心に欲なき時は義理を行う
(七)
 立海大附属中学に入学してからというもの、弦一郎は、“勝つ”ということに執着するのをひとまずやめることにしていた。

 なぜなら、手塚国光に敗北し、万年次席の敗北者の立場にいつの間にか甘んじていた自分に気づいたあの日から、ただがむしゃらにやるよりも、何が駄目なのか、何が弱いのか、自分を見つめなおす事こそ重要だと、心の底から思い知っていたからだ。

 同じ学校、同じ部活で、精市が横にいるということも大きい。
 その状況だけ見れば今までとそう変わりないが、弦一郎が勝ちに執着するのをやめた今の状態では、最も身近かつ最大のライバル、今まで年がら年中つっかかり続けてきた存在を横目で見ながら己の弱点を叩き直すというのは、予想以上に過酷で、そしてそれに見合って有用なやり方だった。

 まだレギュラーではないが、今まで真正面から向かっていくばかりだった精市を、団体戦のメンバー、つまり仲間として見る。
 それは新鮮で、同時に違和感があり、しかし同時に色々と得るものが多い。どうやったら自分が精市に勝てるのかではなく、なぜ精市が相手に勝てるのか、どうやって勝っているのかを見て、考えて、理解する。それは巡り巡って、弦一郎の力になる。

 だからひとまずは、精市ばかりを追いかけるのはやめよう、と弦一郎は決めた。
 その代わりではないが、手塚国光という新たな目標も出来た。彼がどの学校に行ったかはわからないし、もしかしたらドイツに行ってしまって、再び対戦するのは難しいかもしれない。
 だが、戦うことよりも己を見つめなおすことに集中するとはいっても、元々が闘争心の塊で、超えるべき壁があってこそ力を発揮できるのも確かな弦一郎にとって、精市に代わる仮想敵として、手塚国光はうってつけだった。




 翌日起きて、朝稽古をして朝食を取ってから、弦一郎は一番右の押入れの襖を開けて、兄から譲ってもらったお古のDVDプレーヤーと、祖母の遺品であるディスクを一枚取り出した。

 去年の、あの夏の日。

 敗北に甘んじていた自分に気付き、膝から崩れ落ちそうになっていた弦一郎をやんわり立ち上がらせ、さあ次に向かって歩けと促してくれた彼女は、どこにも出かけず、ずっと真田家にいた。
 単に、俄に顔が売れた彼女のために用心してのことだったが、少しだけまた庭でテニスをしてから、弦一郎はふと、彼女のことを知りたいと思った。

 テニスや剣道、書道、学校のこと。いつも自分のやっていることや思っていることを聞き、熱心に教わろうとする彼女を嬉しく思っていたから、今度は自分がそうしてみたい、と思った。
 それに、いきなり与えられた外国の舞台を見事にこなし、ついに名取にもなった彼女が、急に遠くに行ってしまったような気がしていたので、今まで遠くから眺めるばかりでしかなかった、彼女の見ている世界、その中心にあるものを知りたくなったのだ。

 申し出ると、彼女は驚きつつも、快く了承してくれた。
 いかにも先生と生徒のように教わるのはなんだか気恥ずかしかったので、いつか剣舞をした時のように、二人で舞う演目、ちょうど彼女が先の発表会でやる予定の、『松廼羽衣』を選ぶ。羽衣伝説自体は弦一郎も知っていて、馴染みやすかったというのもある。

 紅椿の『松廼羽衣』のDVDを流しながら、振りを教わった。
 そして、実際に一緒にやればやるほど、彼女の動きがいかに洗練されているかを思い知る。
 まさに天女のような動きは、人体が動く際に生じるあらゆる重力、空気の重ささえなくしてしまうように軽やかで、柔らかく、今にもふわりと浮いて、どこか遠くに行ってしまいそうだ。

 この世のものではないように美しく、妖しく、羽衣を返せという時ですらろくに伯竜を見ずに舞う紅椿の舞が、彼女の目指すもの。
 だがこの時は、単に弦一郎に教えるためではあるが、天女の役をやる彼女は、剣舞をした時のように、常に弦一郎の目を見て、どう動けばいいのか、丁寧に教えてくれた。

