心に欲なき時は義理を行う
(五)
「よし、エロ本探そう」
「どこかのキャッチコピーのように言わないでくれるか」

 どや顔で言い放った精市に、蓮二は呆れてため息をついた。
 真田家の嫁・由利の作った昼食を頂いたあと、三人は広い土庭でラケットを振ってお互いのフォームを見なおしたり、学校の勉強を蓮二が解説したり、弦一郎の甥っ子の佐助と遊んだりと、和やかな時間を過ごしていた。
 そして弦一郎が道場で指導をしていた弦右衛門に呼ばれ、小一時間抜けると言って席を外し、二人を自分の部屋に残した。その途端の、精市のこの発言である。

「あいつと女の子の話なんかしたことないけど、興味ないことはないと思うんだよね。話を振るとたるんどるとかまだ早いとか言うの、あれ、照れてるわけだろ。照れてるってことは興味があると見た」
「ちょっと俺の話を聞かないか、精市」
「まさか浮世絵の春画ってこともないだろう」
 聞く気はないようだ、と、蓮二は再度ため息をついた。失礼なことをずばんと言い放った精市は、やけに目をきらきらさせている。

 弦一郎の部屋は縁側に面した、もちろん畳の和室だ。
 置いてあるものは、とても少ない。使っているのは、文机。これは蓮二も同様だ。使っている者を初めて見たので、親近感が湧いた。
 その机の上には、入学祝いだという万年筆と、学校に持っていく筆入れがそのまま転がっている他、嗜んでいるという書道のためだろう、硯と墨、小さな水挿し、そして大小の筆が、きちんと手入れをしているのがよく分かる様子で、きっちりと置いてあった。
 特筆すべきは、おそらく布団を敷いたら頭の上に位置するであろう壁際に刀掛台があり、そこに刀が置いてあるところだろうか。インテリアの模擬刀などではなく、真剣である。居合で使うものらしく、自分で手入れをするそうだ。

 あまりにものが少ない上に、そのどれもが時代がかっているので、とても中学生男子の部屋とは思えない。
 かろうじてそれらしいのは、小さい本棚に、教科書とノート、いくつかの歴史小説が入っているところか。あとは壁際に、テニスバッグと学校指定の鞄が置いてあるだけだ。

 そしてそんな部屋だけに、エロ本が隠してあるような雰囲気は微塵もなかった。

「ないわけないだろ、男なんだから。俺はあるよ」
 いらないデータをカミングアウトされて、蓮二は微妙な顔をした。
「蓮二もあるだろ」
「どうだろうな」
 顔色一つ変えずに、蓮二はけろりと言った。面白みのない答えに唇を尖らせつつ、精市は膝立ちになった。

「まあいいや。──で、俺はこの押し入れが怪しいと思うんだよね!」

 そう言って、精市は、膝立ちのままにじにじと移動し、襖三枚分の押入れに近寄った。確かに、怪しいというか、考えられるのはそこしかないだろう。

「おい、精市──」
 蓮二の静止も虚しく、精市は、縁側に近い方の襖を開け放った。しかし、入っていたのは毎日上げ下ろしをしているのだろう布団と、ホームセンターで売っているような、半透明の衣装ケースであった。

「ないなあ」

 文机と刀と本棚しかない外面と違い、一気に生活感のあるそれらに蓮二はそれなりの新鮮味を抱いたが、精市は満足しなかったようだ。とりあえず衣装ケースをごそごそやったが、彼の目当てのものは出てこなかった。
 蓮二としては、せいぜいボタンを一つ外してネクタイをやや緩める程度で、概ねきっちり制服を着ている弦一郎の衣装箪笥から、やたら派手なTシャツやら、ダメージジーンズが出てきたのは、かなり驚くべき“データ”だったのだが。

 だからではないが、蓮二もまた、“データ”に関する虫が騒ぎ出していた。
 人の部屋を勝手に家捜しするのはもちろん良くないことであるが、想像以上に、この押入れには色々な“データ”が詰まっていそうだ。
 弦一郎は礼儀に厳しく、なにごとも完璧主義の傾向がある上に融通が効かないが、それを念頭に置いた上で接しさえすれば、とても気安い性格だ。ちょっと勝手に部屋を見たぐらいでは怒らないだろうし、そもそもこうして二人だけで部屋に置いておきもしないだろう。
 部屋はこうして縁側に面しており大概開け放たれてもいるようだし、剣道道場を経営しているがゆえ、家族以外との共同生活にも慣れているためか、弦一郎が、そういうパーソナルスペースの線引がおおらかな性格であることは間違いない。

