心に驕りなき時は人を教う
(五)
 何なんだ、と、切原赤也は、苛々するまでではないにしろ、納得行かないものを抱えながら、帰り道を歩いていた。

 テニスの名門、最強の王者といえば、立海大付属。
 それだけで赤也は立海への入学を即決してはいたが、さて実際どの程度のものかと見学に訪れた去年の全国大会で、一年生にしてレギュラーとして戦い、しかも優勝した『三強』の姿に、よりいっそう、自分もあそこに行くのだ、という気持ちをはっきりとさせた。
 強くさえあれば、あの三人のように、一年生でも頂点に立てる。ならば自分もそうなれる。いやむしろあの三人を破ってさらなる頂点へ立つのだと、赤也は幼い精神にありがちな根拠の無い自信でもって、そう決意し、そうなる未来の自分を確信した。
 だが、まったく根拠が無いわけでもない。
 小学生時代、赤也は所属しているテニスクラブでは最強で、同い年は相手にならず、年上の選手も打ち負かし、どうかすれば、大人にも勝つことさえあったのだ。

 そして、入学後、立海大附属中学男子硬式テニス部へ、意気揚々と、まるで道場破りのような殴りこみをかけた赤也は、その鼻っ柱を粉々に打ち砕かれることになる。他でもない、あの『三強』によって。

 彼らは、強かった。
 赤也が今まで出会った誰よりも、『三強』は強かった。これほど手も足も出ないのは初めてで、頂点どころかどう手をかけて登ったらいいのかさえわからぬはるかな高みに、赤也は絶望し、地の底に突き落とされたような気持ちになった。
 しかしそこでへこたれないのが、切原赤也の強みである。
 未だかつてない完璧な敗北を喫した赤也は、とりあえず入部届を出さずに帰り、その日から、一人で猛特訓を始めた。

 ── 一人で練習することに、赤也は慣れている。
 なぜなら、テニスクラブはコーチが個人ごと指導をしてくれはするが、学校の部活のように、集団で練習する、というやり方をしない。そして幼くして飛び抜けて強い上、何かと癇癪を起こしやすい、つまりひどくキレやすい赤也は常に敬遠され気味だった。
 友達と笑いながら楽しそうにテニスをする他の子どもたちを、羨ましく思ったことはない。自分はテニスをしに、テニスが強くなるために来ているのだから、慣れ合いなど求めていない、と思っていたのは、本気のことだ。
 ただ、自分と試合をするとなるとやたらにびくついたり、面倒そうな顔をする彼らの腰抜け具合には、常に苛々していたように思う。

 そしてその時以上にやるせない、出口の見えない苛つきを抱えて一人猛特訓に励む中、声をかけてきたのが、二年生の、丸井ブン太とジャッカル桑原だった。

 集中力が飛び抜けている代わりにひどい視野狭窄に陥りがちな赤也は『三強』以外に注目しておらず知らなかったが、去年の新人戦でかなりの成績をおさめ、今年のレギュラーの最有力候補である。
 だが二人は自分の立場を鼻にかけるでもなく、いかにも先輩面するでもなく、かといって機嫌を取るようにするでもなかった。
 ブン太は真っ赤な髪をしているし、名前の通り伯日ハーフだというジャッカルは褐色の肌にくっきりした顔立ち、おまけにスキンヘッドという外観なので赤也は少し身構えたのだが、彼らはじつに気さくに、フラットな態度で話しかけてきた。
 初めて声をかけられたのは特訓の息抜き、鬱憤晴らしに入ったゲームセンターで、彼らは声をかけてくるだけでなく、格闘ゲームで対戦もした。
 同い年には敬遠され、年上には生意気だとか調子に乗っているとか言われ続けてきた赤也は、こんなに気さくに接して来られたの自体初めてだった。
 友人がいなかったのもあり、テニスと同じくらいゲームをやりこんできた赤也は、特に対戦格闘ゲームが強い。ブン太もジャッカルも赤也に一勝も出来ず、負ける度にブン太は赤い髪の頭をぐしゃぐしゃとかき回して「くそー! もう一回!」と言うし、ジャッカルは感心したように「すげえ、強いなあお前」と言うので、赤也は悪い気はしなかったし、いつも抱いている、出口の見えない苛つきが、いくらかおさまったような気がした。

