心に私なき時は疑うことなし
(一)
「真田君、今日もお疲れ様」
「ああ、お疲れ様」
己と同じ、風紀委員の腕章をつけた女子生徒に、弦一郎はその腕章に恥じない礼儀正しい態度で返した。
立海大付属の生徒会や委員会決めは、五月の末頃という、少し遅い時期に行われる。
委員会への所属は、はっきりと定まっているわけではないが、部活、特に本格的な運動部に所属している者は免除されるのが普通だ。弦一郎のようにレギュラーで、なおかつ全国大会に出場するような者が委員会に所属するのは、大変珍しいことである。
しかし、男子テニス部一年生をほとんど一人で監督し、さらに入学早々問題児として名高く、教師らも手を焼いている切原赤也にいうことをきかせている姿から、真田弦一郎こそ風紀委員にふさわしい、と、真面目な部類の生徒たちや、そして教師たちからの強烈な推薦が多数あった。
弦一郎も、期待されると全力で応える質であるし、立海の生徒たちの品行に口を出せるようになる特権については魅力とやり甲斐を感じたため、異様なほどの責任感を持って頷いたのだった。
「真田君が風紀委員になってから、あからさまに校則違反が減ったよね」
「そうか」
「うん。特に服装違反の系統が減った感じ。まあ、チェックの前に正してるだけかもしれないけど、それでもね」
「む……、では一度抜き打ちで行ったほうがいいかもしれんな。委員長に申し出ておこう」
弦一郎が重々しく言うと、女子生徒は「いいかもね」と機嫌良さ気に頷いた。
「弦一郎、そろそろ」
部誌を手にした蓮二が呼んだので、弦一郎が振り返る。
「ああ、すまん。では」
「ええ。部活頑張ってね」
弦一郎が外した腕章を受け取った女子生徒は、にっこりした。
「ありがとう」
そう言って頷き、弦一郎は踵を返した。
「……充実しているようだな、弦一郎」
「ああ。責務が増えることに最初は不安があったが、風紀委員の者達にも助けられて、何とかやっている。柳生も生徒会に所属しているしな、アドバイスをしてくれるのだ」
弦一郎は、機嫌良さそうに、しっかりと頷いた。
「そうか。そういえば、最近は女子生徒にもモテているようだしな」
「……何を言っている」
弦一郎は、きまり悪そうに、ごにょごにょした声で言った。蓮二は薄く目を開け、少し意地悪い様子で弦一郎を見ている。
「二度も告白されていればモテている方だと思うが」
「……な、ぜ、知っている」
油の切れたブリキ人形のようにぎこちなく、弦一郎は目を背けた。
自分にも他人にも厳しく、完璧主義者の根性論者である弦一郎は、何かしら後ろ暗いところがある者にはうざったく思われがちだ。しかし、弦一郎と同じような考えを持つ者達や、学生は常に品行方正であるべきというような考えの者たちや教師には、非常に受けが良い。
しかも弦一郎は、あの立海大付属男子テニス部で全国大会にまで出場した体育会系中の体育会系であり、不良たちを腕っ節で黙らせることもできる。そんな様が、不良や、そこまでいかなくとも勉強よりも青春を充実させることに熱心なタイプの者たちに反感を抱くガリ勉タイプ、またスクールカーストの下位に位置するいじめられっ子たちに絶賛されているのだった。
先ほどの、同じ風紀委員に所属する女子生徒もその一人で、眼鏡に三つ編みという古典的なまでのスタイルを貫き、校則違反に反感を抱く、あからさまに真面目ですと言わんばかりの風体の持ち主である。
更には、風紀委員としてという名目で不良たちを物理的に黙らせる喧嘩の強さを主な理由として、弦一郎は、あまり品行の良くない女子生徒たちにも密かに一目置かれているのだ。
「真田うぜえ」などと常に言いつつも、教師に注意されても直さない服装違反を弦一郎に注意されればその場で直すし、サボタージュを見つかれば、「うるせーな」と言いつつもその場で教室に戻る。弦一郎に注意されるために、わざと校則違反をした姿で弦一郎の周りをうろつく女子が一定数いるのも、蓮二は確かなデータを掴んでいる。
そして、実際交際を申し込んだ女子生徒が二人いることも。──弦一郎は、よく知らない相手だということや、部活や他のことが忙しいというような理由で断ったようだが。
「まあ、結構なことだが。大事なところを疎かにするなよ」
「そんな醜態、晒すわけがなかろう!」
いかにも心外、と言わんばかりに、弦一郎は大きな声を出した。
しかし蓮二はそれにまさに柳に風という様子で、弦一郎を見る。相変わらず、目が薄く開かれている。ジト目、のようにも見えた。
「俺が言っているのは、勉強やテニスのことではないぞ」
「……どういう意味だ?」
「わからんか。わからんだろうな」
「おい、蓮二」
「わからんなら、それまでということだ」