 だがそれでも、やはり彼女の動きは思わず動くのを忘れて見入ってしまうほど見事で、そしてそれにはっとして、彼女の動きに追従しようとすればするほど、今度は自分の動きに焦りが出てしまう。
 しかも、武道とテニスに基づいた自分の動きは、日舞、天女と共に舞う動きとしては、とても無骨で、無粋なものだった。
 物心付く前から弦一郎が竹刀とラケットを振り続けてきたように、彼女も同じく舞扇を持ち続けてきている。おそらくどうやっても、弦一郎は彼女にふさわしいようには動けない。

 それはまさに、天女の羽衣を追いかけるような心地だった。
 いくら強く掴んでも、天女の羽衣は、指の間をすり抜けていく。偶然出逢ってはみたものの、天の国に住む天女と、人間の男が共にあり続けることは出来ない。
 天女の舞に見惚れ、浜に留めようと足掻き、しかし無様に置いて行かれる伯竜の気持ちが、弦一郎にはとてもよくわかった。

 ──いつものように、三日間の滞在の後、紅椿とともに京都に帰ってしまった彼女を見送る時は、特に。



 その日から、弦一郎は、紅椿のDVDを手本にしながら、しかし実際は彼女に教わった時のことを思い出しながら、伯竜の動きをして、天女を追いかけるようになった。

 それは自分が教えたテニスのショットを僅かでも打ちこなし、そのフォームを一年経っても再現した彼女に対抗したかったというのもあるし、そこに彼女がいるようにして動くのは、彼女からの手紙を読み返す時と同じように、落ち着いた気持ちになれるからだった。

 最年少で名取になり、あの世界ではすっかり次代の紅椿と認識されているらしい彼女は、日舞の雑誌に載ることすらある。
 客観的に見れば、彼女は、もう遠い存在なのかもしれない。
 彼女が載っているページに付箋を貼ってはみるものの、紙面に書いてあることを見てもよくわからないことが多いし、大きく写っている写真は、当たり前だが白塗りの化粧と華やかな舞台衣装ばかりで、素顔の彼女の印象があまりにも強い弦一郎にとっては、別人のようにしか見えない。

 だが弦一郎にだけ向けた手紙と、彼女と二人で舞った舞があれば、やはり彼女は、誰よりも弦一郎に近い存在だった。

 そして、これは意図したことではなかったが、あの、空気の重さも消してしまうような柔らかい動きをイメージすると、いま試行錯誤している『林』や『山』の技が、完成に近づく気もしていた。

 いろいろ考えた結果、風林火山の『林』は、相手のあらゆるショットの回転や衝撃を無効化する技術特化、『山』では極力自分は動かず、相手の動きを予測し、あるいはそうなるように仕向ける、ゲームメイク、試合運びのコントロールという方向を目指すことにした。
 彼女が助言した通り、そして本来兵法としての『風林火山』と同じく、回避と防御の役割を担う技を、弦一郎は選んだのだ。
 勝利にばかりこだわることをひとまずやめて、己を見つめなおそうとしているように、弦一郎は、烈火のごとく攻撃し、神風のように攻めるばかりでなく、対戦相手と、彼らが打ってくる球や思惑を理解しないと使えない技を極めることにした。

 そしてそんなときに現れた、柳蓮二という存在である。

 弦一郎が今まで知らなかった“データ”というものを用いて、相手や周囲のみならず自分自身までも分析し尽くし、力よりも技や理論、頭脳でテニスをする蓮二のやり方は、『林』や『山』という技を極めようとしている弦一郎にとって、参考になるどころではない。目から鱗が落ちるよう、いや、これが求めていたものだと、諸手を上げて快哉を叫ぶほどのものだった。

 もちろん、彼に倣って自分もデータマンになる──というのは、弦一郎のポリシーや性格、能力的にもありえなかったが、非常に参考になることは確実だった。
 弦一郎は蓮二から、“分析”とか“解析”、色々な角度でものを見るやり方。そして感性や根性、反復練習ではなく、理論に基づく技術の付け方を、具体的に知ったのだ。

 しかも蓮二は、求めれば、何の見返りもなく、弦一郎の“データ”を分析して、詳しく教えてくれさえする。
 思うように行かず、何が悪いのかわからず、闘争心ばかりを持て余しそうになる弦一郎にとって、豊富な知識で正確に原因を分析してくれ、更にめったに怒らず穏やかで理知的な性格でそれを解説してくれる蓮二は、心地よいどころか、救いとすらいえた。

