心に私なき時は疑うことなし
(七)
弦一郎さま

 …………

後輩の方は、切原さまと仰るのですね。
とてもやんちゃな方だそうなので、もしかしたら今はよくわからないかもしれませんが、きっとあとで、大変なことをしていただいた、と感謝なさるだろうことと思います。
また、ひとりの方の面倒をそこまでして見る覚悟をなさった弦一郎さまは、まことにご立派だと思います。下手に置屋などにおりますと、だれか様の身柄を一から十まで見ることがいかに大変かわかりますので、本当にそう感じます。私など面倒を見てもらうばかりで、情けないことしきりでございます。
諏訪子さまには未熟者の身でと叱られたと仰せでしたけれど、できることをできるだけおやりになればよろしいかと思います。応援しておりますので、何しろ遠方で出来ることは少のうございますが、何かあれば遠慮なく仰ってくださいませ。

 …………


さて、例年通りならばそろそろ地区大会の始まる頃かと存じますが、調子はいかがでしょうか。テニスに関しては弦一郎さまのことでございますので心配はしておりませんが、今年は猛暑と聞いておりますので、熱中症を始め、怪我や体調不良に気をつけて下さいませ。
私達も、ぶ厚い着物に白塗りで、陽炎の立ち上る京の町を歩かねばなりません。毎年熱中症でお倒れになるお姐はんがいらっしゃいますので、自分自身のみならず、お互いに気をつけて乗り切りましょうと言い合っているところでございます。
私などに言われずともなさっておられるでしょうが、弦一郎さま達も、お互いの様子をご覧になって、万全の調子で試合に挑んで下さいませ。

これからますますお忙しくなってきますでしょうし、お返事はご無理をなさらないで下さいませ。お心の余裕のある時に、ゆるりと認めていただければ嬉しゅうございます。

 …………

紅梅





「──この、倨傲者!!」

 スッパァン! と、空気を切り裂くような音とともに弦一郎が横薙ぎに吹っ飛ぶのを、赤也は呆然と見遣り、そしてぴかぴかに磨かれた板床に弦一郎が倒れて起き上がれずにいるのを見て、その顔色はどんどん青くなっていった。
 弦一郎が全面的に赤也の面倒を見ると決め、わざわざ切原家一同に挨拶までしたあの日からそう日も経たぬうち、赤也は真田家に行くことになった。
 言い出しっぺは赤也の父で、まず若いころ弦右衛門に世話になっていたのに今までろくに顔を見せていなかった不義理を詫びたいということ、そしてこうして数奇な縁あって息子が弦一郎に世話になるのだからなおのこと挨拶をしておきたい、という理由であった。
 弦一郎としても否やはないし、赤也という後輩の面倒を深く見ることになった件についてまだ家族に報告していないので、ちょうどよい、とも思ったのだった。

 そして部活のない日曜日、弦一郎は剣道着姿で、切原親子を迎え入れた。
 まず赤也の父と弦右衛門が再会を果たし、弦右衛門は想像通りに大喜びし、自分が更生させた少年の息子が、偶然にも孫の後輩になっていたという縁に感心していた。
 当時の写真を見たり、昔話に軽く花を咲かせたりと、その場は非常に和やかにまとまったので、次に道場に行き、竹刀を振るっていた母・諏訪子に赤也を紹介し、弦一郎が事の次第を話した。──その反応が、冒頭である。
 裂帛の声で息子を叱咤し、裏手で思い切りその頬を張った母は、怒り狂った鬼子母神もかくやというほどの気迫を放っており、赤也は完全にびびって腰を抜かした。正直言えば、少し漏らしたかもしれないというほどである。父が部下を拳骨で殴るところは何度も見ているが、裏拳で人が数メートル吹っ飛ぶのを見たのは初めてだった。
 横っ飛びに吹っ飛び、ろくに受け身も取れずに板床に倒れ伏した弦一郎は、それでも、ぐぐぐと腕を突っ張って起き上がろうとしていた。それだけで、赤也は「真田先輩まじすげえ」と心の底から彼を尊敬する。