 そして、未だかつてない本気の猛特訓のかいあって、赤也は自分でわかるほど強くなった。
 しかし、いざ、と構えると、三人の別次元の強さが思い出されて、腰が引けた。常に怖いもの知らずで、何にでも噛み付いて回ってきた赤也にとって、“腰が引ける”などというのは初めての経験だった。
 震えを押し殺し、勝負を挑むとなれば果たし状であると思い立った赤也は、気合を入れる意味も込めて、わざわざ筆字で果たし状を書いた。
 二年の教室に単身飛び込み、真正面からあの三人に果たし状を突きつけた自分を、よくやった、と赤也は自分で褒めたし、周りからも、「すげえな、切原」と本気の目で言われた。

 だが、強くなったはずの赤也は、やはりこてんぱんに負けてしまった。
 二度目。これ以上ないほどの惨敗。しかも、観戦していた幸村精市には「今の実力では、何度やっても結果は同じ」とすら言われ、他の二人と試合をすることも拒否された。だが、実際赤也もそう思うので、何も言えなかった。

 赤也の相手をしたのは、『三強』の中でも最も攻撃的なテニスをし、“神の子”幸村精市を龍とするなら虎とも言われる、真田弦一郎である。
 彼と試合をするのはこれで二度目だが、何をどうやって負けたものかもわからないほど、真田弦一郎は強かった。
 まるで壁、いや山に向かってボールを打っているような心地だった。相手が巨大で圧倒的すぎて、レベルが違いすぎて、むしろまったく手応えがない。そして、なにがどうなっているかもわからぬうちに負けるのだ。

 二度目の絶望が、赤也を叩きのめした。
 鼻っ柱を叩き折られ、震える膝を必死で立ち上がらせてきたのが、崩れてしまいそうだった。心が軋む。自尊心が、粉々に潰れそうになる。

「君はもっと強くなれる」

 そんな時にそう言ったのは、『三強』の一人、柳蓮二である。
 高い技術とゲームメイクで勝つ、上手さによって強いテニスをする選手。その落ち着いた声に、赤也は顔を上げた。釈迦の手の上で走り回っていたことに気付いた孫悟空が、天からの沙汰を聞くように。
 その言葉は、弦一郎に完膚なきまでに負かされ、精市の言葉で心を折られ、絶望の淵に落ちそうな赤也にとって、一筋の光であり、希望だった。

「テニス部に入って、更なる高みを目指せ! 俺たちはいつでも相手になってやる」

 そして、蓮二の言葉にウムと大きく頷いた弦一郎がとどめのようにそう言ったので、赤也はもう、テニス部に入る他の道はなかったのである。
 ちなみに、フェンスの向こうで観戦していた仁王雅治と柳生比呂士が、

「なるほど、ズッタズタに心折ったところに手を差し伸べて囲い込むっちゅうことか」
「まあ、幸村君と真田君はただの素だと思いますが」
「そこも計算に入れて口出すのが柳じゃ」
「さすが柳君ですねえ。おやおや、あの一年生、あんなにキラキラした目をして」
「ピヨ。あらかじめ、丸井とジャッカルで懐柔して下地も作っとるしな。おおこわ」

 などという会話をしていたのを、赤也はもちろん、誰も知らない。



 このようにして、正式にテニス部に入部した赤也であったが、やはりどこか孤立していた。同じ一年生からはもちろん、上級生からも、つまり全員から、赤也は敬遠されていた。
 あれほどこてんぱんにやられてもまだ打倒三強を掲げ、相変わらずキレやすくて喧嘩っ早く、何かと人を煽るような発言ばかりするので、仕方のない事だ、というのは、赤也自身、ぼんやりわかってはいる。
 しかしその程度で敬遠してくる奴と別に友達になどなりたくはないし、先輩として尊敬も出来ないので、どうでもよかった。それに、一年生の中ではやはり赤也は飛び抜けて強く、相手になる選手もいなかったので、やはり赤也は、集団でやる走り込みや筋トレ以外は、だいたい一人で練習していたのだった。