謎掛けのような言葉、そしてどこか機嫌の悪い様子の蓮二に、弦一郎は戸惑う。
蓮二は弦一郎からすっと目線を外すと、涼やかな、しかしどこか早足のスピードで、さっさと部室に向かっていった。
五月半ばの校内レギュラー選抜にて、幸村精市、真田弦一郎、柳蓮二は、最も危なげなくレギュラーになった。
その他のレギュラーは、丸井ブン太、ジャッカル桑原、仁王雅治、柳生比呂士。
──去年、一年生の身でレギュラーになったばかりか優勝をかっさらったせいで非常に注目を集めた三人だが、今年はなんと、三年生どころか部長すらも差し置いて、レギュラー七人全員が二年生という、異例も異例の事態となった。
そのせいで、立海大付属男子テニス部は、割れた。
手塚国光を始め、他の学校でも、今期は金の卵が非常に多いとテニス連盟の重鎮にも認められている昨今、元々強豪校と名高い立海大付属の注目度は非常に高い。
その部長となれば相当の栄誉、そしてだからこそ、その座を下級生に脅かされ、はっきりとレギュラーの座を奪われたというのは、部長や副部長、また彼らに親しい三年生らのプライドを、相当に傷つけたようだった。彼らは前倒しで部活を引退し、それに続くようにして、三年生の部員が半数近く、引退という名目で退部したのである。
しかし皮肉なことに、『三強』に憧れて入部した一年生がかなりの人数であるため、部としてはさほど活動に支障が出るというわけでもなかった。
そして当然、次の部長・副部長を誰にするか、という話になる。
こちらも当然、候補にあげられるのは『三強』である。しかし柳蓮二は自ら部長の器ではない、データマンたるものサポート役であるので、やるとしても副部長である、と辞退。これには誰もが納得したので、部長は幸村精市か真田弦一郎、ということになる。
正直、どちらが部長になっても納得ではある。
なぜなら、幸村精市と真田弦一郎、もしこの二人が別々の学校に所属していたら、間違いなく、それぞれの学校で部長になっているだろうと誰もが認めるところだからだ。そして二人は龍虎と称され、全く真逆のベクトルを有した選手であり、人物である。
「どちらがいい、という話ではないと思いますね」
なぜか逆光になりがちな、銀色のオーバルフレームのメガネの位置を整えながら、柳生比呂士が言った。
「幸村君は、正真正銘の負け知らず、天才肌の極み、カリスマに関しては文句なしに弩級です。しかし実際に部員たちの練習を見ることはあまりありません。そして真田君は、幸村君と比べるとやはり才能よりも想像を絶する努力という実績で、皆さんから認められている。一年生たちに慕われ、根性論者で完璧主義ですが、なんだかんだで面倒見のいい方です」
比呂士のその言葉に、まさに、と言わんばかりに、立海大附属中学レギュラーとなった面々は頷いた。
「そうだな。データの上でも、どちらが部長になっても部は期待以上のまとまりを見せる確率は100パーセントだ。ただし、そのまとまり方はやはり異なる」
データマン・柳蓮二は、はっきりと言ってのけた。
「だがしかし、それだけに、重大な選択だ」
──どちらを部長に据えるかで、立海大附属中学校男子テニス部の空気は、そしてこれから目指す道のりが全く違うものになる。
蓮二が口にしたそのことを、レギュラーの彼らだけでなく、部員の誰もが理解していた。
「そうだなあ。確かに、どっちがいいって話じゃねえな」
「でもよ、真田が部長になったら、今よりもっと軍隊っぽくなるだろっつってびびってる奴が多いみてえだぜ?」
うーんと真面目な顔で唸るジャッカルに、少し笑うような気配を滲ませて、ブン太が言った。
「確かにな。でも、なんだかんだで、そーゆーとこの厳しさは幸村も真田も同じようなもんだろ。むしろ真田のほうがそのへん優しいんじゃねえの?」
「あん?」
真田弦一郎に“優しい”という形容詞を使ったジャッカルに、ブン太が微妙な顔をする。
「だってよ。例えば一年生の誰かが無断で部活サボったとして、幸村だったら“ああそう。じゃあもう退部ってことでいいのかな”とか言いそうだけど、真田は“たるんどる!”つってとりあえず首根っこ掴んで引きずってくるだろ」
「あー」
なるほど確かに、と、ブン太だけでなく、誰もが頷いた。ジャッカルが言ったもしもの話の光景は、全員がありありと想像できるほどに現実感を帯びている。
「ほんに、どっちがええちゅう話じゃなかね。いっそサイコロで決めたらどうじゃ」
吊り目を細めた仁王雅治が冗談めかして言うが、もはや本当にそれがいいのでは、と皆半ば本気で思ったほどだった。それほどに、決めかねる。
「あ〜、むっずかしーな。もう二人共部長ってんじゃダメか?」
「はは。気持ちはわかるぜ」
「だろぃ?」