「己自身も未熟者の分際で、人様の面倒を見ようなど! なんという慢心! 恥を知りなさい弦一郎!」
「……未熟は重々承知でございます」
「ならばなぜ出すぎた真似をしましたか!」
 ドン! と諏訪子が床を踏み鳴らしたので、赤也はいつの間にか正座をしていた自分が、その姿勢のまま軽く五センチは飛び上がった気がした。
「ちょっ、ちょっと、オイ、オイ。そこまでしなくてもいいだろう」
「切原殿。まことに申し訳ありません、この度は愚息が差し出がましい真似を」
「いやいやいやそんなそんな」
 あの父が、本職の某にも引けをとらない赤也の父が、うろたえている。
 しかしうろたえながらも彼は事の次第を更に詳しく諏訪子に話し、差し出がましいどころか願ってもない申し出であったということ、そこまでしてくれようとした弦一郎を立派だと思い感謝しこそすれお節介などとは思っていない、ということを訴えた。

「……しかし」
「いや、情けない話、俺は外国飛び回ってるし、この悪タレを躾けるのに、別に腕っ節があるわけでもねえコイツの母親や姉ちゃんじゃ荷が重いんですわ」
 納得行かない顔をしている諏訪子に、赤也の父はなおも言う。
「それに、体育会系の部活じゃ、後輩が先輩にシゴかれるのは当たり前でしょう。俺のチームでだってそうだったし、そこをわざわざことわりに来てくれたんだから、ちょっと礼儀正しすぎるくらいですよ」
「……そうですか」
「衣食住まで面倒見るわけじゃねえんだ。こんな礼儀正しくて筋の通った息子さんが、学校で、部活だけじゃないところも見てくれる先輩って感じでいてくれりゃあ、ウチとしては御の字ですわ」
 諏訪子は、難しい顔をして、ちらりと弦一郎を見た。弦一郎はいつの間にか起き上がり、みごとな土下座をしている。剣道着姿で袴を履いているせいで、まるで覚悟を決めて切腹の沙汰を待つ武士のようである。
「大丈夫じゃろ」
 沈黙を破ったのは、堂に入った弦右衛門の声だった。
「……お父さん、しかし」
「なぁに、弦一郎ももう十四。昔だったらもう元服しとってもおかしゅうない年じゃ」
「そうかもしれませんが、赤也くんは弦一郎とひとつしか違わないのですよ。佐助とは違うのです」
 諏訪子のその言葉に、赤也は、あっそうだ、真田先輩って俺よりいっこしか上じゃなかったんだった、と当たり前のことを思い出し、虚を突かれた顔になった。
 見た目や言動、さらにその性格などからなんだかずいぶん年上のように思っていたが、真田弦一郎は十四歳なのである。そして赤也は十三歳で、十四歳は十三歳とひとつしか違わない年齢なのである。
 ──当たり前だ。当たり前なのだが、なんだろうこの違和感というか納得のいかなさは、と赤也は感じ、最近気をつけて整え始めた眉を複雑そうに寄せた。

「ただ先輩後輩だというだけの話だ。そんなに目くじらを立てるでない」
「目くじら立てているわけではありません」
「立てとるじゃろうが。ともかく、弦一郎に任せてやりなさい。こやつも阿呆ではないのだから、やれることしかやらんさ」
 そう言われ、諏訪子は床に額を付けんばかりに頭を下げて微動だにしない息子をしばらくじっと見て、やがてフゥと小さく息を吐いた。
「……良いでしょう。ただし、最後まで投げ出さず、責任をもってきちんと面倒を見るのですよ」
 なんスかそのダメな犬拾ってきた時みたいなコメント、と、その“ダメな犬”である赤也は思ったが、その不服をこの場で口に出すほどの度胸はなかった。
「無論でございます」
 赤也としてはぜひ投げ出していただきたいところだったが、顔を上げた弦一郎の表情には、犬を飼う責任感どころか、もはや敵地に特攻する決意のようなものがありありと現れていて、赤也はふっと意識が遠くに飛んで行くような感覚で絶望する。
 諏訪子はとりあえず満足したのか、「よろしい」と重々しく頷いている。逃げられない、と赤也は悟った。

 その後、ついでだから見学でもしていけ、と弦右衛門から誘われ、赤也は真田道場の稽古風景を見学した。
 姉の朱里から「真田君ちって、ものすごく厳しいので有名なんだって。軍隊並みとからしいね」と聞いていたし、部活の同級生からも真田剣術道場が厳しいので有名なのは聞いていたが、実際に見ると本当に凄まじい。裂帛の気合と、覆されぬ上下関係に支配された空間は、この平成の世にはありえない、まさに戦う者の集まりであった。
 そして赤也は、こんな中で育てば、真田弦一郎がああも時代錯誤な風であるのにも納得した。