 だが例外が、真田弦一郎だった。

 単純に、一年生の監督を任されているのが彼だから、というのもある。
 一年生だけに課される、聞けば中途半端な心根のものをふるい落とす地獄のシゴキに付き合って走るのは彼だけだし、疲労のあまり倒れる者を手当したり保健室に運んだり、吐いたものの始末を手伝うのも彼だ。
 赤也が少し遅れて入部した時には、すでに一年生の全員が、何かあると弦一郎に報告、相談し、指示を受けるのが普通になっていた。

 赤也から見ても、よくやる、と思うほど、彼は面倒見がいい。
 だからこそ、彼の時代劇さながらの古風な言葉遣いをばかにする者は誰もいなかったし、猛獣の咆哮のような声で怒鳴り、厳しい言葉をかけ、決して部員を甘やかさない彼を「鬼軍曹」を呼んでいても、そこには畏れとともに、尊敬と親しみが込められていた。

 そんな弦一郎は、赤也に声をかけるのをためらわない。
 聞けば実家は有名な剣術道場を経営し、親族の職業は自衛官と警察官、本人も剣道と格闘技その他を習得しており、突っかかってきた不良を何度も返り討ちにしているほど喧嘩が強いそうなので、もし赤也がキレて暴れてもどうにか出来る、というのもあるだろう。
 だが弦一郎は、やれちゃんとメニューをこなせだの、勝手なことをするなだの、ちゃんと水分補給をしろ、喧嘩を売るな、人を煽るな、しゃんと立て、服装を正せ、言葉遣いを改めろなど、とにかく口うるさいので、赤也はほとほとうんざりした。

 三強全員に負けている赤也だが、特訓の末のリベンジで二度負けたのは彼だけだ。
 そのせいで、赤也は彼を認めてはいるものの、同時に苦手でもあった。そうでなくても、ああいう糞真面目なタイプは赤也とは正反対な上、接したこともないので、どうしていいかわからない。だが彼がテニスも喧嘩も強く、しかも立場も上だということはわかっているし納得もしているので、注意されれば言うことは聞いた。──少なくとも、その場では。

 何度か注意されるうち、口先でハイハイと言っておけばいい、と赤也が思うようになるのに、そう時間はかからなかった。
 なぜなら弦一郎は声が低くて大きく、容姿にも迫力があるのでつい“びびって”しまうが、言ってしまえばそれだけだからだ。
 つまり、罰則として掃除だのグラウンド何周だの素振り何回だのを課すことはあれど、彼が後輩を殴ったことは一度もないし、よく聞けば、声が大きいだけで、汚い罵倒などは一切口にしていない。せいぜい馬鹿者とかたわけとか、たるんどるとか言う程度である。
 育ちがいいのだろう、とも思うし、相変わらず語彙が古風すぎて、怒鳴られても実際の意味がわからないことも多いので、喉元すぎればなんとやら、赤也は短い間にまた、弦一郎を舐めてかかるようになっていた。

 だが弦一郎に舐めた口をきいたのを見られると、他の後輩、同じ一年生たちから、「真田先輩の言うことは聞いた方がいい」と真剣な顔で言われるので、それがきまり悪くて鬱陶しかった。
 自分よりテニスの弱い連中に苦言を呈されるのも癇に障ったが、普段自分を敬遠しているはずの彼らが、弦一郎のことになると口を出してくるのはどういうことか。いつも怒鳴られそれにびびっているくせに、ドMかこいつら気色悪い、と赤也は醒めた目をした。
 それに、弦一郎や三強に憧れ、彼らを通して団結を見せている一年生たちに、赤也は疎外感を感じていたし、向こうも赤也とは相容れない空気を色濃く醸し出していた。

