心に欲なき時は義理を行う
(八)
「悪かった。ごめん、真田」

 翌日月曜日、朝一番。
 なんと弦一郎より早く部室の前に立っていた、精市の台詞である。
 花粉で目も鼻もずるずるになっているくせに、マスクを取って、驚いている弦一郎の正面に立ち、精市は頭を下げた。

「いや、……うむ。わかった」

 もし精市が謝ってきたら、蓮二にしたようにしようと思っていた弦一郎だったが、こんなに早く謝られるとは思っていなかったし、思いのほか真正面からの謝罪だったので面食らって、なんだかぼんやりした事を言ってしまった。
 しかし、大小の喧嘩を数えきれないほどしてきたというのに、精市がこうもはっきり頭を下げたのは初めてなので、無理もないといえば無理もない。

 頭を下げたままの精市をぽかんと見ていた弦一郎は、少し離れたところに、蓮二が苦笑して立っているのに気づいた。
 そして、おそらく精市がこんなに早く謝ってきたのは、彼が何かしたからだろう、というのも悟る。そしてそれは当たりで、昨日結局夕飯までご馳走になって真田家から帰ってきた蓮二は、すぐに精市にメールをした。
 弦一郎がさほど怒っていないことや、なるべく早く謝ったほうが絶対に良い、ということ。そしてこれからレギュラー選抜に向けて、二人で特訓をしようと思っていることなど。

 精市は最初こそ煮え切らない唸り声をあげていたが、割とすぐ、男らしくも「じゃあ明日、真田より早く行って謝ろう」と切り出した。蓮二はそれに付き合った形だ。

「……蓮二に言われて謝りに来たのか?」
「うっ」

 かつて、彼女に言われてわざわざ幸村家に出向いて頭を下げた弦一郎に精市が言ったように、少し意地悪くしてやると、精市は潰れたような呻きを上げた。
 しかも逸らしたその顔が、鼻水と腫れでひどいことになっている上、ばつが悪そうに歪んでいるので、弦一郎はつい盛大に吹き出してしまった。
 だが、それでも苦々しい顔をするばかりで怒らない精市を見れば、蓮二に言われたのはあくまできっかけで、悪いと思っているというのがちゃんと分かる。

「いや、すまん、わかった。俺も大げさに騒いで悪かった」
「……うん」
「マスクをしてくれ。辛かろう」
「あー……、ありがとう」

 背に腹は代えられないのか、精市はもそもそとマスクを直し、ぶえっくしょん、と、顔に似合わず男らしい、豪快なくしゃみをした。

 あんまり精市がつらそうなので、一度顔を洗おうと、三人で水場に移動する。そもそも来るのが早すぎて、更衣室がまだ開いていないのである。

 三人で連れ立って歩きながら、蓮二は、仲直りができて本当に良かった、とホッとした。
 姉が言ったように、喧嘩をして真正面からぶつかり合い、仲直りをすることで友情が強まるのが真実だというのは身を持って体験したが、何しろこの二人は、喧嘩は数え切れないほどしているくせに、まともに仲直りをした様子が今までないのだ。
 だからこそ、こんなふうに、仲が良いのかわからない、二人は腐れ縁と言い張る奇妙な関係になってしまっているのかもしれない、とも思う。
 だがこうして仲直りすることを覚えれば、これからは、少なくとも鼻を折ったり頭を縫ったりすることはなくなるのではなかろうか、と蓮二は密かに期待する。

 そして、そんな蓮二の期待通り、と言い切れる程ではなかったが、レギュラー選抜に向けて蓮二と弦一郎が技の練習をすると聞いて、精市もそれに加わることになった。

 弦一郎と精市は、試合は何度もしているが、“一緒に練習する”というのはなんと初めてのことだ。
 だから最初こそお互いに何やら居心地が悪そうだったが、ネットを挟んで対面するのではなく、横並びになってお互いのフォームやショットをチェックしたりするのはとても新鮮で、更に蓮二が解説や分析を加えれば、得るものはとてもつもなく多いことが、すぐにわかる。

 ──とにかくあんたのやり方で、真正面からぶつかればいいのよ

 蓮二は、姉の言葉を思い出す。
 そして自分の、自分たちの、“真正面からぶつかれるやり方”とは、やはりテニスに他ならないということを確信した。

 昨日、弦一郎の技の完成に協力するとなった途端に完全にわだかまりが解けたのもそうであるし、弦一郎と精市が、あれほど強烈な喧嘩を繰り返し、仲直りもせずにそれでも険悪にならずに腐れ縁でいられるのも、テニスによって全力でぶつかり続けてきた故に違いない。