「いや、相変わらずスゲエなここ」
「……親父、来たことあんの」
「オウ、ヤンチャしてた頃にな。弦右衛門の爺さんに引きずられて来てよ。根性叩き直してやるってぼっこぼこにされたもんよ」
 赤也の父は、懐かしそうに言った。
「お前が小さい時な。俺の息子だから絶対俺と同じでヤンチャしやがるだろうしと思って、テニススクールに放り込んだんだけどよ」
「……おう」
 それは赤也も元々知っている。この父にとって、スポーツというものはいかにも健全で、特にテニスなど品の良い人々がやるものというイメージだったので、そういうものをさせれば自分のようにはなりにくいだろう、と思ったらしい。
 経緯や動機はともかく、自分にテニスを与えてくれたという意味でも、赤也はこの父に感謝している。
「最初は、真田道場に放り込もうかと思ったんだよな」
「えっ……」
「ここに放り込めば、なんつーか、根性が曲がるのも許してくれねえしな」
 父は、しみじみと言った。確かにここなら、鉄を熱いうちに叩きまくり、立派な刀に仕上げてくれそうである。しかしその鍛え方は半端ではないということは、何より真田弦一郎を見ればよく分かる。ちらりと見ると、彼の頬は先程の諏訪子の裏拳で腫れ上がっていたが、本人は平然としていた。赤也はぞっとして青くなる。
「ここなら、確実に腕っ節も強くなるしな。でもよ、小さいお前を見てたら……」
「……どーゆー意味」
「いや、そこまでしなくてもいいかな、と……。お前まだ小さかったし、可哀想かなって」
 赤也はこの瞬間、自分の父をなお一層尊敬し、そして心の底から感謝した。

 ともかく、切原赤也は、こうして自分の家族全員、更には真田家一同にも正式に認められる形で、全面的に真田弦一郎に面倒を見られる立場になったのだった。



「やあ、弦一郎」

 切原親子が真田家を辞したのとちょうど入れ替わりになるようにして訪ねて来たのは、蓮二であった。薄水色の清潔なシャツに細身のパンツという私服姿で、品の良い風呂敷に包まれた何かを持参している。
 微笑みを浮かべて玄関先に立っている蓮二に、弦一郎は僅かに驚いた顔をした。なぜなら今日、弦一郎は精市とともに柳家に行き、泊まる予定だったからだ。大会前に予定している特別合宿の件での打ち合わせがあるのと、家では佐助の面倒、学校では赤也の面倒に追いまくられている弦一郎を蓮二が気遣い、たまにはうちでのんびりしたらどうだ、と申し出てくれたからである。
「蓮二? どうした。そろそろそちらに行こうと思っていたのだが……」
 そろそろ付き合いも長くなってきて、今さらわざわざ迎えに来ることもあるまい、と当然の疑問でもって弦一郎が言うと、蓮二は「いやなに」と、手に持った風呂敷包みを前に出し、結び目をほどいた。平べったい箱が姿を表し、僅かに甘く熟れた香りが漂ってくる。
「枇杷をたくさん頂いてな。傷みやすいものだし、うちだけでは消費しきれなさそうだったので、お裾分けだ。皆で食べてくれ」
「ほう、枇杷か。風流だな」
 ありがとう、と、弦一郎は笑みを浮かべ、箱を受け取った。
 真田家もお中元やお歳暮を毎年山のように贈られる家だが、真田家は人数が多いし、さらに道場の門下生もいるので、頂きものの消費にはまったく困らないのである。

「ゲンイチロー! なにしてるの!」

 とたとたとた、と、軽くも勢いのいい足音をさせて奥から走ってきたのは、佐助である。
 そろそろ四歳になろうとする彼は、やんちゃで生意気な表情がいきいきとしていて、赤ん坊からすっかり子供になっていた。
「佐助。蓮二に挨拶しなさい」
「佐助じゃない! くん、をつけろよゲンイチロー!」
「……挨拶しなさい、佐助くん」
「こんにちはレンジ!」
 どっちが立場が上なのかよくわからないやりとりをしている叔父と甥っ子に笑みを浮かべつつ、蓮二は「こんにちは、佐助くん」と和やかに返した。
「枇杷を持ってきたから、食べてくれ。佐助くんは枇杷が好きかな」
「びわ? わかんない」
「好きだろう。赤ん坊の時からずっと食べていたではないか」
「ゲンイチローはうるさいの! どっかいっちゃえ!」
「なっ……、むぅ……」
 口を出した弦一郎に、佐助は口を尖らせて、つーん! とそっぽを向いた。弦一郎が苦い顔をして唸るのを、蓮二は笑いを堪えながら見る。

