心に欲なき時は義理を行う
(六)
 翌日、蓮二は姉のアドバイス通り、真田家の前にいた。

 一応昨夜、精市にメールをし、同行しないかという誘いもかけた。
 精市も珍しく、蓮二が諭さずとも、自分が悪かったとは思っているようだ。しかし同時に「蓮二は言って謝ればすぐ許してもらえると思うけど、俺が行っても多分余計に怒らせる」と頑として譲らず、とりあえず少し時間を置いてから、ということになった。
 どうも彼らには独特の距離感と関係性がある、ということは、蓮二にももうわかっている。そして、それに口を出すことはできない。──少なくとも、“まだ”。

 ちなみに、メールや電話で謝る、という手段も考えはしたが、使えなかったし、使わなかった。
 なぜなら弦一郎は携帯電話を持っておらず、この時点でまずメールは無理だし、「電話するぐらいなら直接行け」と姉に諭されたからである。

 そんなわけで、蓮二は潔く、ひとりで真田家にやってきたのだった。
 手には、柳家の住む鎌倉でちょっと有名なチーズケーキの箱。祖母のお勧めである。




 真田剣術道場、と、まるで明王像の忿怒相の如く厳しい字面の看板がかかった、重々しい門。
 その横についた、古めかしい門とは相反して新しい様子の勝手口。そして更にその脇についたインターホンを、蓮二は恐る恐る押した。

《──はい》
「突然申し訳ありません。真田弦一郎くんのクラスメートで、柳蓮二といいます」
《おお! 弦一郎の!》

 応答してくれたのは、蓮二の知らない声だった。
 まるで時代劇の大物俳優のような、太くてがっしりした、そして年かさの声だった。
 インターホン越しでもみぞおちに響くようなその声は、《よく来たよく来た、今開けるから、そのまま玄関まで来なさい!》と実に豪快に言い放ち、ガチャンと音を立てて、勝手に通話を切った。

 蓮二が目を白黒させていると、がちん、がちん、と、勝手口から、二度重々しい音が鳴った。まるで、鍵が開いたような音。
「……オートロック?」
 見た目ひたすらごつい木製の門だというのに、とんだハイテクである。昨日は弦一郎が持っている鍵で開けたので、わからなかった。よく見れば門の上、瓦屋根のついた骨組みの影には、訪問者の姿を死角なく捉えるカメラが、三台も設置されている。
 そういえば、道場主でもある弦一郎の祖父は元警察官であるし、両親とも自衛官だ。そんな家ならば、万全の防犯設備を設置しているのは妥当なことだろう、と蓮二は納得した。
 とはいっても、猛者の巣窟であるこんな家に不埒者が入っても、誰かしらに返り討ちにされそうではあるが。

 蓮二は一度深呼吸をし、開けてもらった勝手口のノブを回す。そして、意を決して中に足を踏み入れた。



 門から玄関、道場へと別れた、ほとんどすり減って地面の砂に埋れ気味の飛び石の道に従い、蓮二は玄関まで歩く。
 しかし、再度インターホンなどを鳴らす必要はなかった。なぜなら、すぐそこに見えていたこれまた大きな玄関が豪快にガラリと開いたかと思うと、ツルツルの頭、しかし立派な髭を生やし、派手な真っ赤な浴衣を着た老人が姿を表したからだ。

  武田信玄が出た。

 と、珍しくも目を丸く見開いた蓮二は、咄嗟にそう思った。
 それほどに目の前の人物は迫力があり、そして、弦一郎以上に時代錯誤だった。正真正銘武家屋敷の家屋、その向こうには、裂帛の気合が時々遠く聞こえる剣術道場。目の前には、甲冑こそ着ていないものの、戦国武将にしか見えない老人。
 扉の向こうは戦国時代でした、という冗談を言っても、割と洒落にならない光景だった。

「……こんにちは。突然お伺いして申し訳ありません」

 だが何とか気を取り直し、深々と頭を下げて挨拶をすると、休日の戦国武将といった佇まいの老人は、立派な白い髭を撫でながら、ウンウンと頷いた。

「いやいや、よく来た! うん? 君は男の子かな、女の子かな?」
「……男です。柳蓮二です」
 いきなり遠慮のない質問をされ、蓮二はついぽかんとしながら、それでもきちんと質問に応えた。
 それに、精市ほど美少女顔ではないものの、お世辞にも男っぽくはない顔立ちに加えこの髪型、まだ声変わりも始まっていないので、性別を間違えられるのも仕方がない、と蓮二はそれなりに自覚がある。