 本当にまずいものが出てきそうなら、止めればいい。
 そう判断して、蓮二は、精市の悪乗りに乗っかることにした。

 そして精市が次に開けたのは、中央の襖。
 そこにはたくさんの日本画集、特に浮世絵の画集や、建築や着物、焼き物の写真集、そして歌舞伎や日舞のVHSカセットや、DVDが入っていた。ひどく古いものから、フルカラーの新しいものまで色々ある。
 蓮二にとってもかなり興味深いラインナップだが、これは姉の蓮華にとっては宝の山だな、と蓮二はごくりと唾を飲み込みさえした。ああいう類の書籍は高価で、なおかつ単に手に入れにくくもある。古いものならなおさらだ。

「あー……、これは、お祖母さんのやつだね」
 今までの傍若無人さを潜めて、精市は、とても静かに中央の襖を閉めた。
「お祖母さん? 弦一郎の?」
「うん。俺達が小学校四年生の時に亡くなったんだけど、真田、めちゃくちゃ懐いてて、色々大変だったんだ。で、こういうのがすごい好きな人でさ」
 俺は野菜作りを教わったことのほうが思い出深いけどね、と続けた精市曰く、当時友人だった精市の祖母が、真田家にあった野菜畑や鉢植えの殆どを引き取り、今の幸村邸の庭の一角で、今も花を咲かせたり、実をつけたりしているらしい。

「なるほど。……で、ここは探さなくていいのか」
「お祖母さんの遺品にはエロ本は隠さないだろ、いくらなんでも」
 しかもあの真田が、と苦笑する精市を見て、やはりそういうところはわかっているのだな、と蓮二は感じた。仲が良くないとかただの腐れ縁と言いつつも、彼らには確かに、共に過ごした長い時間があるのだ。

「というわけで、最後はここ!」

 スパン! と最後の襖を開け放った精市に、この遠慮のなさも付き合いの長さゆえだろうか、と蓮二はもはや遠い気持ちで思う。

 ──最後の襖の向こうは、がらんとしていた。

 天井付近に突っ張り棒がしてある上の段に、ハンガーにかけられた上着類が数着。その奥に、小学校の時に使っていたものだろうか、ビニール紐で縛られた、使用感のある教科書やノート類が一山と、卒業アルバムと、卒業証書の筒が一本。
 見てすぐに何もないとわかるそんな上段をがっかりしたように見やった精市は、次にしゃがんで、下段を見た。
 下段もまた、どちらかといえばがらんとしている。──だが。

「……これ、葛籠っていうんだっけ」
「そうだな。葛籠だ」
「……あいつ、雀でも助けたの?」

 くっ、と思わず喉を鳴らして笑いながら言った精市に、蓮二も思わず噴出しかけてしまった。
 葛籠といえば、やはり『舌切雀』である。そして、あの昔話の格好をし、舌を切られた雀を助け、雀の御殿に招待されて、土産に大きな葛籠と小さな葛籠を選ばされる弦一郎というのは、驚くほど想像がしやすかった。異様に似合う。

 そこにあったのは、一抱えほどの箱。葛藤のつるで編み、柿渋と漆を塗って作られる、昔ながらの収納用品である。
 植物のつるで作っているので軽く、通気性に優れ、柿渋と漆の効果で湿度を適宜に保ち、防虫と抗菌の効果がある。きちんと作ったものなら耐用年数は百年以上とも言われ、放り投げてもばらばらにならず頑丈だ。
 火事などの緊急時に粗雑に扱われても内容物を守りやすいため、多くは高価な着物などを入れる衣装箱として用いられるが、とにかく大事なものを入れる箱である。
 がらんとした薄暗い押入れの下段に、艶々とした赤っぽい柿渋色の葛籠があるのは、いかにも大事なものが入っていますよ、と言わんばかりだった。

 そして笑いながら、蓮二はふと、その葛籠の影に、数冊の本などが置いてあるのに気づいた。

(あれは)