 己にないところをたくさん持っていて、尊敬できるクラスメート。
 良い友人を得た、と、弦一郎は、初めてそんなふうに思っていた。

 だからこそ、家族にも知らせていない、彼女との手紙の存在を不意に知られた時。

 あの時は、驚きと動揺のあまり咄嗟に怒鳴りつけて追い返してしまい、実際寝る前くらいまで、混乱が続いた。
 だが落ち着いて考えてみれば、ああまで過剰反応する必要はなかったのでは、という気持ちになってきたのだ。

 押し入れを開けた事自体は特にどうとも思っていないし、その行動自体、どうせ精市が言い出したことだろうことは想像がつく。
 そして付き合いはまだ浅いが、蓮二は人の大事なものを無神経に扱うような人間ではないことはわかっている。そして精市もまた、傍若無人でどうしようもないところがあるのも事実だが、なんだかんだで、そのあたりはきちんと弁えているのだと、弦一郎は知っている。

 だからもし、弦一郎が、あの押し入れを開けるなときちんと言えば、多少からかわれるかもしれないが、彼らはそれを守っただろう。
 そう思えば、真に不用意だったのは自分である、と弦一郎は悟り、月曜に登校した時、特に蓮二にはきちんと謝ろう、と決めて就寝したのだ。

「すまなかった、弦一郎。このとおりだ」

 しかし蓮二はこうして、すぐ翌日、わざわざ家にやってきて、真摯に頭を下げてきた。
 自分にも非があった、とこの時すでにすっかり思っていた弦一郎は、この蓮二の行動にはとても感心したし、改めて彼に好感を持った。
 手紙を見られた時は沸騰したように頭に血が上ったのに、儀式のように天女を、彼女を追いかける姿を見られても、取り乱したりはしない。
 むしろ、菩薩のような笑みを浮かべる彼女がそこにいるように思えば、蓮二に対するわだかまりは、もう、塵ひとつも残っていなかった。

 彼女とのやりとりは、弦一郎にとって、とても柔らかく、繊細で、密やかな、──誰にも知られたくない、大事なものだ。
 手紙での、文字でのやりとりでのみ、弦一郎は弱音を吐き、まとまりのない相談事を持ちかけ、愚痴を言うことすらある。
 だから、亡くなった祖母を除き、彼女と手紙をやりとりしていることは今でも家族の誰にも知らせていないし、郵便受けに入れられる郵便物回収の役割を自分からわざわざ申し出て、知られるのを防いですらいる。

 ──しかし、蓮二は、友達だ。

 彼女と同じように、蓮二は滅多に会えないような、稀有な友人であるのだと、こうして真摯な謝罪を受けて、弦一郎は思った。

「いや、俺も過剰に反応しすぎた。悪かったな」

 だから、かつて彼女が自分のしたことを鷹揚に許してくれたように、弦一郎もまた、そうした。あの時の自分のように、許されたことに驚く蓮二の様子に、少し小気味いい気持ちになる。

「きちんと謝罪をしてくれて、ありがとう。おかげで気持よく済んだ」

 そう言って頭を下げたのは、紛れも無く本心。
 無様にかっとして喚き立てたのに引くどころか、蓮二はあの手紙の山が弦一郎にとってとても大事なものであることを何も言わずとも理解し、詮索せず、ただ申し訳ないと言ってくれた。
 その態度を弦一郎はとても好ましく思ったし、その人柄に感心し、彼の心遣いに感謝した。そして、これからも蓮二と友達でいられるように、自分も努力しよう、と心に決めた。

 精市はどうせばつが悪くてしばらく自分を避けるだろうが、そのうち謝りに来るだろう。そしてその時は、できうる限り何も気にしていない様子で許してやろう。

 ──そのほうが、あいつはさらにばつの悪そうな顔をするだろうから、と付け加えて思うところは、弦一郎と精市、二人独特のありかたゆえであろうが。







 無事に仲直りをした頃、ちょうど由利がチーズケーキを切り分けて持ってきてくれたので、二人はなんとなく縁側に出て、もそもそと食べた。
 和菓子は全般好きだが生クリームやチョコレートはあまり得意ではない、という弦一郎に合わせて選んだチーズケーキだったが、そのチョイスは弦一郎よりも弦右衛門に気に入られたようだ。
 蓮二がワンホールまるごと買ってきたケーキは、すでに四分の一弦右衛門の腹に収まっており、気づいた由利が慌てて二人の分を取り分けて持ってきてくれたのだ。