「蓮二くんか。実に風流な名前だなあ」
「ありがとうございます」
「儂は真田弦右衛門じゃ。弦一郎の祖父」
「存じております」

 やはりそうか、と思いつつ、蓮二は頷いた。
 そしてこの祖父に育てられれば、弦一郎があのようになるのも仕方がない、という納得もした。本人の資質もあるのかもしれないが、蛙の子が蛙であるように、戦国武将の孫は戦国武将になるのだろう。きっと。

 だが蓮二がチーズケーキの箱を渡すと、戦国武将はとても喜んでくれた。好物であるらしい。

「あの……、実は、弦一郎とは今日約束をしているわけではなく……」
「ああ、なんぞ昨日喧嘩をしたらしいな! 精市くんと!」
 ストレートに言われ、蓮二はぐっと詰まった。
「……弦一郎は、怒っていましたか」
「さあなあ。しかし、確かに昨日はえらい機嫌が悪かったな。今日は知らん」
 あっけらかんとしたものである。蓮二がおそるおそる見上げると、弦右衛門はやはり髭を撫でながら、にやにやと笑っていた。

「弦一郎は部屋にいるだろうから、このまま庭から行って構わんよ」

 そう言って、弦右衛門は、左手に広がる、味も素っ気もない土庭を示した。
 弦一郎の部屋は庭に面しているので、玄関に上がらずとも、ここから直接行くことが出来るのは、もう蓮二も知っている。

「何をしたのかは知らんが、まあ納得するようにやりなさい」
「……はい」
「怪我の手当には慣れとるからな! 安心して喧嘩してくるといい!」

 わっはっはっ、と弦右衛門は豪快に笑う。
 少し俯いた蓮二が若干青くなっていることにも気づかず、豪快な老人は、チーズケーキの箱を持って、そのまま大股で歩き去って行ってしまった。



「細かいことは考えずにとにかく謝れ」という姉のアドバイスを胸に、よし顔を見たら速攻でまず謝ろう、と心を決めた蓮二は、土庭を歩き、弦一郎の部屋へ向かった。
 彼の部屋は、昨日のように無防備に開いているだろうか。それとも、しっかり閉じられてしまっているだろうか。閉じられていたら、どのようにするべきだろうか──、と、心を決めた割にやもやもやしながら蓮二が歩いていると、その耳に、僅かな音が飛び込んできた。

  風早の 三保の浦曲を漕ぐ船の
  浦人さわぐ 波路かな

(……これは、確か)

 ──『松廼羽衣まつのはごろも』。

 と、蓮二はその曲の名を思い出した。無論、姉から得た知識である。

  げにのどかなる朝霞 四方の景色を見渡せば
  あれなる松に美しき 衣かかれり

 有名な、いわゆる羽衣伝説を元にした曲である。
 漁師・伯竜が、三保の松原で、松に掛かっていた天女の衣を見つけ、持ち帰ろうとする。それに気づいた天女が返して欲しいと頼むが伯竜は承知せず、最終的には、舞を見せてくれるなら返す、と約束する。
 そして天女は伯竜の要求通りに優美に舞い、そのまま天に帰ってゆくという、単純な話だ。

  いざや取りて 我が家へ帰らん

 弦一郎の部屋に近づくに連れて、曲がよく聞こえるようになる。
 そしてそのことから予想してはいたが、昨日と同じように開け放たれた縁側から見えるその部屋の光景に、蓮二はつい、ぽかんとした。

  吹く春風に誘い来る 姿を三保の松原や

 そこにいたのは、もちろん、弦一郎である。
 彼は昨日蓮二たちを叩き出した時と同じ、白い道着に紺の袴を履いていた。そのせいで、まるで昨日のあの時から時間が経っていないかのような錯覚に陥る。