 ──『月刊 日本舞踊』である。

 上においてある物のせいで端しか見えないが、あの特徴的な表紙のデザインを、蓮二はよく知っている。
 弦一郎と初めてまともに話した日、彼が本屋で、わざわざ取り寄せてまで購入した、あの本である。間違いない。そして見間違いでなければ、付箋が一枚、本の端からはみ出ている。

「あ! DVDプレーヤーだ、これ」

 本の上に置いてあった黒い塊を手に取り、精市がわくわくした声を上げた。片手で持てるくらいのそれは、確かに、ポータブルのDVDプレーヤーのようだ。

「じゃあこれか。ていうか、これしかないもんね」
「精市、もうやめておいたほうが」

 なんだかあまり良くない予感がして、蓮二は精市を止めようとした。
 根拠は、ない。だが、勘が意外に侮れないということも、蓮二は知っている。
 しかし精市は、あっさりとその葛籠の蓋を開けてしまった。

「……なに、これ?」

 精市は、怪訝な声を上げた。
 その声に、蓮二もまたつい、半ば恐る恐る、葛籠の中を覗き込む。

「手紙……、か?」

 そこにあったのは、たくさんの封筒だった。

 大方は白色、時に薄桃色の長四サイズ封筒。どれもが刃物で丁寧に開封され、その口を上向きにして、数通ずつゴム紐などで縛られて整理されている。そしてその全てに、数枚ずつ畳まれた紙が入っているのがちらりと見えた。

 その数、何十通どころではない。何百通にも達するだろう。
 これは少し、異様な光景だ。精市が怪訝そうにしたのも、無理はない。

「また、お祖母さんのかな?」

 そう言って、精市が手を伸ばそうとした、そのとき。
 蓮二は、背筋に冷たい刃物を押し当てられたような怖気を感じた。

「──触るな!!」

 突然の大音量に、きぃん、と、耳が傷んだ。
 頭がくらりとして、目眩まで引き起こしてくる。それほどの声。

 その目眩を堪えて、蓮二は、後ろを振り向く。
 そこには、縁側を通って来たらしい、剣道着姿の弦一郎が立っていた。

「弦一郎」

 蓮二は、呆然と言った。

 ──怒っている。

 ということは、蓮二でなくても、いや、誰にでもわかる。
 庭に背を向けて立っているせいで逆光になり、あまり目が光に強くない蓮二には、彼の表情はよくわからない。
 だが両の拳はこれでもかと握られ、ぶるぶると震えてさえいたし、肩は上がり、大きく息をしているせいで、胸がふうふうと膨らんでいるのがわかる。ぎし、と、歯を食いしばる音も聞こえた。

「やめろ、それに触るな!」
「ええ、何だよ? これそんなに大事な──」
 弦一郎の剣幕に軽く精市が、何か言おうとする。だが、

「触るな、──触るな! 出て行け!」

 声変わりの終わりかけの掠れた声が、喉が破れそうなほどに張り上げられた。

 それから何を言っても、弦一郎は「出て行け」と言うばかりで、とても話にならなかった。精市はもちろん、蓮二が何か言おうとしても、同様である。
 まさに取り付く島がない、聞く耳を持たぬといった様子の弦一郎に、精市は気まずさとともに機嫌を損ねてむくれ、蓮二は新しい友人のそんな有り様に、珍しくもおろおろとした。

 しかし何度か出て行けと怒鳴られて、これ以上はどうしようもないと悟った蓮二と精市は、そのまま自分の荷物をひっ掴むと、弦一郎の横をすり抜け、信一郎や由利たちに手早く挨拶をして、真田家を飛び出した。






「……ただいま」
「おかえりなさい、……って、どうしたの蓮二」

 帰宅の挨拶を告げて居間に入ってきた弟に、蓮華はぎょっとした。
 やや俯き加減で、肩を下げた様子の蓮二は、まさに“しょんぼり”という表現が似合う有り様だった。
 そして、めったに見ないその様子が、土曜日だというのに容赦なく行われるハードな部活によるものではないことくらい、蓮華にはわかる。伊達に、昼ドラのような複雑な家庭で姉弟をしていない。