 ──テニスで繋がっている限り、自分たちは友人でいられる。

 蓮二は今、そう確信した。
 小さい頃から家族ぐるみで縁がある幼なじみであるくせに、ネットを挟んで戦う時にしか真っ直ぐにお互いを見なかった弦一郎と精市が、今、隣り合ってボールを打ち、お互いの欠点弱点を指摘し合い、それを直し、考えを言い合っている。
 その表情は真剣で、しかし時に笑みも浮かぶ。欠点を指摘されて悔しそうな顔をするときもあるが、相手に怒りをぶつけたりはしない。必死で己自身と戦い、それを克服し、やがてどうだと笑ってみせるのだ。

 その内容自体も、中学一年生とは思えないほどレベルが高く、上達の速度もかなり早い。神奈川ジュニア主席と次席、その彼らによる切磋琢磨の結果であればレベルが高いのは当然だが、それでも、これほどかと思うほど内容の濃い世界が出来上がっている。
 その世界に、弦一郎も、精市も、興奮しているのがわかる。自分が劇的に上達する瞬間がわかる時が選手には時々あるが、それには、調子の良い試合ができた時以上の興奮を伴うものだ。

 そして、そんな二人に遅れを取らないように、蓮二もまた、彼らがいるコートに足を踏み入れた。






「……精市、ちょっといいか」
「なに、どうしたの」

 最近、特にテニスにおいて非常に充実した日々を過ごしているせいか、三人とも基本的にテンションが高く、機嫌もいい。
 なのに蓮二が、やや潜めた声で、しかも明らかに暗い顔で話しかけてきたので、精市は驚いた。しかも、最近はすっかり三人セットでいるのがほとんどなので、わざわざ弦一郎が部室の当番掃除でいない時に、というのも珍しい。
 ただごとではなさそうだ、というのをすぐに察した精市は、素早くシャツを引っ被ると、内緒話をしやすい、更衣室の裏に蓮二を連れて行った。

「気を使わせてすまない」
「ううん」
 ため息をつく蓮二に、精市はふるふると首を振った。花粉が少しおさまってきたので、今まで三枚重ねだったマスクは一枚になり、目もそれほど腫れていない。
「……頼みがある」
「頼み?」
「ああ。……だが、駄目で元々で言うことで、困らせたいわけではないんだ」
「うん、わかった」
 こくり、と頷いた精市に、蓮二はもう一度息をつくと、まっすぐ彼の目を見て話しだした。

「実は、俺の姉がな……」

 そうして、蓮二は、自分の家の事情と、姉の蓮華が高校に進学せず、京舞妓になろうとしているということを話す。

「前々から父の反対がネックではあったのだが、昨日、ものすごい喧嘩になった」

 姉と父の関係はずっとお世辞にも良好ではなかったが、父が基本的に家におらず、蓮華も優等生だったため、喧嘩を繰り返すなどというより、めったに口を利かない冷戦状態であった、というのが正しい。
 そして昨日、父と娘は、お互いの人格を貶めるきつい言葉をぶつけあい、更に物を投げ合うレベルの大喧嘩をし、蓮華は蓮二が見たことのない大泣きをして祖父母宅の部屋に閉じこもり、父は酒を大量に煽った挙句に寝込み、実に十年ぶりに仕事を休んだ。

 そんな姉と父を見たのは初めてだった蓮二はおおいに狼狽え、どうにかならないかとしてみたものの、二人共部屋にこもって出てこない。
 ちなみに養母は蓮二以上に狼狽えているばかりか少し泣いていたので、頼るのは無理そうだった。

「そっか……。大変だったね。誰も怪我はしてない?」
「ああ、それは大丈夫だ」
 気遣ってくれた精市に、ありがとう、と蓮二は頷いた。

「それで、雲を掴むようではあるんだが、……姉は本来、上杉紅椿の弟子として、『花さと』という置屋の所属になりたいんだ。父も、人間国宝の元で修行を積んで働くということならば問題なく納得するし、支援もするだろう。これは言質がとれている」
「……うん」
 精市は、何か考えるような様子で相槌を打った。
「それで、だな。お前の家は、その、いやらしい言い方かもしれないが、大きな会社で、裕福だから、そういった世界に縁がありそうだと思ってな。……だからもし、上杉紅椿や、『花さと』に縁故があるのであれば、何とか……」
「うーん」