  霞に裾は隠せども まだ白妙の富士の顔

 音を出しているのは、昨日葛籠の脇に置いてあった、ポータブルのDVDプレーヤーだった。遠目であるが、映像も写っているのがわかる。
 そして弦一郎は、どうやら、画面の舞手と同じ動きをしているようだった。──つまり、『松廼羽衣』を舞っていたのである。

  とうち喜び 返す気色もなかりける
  今はさながら天人も 羽なき鳥の如くにて

 といっても、『松廼羽衣』は、登場人物が二人いる。
 天女と伯竜、弦一郎がやっているのは、伯竜だった。今は、天女の衣を手に入れ、返してくれと嘆く天女に、舞を見せてくれるならばと言い渡すシーン。

 しかし、あらすじだけ聞けば単純な話ではあるが、歌詞を聞き、こうして振り付けを見ると、もっと奥深い話であることがよく分かる。
 衣は返さぬと言う伯竜に嘆く天女を、やけに美しげに表現する歌詞からしても、これが単なる三人称での詩的表現なのか、伯竜目線のものなのかで、印象が違ってくる。
 少なくとも蓮二には、羽衣を剥ぎ取られて嘆く天女に倒錯した美しさを見た伯竜が、より羽衣を返したくなくなる気持ちが透けて見えるような気がした。

  飛行の道も絶えぬると かざしの花も打ちしおれ
  五衰の姿あらわれて 露の玉散るばかりなり
  伯竜はそれとみて いかにもあまり御痛わし
  されども衣を返しなば そのまま天にや昇るらん

 日舞の振り付けは流派などによって大きくも小さくも異なるが、弦一郎のそれは、蓮二が知っているもののようだ。というか、再生されているDVDが、紅椿のものである。
 この振付であると、伯竜だけが舞うパート、天女が登場した後は舞う彼女を伯竜がただ眺めるだけのパート、そして二人で舞うパートがある。
 弦一郎は今、最初の一人舞の部分を終え、膝をついて羽衣を抱え、舞う天女をただじっと見ている。

 弦一郎は一人で、小道具もなく、素のままだ。
 だから弦一郎が抱える羽衣も、舞う天女も、蓮二の目には全く見えない。
 DVDから流れる音楽と、弦一郎の目線だけが、天女がそこで舞っているのだということを示している。

 姉の練習に付き合い、日舞の師範の舞を実際に見たり、また“紅椿”の舞台のDVDを鑑賞し、普通よりは目の肥えている蓮二からすれば、弦一郎の動きは日舞としてはあまりに硬く、きびきびとしすぎている。
 だがその目線は迷いなく、そこにいないはずの天女が、彼だけには見えているのでは、と、ついばかばかしいことを思ってしまうほどだった。

 今もまた、弦一郎は、何もない空間をじっとまっすぐ見つめて、ただ膝をついている。彼だけが、そこで舞う天女の姿が見えている。そんな風に見えた。

  いやとよ我も天乙女 たとえ世界は変わるとも
  慕う心はただ一筋に 思い染めにし恋衣
  契り結ばん女夫松 やがて小松の色添えて
  夢か現か疑わしくも 独り淋しき手枕に
  妹背を渡す鵲の 天津乙女を我が妻と
  睦み合うのを楽しみに

 この話のあらすじだけ聞けば、確かに、単純で、なんということもない内容だ。
 しかし、この歌詞。そして立ち上がり、二人で舞い始める伯竜と天女を見れば、二人がただ羽衣の取り合いをしているだけではないことは、すぐにわかる。
 伯竜の天女への執着はもちろん、天女もまた、伯竜を思い慕っていることが、あからさまなほどによくわかるのだ。
 歌詞は羽衣を取られた天女と帰すまいとする浅ましい人間の男ではなく、出会い、惹かれ合い、そして引き裂かれる男女を歌っている。
 この歌詞を見ると、“舞を見せてくれたら返す”というのが、もっと色っぽい意味に取れてくる。それに二人舞の睦まじさを見れば、羽衣を取られたというのも、もっと他のもの、例えば心を奪われたということかという詩的な発想も、浮かぶのは容易い。

