心に欲なき時は義理を行う
(三)
 さて、どうしたものか。

 と、柳蓮二は思案した。
 真田弦一郎に声をかけるのは、簡単である。まず同じクラスであるし、部活も同じだ。それに、蓮二は自分から他人に話しかけることにさほど緊張するタイプではない。
 だが同じクラスといっても、同時にそれ以上の接点もなかった。例えば委員会が同じだとか、プリントを集めなければならないとか、そういう口実だ。
 そういう意味では部活のほうがきっかけが掴みやすいが、彼の性格からいって、あの、息をするほかはとにかく動けと言わんばかりのシゴキの中で呑気に話しかけたら、あまり気を良くしない可能性がある。
 しかも彼は誰よりも早く部活に参加し、誰よりも早く、一人でさっさと帰ってしまうので、すれ違うのもなかなかタイミングが合わないのだ。

(ただ話しかけると、警戒されるかもしれないしな)

 蓮二は自分が、いわゆる“変わり者”と呼ばれる部類の人間であることを自覚している。主な要因は“データ”だが、人生の有り様に等しいこれをやめることはありえないし、周囲から排斥や迫害を受けた経験もその傾向もないので、気にしたことはない。
 だが突然蓮二に話しかけられた人間がびくっとおののくような反応をするのは通常のことで、ただデータを取るのならそれでも構わないのだが、真田弦一郎が秘めるデータを揃えるには、おそらくそれは悪手であるような気がした。
 それはデータマン・柳蓮二らしからぬ単なる勘だが、勘が意外と侮れないのも、またデータのうちである。

 しかし接点は多いのだから、そのうちきっかけが訪れるだろう、と呑気に構えていたそんな頃、そのきっかけは、ある日突然訪れた。



 柳蓮二は、大層な読書家である。
 単なる好みとしては純文学が好きだが、知識を求めて目を通すジャンルは非常に多岐にわたり、多読家であると同時に濫読家でもあった。
 あまりにも読書量が多いので、大概は図書館を利用する。いちいち購入していては小遣いが追いつかないし、買えたとしても、一年も経たぬうちに、自室が本で埋まってしまうだろう。

 それに蓮二は、文字情報でさえあれば、掲載されていたページや段落までも覚えることが出来るという、本人にとっては生まれつき故に当たり前で、世間一般からすれば驚異的な能力を持っている。一度読めば十分なものを、わざわざいつまでも手元に置いておく必要性を感じなかった。
 しかし蓮二の特技はあくまで文字情報にのみ発揮されるものであるので、図版などはその範疇ではない。だから図書館で借りた本の図版ページだけはコピーサービスを利用するのが常であり、画集や雑誌、時折漫画などは、普通に購入する。──本日のように。

 蓮二が購読している雑誌はいろいろあるが、第一がテニス雑誌。ある程度本格的にテニスをしていれば大概が購読しているだろう『月間プロテニス』はもちろんのこと、他の雑誌にも目を通している。

 蓮二は強いテニスプレーヤーというよりは、上手いテニスプレーヤーになりたいと考えていた。精市は神の子などと呼ばれているが、そういう比喩表現を用いるなら、蓮二は例えば達人になりたい。力でもなく、才能でもなく、技術と戦法の巧みさで勝つ選手。
 そもそも蓮二は、三国志では諸葛亮孔明を始めとした軍師たちが大好きだし、小説やドラマでも、現場ではなく会議室で事件を解決してしまうタイプのヒーローが好きだ。
 そんな蓮二のテニスの要は、何よりも情報である。まず練習であろうというのが普通だろうが、蓮二の場合、情報なくば練習の目処も成り立たぬのだ。どういう練習をすれば、己にとって一番効果的か。己を達人へと至らせるプランを練るのが、蓮二は何よりも楽しかった。

 そんなわけで、この日、蓮二は購読しているマイナーなテニス誌を受け取りに、部活帰りに本屋に寄っていた。

 いまどきならインターネット経由の宅配サービスを利用したほうが手っ取り早いかもしれないが、それはクレジットカードが使えればの話だ。
 中学生の蓮二がそれをしようとすると、どうしても親のカードを借りることになる。いちいち申告する面倒を考えれば学校帰りに本屋に寄ったほうが結局手軽だし、書籍のプロである店員と話をするのも、なかなか楽しい。
 それに蓮二は読書家として、本屋、という空間が単に好きだった。