 そんな苛つきが態度に出ていたのか、ある日赤也は、校門近くで、いかにも柄の悪そうな立海生に絡まれた。
 苛ついていたのもあり、いつもより余計な口をきいて煽ってしまったせいで、彼らはすぐに頭に血を昇らせた。突き飛ばされ、更に胸ぐらを掴まれる。
 巻き舌で、口汚い恫喝もされた。それは弦一郎が赤也や他の一年生を怒鳴る時の、明確な対象に向けて腹の底からまっすぐぶつけるような声とは全く違っていて、そこら中に手当たり次第に喚き散らすような、腹からどころかまさに口先だけという感じの、みっともない声だった。

 そして、古風という言葉では足りないほど時代がかった弦一郎の言葉の意味はわからないのに、このどうしようもない不良の、口汚い巻き舌の発音は聞き取ることができる自分に、赤也はまたなぜか苛々した。

 結局その時は生活指導の教師が飛んできたので何事もなかったが、あの分だと、次に顔を合わせた時は、明確に喧嘩を売ってくるだろう。
 だが喧嘩を売ってくるなら買ってやろうではないか、といつもの怖いもの知らずな気持ちでいると、翌日、弦一郎が声をかけてきた。
 いつもの怒鳴り声ではなく静かな口調に逆に何事かと思えば、どういうわけだか、彼は昨日の出来事を知っていて、それについて注意を促してきた。しかも、いつもの様に口うるさくするかと思えば、ただ怪我はしていないかとか、テニスができなくならないように気をつけろとだけ、落ち着いた口調で言った。
 赤也は驚いたが、弦一郎が不良を何度も返り討ちにしているというのが事実だということをその様子で改めて確信して、なんだか気安い気持ちになった。糞真面目で決まり事に厳しい優等生の真田弦一郎だが、自分と通じるところも多少あるのだ、と思ったからだ、と自分自身で分析できるほど、赤也は考えが深くなかったが。



 ──そしてそれから、そう日も経たないうち。

(あー、メンドクセ)

 目の前に徒党を組んでニヤニヤしている、いかにも頭の悪そうな集団に、赤也は心の底からうんざりした。
 言わずもがな、彼らは先日赤也に難癖をつけてきた連中である。リーダー格の、耳だけでなく鼻だの唇だのに大きなピアスをした三年生が、相変わらず、唾をまき散らしながら巻き舌でなにかまくし立てている。
 言っていることは聞き取れる。が、内容はくだらないし、はっきりいってないようなものだ。気に入らないとか、生意気だとか、潰すとか、そういう。

 くっだらねえ、と、つい実際に口に出ていたらしい。
 リーダー格の三年生ばかりか他の面々の顔に血が昇り、今度こそ赤也にも全く聞き取れない、もはや奇声に近いような罵声を上げた。
 さて誰から殴りかかってくるか、と赤也は身構えたが、後ろにいた金髪が木刀を取り出したので、「げっ」と呟き、青くなる。
 その反応に嗜虐的なニヤニヤ笑いを深めた面々であったが、なぜかすぐに怪訝な顔になり、次いでみるみるうちに赤也より青い顔になったので、赤也は困惑する。そして彼らの目線が赤也ではなく、その後ろにある、と気付いた、その時。

「煽るような真似はするな、と言ったはずだが」

 すぐ後ろから聞こえた低い声に、赤也は度肝を抜かれて、飛び上がりそうになった。
 振り返ると、そこに立っていたのは、真田弦一郎、そして柳蓮二。『三強』のうちの二人である。