 そして弦一郎以外には割と素直らしい佐助に蓮二が少し話しかけていると、蓮二が来ていることに気づいた諏訪子、そして佐助の母である由利が、両名とも剣道着姿で現れた。
「あら、蓮二君、いらっしゃい。上がっていく?」
「いえ、これを届けにきただけなので。皆さんで召し上がって下さい」
 弦一郎が持っている枇杷の箱を見た二人は、まあまあ嬉しい、ご丁寧に、季節ものは嬉しいわねえ、あらそういえば柳さんのところに差し上げようと思っていたお茶があったわ、ついでだから受け取ってちょうだい、とあれよあれよという間に話が進み、蓮二は解いた風呂敷にまたお茶やらお菓子やらを詰め込まれて持たされる。

「ありがとうございます。弦一郎、用意は済んでいるのか?」
「問題ない。出かけるだけだ」
 枇杷の箱を由利に渡した弦一郎は、玄関先にすでに用意してあった、それほど大きくもないバッグを手に取った。泊まるといっても何度もお邪魔している蓮二の家なので、着替えも蓮二に借りるのがすでに定着しており、そんなに荷物はいらないのだ。
「では、もう言ってありますが、今日は帰らないので」
「わかりました。柳さんにご迷惑をかけないようにするのですよ」
 蓮二君、弦一郎をよろしく、とにこやかに言う諏訪子に、蓮二も微笑んだ。
「いえ、うちの家族は弦一郎をとても気に入っているので。最近はほとんど親戚か家族のような扱いですから、気になさらないで下さい」
「ありがたいこと」
「……ゲンイチロー、レンジの家にいくの?」
 和やかにやりとりしている大人たちを見ていた佐助が、先程までの勢いとは比べ物にならない、弱々しい様子で言ったので、四人は一斉に小さな少年を見た。

「ん? ああ、そうだ。蓮二の家に行ってくるから、帰らないぞ」
 弦一郎が言うと、佐助の表情が険しくなる。怪訝なような、泣きそうになっているような、怒っているような顔だった。
「お前も、たまには俺がいないほうがいいだろう」
 どこか様子のおかしい甥っ子を、また訳のわからない癇癪でも起こしているのかと思った弦一郎は、ごく軽い調子であしらいつつ、玄関先に座ってスニーカーに足を突っ込み、靴紐を結んだ。
 そうして俯いている弦一郎は見ていなかったが、佐助の表情はどんどんくしゃりと歪み、ひどいしかめっ面になった。
 それを見ていた蓮二が、ふと、にやりと笑う。

「そうだな、先程も“どっかいっちゃえ”と言われていたしな、弦一郎?」
「うぐ……」
 幼児に邪険に扱われている情けなさからか、弦一郎が苦い顔で呻きを漏らす。佐助が、唇を引き結んだ。
「何ならずっとうちにいればいい」
「はは、それもいいかもな」
 弦一郎が軽くそう応えて立ち上がったその時、ふぐぅ、という、空気が小さく押しつぶされる音がした。

