心に驕りなき時は人を教う
(四)
弦一郎さま

桜が散り、葉桜になろうとしておりますが、二年生の新生活の様子はいかがでありましょうか。私は……

 …………

後輩との接し方、でございますか。
たしかに私は生まれた時からここにおりますので、仰るとおり、蓮華お姉はんなどには、なにかしらお世話をさせていただくこともございます。
ですがこれは稀なことですし、むしろ私は常に一番下の、部屋住みの丁稚のような身分でもあり、はっきりと後輩というものを持ったことがございません。
それに、私ども女の世界と、そちらの男性社会のありかたはずいぶん違うと思いますので、あまり参考になることは申し上げられないと思います。お役に立てず、申し訳ありません。
しかし、同時にたくさんの先生や先輩にお世話になっておりますので、その視点から、ささやかながら、思ったことをいくつか申し上げます。

私が一番逆らえないなと思い、またいくら厳しくとも従おうと感じる先生や先輩というのは、やはり責任感の強さが感じられ、周りから信用があり、信頼感のある方かと思います。
具体的には、例えば、これこれこういう指導を致します、とわざわざお母はんやおばあはんにご挨拶に来られるお師匠さまがいらっしゃるのですが、こうされると「先生の言うことをよく聞くのですよ」と言われることになりますので、言い方が悪いかもしれませんが、まず逃げられません。
それに、お師匠様にしても、責任を持ちます、信用してください、と仰りにいらっしゃったのと同じことですから、気概が感じられ、信頼できます。

また、これは個人差、またその分野のしきたりや雰囲気も大きく関与してくるので一概には申し上げられませんが、お稽古だけを見てくださる方より、それ以外の場でも気にかけてくださる方には、親しみを感じます。
太郎先生などは、当初の英語の勉強を熱心に見てくださるのはもちろんのこと、もうどんなことでお世話になったか、あらゆる場面でお力になって頂きすぎて、ひとつひとつ挙げることが出来ないほどです。
そして、だからこそ、個人的な信用が生まれ、信頼感も増すように感じます。
弦一郎さまも、その、件の方の周りの方に挨拶をなさるとか、テニス部以外の場所でも声をかけてみるなどなさってみるのはいかがでしょうか。
周りの方から、ことごとく、真田先輩の言うことは聞くものだ、と言われれば、その方も、そうかとお思いになる切っ掛けになりましょう。

 …………

弦一郎さまは責任感が強く、初心者の私にも、丁寧にテニスを教えて下さいました。あの頃のことを思えば、弦一郎さまは良い先輩として申し分ない心根をお持ちと思います。
私に教えるのと、天下の立海テニス部の後輩を指導するのではずいぶん趣は違うでしょうが、後輩の方たちと良い関係が築けるよう、お祈りしております。

 …………

これから暑くなってまいりますが、体調を崩されぬよう、ご自愛下さいませ。

紅梅





「ねえちょっとこれ見て、このかわいさ。天使としか思えない」

 蕩けるような笑みで携帯電話の待ち受け画面を見せてくる精市に、弦一郎はうんざり顔をするわけにもいかず、しかし微妙な半眼になった。
 待ち受け画面になっている写真は、レースで飾られたベビーベッドに寝かされた、小さな赤ん坊の写真だ。ちょうど学年が変わる頃に生まれた、精市の妹である。
 ちなみに、これ以上幸村家の家族構成をややこしくするとまたいらないぼろが出そうなので、紅梅には、精市に妹が生まれたことを言っていない。そのため、彼女の中では、精市の妹は赤ん坊ではなく、“せい子”という双子の妹、ということになったままだ。

 まだ生まれてさほども経っていない精市の本当の妹は、それでも、きれいな赤ん坊だ、というのが誰の目にも明らかな赤ん坊だった。そうでなくても、幸村家の面々、そして兄の精市の容姿を見れば、近い将来、かなりの美少女に育つことは決まったようなものだ。
 だがそれでも、家族でない者からすればさほど変わり映えのしない写真を毎日のように見せられ、笑ったかもしれないだの、うーと言っただのあーと言っただの、ミルクの飲みっぷりがどうのだのと延々聞かされるのは、いくらなんでもいい加減げんなりしてくるというものだ。