 その本屋はチェーン店ゆえに敷地が広く、品揃えが豊富で、立海大付属中学・高校から近いことを考慮してか、中学一年から高校三年生までの参考書も幅広く取り揃えている。
 代わりに、漫画やファッション誌は最新刊をほんの少ししか置かないが、学校に近いという立地の強みと、品揃えを理由とする万引きの少なさ、客層の固さからか、店員も穏やかで、マイナーな本の取り寄せを頼んでも嫌な顔をしない。
 利用しやすく居心地のいい店舗だ、と蓮二は気に入っている。

 そして本を受け取ったあとは、読書家なら誰でもやる至高の時間、ウィンドウショッピングならぬ、カバーショッピングとでもいおうか。何か興味深いものはないか、と、美術館の絵を眺めるように、蓮二は平積みにされた表紙の群を眺めた。
 そんな時、ポォン、という、ピアノの音にも似た、入り口の自動ドアが開くときの通知音が響く。

 おや、と、蓮二は少し目を見開いた。
 蛍光灯の光を多く取り込んだ視界で、蓮二と同じ、立海の濃緑の制服を着た真田弦一郎が、背筋をまっすぐに伸ばした歩き方で、しかし静かに店内に入ってきたのだ。

 彼もまた、本を読む人種であることを、蓮二は知っている。例えば休み時間などの開いた時間に、ブックカバーをつけないままの文庫本を読んでいるところを、何度も見かけているからだ。
 タイトルは決まって歴史物で、戦国か幕末ものが多い。蓮二ほどではないが読書スピードは割と早く、一ヶ月で厚めの上中下巻を読みきっていた。
 さて、ならば新しいものを買いに来たのか、それとも参考書など求めに来たのだろうか、それとも意外に漫画の新刊か。

「──すみません、取り寄せをお願いしていた本を受け取りに来ました」

 己の“データ”の分析結果が見られる瞬間でもあると、どこかわくわくしながらこっそり見守っていた蓮二の予想は、驚くべきことに、全て外れた。
 いや、彼の読書量から予想して、読みたい本を取り寄せる、という行動自体は、あり得ることだ。しかし店員が「こちらでよろしいですか」と確認のために提示した本は、まったくもって蓮二が予想していないものだった。

 ──『月刊 日本舞踊』。

 とある書道家に依頼したというデザインの刊名が踊るその雑誌を、蓮二は知っている。姉が購読しているからだ。
 だがそれだけに、あの雑誌がなかなかにマイナーで、知る人ぞ知る類のものだということも知っている。
 観劇趣味のためのガイドブックの類の雑誌は割と数あるが、『月刊日本舞踊』は、どちらかといえば日舞やそれに関わる職業、またその稽古に励む者のための情報が掲載されている。発行部数が少ないので、発売前に予約をしないと手に入らないこともあるのだ、と姉が言っていたのを思い出す。
 しかし、その表紙を二秒ほど確認した真田弦一郎は、確かに、と言わんばかりにしっかり頷いた。

(日舞をやっている、のか?)

 家が剣術道場ならば、習い事として和風のものを選ぶこと自体は、不自然ではない。だが日舞と真田弦一郎のイメージがどうも結びつかず、蓮二は己の頭脳にあるデータを、もはや癖のように洗いなおす。
 だがそうしている間に、彼はさっさと精算を済ませ、他の本を見ることもなく、店を出て行ってしまった。

 そして蓮二もまた、見ていた本を丁寧に元の場所に置き直し、少し早足で、同じように店を出た。



(歩くのが、速いな!)
 ハードな部活をこなし、生真面目に持ち帰る重い教科書類の詰まった鞄に加え、ラケットバッグを担いでいるはずの真田弦一郎の歩みには、ほとんど疲労が見当たらない。背筋はしゃんと伸びており、大きめの歩幅で、ずんずんと歩いている。
 少しでも油断すれば、見失ってしまいそうだ。蓮二は少し息を上げ、彼の歩みを追いかけた。