 精市は、緩いウェーブを描いてつやつや光る髪を、控えめに掻き上げた。

「ごめん。上杉紅椿も『花さと』も名前は知ってるんだけど、うちは京都の芸妓さんとは縁がないんだ」
「そうか……」

 蓮二は、がっかりしたような、やっぱりなというような、複雑な声で言った。
 そんな蓮二を見て、精市はまた「うーん」と唸り、腕を組む。

「でもね、……あー」
「何だ?」
「えーとね。俺ん家は紅椿や『花さと』にコネはないんだけど、あー」
 そう言って、精市はまた唸り、髪を掻きあげ、頭を押さえる。そしてその格好のまま、「言ってもいいかなー、でもこないだもこないだだしなー」とぶつぶつ言って、蓮二に向き直った。

「あー、真田」
「……弦一郎?」
「そう、真田に相談したらいいんじゃないかな」

 きょとん、としている蓮二に、精市ははっきりと頷いた。

「まあ俺も詳しくは知らないから駄目で元々ってのはまだ持っといて欲しいんだけど、もしかしたらなんとかなるかもしれない、……かも?」
「……弦一郎の家族の方が、『花さと』の馴染みということか?」
「いや、そのへん知らないけど、まあ、俺よりは縁があるんだよ、確実に」
「どういうことだ?」
「それは言えない。ごめん、これが限界」

 両手をぱんと合わせてそう言われれば、蓮二もそれ以上追求することは出来ない。

「わかった」
 蓮二が頷くと、精市は少し困った顔で、マスクの耳紐の間から頬を掻いた。
「ごめん。もしかしたら言ってもいいかもしれないけど、一応」
「いや、無理を言っているのはこちらのほうだ。それに、弦一郎がいないところでお前の口から聞いてしまうほうが、結局あまりよくないことになるかもしれない」

 先日の一件で、三人は、“友達であろうとやっていいことと悪いことがある”──、つまり、平たく言えば“親しき仲にも礼儀あり”というのを、しっかり学んでいる。
 何でも垣根なく共有する、慣れ合いの強い関係を一概に悪いとは言わないが、三人は単純に、そういう系統の付き合い方に、あまり魅力を感じていなかった。
 だから先日の、弦一郎の押入れにあった大量の手紙についても、あれは何だったのかとしつこく聞いたりもしていない。

 それに、もしこれが蓮二ではなく普通のクラスメイトからの頼み事であれば、精市はただ「ごめん、俺にはどうしようも出来ない」と言うだけで、「真田にあたってみては」とは言わないだろう。
 蓮二だからこそ、精市も、ぎりぎりの情報をこうして与えているのだ。
 それは蓮二にもよくわかっていたし、それにとても感謝していた。

「弦一郎に、直接聞いてみる。ありがとう、精市」
「うん。お姉さんのこと、いい結果になるといいな」

 蓮二の目を真っ直ぐに見て真剣に言った精市に、ありがとう、と、蓮二は初めて少し微笑んだ。



 ややして、部室の掃除当番から弦一郎が戻ってきた。
 おそらくとても生真面目に掃除をしていたのだろう、他の部員がやるよりも明らかに遅く戻ってきた彼は、二人がわざわざ待っていたことに驚き、更に畏まって話を切り出してきた蓮二に目を丸くする。

 そしてその内容を聞き、とても難しい顔になった。

「頼む、弦一郎。もし伝手があるのなら、……出来る限りでいい。姉が『花さと』に入る方法がないか、あたってみてもらうことは出来ないだろうか」
「む……」

 きっちり腰から頭を下げた蓮二に、弦一郎は唸り、口元に手をあてて、眉間に非常に深い皺を寄せる。
 そして数秒無言のままそうしていたが、やがて「頭を上げてくれ」と静かに言った。

「話は、わかった。……だが」
「だが?」
「……そうだな。一週間待て」

 弦一郎は、くるりと目線を動かして、何かを数えるような様子を見せてから、ゆっくり、重たく、そしていかにも秘密のことを言う感じで言った。
「あと、聞いてはみるが、俺も無理は言えんので、どうなるかはわからない。ご家族に変に期待を持たせてもいけないし、ひとまずは何も言わずにいておいてくれ」
「わかった」
 もっともなことなので、蓮二はすぐに頷いた。

「すまんが、正直、俺にできることは少ないと思う。だが、全力は尽くしてみよう」
「……弦一郎、お前、……その、本当に『花さと』に伝手があるのか?」

 精市に言われていたとはいえ、本当に駄目で元々、半信半疑どころではない気持ちで言ったことだったため、蓮二は礼を言うのも忘れ、ぽかんとして尋ねていた。
 すると弦一郎は微妙な、──苦笑いのような、照れ笑いのような、そしてどこか緊張しているような顔をして、小さな声で言った。