「……昨日も写真を変えたのではなかったか」
「だって毎日可愛くなるんだよ。本当なら一秒ごとに写真撮りたい」
 精市の目は、本気だった。

 赤ん坊の可愛さなら、弦一郎もよく知っている。なんといっても、甥の佐助の世話は、父親であるところの兄・信一郎よりもよくした自信があるからだ。
 しかし、かつて精市の妹のように無力でただ愛らしいばかりだった佐助は今、世間では“魔の”と頭につけられるという三歳を迎え、何を言っても「イヤ!」を連発し、気に食わなければ泣いて暴れてまわるという、どうしようもない怪獣と化している。
 最近は弦一郎が「佐助」と呼び捨てるのがなぜか気に入らないらしく、「佐助くん」と呼ばないと拗ねて手が付けられなくなるので、弦一郎は律儀に小さな甥っ子を「佐助くん」と呼んでいる。
 しかも、佐助にとっては祖母にあたる母の諏訪子や、曾祖父になる弦右衛門にはおとなしいのはともかく、どういうわけだか、母の由利に対するよりも、佐助は弦一郎に対してわがままがひどいのだ。
 三歳児に振り回され、わがまま放題言われるほど舐められているかと思うと、弦一郎はほとほと自分が情けなかったし、あんなに可愛く思い、懸命に面倒を見てきた赤ん坊にぞんざいに思われるのは、ひどく虚しい気持ちになる。

 だから弦一郎は、生まれたばかりの赤ん坊にめろめろになっている精市を、生暖かい目で見守っているのだった。のんきに可愛がっていられるのは今のうちだぞ、という意味で。

「お前は大変だね。佐助くんと切原、手のかかるの両方持ってさ」
「大変だと思うなら、お前も切原に何か言ってくれ」
 精市の言う通り、家では佐助、学校では赤也に振り回されている弦一郎は、疲れ果てたような口調で言った。
 家で佐助の面倒を見るときは「切原ほど悪どくはない」と自分に言い聞かせ、学校で赤也を相手にするときは「佐助よりはまだ言葉が通じるのだから」と堪えるという、前向きなのか後ろ向きなのかわからない思考を携えながら、弦一郎は最近の日々を過ごしている。
「嫌だよ、あんな悪魔みたいなの。俺は俺の天使で手一杯だから」
 ねー、と、蕩けるような声と表情で言って、精市は待ち受け画面の中の妹に、チュッとリップ音をたてた。
 そんな様を見て、弦一郎は、精市の妹に、なるべく早く、しかも重い第一次反抗期が来ますように、と祈っておいた。臭いとか寄るなとか言われて存分に傷つくがいい──俺のように、と悲しいことを思いながら、弦一郎は重々しい、長いため息をついた。

「ああ、弦一郎、ちょっといいか」

 その時、蓮二が声をかけてきたので、弦一郎はなんだかホッとした気持ちで振り返った。
 家では小さな怪獣、学校では生意気な後輩、更には妹の自慢話と癇に障る嫌味を言ってくる幼馴染に心を折られぬよう踏ん張りながら新一年生たちに檄を飛ばしている弦一郎にとって、相変わらず涼やかで落ち着いた話ができる蓮二は、一種の清涼剤のような存在だった。
 以前は紅梅とのやりとりが弦一郎にとっての息抜きだったが、忙しい立海での日々の中、最近遠く感じ、実際遠い場所にいる彼女より、身近にいる蓮二のほうが、色々と手っ取り早く話しやすいのは仕方のない事だ、と弦一郎は思っている。