「……友達の家に行って」
「友達? えーと、精市くんだっけ」
「いや、もう一人の方だ。真田弦一郎」
「へぇ、蓮二、真田さん家に行ったの」
 立海入学とともに一足先に祖父母の家に住み、蓮二よりも一年と数ヶ月早く神奈川に住んでいる蓮華は、このあたりの土地柄の事情にそれなりに詳しい。
 そしてここいらでは有名な真田剣術道場のことも、ちょっとした軍隊レベルに厳しい有名な居合系の剣術道場、という認識で知っていた。

「どうだった? 厳しかった?」
「……姉さん、俺は剣道体験に行ったわけではないので」
 自分の専門分野の話でないと、割と奔放に話題がずれるという癖のある姉を、蓮二はぐったりしつつも軌道修正した。
「例の、藩士のお祖父さんは道場に居られたので顔を合わせなかったが、弦一郎のお兄さんには会った。あとお兄さんの奥さんには昼食も御馳走になって、四歳の佐助君と少し遊んだ」
「そうなの。じゃあ、今度は弦一郎くんもここに呼んだらいいわ」
 と蓮華は朗らかに言ったが、蓮二がますます暗くなったので、蓮華は眉を顰めた。

「ちょっと、何なの。どうしたの」

 さすがにただごとではない、と思ったのか、蓮華はソファで寝っ転がっていた体を起こし、蓮二を隣に座らせた。
 そしてこの、柳家の人間らしく自分と同じ変わり者で、とても頭が良く、全く手がかからないが、実は妙な所で打たれ弱い弟の話を、ゆっくり聞いたのだった。



「謝ればいいじゃないの」

 話を聞き終わった蓮華は、なーんだ、と言わんばかりにあっけらかんと言い、ぬるくなったお茶をごくごく飲んだ。
 その態度が若干癇に障ったのか、珍しくも、蓮二の眉間に皺が寄る。
「簡単に言うな」
「ていうか、謝ってみたの?」
「……すぐ謝ろうとしたが、取り付く島がなかった」
「なるほど」
 さらにしょんぼりと言った蓮二に、蓮華はうんうんと頷いた。

「じゃあ、明日にでももう一回謝んなさいよ」
「それでもだめだったら?」
「また次の日謝るのよ。当たり前じゃないの」
 あんた頭はいいのにそういうところ要領悪いわね、と、蓮華は呆れた声を出した。
「どう謝るかとかいつ謝るかとか、そういう細かいことを考えるからいけないのよ。悪かったと思うんなら、ひたすら誠意を見せるだけの話でしょ」
「誠意か」
 それは大事だな、と、蓮二は深く頷いた。
 その真剣な様子に、蓮華は苦笑する。

「あのねー、友達とは喧嘩してナンボでしょ。喧嘩して仲直りして仲良くなるもんなのよ、友達ってものは」
「やったことがない……。データにない」
「このデータっ子め。知らないわよそんなの」
 蓮華は、無慈悲に言った。

「いろいろ考え過ぎなのよ、蓮二は。男女の駆け引きじゃないんだから」
「う……」
「男の子なんだから、いっそのこと殴り合いでもしたらいいんじゃないの」
「鼻を折られる覚悟をしろと」
「いやそこまでは言ってないけど」

 だがしかし、真田弦一郎と殴り合いをするとなれば、その覚悟は絶対必要であることを、蓮二は知っている。
 そしてあいにく、その覚悟をするとなったら、とても早速明日真田家に顔を出す勇気は出そうになかった。

「別に、殴り合いっていうのはあくまで例えだけど。とにかくあんたのやり方で、真正面からぶつかればいいのよ」
「真正面から、か……」

 むう、と唸って固まってしまった蓮二の頭は、今、スーパーコンピュータよろしく、すごい勢いで回転を始めているのだろう。
 だがその回転をやんわりと止めるように、蓮華は柔らかく苦笑して、そのおかっぱ頭に手を置いた。

「あんたは普段そつがないし、大抵誰とでも上手くやっていけるものね。貞治くんもちょっとホヨッとした感じの子だったし、そういえば、あんた友達とまともに喧嘩したこと無いんじゃないの」
「そう……、かもしれない」
 蓮二は、少し俯いて、記憶を掘り返した。
 一度貞治の眼鏡を割ってしまったことがあるが、すぐに謝ったし、元々換えがいくつもある眼鏡だったので、貞治もあっさり許してくれた。──もちろん、弁償もしたが。
 そうでなくても、蓮二がなにかやらかして、取り付く島もないほど誰かを怒らせるということは、今までほとんどなかった。だからこそ、蓮二はどうしたらいいのかわからないのだ。