 そのまま帰宅するのかと思いきや、彼が足を向けたのは、文具屋か画材屋か、それとも雑貨屋か、蓮二にも判断がつかない、しかし個人経営とすぐわかる、少し年季の入った店だった。
 ショーウィンドウには、結構な値段が提示された、レトロな感じの製図台や地球儀などがディスプレイされている。光で商品の劣化を防ぐためだろうか、店の外から見えるところには、ほとんど商品を置いていない。

(へえ)

 足を踏み入れた店内に、蓮二は感嘆した。
 品よく陳列されている商品は、例えばペーパーナイフ、ペーパーウェイト、レザーのブックカバー、金属や革で出来た抜き型の栞、封蝋、便箋や封筒。凝ったデザインの蔵書票や、スタンプなどもある。ガラスのショーケースの中には、ブランドもののボールペンや万年筆などがディスプレイされていた。
 壁際の大きな棚には、レトロ調、アンティーク調の書類棚や、昔の図書館で貸出票を仕分けするような、金属のラベル枠付きの、小さな引き出しが沢山ついたチェストなども置いてある。
 文房具店、と単に言ってしまうのは野暮とわかる、高級感とこだわりが溢れるステーショナリー用品たち。陳列にも個性があり、値札の紙や書体もいちいち洒落ていて、趣味が高じて店を出したのが、見てすぐ理解できるような店内だった。
 そしてそれは、本を愛し、図書館や本屋に親しみを感じる蓮二にとっても、ちょっとわくわくする空間でもある。

「緑や青なら、明るい色でもいいと思うよ。綺麗だしね」

 静かな男性の声がして、蓮二は、単なる知的好奇心に引きずられそうになっていた意識を立て直した。
 声のしたほうには、精算を行うのであろう、レジ台というには大掛かりなカウンターがあった。支払いをする台はガラスのショーケースにもなっており、おそらくひときわ高価なのだろう万年筆や、宝石のようなペーパーウェイトなどが収められている。
 そして、そんなショーケースを挟んで話しているのが、先ほどの声の主であろう、白髪を撫で付け、小さな老眼鏡をかけた紳士──いかにもこういう趣味の店の店主、という感じである──、と、真田弦一郎であった。

「緑、ですか」
 彼の声もまた、この店内に見合って、行儀よく小さい。あの不良たちを竦み上がらせた、明王の怒号のような声が嘘のようだ。
「うん、フォーマルな手紙を書く場合なんかは失礼とされる色だけど、そうじゃないなら全然構わないと思うよ」
 いつの頃だったか、緑のインクでラブレターを書くといいとかって女の子の間で流行ったりもしてたねえ、と店主は懐かしそうに言った。
 そんな昔話に律儀に頷きながら、弦一郎は並べた小瓶を見比べている。
「この黒っぽい青は、よく見ます」
「ブルーブラックは、どのメーカーも出しているスタンダードな色だからね。黒より目に優しいし、正式な書類にも、何にでも使える」
 彼らの間に並べられた小瓶がインクであろうことは、蓮二にもわかっている。そして一般常識として、インクが書き物をするためのものであることもわかる。
 だが瓶に入った液体状のインクを具体的にどう使うのか、蓮二はすぐに思いつくことができず、ただ彼らの会話を黙って聞いていた。

「そもそも万年筆インクのブルーブラックは」

 偶然だろうか、まるで蓮二の疑問に補足するように店主が言った。
 ああなるほど万年筆か、と蓮二は納得する。蓮二の祖父も万年筆を持っているが、カートリッジごと取り替えるタイプのものなので、すぐに思いつかなかったのだ。
 直接インクを吸入して使うコンバータ式のタイプこそが元祖、ということは知っていたが、実際に見たことはない。
 だが、それを実際選んでいるということは、真田弦一郎は、祖父ですら面倒がって使わない、古式ゆかしい万年筆を愛用しているのだろうか。

