あー面倒臭ェ。今日は色々頷かせようと思ってたってのによ……」
 金髪に近いような薄茶の髪を掻きあげて、景吾は本当に面倒くさそうに言った。
 年に一度、弦一郎に会える日。つまり一年で最も機嫌が良くなるだろう紅梅に、前から渋られている舞台や様々な企画の実行を了承させよう、と景吾は画策していたのだ。だがこれで、紅梅の機嫌は良くなるどころか最低になることは間違いない。
 紅梅は自分の私的な事情で仕事に支障をきたすようなタイプではないが、それこそ慣れ合いの一切ないビジネスパートナーである景吾には遠慮がないところがあるので、イヤなことはイヤと言うし、そのあたりはかなりはっきりしている。
 そして、弦一郎を目の前でむざむざ帰してしまった景吾に、紅梅は京女特有の嫌味を雨霰と投げつけてくるだろう。ブラックユーモアに富んだイギリス育ちの景吾でもうんざりする、真綿で首を絞めて丁寧に飾り付けるような、まわりくどい嫌味を。

「用意してきた企画書が全部無駄だぜ、クソッ」
「なら無理矢理でも連れて行けばよかっただろう」
「なんで俺がそんな面倒臭ェことしなきゃなんねえんだ」
 なんだか矛盾する言葉だが、蓮二は納得して、「まあそうだな」と頷いた。馬に蹴られるのは誰だって御免である。

 本当なら、この後行われる景吾主催の食事会で、短い間ではあるが個室を用意し、弦一郎と紅梅を会わせる予定だったのだ。サプライズの感も含めて事前に言って置かなかったのが仇になったな、と蓮二は重たい声で言う。

「恋愛とは、データ通りにゆかぬものだな」
「それっぽいこと言ってんじゃねえよ」

 こちとら仕事なんだよ、とぼやいた景吾に、ずっと控えていた樺地崇弘が、冷たい飲み物をそっと差し出した。
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BY 餡子郎
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