「……やだあああああああああー!!」

 うぎゃあああん、とでもいうような、怪獣のような泣き声が上がったので、弦一郎は驚いて振り向いた。
 佐助は、真っ赤になった顔をぐしゃぐしゃにして泣いている。
「やだああああああ! ゲッ、ゲンイチロー、レンジの家の子になっちゃやだあああ」
「あらあら」
 まさにギャン泣き、という感じの息子を、由利は微笑ましげに見ている。諏訪子も同様で、その顔に浮かんでいるのは、先程までの鬼子母神の如き忿怒相とは真逆の、菩薩のごとく慈愛に溢れた微笑みであった。
 だがしかし、当の弦一郎はといえば、今までさんざん邪険に扱われてきていたので、突然こんなふうに泣かれてしまい、驚きのあまり目を丸く見開いて、呆然としている。
「おやおや、佐助くんは弦一郎がいらないのではなかったのかな」
「ちが、ちがうもん、いるもん、うえええええ」
 ひっひっと大きくしゃくりあげながら、佐助は言う。蓮二はしたり顔にも似た、少し意地悪そうな、しかしやはり慈愛の滲んだ笑みを浮かべて、その様子を見ている。
「いるもん、ゲン、ゲンイチローはっ、さすけのおじさんだもんっ、れっ、レンジの家の子じゃないもん、さすけのとこのなの!」
「……佐助」
 弦一郎が、感動したように、やや震えた声で呼んだ。
 ぐずぐずと鼻を鳴らす佐助に弦一郎が腕を差し出してやれば、佐助が勢い良く飛び込んでくる。最近は抱っこしようとしても全力で嫌がられていたので、弦一郎はじんとした。泣いているせいで余計に体温が上がっている佐助は熱く、初夏の玄関先では少しつらいはずだが、それも全く気にならなかった。

「佐助は結局、弦一郎君に一番懐いているのですよね。弦一郎君にばかり我儘放題で、いつも申し訳ない思いです」
「弦一郎は、なんだかんだ佐助に甘いですからね」
 女性二人が、微笑ましげ、かつ、何もかもよくわかっているというふうに言った。
「弦一郎君、いい機会だから、柳さんが良いと仰るなら、本当に数日お世話になったらどう」
 由利が、けろりとした顔で提案する。
「し、しかし」
「やだああああああー!!」
 ぎゃーっ、と再び大きく泣き叫び、首にしがみついてくる佐助を抱きながら、弦一郎は困り果てた顔をした。
 佐助がこうしてなんだかんだで叔父に一番懐いて甘えているように、弦一郎もまた、この甥には結局甘いのである。ああも邪険にされても本気では怒らないのだから、こうして泣きつかれてしまっては、冷たく突き放すことなどとても出来ない。

「いいえ、私もそう思います」
 諏訪子が、重々しい様子で言った。
「佐助は少し甘ったれが過ぎますね。いい機会ですから、弦一郎から引き離して鍛えましょう」
「そうですね。私もそれがいいと思います」
「いやああああー!!」
 佐助が悲痛な声をあげるので、弦一郎は、小さな身体を思わずぎゅっと抱きしめた。
 諏訪子の、ひいては真田家の“少し鍛える”がどの程度のものか、弦一郎こそが一番よく知っているからだ。まだこんなに小さな佐助にそんなにしなくても、と、自分はさんざんそのやり方で育っておきながら、弦一郎は思う。
「ほら佐助、来なさい」
「いやー!!」
「いやじゃありません」
 弦一郎がいつも散々困らせられている佐助の「イヤ!」を、さすが母親とでもいおうか、由利はあっさりとあしらい、剣道師範で柔術有段者の手腕でもって、がっちりと弦一郎にしがみついている佐助を、無理やりなふうにも見えないのに簡単に引き剥がした。

「あ、義姉上、どうかお手柔らかに」
「いいえ弦一郎君。私の息子です。そして真田家長男の子でもあります。そろそろ恥ずかしくないように鍛えねばならないと思っていたところでした」
 由利の表情はきりりと凛々しく、毅然とした決意がにじみ出ていた。
「そうですね、弦一郎君が帰ってくるまでに、着替えと掃除の練習をしましょう」
「う……」
 弦一郎から引き剥がされた佐助は、すっかり眉を下げて、とても悲しそうにぐずぐず泣いている。弦一郎は、胸が締め付けられる気分になった。
「や、やだあ」
「まだ言いますか。そんなことでは弦一郎君に愛想を尽かされますよ」
「うー」
「しかし、何でも自分でできる立派な子は、弦一郎君も褒めてくれるでしょう。ねえ弦一郎君」
「いえ、あの」
「そうでしょう弦一郎君」
「はい」
 由利の迫力に押され、弦一郎は、従順に返事をした。母というものはこうも強いものか、と、深く頷きながらやりとりを見守っている自分の母・諏訪子をちらりと見て、弦一郎は思う。