「切原のことなのだが、──少し、面倒なことになるかもしれない」

 だがその清涼剤が持ってきたのは、お世辞にも涼やかではない内容だった。






「──切原」

 人気のない、コート裏。
 静かに、しかし重い声で呼びかければ、ランニングを終えて一人で壁打ちをしていた赤也は「げっ」と小さな声で呟いてから、弦一郎に対して定番になりつつある、うっとおしそうな表情になった。

「ちょ、何スか。今日は別に何もしてねっスよ」
「おまえ、三年の、たちの悪いのと揉めたな?」
 そう言うと、赤也は唇を尖らせた。
「あー、揉めたっつーかァ」
「殴りあい一歩手前まで行ったそうだな」
「……あっちが喧嘩売ってきたんだっつーの」
 不貞腐れたように、赤也は言った。

 受入人数の多さをいいことに名門・立海の名前に少しでも学歴であやかろうとしたものの、入学してからのカリキュラムの厳しさについていけずに脱落し、挙句にぐれている連中が、立海には一定数いる。
 そして、蓮二が仕入れた情報によると、赤也はそういう輩に、つまり“調子に乗っている生意気な一年生”として目をつけられた。
 ちなみに、その連中には、去年弦一郎に突っかかってきた顔も混じっている。
 しかし、優等生である弦一郎と違い、赤也はテニス部内だけでなく普段から喧嘩っ早く、他人を煽るような言動が多いため、案の定、なるべくして、というところは大きいが。

「そうか。怪我はしていないな?」

 咎められなかったことに驚いたのか、赤也は、どこか猫に似た、吊り上がった丸い目を更に丸くして、きょとんとした顔になった。そういう顔をすると、幼さが特に目立つ。
「はあ。ちょっと突き飛ばされたぐらいで」
「ならいい」
「……へぇ、珍し。怒らねんスか」
「あの連中には、俺も何度か突っかかられた。まだ似たようなことをしているのも知っている」
 どうしようもない連中だ、と弦一郎が言うと、自分のしたことにわずかでも共感を示されたからだろう、赤也は再度きょとんとしてから、「そッスねー」と、珍しく弦一郎に笑みを向けた。

「だが切原、それ以上煽るような真似はするな。ああいう、日頃鬱憤を貯めこんで何をするでもなく過ごしているような連中は、頭に血が上ると何をするかわからんからな。でないと──」
「テニスできなくなる、でしょ。わかってますって」
 割と素直に赤也が言えば、今度は弦一郎が意外そうな顔になった。不貞腐れるでもなく、こうして笑顔すら浮かべて赤也が言うことをきいたのは、初めてだったからだ。

「俺だってテニスしてえし、なるべく大事にならないようにしますけど。でも、向こうから喧嘩売られるぶんにはどうしようもねーッスよ」
「……まあ」
「ま、俺も結構喧嘩慣れしてるほうなんで。心配しなくても大丈夫ですって」
「む……」
 あっけらかんと言う赤也に、弦一郎は戸惑うような、どうしたら良いかわからない顔をした。しかしやはり何を言っていいのかわからず、はあ、と小さくため息をつく。
 このため息も、最近の弦一郎の、定番の仕草になりつつある。

「……わかった。もし大事になりそうなときは、俺に言え」
「へーい」

 いつものおざなりな返事に、弦一郎は眉をひそめ、不安を覚えつつ、しかしそのままコートに戻っていった。一年生は、赤也ばかりではないのだ。



 そして恒例の、放課後、三強ミーティングである。

「まあ、伝えてはきた。あまり深刻に捉えてはいないようだが」
「そうか、まあそうだろうとは思っていたが、……お疲れ」
 疲れを滲ませる弦一郎に、蓮二は慰めるように言った。