「──まあ、少し」






 その後、自棄を起こさないように祖父母とともに姉の蓮華を宥めつつ、蓮二は数日を過ごした。
 蓮二にしては珍しく浮ついた日々であったが、約束通り何かしてくれているらしい弦一郎を信じ、励ましてくれる精市に感謝しながら、せめて彼らとともにするテニスだけは全力で取り組もう、と、蓮二はラケットを振った。

 そして約束からきっちり一週間後、昼休みに、弦一郎は教室の机を挟んで、蓮二の前にどっかりと腰掛けた。
 その表情はあまりにも真剣で、蓮二も思わずごくりと息を呑むような威圧感がある。

「蓮二、まず姉上にお会いしたい。都合をつけてくれ」
「姉に?」

 蓮二が思わず目を見開くと、弦一郎は、うむ、と重々しく頷いた。

「先方からの返事はきたが、まず俺が姉上本人にお会いする必要がある。悪いが、それからでないと話ができん」
「……よくわからないが、まず姉に会わなければ始まらない、というんだな?」
「そうだ。お前の姉ということなら悪い方ではないのだろうが、こちらも責任をもって紹介するからには、実際の人柄を拝見させてもらいたい」
「なるほど、道理だ」
 わかった、と蓮二は頷いた。

 この期に及んで即答してもらえないもどかしさもあるが、弦一郎がこんな事を言うからには、本当に紹介してもらえるチャンスができた、ということである。
 まさかのルート、針の穴のような可能性から道が開けそうなその気配に、蓮二は、自分の心臓がどきどきと音を大きくするのを感じた。

「では、今日は姉も家にいるし、一度お前を連れて来いとも言われているから、さっそく今日の帰りにうちに来るというのはどうだ」
「いいのか」
「ああ、一応今からメールをしておく」
「頼む」
「いや、……こちらこそ」

 蓮二はすぐに携帯電話を取り出し、かちかちとボタンを押し、姉にメールをする。
 弦一郎の指示通り、『花さと』や紅椿云々のことは書かず、ただ友人が来るとだけの内容だ。蓮二の指は少し震えていて、短いメールを打つのに妙に時間がかかり、滅多にしない誤字を三箇所もした。



 ──そして、部活終了後。

「いらっしゃい、弦一郎君。蓮二からよく話は聞いてるわ。ゆっくりしてってね」
「ありがとうございます。お邪魔いたします」

 玄関の敷居をまたぐ前に深々と頭を下げた弦一郎に、にこにこして出迎えた蓮華は、「まーあ、ほんっと、真田家の息子さんって感じ!」と、感動したように言った。

 明るく友好的な蓮華の態度は、普通ならとても感じのいいものだ。
 だが蓮華の人柄を見に来た、それ如何によっては──という状況を理解している蓮二は、姉さんもう少しお淑やかにしてくれないか、と少しはらはらしている。

「蓮二が友達を家に連れてくるなんて、貞治君以来じゃない?」

 などと言いつつ、蓮華はお茶を淹れ、弦一郎をもてなした。
 お構いなく、とか、そうですか、などと無難な相槌を打ちつつも、じっと姉の様子を見ている弦一郎と、人見知りを全くしないがゆえにとてもフレンドリーな姉の様子を、蓮二はそわそわしながら見守る。

「──お好きなのですか、紅椿」

 リビングにある、大きな液晶テレビのところにぽつんと置いてあるDVDを見ながら、弦一郎が言った。確かにそのパッケージには、藤娘の衣装の紅椿が、華やかな立ち姿を見せている。
「えっ、あら、よく知ってるわね、男の子なのに」
「はい」
「そうなの。ええ、好きかって言われたらそれはもう、大ファンよ!」

 ぱあっと輝くような笑みを浮かべ、蓮華は言った。

「紅椿さんと日舞の世界をちゃんと知ったのは一年くらい前なんだけど、元々こういう日本の伝統文化とかがものすごく好きで、色々勉強してたの」
「大変お詳しいと聞いております」
「蓮二から聞いたの? まあ、普通よりは詳しいかもしれないわね、まだまだだけど。弦一郎君は、どの演目が好き?」
「好き、……かどうかはわかりませんが、道成寺は迫力がありますし、紅椿といえばこれという感じはしますね」
 生で初めて観たのが道成寺だったからかもしれませんが、と弦一郎が続けると、蓮華は蓮二と似た、秀麗な切れ長の目をこれでもかと見開いたばかりか、手に持っていた菓子をぼとりと小皿に落とした。