「お前たちは、まだこんなくだらんことをやっているのか」

 静かな声で、弦一郎は言った。
 部活の時の炎のような怒鳴りとは比べ物にならない、冷え冷えとした声である。まるで、冷気が骨に凍みるような。
「真田、テメェ」
 と、不良の誰かが言ったが、声は震えていた。
「くそ、切原! テメェ卑怯だぞ!」
「はあ?」
 赤也は、今度こそ本気で呆れて、先ほど木刀にびびった気持ちもどこかに飛んでいった。
 卑怯などと、どの口が言うのだろうか。こうして二人増えても、向こうの人数はそれよりずいぶん多い。その人数で、更には凶器すら持ちだし、彼らは一年生の赤也を袋叩きにしようとしたのだ。

 そして弦一郎はといえば、もはやため息すら付くことなく、ごく普通の淡々とした足取りで赤也の横を抜け、木刀を持った金髪のすぐ前に立った。
 全く恐れ気もなくずんずんと寄って来られた金髪は完全に引け腰になっているし、その周りも、金髪と弦一郎を中心に丸く退いているような状態だ。
「まさに烏合の衆だな」
 と、後ろで、蓮二の、こちらもまた落ち着き払った声がした。うごうのしゅう、とやらが何なのか、赤也にはわからなかったが。

「ひっ……」

 金髪が、引き攣った声を上げる。
 彼が構えた木刀を堂々と真正面から握った弦一郎は、そのまま木刀を横に薙いだ。金髪が、無様にひっくり返る。弦一郎が薙ぎながら腕を返したせいで、持ち手をひねられたようになった金髪は、馬鹿馬鹿しいほどあっさりと木刀を手放してしまった。
 そして、奪うというよりは単に取ったというような感じで木刀を手にした弦一郎は、くるりと木刀を回して持った。
 それは金髪とは比べ物にならないほど堂に入った仕草で、時代劇に出てくる剣客くらい様になっていたので、赤也はつい、かっこいい、と思ってしまった。しかし男子たるもの、皆剣というものに憧れを持つものだ。仕方がない。

「土産物屋で買った安物だな」
 と弦一郎は言い、そして言うやいなや木刀を横に持つと、いつ力を入れたのかわからないほどあっさりと、それを真っ二つに折った。
 ──折ったのである。赤也は呆気にとられて、口をぽかんと丸く開けた。どんな握力と腕力をしているのか。
 だが彼の打つグランドスマッシュがいかに強力か、赤也は身を持って知っている。相当腕力があるのだろう。そういえば、弦一郎に生意気な口をきいたのを咎めてきた同級生が、「真田先輩、握力七十キロぐらいあるらしいぜ」と言っていたのを、赤也はふと思い出した。
 七十キロってなんだ。化け物かよ。と、赤也はすでにどこか遠い気持ちで思う。

「まだなにか持っている奴は、出せ」
 弦一郎は、右手の掌を上に向けて差し出した。赤也にもあるラケットの胼胝に加え、中指には大きなペン胼胝と、さらに剣胼胝でごつごつした、見るからに固そうな掌。

「片っ端から折ってくれる」

 地を這うような、そして骨の髄から凍えるような声で弦一郎が言うと、一番遠いところにいた数人が、脱兎のごとく逃げ出した。
 そうしてそこからは、ひとり、またひとり、と逃げ出していった。その中には、木刀を折られた金髪も入っている。

 あ、あ、ちくしょう、くそ! 戻ってこい、馬鹿野郎ども! ──というような意味合いの言葉を、不明瞭な巻き舌発音でリーダー格の三年生が怒鳴るが、逃げ出した者達は、誰一人として戻ってこなかった。
 残っているのは、見る限り、三年生ばかりである。彼らにも一応、上級生としての面子があるのだろうか。
「お仲間は帰ったぞ。貴様らも、もう家に帰れ」
 口調も内容も、上級生に言う言葉ではない。しかしそれに楯突くこともできず、三年生らはじりじりと後ろに下がりさえし始めている。
 ここまでなるとは、こいつらは一体以前どういう目にあわされたのだろうか、と、赤也はもういっそ彼らが哀れになってきたくらいだった。