 そして、祖父とだいたい好物が同じだという弦一郎も、一口が大きめの頬張り方で、六分の一くらいのケーキを、豪快に、さっさと食べ終えてしまった。
 蓮二は茶道をやっているせいもあって、一口が小さい癖がついており、食べるのがあまり早くない。いかにも男っぽい弦一郎の食べ方をつい真似して、最後、普段なら三口ぐらいの大きさのものを一気に頬張ってみた。
 少し咽そうになりながら、頬を膨らますケーキを飲み込み、蓮二はふと切り出す。

「……ところで、先ほどやっていたのは、『松廼羽衣』か?」
「よく知っているな」
 曲や振付で、日舞の演目がわかるというのは、かなり珍しい部類に入る。ケーキの屑を親指で口に押し込んでから、弦一郎は、少し驚いて言った。
「姉が日舞をやっているのでな」
「そうなのか。長いのか?」
「いや、一年くらいだが、姉も俺と同じでまず知識から入るタイプなんだ。実際に習うと同時に、演目や曲や、その成り立ちから徹底して勉強している。俺もそういうのは嫌いではないし、姉が読んだ本は全部読んでいるから、大体はわかる」
「そうか、さすがだな」
 関心したように、弦一郎は頷いた。

「ならば、多分、俺よりお前や姉上のほうが、断然知識があるだろうな」
「……弦一郎は、日舞を?」
「いや?」
 弦一郎は、あっさりと否定し、首を振った。

「正直、日舞自体にはそれほど興味があるわけではない。例えば道成寺物とか藤娘とか、──有名所は衣装で分かる程度だが、自分で動けるのはこの『松廼羽衣』だけだ」
 しかも動けるだけで、全く上手くはないしな、と弦一郎は悔しそうでもなく、謙遜する風でもなく、当たり前といった様子で言った。

「そもそも、別に俺は、……日舞の、いわゆる……、稽古をしているわけではない」
「そう……なのか?」
「そうだ」
 不思議そうに蓮二が言うと、弦一郎はこくりと頷いた。

「あれは──、なんというか……、そうだな、……大げさな言い方をすれば、儀式のようなものだ」
「儀式」
「いや、本当に大げさだな。お前のように、色々な言い方を知っていればいいのだが。……ああ、そうだ。験担ぎとか、景気付け、のほうが近いだろうか」
「何の、……と、聞いてもいいか?」
「難しいな」
 ウウム、と、弦一郎は唸った。

 それは、少し困ったような、しかし苦笑もしている、だが穏やかな、不思議な表情だった。曖昧なものをそのまま受け入れ、眺めるばかりでなく、そっと大事にしているような、そんな表情だ。
 何もかもきっぱりしていて、白なら白、黒なら黒と、常にどちらかを取ってどちらかを切り捨てる感のある弦一郎しか知らない蓮二は、そんな彼の様子は、ひどく新鮮に思えた。

「落ち着く……から、か?」

 弦一郎自身が首を傾げていては、蓮二にその真実はわからない。
 いま弦一郎は、自分のとても奥まったところの、繊細で、密やかなところの話をしている。
 蓮二は、弦一郎が昨日の一件を鷹揚に許してくれたばかりか、そんなことを話してくれることが嬉しかったし、人間の奥深さを、この友人の器の可能性の広さを知った今、それを“データ”で無理やり測るような、無粋なことはしたくなかった。

「あれを教えてくれた奴が、穏やかさの塊のような、……なんというか、菩薩のような奴で」
「菩薩とは、大層だな」
「別に、大げさなことは言っていないぞ。本当にそうなのだ」

 蓮二が少し笑って言うと、少しむっとしたように、弦一郎は言った。

「だから、その、あいつの舞うのを思い出して、あいつが教えてくれた動きをすると、気持ちが静かになる気がするのだ。冷静に、落ち着いてものを考えられるようになる。それこそ菩薩に詣でて、気持ちを入れ替えるようなものだ」