「なんだろう……、あんた絶対“いい子”ではないのに、不思議と人を怒らせないもんね……」
「どういう意味だ」
「そういう意味よ」
 蓮華は、弟のおかっぱ頭の前髪をわざわざ掻き分けて、現れた額にべちんとデコピンを見舞った。
「とにかく、明日もう一回真田さんちに行って、謝ってきたら?」
「……そうする」
 大して痛くはなかったが、額をさすりつつ、蓮二は決意を込めて、しっかりと頷いた。



「……それで、姉さんのほうはどうだったんだ」
「ん?」
「見学……、体験。良さそうだったか?」
「うーん」
 蓮華は、ソファの背にもたれて、難しい声を出した。
「うーん、悪くはないのよ。でもやっぱりねえ……」
「そうか」
「金沢とかも見に行ってみようかなあ……。でもなー……」

 うううん、と蓮華は唸り、そして突然、長い両手両足を大の字に広げた。

「あー! 京舞妓になりたぁい!」

 そう叫んで、蓮華はぐったりと身体を弛緩させ、ソファに突っ伏した。

「募集自体は、たくさんあるんだろう?」
「そうじゃないのよ! 私は紅椿さんの弟子になって、『花さと』の舞妓になって、芸妓さんになりたいのよぅ!」

 ──彼女は、高校に行かなかった。

 あの厳しい立海でも上位に入るほどの成績を保っていながら、彼女は進学せず、こうして家にいる。その理由が、これだ。

 柳 蓮華はもともとかなりの和文化マニアだ。
 茶道華道はもちろんのこと、マイナーな香道、三味線なども習い、しかもそれなり以上の腕だ。更には着物や焼き物、骨董などの知識もどんどん取り入れていて、源氏物語や平家物語などのメジャーなものはもちろん、大抵の古文を草書原文で読める。
 その知識の豊富さは、いっそこのまま姉を迎え入れてくれる、そういう系統の大学や研究室があればいいのに、と、蓮二だけでなく、祖父母も、心の底から思うくらいだ。
 実際、蓮華はそれぞれの分野で著名な作家や研究者などに手紙やメールなどを積極的に出し、対等な応答ができているくらいだ。その面々からも、日本に飛び級制度がないことが本当に口惜しい、と評価されている。

 最初は、まだるっこしいながらもこのまま立海大付属高校に進み、そして自分にふさわしい研究室のある大学を探してそこに入学するのだ、と蓮華本人も思っていた。
 だがその、蓮華にとってあくびが出そうな進路を考えなおさせた──、考えなおさせてしまったのは、“上杉 紅椿”。
 京舞の人間国宝にして現役の京芸妓であるその人物と、その舞台を見たことが、今の彼女の現状に繋がっている。

 ──いや、正しくは、もう少し前か、と蓮二は回想した。

 もちろん蓮華はずっと前から“紅椿”の存在も名前も知っていたが、ファンではなかった。
 それは単に日舞まで習い事が追っ付かずに経験がなかったからであり、“紅椿”の舞台のチケットの、あまりの競争率の高さによるものだ。少なくとも、中学生の少女が手に入れられるものではない。

 だが、一昨年。
 国営放送でやっている、『美しき今』という、なかなかの人気番組を、単になんとなく面白そうだからという理由で、蓮華は視聴した。

 以来、蓮華は取り憑かれたように“紅椿”に関する資料を集めて勉強し、DVDを購入してその舞を何十回何百回も繰り返して見つめ、祖父母に頼んで、日舞も習い始めた。
 去年の夏は、東京で毎年行われる、紅椿の舞台にしては安価で、そしてそれだけに競争率の高いチケットを何とか手に入れ、喜び勇んでその舞台を見に行った。

 ──そして、その結果。
 蓮華は“紅椿”と彼女の世界に完全に恋をし、夢中になった。──人生をかけたい、と思うほどに。
 中学卒業間近、彼女は、立海大付属高校には進学しない、と言った。そして、京都の舞妓になる、と宣言したのである。