「着替えと掃除ができるようになれば、弦一郎君も柳さんの家から帰ってきますよ」
「……ほんと?」
 ぐずぐずと鼻を鳴らしている佐助が、少しだけ顔を上げた。
「本当ですとも。そうでしょう、弦一郎君」
「あ、ああ。そうですね」
「ほらみなさい。弦一郎君は、着替えと掃除が一人でできる立派な子のところにしか帰ってきませんからね」
 やや改変がかかっている上、いい子にしていないとサンタさんが来ませんからね、という言い回しに似ているなあ、と思いながら、蓮二は真田家の躾の風景を面白そうに眺めている。

 結局、佐助は「ゲンイチローがいないあいだ、おきがえとおそうじができるようになります」と生まれて初めて敬語で宣誓し、弦一郎は「あの小さかった佐助が」と感動して少し涙ぐんだのだが、女性陣はといえばウムと大きく頷いただけである。──この温度差。
 弦一郎は後ろ髪どころか心臓を掴まれるような心地で、「やはり……」と何度か言いかけながら、そして実際、もみじのような小さな手を振っている佐助を何度も振り返りながら、蓮二とともに家を出た。






「というわけでな。結局懐かれているのだ、弦一郎は」

 柳家についてから、既にやってきて寛いでいた精市に、蓮二は笑いながら真田家での出来事を話した。
「まあ、それはわかってたけどね。だってあの子、俺が真田の悪口言うと超怒るんだよ」
「……そうなのか」
 弦一郎といるときは、面と向かって弦一郎に暴言を吐く佐助がよもやそんな反応をしているなどとは思わず、弦一郎はじんとした。佐助の前で精市が弦一郎の悪口を言っているということを、さらりとスルーしてしまう程に。
「まあまだちっちゃいから、怒るっていうか、おこ! って感じだけど。あーウチの妹も早く喋ったりしないかなー、あーでも今でも超天使なのにこれ以上天使になるとか想像を絶する」
 出た、兄馬鹿。と二人共思ったが、もはやなんのコメントもせずに流した。下手につつくと、少なくとも小一時間以上は妹トークが展開されてしまうからだ。

「だが、佐助くんにああも慕われているのなら、切原のことも問題なさそうだな」
 蓮二が、穏やかな表情で言う。
「……どういうことだ」
「どういうことも何も。あの子、佐助くんと基本そう変わらないだろ」
 枇杷を剥きながら、精市は言った。蓮二も頷く。
「そうだな。あれは構えば構うほど懐くタイプだ。口先では生意気なことを言うかもしれないがな」
「そう……、だろうか」
「俺の“データ”によると、そうだ」
 いつもながらの説得力に、弦一郎は、まだ少し納得行かない顔をしながらも黙って頷いた。
「それに、お前にばかり負担をかけるのも申し訳ない。何かの縁だ、俺も切原のことは気にかけておこう。精市も」
「うーん、まあいいよ。俺達の後輩でもあるわけだしね。ま、三人でみてれば、そうそう悪さもしないんじゃない?」
「……ありがとう。助かる」
 弦一郎は、胡座をかいた膝にそれぞれ腕を突き立てて、二人に頭を下げた。






「赤也ァ! この、たわけが!!」

 パァン、と乾いた音が、夏の青空に響き渡る。

「あっはっは、今度は何したの、赤也」
 弦一郎に頬を張られ、涙目でぶんむくれている赤也に、精市が笑いかけた。隣では、ノートを持った蓮二が微笑んでいる。
「べ、別になにも」
「赤也が三年生に喧嘩を売り、テニスの試合に持って行こうとした確率98パーセント」
「データ怖ェ! 柳先輩怖ェ!」
「心外だな」
 と言いつつ、蓮二はにやりと笑った。

 あれからというもの、有言実行、精市と蓮二は進んで赤也に声をかけるようになっていた。
 元々“データ”怖い、となっていた赤也は蓮二にびくびくしていたが、丁寧に自分のテニスを分析し、どこを直したら良いかなどを教えてくれる上、決して声を荒らげたりしない穏やかな態度の蓮二に、驚くほどあっという間に懐いた。
「真田がガミガミうるさいから、余計にじゃない?」とは、精市の言である。いわゆる、良い警官・悪い警官、イギリスの軍事界においてはMutt and Jeffと呼ばれる現象と似ているかもしれない。攻撃的かつ否定的な態度を取る者と、同情的で支援や理解を示す者から同時に接されると、対象者は後者の方にかなり協力的な態度になる、という現象のことである。
 とはいえ、赤也も、親に頭まで下げてくれた弦一郎のことは基本的に認めており、生意気な口はきいても逆らうことはないし、愚痴は言っても、悪口は言わない。
 そして精市に対してはどうかといえば、まずあの弦一郎が一度もテニスに勝てない“神の子”というだけでも充分なのだが、先日弦一郎と精市がもはや幼少の頃から毎年恒例くらいになっているらしい大喧嘩を繰り広げたのを目撃してしまい、以来、精市には恐れに近いような態度になっている。