  賎が手業もまだ白波の 寄する渚に千代かけて
  変わらぬ松の深緑 心のたけを推してと
  いとも床しき その風情
  さあらばかねて聞き及ぷ 天女の舞を今ここで
  奏で給えと勧むるにぞ
  乙女は衣着なしつつ かりに東の駿河舞

 特に天女や妖女などを得意とする紅椿の舞う『松廼羽衣』は、とにかくこの世のものでないほど美しく、幽玄的な天女を表現する。人ならざる者に出会い、羽衣を奪った代わりに心を奪われ、狂おしいほどの執着を抱いてしまった男。そうさせるほどの妖しさ、美しさを表現し、至高とされている。

 だが今、そんな天女は見えない。
 蓮二から見てもあまり上手くはない、ぎこちなく硬い動きの弦一郎もまた、伯竜をまったく演じきれていない。ただ弦一郎は弦一郎のまま、自分にしか見えない天女を相手に、それをじっと見つめながら動いているだけだった。
 しかしだからこそ、蓮二には、そこに何らかのドラマがあるような気がした。ちっとも幽玄的でない、人間臭い、彼らだけの事情が、きっとそこにある。

  思いは胸にうち寄する 波の鼓のそれならで
  虚空に響く音楽に 霓裳羽衣の一奏で
  雨に潤う花の顔 連理の枝に比翼の鳥 翅交わして羨まし
  面白や 妙なる薫り花降りて
  天の羽衣吹き返す  風に乗じて ひらひらひら
  昇り行方も白波に 霞彩る乙女の姿
  しばし留めて三保の浦 繁れる松の常磐津の

 二人は、想い合っている。
 それは紅椿が舞うような、人ならざるものと、熱に浮かされたような人間の有り様ではない。ただただ、お互いを好きになった男女が、やむをえず別れねばならない様を描いている。
 特に、こうして、役を演じることもできない、ただ等身大の自分自身でしかないままの弦一郎がぎこちなく不器用に舞う様では、特にそう感じた。

 武道とスポーツを徹底してやっているせいで、弦一郎の動きにはキレがある。
 それはこの場ではとても無粋で、野暮ったい。そのせいで色っぽい歌詞がまったく似合っておらず、はっきり言ってしまえば滑稽で、いっそ微笑ましいほどだ。

 だが弦一郎は見えない天女を見失わず見つめ続け、天女もまた、すぐそこに羽衣があっても帰らず、弦一郎に付き合ってそこにいる。
 蓮二には見えない、弦一郎には見えている天女は、きっと人ならざる者などではない。ただ弦一郎が好きで、一緒にいたいと思っているような女の子なのだろう。

  波うち寄する岸沢の 糸残して伝えける
  糸に残して 伝えける……

 曲が終わり、舞も終わる。DVDプレーヤーの液晶が、ぷつんとメニュー画面になった。
 だが弦一郎は、まだ遠くを見ている。天女が去ってしまった遠い空を見ながら、羽衣を失った無手の腕が、ぶらんとぶら下がっていた。

「──どうした、蓮二」

 そして、別世界に居たような弦一郎が突然そう言ったので、蓮二はついびくりとして、背筋を伸ばした。






「すまなかった、弦一郎。このとおりだ」
「いや、俺も過剰に反応しすぎた。悪かったな」

 すぐにそう返され、深々と頭を下げていた蓮二は、いつも開けているのか閉じているのかわからない目を丸くした。

「どうした、驚いた顔をして」
「……やけにあっさりしているな。その、……」
 言いにくそうに、蓮二はもごもごとした。頭に広辞苑でも搭載されているのかというほど──いや、実際似たようなものであるが、とにかくそれほど語彙が多い彼が言葉に詰まるというのは、非常に珍しいことである。
「あれほど怒り狂っていたのに、ということか?」
「……まあ」
 こくり、と、蓮二は正直に頷いた。

「すまんな。俺はどうも頭に血が上りやすくて、何かあるとすぐ大声を張り上げる癖がある。直そうとは思っているのだが、なかなかな。反省はしている」
「いや……」
 昨日とは打って変わって、非常に穏やかな弦一郎がそうして小さく頭を下げたので、蓮二は心底戸惑ったような顔をした。
 そして、少し間を開けて、恐る恐るといったふうに口を開く。