 少し調べればすぐわかることだが、京舞妓は、中学を卒業してすぐというのが、最も望ましいとされている。
 それは昔ながらの文化と美意識を守るためであり、また、本来なら十八歳からしか働けない未成年を舞妓として立たせることが法律で許されているのも、京都だけだ。
 他の花街では十八歳からしか働くことは許されないし、それ故か、生々しい水商売の実態がどうしても付きまとう。だが、日本の代表的な観光都市として国から保護されている古都は、面子がかかっているだけあって、とても厳しい。

 だから十六歳の蓮華がこの道に入るには、結局、京都の置屋に世話になるしかない。
 祖父母は驚いたが、蓮華がそういう世界をいかに愛しているかということは柳家の人間としてよく理解していたし、京都の舞妓さんならいいんじゃないか、素敵だわ、でもちゃんとしたところを選ぶのよ、と、概ね反対しなかった。
 蓮二もまた、姉が一度決めたことを覆さず、決して投げ出さないでやり遂げるのはよく知っていたし、京花柳界のことをいろいろ調べた上で、姉さんがやりたいというのなら応援する、と頷いた。

 だが唯一、意外ながら、父親が、ひどく難色を示したのである。

 仕事一筋で、結婚と離婚を繰り返し、子供たちとろくに話しもしない父親であるが、実は関心がないわけではなかったらしい、と、誰もが驚いた。
 しかし舞妓や芸妓の文化をろくに理解しようともせず、水商売じゃないかの一点張り。最終的には、銀座のホステスだった蓮華の母親の事を持ち出して暴言を吐きそうになったので、祖父母と蓮二が必死で止めた。
 ちなみに、養母──今の父親の妻である人は、おろおろとしながらも、特に口を出してこない。彼女の本心では良いのではと思っているようだが、夫の剣幕に、とてもそうとは言えないようだ。

 普段の行いを顧みれば無理のないことであるが、蓮華はもともと、自分の父親に、いい印象が全くない。
 だから聞く耳を全く持たない──、持ちたくないのが本音だが、今まで育ててもらった──記憶もないが、学費や生活費を出してもらい、家に置いてもらった恩はある、と考えている。
 また、体面、面子、京風に言えば「顔がさす」ことを何よりも気にする京花柳界に入るには、保護者の同意がしっかり取れていないと話にならない。
 最悪、父親とは縁を切って母親の籍に入り、母親に同意してもらって舞妓になるという手もあるが、あくまで最後の手段だ。母親はそうなったら協力するとは言ってくれているが、それをするとなると間違いなく裁判沙汰になるし、蓮華としては、なるべく母親に迷惑は掛けたくない。

 そのため、蓮華は父親にしつこく京都の文化や花柳界の色々をプレゼンし、舞妓を募集している置屋へ見学や体験に行っているのだが、父親は全く首を縦に振らないし、そして蓮華もまた、本心では納得がいっていない。

 なぜなら、彼女がなりたいのは、単なる舞妓ではない。
 彼女は、人間国宝・“紅椿”のいる、『花さと』で、その道を極めたいのだ。

 蓮華は容姿も良く、基本的な習い事もしているし、日舞も習い始めて一年になる。どこの置屋に行っても、特に問題なく受け入れてもらえるだろう。
 だが『花さと』は舞妓の募集をしていないし、客として行って糸口を掴もうにも、連絡先すらわからない。
 茶道華道の教室を開き、その方面ではそこそこ顔が広い祖父母も出来うる限り協力してくれてはいるが、運悪く、『花さと』に出入りしている者の紹介は得られず、今に至る。

「あー……。人間国宝の弟子っていうなら、お父さんも納得すると思うんだけどなあ……」

 ぐんにゃりと、途方に暮れた様子で、蓮華が言った。
 それには、蓮二も同意である。美意識や文化的な趣味も全くなく、娯楽の一切を嗜まず、本当に仕事一筋の父親であるが、“人間国宝”の肩書の前には、さすがにぐぅの音も出ないだろう。

 ──余談だが、「趣味人・柳家の人間のくせに仕事一筋」と散々言われている父親であるが、もしかすると、仕事こそが彼にとって趣味そのものであるのでは、と蓮二は思っている。

「蓮二、まあダメで元々で言うけど、心当たりがあれば、何か……」
「わかった」

 中学生の弟に言うには、本当にダメで元々という内容である。
 だがしっかりと頷いてくれた弟に、「ありがとう」とちょっと情けない顔で言った蓮華は、そのまままたソファに突っ伏した。
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BY 餡子郎
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