「……は!? 弦一郎君、紅椿の『道成寺』観たことあるの!? 生で!?」
「はい。小学校二年生の時に」
「う、羨ましすぎる……道成寺……よりにもよって道成寺……」

 蓮華は、ややよろめきながら言った。ポーズではなく本当によろめいているあたり、本当に、心の底から羨ましいのだろう。
 だが、それも無理もない。紅椿の舞は基本的に“人ならざる”という雰囲気こそが至高とされており、中でも『京鹿子娘道成寺』の清姫は、紅椿の当たり役であり、その舞の集大成であると言われている。だから、ただでさえ高いチケットの競争率も、他の演目とは比べ物にならないほど高いのだ。

「ほ、他は? 他の舞台も観たことあるの?」
「ええ、翌年は変化物の、『六歌仙』。次は『寿式三番叟』と……、たまたまですが、病院の慰問での神楽舞」
「神楽舞? えっ、そんなのあるの? 知らない……」
「快癒祈願でしたので。振り付けや曲はこの慰問のために作られたものだったので、舞われたのはこの時一回きり、おそらく映像は残っていないでしょう」
「うわああああああああ」

 蓮華はもう、頭を掻き毟らんばかりの勢いである。

「ていうか、さっきから気になってたんだけど、弦一郎君が観たって言ってる舞台、毎年やってる夏の東京の特別講演のやつじゃない? もしかして、あれを毎回観てるとか?」
「……はい。演目だけでよくわかりますね」
「わかるわよ! なんであの頃私は紅椿を知らなかったのかって、演目のリストを見て死ぬほど悔しい思いをしてるのよ! ね、ねえ、じゃあ次の年の、お座敷舞の……」
「ああ、はい。観ました」

 蓮華はもう声すら上げず、頭を抱えて俯く。
 俯いたまま、いいなあ、いいなあ、という言葉を何度も繰り返す彼女は、もはや涙目であった。

 そしてその様子を見て、ずっと硬い表情だった弦一郎が、初めて苦笑のようなものを浮かべたのを、蓮二は見た。

「……ねえ、じゃあ、去年の『藤娘』も観た?」
「はい」
「そっか。私もあれは観た、ていうか、あの舞台ですっかりファンになったの」

 はぁあ、と、蓮華は大きな息をついた。

 蓮華の言うとおり、去年の夏の紅椿の演目は、日舞を知らずとも名前を知っている者も多い、『藤娘』であった。

 そのひときわ美しい衣装、華やかな舞台装置からも、非常に見栄えがすると同時に、舞手にとっても『藤娘』を演じるのは、定番の憧れのひとつだといえる。

 そしてこの『藤娘』、明確なストーリーが有るようで、ない。

 一応は、元禄時代の大津絵から抜け出してきた若い娘が、人間の男への恋心を表現する曲、ということにはなっているが、明確な表現は薄い。
 そしてその舞い自体も、恋心を募らせる清純な乙女のようなところもあれば、人間の男を惑わそうとする妖艶な藤の精、といった部分もある。
 他の部分においても、近江八景を読み込んだ歌詞でクドキ、藤音頭での色っぽい酔態、後半は手踊りになり、場面が代わるごとに藤娘の衣装も次々と代わるという、とにかく様々な変化に富んだ構成だ。

 舞台いっぱいにぎっしりと咲き垂れ下がる藤の下でくるくると姿を変える娘を見ていると、結局彼女が藤の精なのか、ただの娘なのか、恋心の純情を歌っているのか、人を惑わす妖女を描いているのか、──これが夢なのか現なのかもわからなくなってくる、そんな演目が『藤娘』だ。

 このように自由度の高い演目なので、流派や舞手、演出家によって、その解釈や表現も千差万別である。
 そして紅椿の舞う『藤娘』は、やはり人ならざるという雰囲気が非常に強く、圧倒的な美しさと幽玄さによって、観客を夢現に誘いこむ。

「もう、本当に、人間じゃないみたいだった。元々、人間なのかそうじゃないのか曖昧な演目だけど、紅椿の『藤娘』はもう完全に人間じゃないわよね。あれだけの世界を人が演じてるっていうのがもう信じられない。ほんとに天女様か何かだって言われても信じるっていうか、そのほうがむしろ納得するレベルだわ」
「……どちらかといえば、妖怪に近い気がしますが」
「え?」
「いや、なんでもありません」

 きょとんとして顔を上げた蓮華から、弦一郎はなぜかさっと目を逸らした。
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BY 餡子郎
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