ブン太とジャッカルが、目を合わせて笑う。
「ふむ。しかし、あいにく部長は一人と決まっているのでな。──それで、お前たち本人はどう思っているのだ?」
立候補があるなら一番簡単なのだが、と蓮二が目線を向けた先に、他の全員も追随する。
そこには、左に精市、右に弦一郎が並んで座り、片や薄い微笑みを、片やむっつりとした顰めっ面を浮かべていた。表情ですら対照的である。
「──そうだなあ。俺はそんな風に大勢の上に立ったことはないけど、期待をかけてもらえるならもちろん頑張るよ」
にこりと微笑み、精市は言った。謙虚なセリフだがしかし、その優雅さからむしろ滲む絶対的な自信は、比呂士が言った「カリスマに関しては文句なしに弩級」という評価が事実であることを、ありありと証明していた。
「真田はどう?」
「──俺は」
弦一郎は、一瞬、短く息を吸い込んだ。
「俺も、──大勢を率いるという経験はない。そして、特にそうなりたいという意志があるわけでもない。しかし」
「しかし?」
「それにふさわしいのがどういう人物か、という考えはある。簡単な事だ」
重々しく、そしてこちらも絶対的に揺るがぬ声で、弦一郎は言った。
「テニスが一番強い者が、テニスをする我々を率いるべきだ。そう思っている」
弦一郎が言ったそれは、まさに単純明快の極みである。
しかし実力主義で、三年生を全員押しのけ、二年生だけのレギュラー・メンバーとなった面々にとって、それはどこまでも説得力のある言葉だった。
「……確かにね。それに俺たちは、何を決めるのでも、いつだってそうしてきた」
「そのとおりだ」
龍虎はそれぞれ頷き、自分のラケットを持って、おもむろに立ち上がる。
「──勝負だ、幸村」
「フフ。なんだかお前とやるのは久しぶりだな、真田」
カーボンフレームが交差され、カン、と軽い音をたてる。
その後すぐ部員全員、そればかりか立海に残っている多くの生徒、時に教師までもが観戦に集まる中、幸村精市と真田弦一郎の試合が繰り広げられた。
プロ顔負けの実力と気迫であった、と誰もが言った試合。──そして一時間後、立海大附属中学校男子硬式テニス部の部長は、幸村精市に決まったのだった。
精市に敗北した弦一郎は、副部長という役職を背負うことになった。
補佐役ということならば蓮二のほうが良いのでは、と弦一郎は思ったが、強い者が上に立つべきと弦一郎も言ったのだから、部長以下も実力順でトップダウン形式を当てはめたほうが順当、と他でもない蓮二に言われれば、そうかと納得する他ない。
実際、弦一郎と蓮二は何度か試合をしていたが、蓮二は未だ弦一郎に勝てたことはない。どころか、蓮二自身が完成を手伝った『林』でもって完膚なきまでに全ての技工、データを受け流されてしまったことから、“三強”の中では己が一番下の強さであるという事実を、蓮二は“データ”として冷静に受け止めていた。
そして、幸村精市部長と真田弦一郎副部長が率いる立海大付属中学校男子テニス部は、まず神奈川県大会を全く危なげなく勝ち進み、見事優勝。次に控える、関東大会への出場資格を当然のように得た。
「──時に、弦一郎」
まだ少し書き慣れぬ備品管理の書類を纏めるため、部室でふと二人になった時、蓮二は、どこか潜めた声で、弦一郎に話しかけた。
「最近、お梅にあまり手紙を書いていないのではないか」
弦一郎が手にしたボールペンが、一瞬止まる。しかし、一瞬だけだ。書き損じをすることもなく、弦一郎はすらすらと、相変わらず整った字を書いていく。
「……お前はよくやりとりしているのか」
「個人的に、というよりは、姉の様子を聞くついでという感じだが」
「それで?」
弦一郎は、書き終えた書類をひらりとめくり、処理済みの箱に仕舞うと、次のものに取り掛かり始める。
「それで……とは」
「俺が紅梅にあまり手紙を書いていないからといって、それが何だ」
「何だ、と言われてもな」
「知ってのとおり、俺は最近忙しい。あいつも」
弦一郎の眉間の皺が、少し深くなった。
「あいつも、そうだろう。寄越す手紙は舞台のことと、座敷のことと、あとは跡部やら榊監督とのことばかりだ。俺が読んでもよくわからないが、相当忙しい様子だ」
「……そうだな。確かにお梅は最近忙しい」
だが、その忙しい合間を縫って、彼女はお前に手紙を書いているのだぞ──、とは、蓮二は言わなかった。さすがに、余計な世話だろうかと思ったからだ。
「だが、もうすぐ彼女と会える時期だろう。今年はすんなりいくといいな」
蓮二はなるべく優しげに言ったが、弦一郎はうんともすんとも言わず、相変わらずの顰めっ面のまま、最後の署名を書き終える。
真田弦一郎、という署名の最後の一筆が、ほんの少し歪んでいた。