「……だが、その。昨日のお前は、ただ大声張り上げたという感じではなかっただろう」

 昨日弦一郎に怒鳴られ、追い返された蓮二がああも落ち込んだのは、ただ彼を怒らせたから、というわけではない。

 なぜならあの時の声が、本当に、ただの大声ではなかったからだ。

 精市もそれを感じたからこそ、常にないほどばつが悪そうにしていたのだろう。
 それほどに、弦一郎が触るなと怒鳴ったあの声には、最大限の警戒と、悲痛なまでの懇願が篭っていた。
 逆光で暗くなってもうっすらとわかる、ショックのあまり泣き出しそうな表情。その言葉こそ命令形だったものの、実際は、頼むからそれに触らないでくれ、と言っているように聞こえた。

 せっかくできた友人を、自分は不用意にひどく傷つけた。
 だからこそ蓮二はショックを受け、落ち込んだのだ。

「……大事な、ものだったのだろう? 勝手なことをして、本当にすまなかった」

 蓮二は、もう一度深く頭を下げた。
 すると弦一郎が、蓮二が下げた頭の上で、ふっと小さく笑うのがわかった。

「頭を上げてくれ。もういいんだ。部屋で勝手にしていろと言ったのは俺だし、中身を読もうとしたならまだしも、お前たちはただ、あれを見つけただけだ」
「しかし、勝手に襖を開けたこと自体やはり」
「別にその事自体は構わんが……」
 少し不思議そうに、弦一郎は言った。
 やはりそのあたり、基本的におおらかなのだな、と蓮二は悟る。そしてこの様子だと、あの押入れに、精市が探した如何わしい本は、一冊も存在していないのだろう。

「というか、ああなったのも、どうせあいつが悪戯でもしようとしたのだろう?」
 弦一郎は、精市に対して彼一流の、つまり決めつけた口調で言った。
「いや……、まあ……」
 蓮二は、また口篭もる。確かに弦一郎の言うとおりではあるが、自分も彼の“データ”欲しさに、精市の悪乗りに便乗したのも事実だからだ。
 だがそんな蓮二のリアクションをどう思ったのか、弦一郎は今度こそ、はっきりと笑った。こんな顔ができるのか、と蓮二が少し驚くぐらい、寛容、鷹揚な表情だった。

「お前は、……いや、幸村も。俺が本当に大事なものを、ぞんざいに扱う奴ではないということは、わかっている。祖母の遺品を触った様子もなかったし、本当に、ついかっとして、俺が過剰に反応しすぎただけだ」
「弦一郎」
「大騒ぎをして、悪かった。それと」
 胡座をかいていた弦一郎は、組んだ腕をほどくと、その拳を突き立てるようにして、自分の両膝の前に着き、頭を下げた。

「きちんと謝罪をしてくれて、ありがとう。おかげで気持よく済んだ」

 そう言われ、蓮二は、今度こそ本当に驚く。
 謝罪をして礼を言われるなどまったく予想していなかったし、つまり“データ”にないことだった。

 その衝撃が蓮二に与えたのは、驚きと、──そして、深く、清々しい感動。
 真田弦一郎、新しく出来たこの友人は、“データ”で測りきれぬほどの器の持ち主なのだろうか。
(……いや、もしかしたら)
 今まで蓮二は、“データ”を取ることで、その人を完全に理解し、解析できるのだと思っていた。できていると思っていた。
 だがしかし、それは上辺だけのことで、本当に一人の人間を理解するということはとても難しく、もしかしたら不可能なことであるのかもしれない。それほどに人間というものは奥が深く、予想外の可能性に満ちている。

 それをいま思い知った蓮二は、今までの自分の傲慢さと浅慮を恥じ、反省した。
 しかし、人間が持つ奥深さに改めて感動すると同時に、それから取れる“データ”の可能性に心を躍らせるのは、やはり彼が柳家の人間で、データマンであるゆえであろうが。

 そして蓮二はいま、とても有用な、新しい“データ”を得ることが出来た。

 この新しい友人が、滅多にないほど誠実で、気持ちのよい男であること。
 そして姉の言った、友人は真正面からぶつかり合ってこそ理解が深まり、仲良くなれるものなのだというのが、確かに真実であることだ。
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BY 餡子郎
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