「精市、撮れたか」
「ばっちり撮れたよ」

 その時、蓮二の静かな言葉に、これまたのんきな、優しげですらある、少し高めの声が聞こえた。ふと見れば、塀のところに、携帯電話を構えた幸村精市がいる。
 赤也も最初に見た時はびっくりしたくらいの、超弩級の美形である。その顔でにこにこされると、今の状況を忘れそうだった。
 精市は軽々と塀を飛び越えると、蓮二の横に近寄り、撮ったものを見せ始めた。蓮二はそれを、「ほう、なるほど」とか「これは決定的だな」などと言いながら眺め、そして一歩前に踏み出した。
「先輩方。勝手ながら、あなたがたが一年生一名を下校中に待ち伏せし、凶器まで持ちだして集団暴行を加えようとする現場を、写真と動画で撮らせていただきました」
「なっ」
 三年生らの顔色が、いっそう悪くなった。
「つまり、こちらには法的な手段を取る用意があると認識していただきたい。こちらの証拠と我々の証言を学校側に提出すれば、数度停学になっているあなた方の退学処置は必須。さらに暴行未遂が認められれば、経歴に傷がつくことになるでしょう。具体的には、そうですね、未遂なので少年刑務所はないと思いますが、少年鑑別所か少年院はありえますね」
 言葉こそ丁寧だが、言っていることはえげつない。退学とか刑務所とか鑑別所とか少年院とか、赤也でもわかる重い言葉が出てきて、何人かはもう完全に腕を下ろし、泣きそうにすらなっている。

「テ、テメェ」
「柳蓮二です。……いじめとか、ヤキ入れとか、俗っぽい言葉だと軽く思えますが、あなたがたのしようとしたことは集団暴行であり、強要、脅迫、人権蹂躙。犯罪です。頭に血が上って集団ヒステリーが起これば、彼を殺していたかもしれない。──まあ、理解できませんか」
 蓮二の言葉は難しかったが、殺していたかもしれない、というのは、赤也もはっとした。確かに、あの人数に殴られ蹴られ、しかも道具まで持ちだされれば、テニスが出来なくなるような怪我はもちろん、命を失っていた可能性も大いにあるのだ。
 青くなった赤也に気付いた蓮二は、ちらりと彼を見た。いつも閉じているように見える切れ長の目が開いていて、薄茶色の瞳と視線がかちあい、赤也はびくっとする。

「ど、どうすればいい」
「おい!」
「だってよぉ、やべーよ。真田もアレだけどよ、前に真田にちょっかい出したやつ、返り討ちでボコられたあと、この柳ってのが色々して何人か学校辞めて──」
「人聞きの悪い事をおっしゃらないでいただきたい」
 更にくわっと見開かれた目で見られてそう言われた三年生は、「ひい!」と情けない声を上げた。
「ちなみにあなた方はもちろん、さきほど“帰宅”した方々の“データ”も漏れ無く揃っていますので悪しからず」
 “データ”とやらが何なのか、赤也にはさっぱりわからない。わからないが、柳先輩超怖ェ、とだけ思った。

「まあ、そのあたり、少々お話させていただこう。精市、悪いが付き合ってくれるか」
「うーん、別にいいよ」
 妙に可愛らしい仕草で、精市はこくりと頷いた。
「蓮二、すまんな」
 折り目正しく、しかし親しさを感じる軽い角度で頭を下げた弦一郎に、蓮二も気さくな様子で微笑んだ。
「構わない、いつものことだ。切原の方は任せたぞ」
「わかった。……行くぞ、切原」
「え、何スか。ど、どこ行くんスか」
「帰るに決まっているだろう。ゲームセンターへの寄り道もほどほどにしろ」
 なんで知っているんだ、と赤也が言うより先に、蓮二が「週に三度は寄っているようだな」と言ったので、赤也は竦み上がった。怖い。なぜ回数までわかっているのか。

 赤也がおそるおそる顔を上げて蓮二を見ると、彼は優雅に微笑む。
 美しい笑みだった。が、赤也は直視できず、さっと目を逸らし、つい弦一郎の陰に隠れた。
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BY 餡子郎
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