「しかし、弦一郎は本当に面倒見がいいな。俺ならとても続かんぞ」
 心底感心のこもった蓮二のその言葉に弦一郎がなにか言うより早く、精市がくすくすと笑い声を上げたので、蓮二は彼を振り向く。精市は目を細め、悪戯っぽい顔で笑っていた。
「そりゃあ、ねえ。だってあの子、真田そっくりだもん」
「……うん?」
 蓮二は、首を傾げた。
 苛烈なところもあるものの、いっそ融通が効かぬほど真面目で、品行方正な優等生である弦一郎と、いくら立海の入試が簡単とはいっても目をむくほど成績が悪く、いかにも快楽主義でチンピラのミニマム版というような赤也の何が似ているのか、と不思議だったのだ。
 しかし精市はそんな蓮二の反応もおかしいのか、またくすくすと笑いながら言った。

「まあ、蓮二は知らないよねえ。こいつ、小学生の頃は、あの子みたいに売られた喧嘩は全部煽って買ってたし、もうそのせいで、周り敵だらけ。やたら“潰す”だの何だの言うのもそっくりだから、俺、あの子がなにか言うたびにおっかしくってさあ」
 蓮二が驚いて目を開き、弦一郎を見る。すると弦一郎は無言のまま右手を額にあて、左手を膝に突き立てた状態で俯いていた。──どうやら、本当のことらしい。
「しかもこないだは、“連続百勝目指してたのに”とか、“試合時間を超短くして勝つのが目標”とか言ってたでしょ? あれ、全部真田がやったやつだもん」
「ほう。そうなのか、弦一郎」
 弦一郎はもはや両手で顔を覆い、座ったまま腰を折り、自分の膝に突っ伏して蹲るような格好になっている。

 つまり弦一郎にとって、赤也は、いわゆる黒歴史を驀進している頃の自分が、大手を振ってやってきたようなものなのだった。

 だからこそ弦一郎は、彼がなにか面倒をしでかす度にむしろ放っておけなくなるし、なにか少しでも覚えのあるような言動を言えば気になるし、はらはらして、いちいち注意するのだ。
 しかし、それでまた、弦一郎にとって古傷をえぐるような──つまり今となっては痛々しくて恥ずかしい、調子をこいた返答を、しかもいかにも頭の悪そうな、チンピラくさい言い方で返されると、もうたまらない。
 赤也がなにか言うたびに、弦一郎は穴があったら入りたい気持ちになるし、穴を掘って赤也を埋めてしまいたい、と思ったことも、正直、一度や二度ではない。

「……もう、なるべく早く行ってみる。蓮二、頼む」
「それは、いいが。しかしそれをやると、本当に一から十まで面倒を見ることになるぞ」
 蓮二も一応、赤也の先輩ではあるのだ。しかし、彼の素行や言動、何より弦一郎の苦労っぷりを見れば、彼の面倒を本腰入れて見るのにどれほど覚悟がいることか、と戦いているところがある。
 だから率先して赤也の面倒を見ている弦一郎に貧乏くじを引かせて申し訳ないなと思いつつも、蓮二は赤也と直接話したことは、ほとんどない。せいぜい、弦一郎の助けになるよう、裏からこうして情報を提供するくらいである。

「……いや。もう、限界だ」
「限界?」
「そろそろあいつをぶん殴らずにいられる自信がない」
 一息で、やけに暗く重い声の早口で言った弦一郎に、蓮二はごくりと息を呑んだ。顔を覆った手指の隙間から見える弦一郎の目は、完全に据わっている。
「手が出てしまう前に、けじめをつけることにする」
「……しかし」
「どうせ卒業するまであいつは俺の後輩なのだ。毒を食らわば皿まで……」
 今から単騎で敵陣に突っ込む武将のような風情でもって、弦一郎は言った。

「……わかった。なら調べておくが……、あまり自分を追い込むなよ、弦一郎」
「ああ……」
 呻くように返事をし、弦一郎は「手洗いに行ってくる」とふらりと立ち上がった。いつもしゃんと伸びている背中が、どこかくたびれている。

「うーん、育児ノイローゼ、ってやつ?」

 ズゴー、と、シェイクをすすり上げる音を立て、精市が、完全に他人ごとという調子で言った。
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BY 餡子郎
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