 それに、赤也に絡んできた例の不良たちが、あの翌日から丸坊主になった上に服装も正され、精市や蓮二、弦一郎を見かけると、即座に「お疲れ様ッス!!」と直角以上に頭を下げるようになっているのを見れば、逆らってはいけないのだ、という動物的な本能が、否が応でも働くというものだ。

「真田先輩、マジ厳しすぎっスよ! ありえねー!」
「真田は他人に厳しいからねえ」
 まあ自分にはもっと厳しいけど、と、精市が優雅なほどのんびりと言った。
 赤くなっている頬を押さえながら、赤也は完全にむくれている。あれからというもの、弦一郎は一から十まで赤也の行動に言及し、それはもう口やかましい。宣言通り、手も上げるようになった。
 弦一郎の母・諏訪子が弦一郎にぶちかました裏手の一撃の凄まじさを見た赤也は、弦一郎が裏手ではなく平手で赤也を打ち、しかも、その場では赤くなるが腫れ上がるほどではない程度でおさめてくれているのもわかっているのだが、それでも痛いことには変わりはない。
 ちなみに諏訪子が平手ではなく裏手を用いるのは、自衛官であるがゆえ、手の痺れで装備などを取り落とさぬよう、という理由からであるらしい。この平和な日本でなんという最前線な理由であろうか。
 さらに、他の一年生部員が羨ましそうに見てくるあたりも気色が悪い、と赤也は思っている。さきほども、張り手を食らっている自分を見て、引いているのが半分、恐ろしげにしながらも目を輝かせているようなのが半分、という感じだった。弦一郎が同性にもてるタイプなのは知っているが、あれはどういう人種なのだろうか。ドMか、それとも、とまで考えて、赤也はあえて思考を放棄している。

「それは立派かもしんねっすけど、あの人誰にでもああなんスか!?」
「まあ、大抵はそうだが。しかし甥っ子には甘いぞ。まだ三歳なのだが、どう叱っていいのかわからないそうだ」
 蓮二がとっておきのデータを披露すると、赤也は猫っぽい目をくるんと見開き、「へー、真田先輩もチビには弱いんスね」と、あっけらかんと言った。こういう、コロコロと表情が変わるところが赤也の憎めないところである。

「弦一郎は、かなり厳しく育てられてきたからな。人を指導する時は、自分がされたようにしかできないのは仕方がない」
「うえー。じゃああの人、マジで全く甘やかされずに育ってきたんスね……」
 真田家に出向いた日のことを思い出し、赤也は身震いした。
 しかし、その言葉を聞いた蓮二は、ふと目を青空に彷徨わせる。

「……いや。誰にも甘やかされたことがない、というわけではないと思うが」
「へ?」
「いるんだ。弦一郎に滅法甘いのが」
 蓮二が精市をちらりと見ると、彼は「あー」と理解を示す声を出し、半眼になって頷いた。
「やっぱそうなの」
「それはもう。そう甘やかしすぎるのも良くないのでは、とこの間言ったところだ」
「そんなにか。あいつ爆発すればいいのに」
「え、ちょっと、誰の話っスか」
「だから、弦一郎に滅法甘い奴の話だ」

 疑問符をもじゃもじゃの頭の周りに浮かべまくっている赤也に蓮二は言い、手にしたノートをぱらりとめくる。
 そこには、薄桃色の封筒が挟まっている。ふわりと甘い香りのついたこれを、弦一郎が山と持っているのを、蓮二は知っている。

(──少し、弦一郎は驕りがあるようだな)

 ふう、と小さく息をついて、蓮二はノートを閉じた。甘い香りがページに閉じ込められて途絶える。
 もうすぐ、夏も盛り。全国大会に向けての立海大附属中学テニス部のレギュラー選抜は、来週に控えられていた。
- 心に驕りなき時は人を教う -
(驕り高ぶる心をなくした時、はじめて人を諭し教えられる)

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BY 餡子郎
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