 そう言われれば、わからなくもない、と蓮二は頷く。ただその対象が、神仏ではなく、菩薩のような“誰か”、というところに、どうしようもなく好奇心が疼くが。
「だから試合の前や、なにか行き詰まった時に、ああして」
「天女を追いかける、……とお前は言う」
「そこまで大層なことではないが……」
 菩薩と言った時は逆のことを言ったくせに、弦一郎は、困ったような顔をした。

「前から思っていたが、お前は、見かけによらず風流なことをするな」

 蓮二が言うと、弦一郎はまたむっとしたが、見かけどうこうには自覚があるのか、きまり悪そうに唇を少し尖らせただけで、何も言わなかった。

「それで、今回は……、やはり昨日のことで?」
「いや、それは昨日の時点で整理がついていた」
 月曜になったら俺から謝ろうと思っていたのだが、お前が先に謝りに来たんだ、と弦一郎が言ったので、蓮二は、本当に、姉の言ったとおりに今日来てよかった、と思った。
 こうして先んじて謝罪しても、なんだかまだ罪悪感が僅かにもやもやとするのに、月曜に弦一郎に頭を下げられていたら、自分はさぞ鉛を飲んだような気分になっただろう。

「ただ、午前中に、この間から考えている技の練習をしていたのだが、行き詰まってしまって……。その気分転換というのもあるが、天女の舞のふわふわした動きが、目指す技のイメージに繋がるところがある」
「ほう? 良ければ話を聞かせてもらえないか」

 先ほどまでの曖昧な話は、好奇心を非常に刺激される割においそれとつつくのも憚られるが、こうして具体的な話になれば、蓮二も積極的に発言することが出来るので、そうして身を乗り出した。
 弦一郎も、「ああ、そのうちお前に相談したいと思っていた」と頷くので、それからは、すっかりテニスの話となる。



「なるほど、『林』と『山』か」

 弦一郎が目指す、『風林火山』たる技。
 それを聞いて、蓮二は素直に感心し、深く頷いた。

「うむ。攻撃特化もいいが、体力や筋力を強化することでそれはひとまず置いておくとして、今は技術やゲームメイクを磨いてみようとしているのだが」
「いい選択だと思う」
 オールラウンダーを目指すならば、弦一郎のやり方は非常に理にかなっており、そしてわかりやすい。
 ただそれは、弦一郎の常軌を逸した練習量と、それに耐えられるタフな肉体、精神力あってのものだな、とも蓮二は判断する。

 弦一郎が目指すオールラウンダーは、その名の通り、あらゆる戦い方が出来なくてはならない。
 相手によってプレーを変えられる戦略、技術、身体能力。それは、何でも出来ればまさに万能だが、中途半端だと、決め手に欠けるただの器用貧乏になってしまう、諸刃の剣。最も幅広く、最も頂点を目指すのが難しいスタイルである。

 弦一郎は、正直、生まれ持って突出した特技はない。
 だから普通にテニスをやっていれば、良くて堅実、強くも弱くもない、凡庸なプレーヤーになっていただろう。
 だが弦一郎は常軌を逸した凄まじい努力によって、器用貧乏を万能に変えようとしている。それこそ、神の子を天から引きずり下ろさんほどの高みを目指して。

 しかも、弦一郎が考えるのは、相手の弱点を狙ってプレー内容を変えるという、通常の概念でのオールラウンダーではないという。
 彼がやりたいのは、わざと相手の得意なやり方に合わせて戦い、それでいて、真っ向勝負で相手を打ち破ることのできる、非常に挑戦的で、勝ち方を選べるテニス。
 オールラウンダー中のオールラウンダー、どんな選手と当たろうとも、わざわざ真正面からぶつかって勝てる選手を、真田弦一郎は目指しているのだ。

「──面白い」

 と、蓮二は切れ長の目を開けて、にやりとした。

 言わずもがな、蓮二はデータを活かしたテニスをするが、選手のタイプ別に言えば、カウンターパンチャーである。これはベースラインからあまり動かず、自分からは基本的に仕掛けることなく相手のショットを拾って粘り、ミスを誘ったり、相手の強打を利用してカウンターを狙うスタイルのことだ。
 相手を分析し、その隙を突くやり方は、まさにデータテニスの真骨頂、と蓮二は思っている。

 しかし、テニスというスポーツで最も必要なのは、総合力だ。
 足が速いばかりでもいけないし、体力や筋力だけ優れていても話しにならない。パワーショットは武器にはなるがそれだけでは勝てず、小手先だけのテクニックで勝ち上がるには限界がある。更に、そういった身体能力の他に、ゲームメイクの駆け引きを見通す頭脳も必要だ。
 だから蓮二は自分のデータテニスにはいつか限界が来るとわかっているし、だからこそ、その限界をいかに上の方まで持っていくか、ということに夢中になってもいる。

 ちなみに、同じデータテニスを追求しつつも、貞治はサーブ&ボレーヤーである。
 前述のとおりベースラインを縄張りにする蓮二とダブルスを組んでいたがゆえ、という理由が大きいが、サーブを打った後に前方に走ってネットに詰め、主にボレーでポイントを取る、ネットプレー中心のプレーヤーだ。
 あまり俊敏性には恵まれていないため、蓮二といた頃はひたすらボレー系統の技術を磨き、動きが遅い分はデータによる先読みで動いていたが、もし彼がこれから高身長に恵まれれば、長身を生かして高い打点から早いサーブを打つことができるので、戦術の幅はぐんと広がるだろう。

 ──閑話休題。

 弦一郎が己の技として考案している『風林火山』は、オールラウンダーとしてのスタイルを極めるに、非常にわかりやすく、しかも有用である、と蓮二は評価する。
 そしていま彼が磨こうとしている『林』と『山』、テクニックによって相手のショットを無効化するカウンターと、ゲームメイクを制し支配する駆け引きは、まさに蓮二の得意分野だ。

「……なるほど。確かに、『林』という技を極めるなら、天女の舞のような動きは参考になるだろうな。あの動きと、あらゆる衝撃を吸収する身体の使い方には共通するところがある」
「やはりそうか。あいつも、球を受けるのだけが異様に上手くてな……」
 “あいつ”というのが誰なのか気になったが、蓮二はとりあえずそれについては何も聞かず、続けた。
「単にボレーということなら腕、特に手首の使い方が要になるが、あらゆる球種、球威を無効にするとなると、体全体を使わないと不可能だ。どんな状況でも完璧なフォームを取る、精密なボディバランスが必要になるな」
「うむ、その点についても心当たりがある」

 裏付けが取れてすっきりしたのか、うんうん、と弦一郎は頷いた。

「だが、そうなると、『山』は後回しにして、まず『林』を極めたほうがいいだろう」
「む……」
「『山』は、ゲームメイクを制する技だ。そのためには、まず多くの技が使えたほうが幅が広がる。少ない技でゲームを組み立てるのもそれはそれで有用だが、いずれは風林火山、全ての技を使えるようにするのだろう?」
「無論だ」
「ならばやはり、まず『林』を極めて手数を増やしたほうがいい。例えば将棋をするにも、全ての駒を使えたほうがいいに決まっている」
「……そうだな。お前の言うことはもっともだ」

 弦一郎は納得したのか、力強く頷く。

「『林』、そして『山』の練習には、俺が付きあおう。これでも打てる球種の豊富さには自信があるし、ゲームメイクについても、一家言持っているからな」
「……いいのか?」

 それは、弦一郎にとっては、願ってもない提案だ。
 しかし同時に、かなりのレベルのカウンターパンチャーである蓮二の手の内を晒し、貴重な“データ”を提供する事に他ならない。
 だから弦一郎は驚きのあまりぽかんとして、蓮二を見た。だが蓮二は、いつもの、──いや、いつもよりわくわくした色を滲ませた微笑みを浮かべていた。

「なに、これも俺の“データ”になる。存分に取らせてもらうぞ」

 それに俺も、スピードとパワーのある選手にあたった時の練習になるしな、と返されれば、弦一郎も、断る理由はない。
 弦一郎もまた、目指す頂点に一歩踏み出せる喜びに、好戦的な笑みを浮かべた。

「──いいだろう。ではさっそくストリートに行ってみるか?」
「望むところだ」

 二人は立ち上がり、お互いに、軽く拳をぶつけあう。
 それぞれ自分の前を見ているのに、その拳は、不思議とまっすぐ、真正面からぶつかった。
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BY 餡子郎
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