「第一鉄イオンが酸化して、第二鉄イオンに沈殿することを利用して作られている」
 貞治が好きそうな内容だな、と思いつつ、蓮二は講義に聞き入った。
 だが中学一年生にはさすがに難しい内容に、弦一郎は「はあ」と、やや困惑した声を上げている。
「つまり、無色透明の酸化鉄溶液を万年筆に入れて文字を書くと、書いたときには透明だが、しばらくすると酸化作用によって黒く文字が浮き上がってくる、という現象が起きるわけだよ。スパイの七つ道具の逆みたいに」
「へえ……」
 そう説明されると理解出来たのか、弦一郎が頷く。
「でもそれだとインクとしては不便なので、目に見えるように、青の染料を混ぜた。だから書いた時点では青と黒の間のような色合いなんだけれども、時が経つと、水にも強くて消えにくい黒だけが残る。これが本来のブルーブラックの組成」
「なるほど」
 と言ったのは弦一郎であるが、蓮二も同じことを思った。

「そして万年筆のインクは、染料型と、顔料型と、混合型がある」
 素直な生徒に気を良くしたのか、生粋の趣味人の店主──なにしろ趣味人の家系の柳家の人間である蓮二は、そういう人種を見分けるのには殊の外自信がある──、は、興が乗った様子で続けた。

 染料型はその名の通り染料を使っているので、水に溶ける。だから滲みやすいし、乾きもあまり良くない。しかし成分が沈殿しないし、インクかすが出ない。染料だから色を混ぜて楽しめるし、色彩が豊かで発色もいい。ペン先の腐食が少ないという利点もある。
 顔料型はカーボンブラックを使うのが殆どで水に溶けないため、色落ちや滲みの心配はないが、色は黒かブルーブラックがほとんど。インクが固まりやすいので、インクの保管や、これを使った後の万年筆の手入れが難しい。
 混合型は染料と顔料、化学薬品との混合インク。万年筆のペン先や紙、何より使う人の好みなどの相性があり、合うものに出会えるまで、試行錯誤が必要。

 そのため、お気に入りの万年筆を楽しく使いたいというのなら染料型、滲んでは困る大事な書類を作成するというのなら顔料型。試行錯誤も楽しむ覚悟で合うものを見つけるつもりなら、混合型を買ってみるのもいいだろうね、と、店主は説明した。

「まあとにかくそういう特色があるので、年を取ると、顔料タイプで、なおかつブルーブラックばかりを使うようになる、というわけだ。まあ、ブルーブラックはメーカーによって黒と青の具合や発色がかなり違うから、その微妙な好みを探すのが大人の楽しみ方、というところかな」

 ──奥深い。

 弦一郎もそう思っているのか、深く頷いている。そしてそのまま、滲みにくく、大人が使うブルーブラックの瓶を手に取った。
「だからねえ、若いうちだよ、色々遊べるのは」
 だがその時店主はそう言って、静かに、色鮮やかな染料インクの瓶を前に出した。正式な書類にはとても使えないだろう、しかし美しく、自由で伸びやかな色たち。オレンジ、紅色、空色、群青、紫、緑、ピンク色まである。

「手入れがしやすいから、最初は染料型をお勧めするよ。今使っているのもそれだろう?」
「はい。しかし……」
「背伸びをしたいのもわかるけどね」
 店主は少し、にやにやしている。
「最初から格好つけようとしないほうがいいんじゃないかな? 傍から見ると、かえってそれが格好悪かったりするものだ」
「……む」
「いやまあそれも思い出になるけどね、なんというか、しょっぱい感じで」
 弦一郎は小さく唸り、そして、少し迷うようにしてから、ことりと小さな音を立てて、お固いブルーブラックを置いた。

「……染料型にします」
「それがいい」
 少年の決断に、紳士は満足気に微笑んだ。

「インクが滲むこともあるだろう。でもそれも、味というものだよ。練習次第でどうとでもなるし」
「はい」
「色はどれにする?」
「……では、緑で」

 そう言って、弦一郎は、鮮やかな緑のインク瓶を手に取った。

「もう桜も葉桜ですし、初夏の頃ならなおそれらしい色だと思います」
「こりゃあ、風流なことを言うねえ」

 店主が、穏やかながらも驚いた様子でコメントしたが、蓮二はもっと驚いていた。
 その季節らしい色、という美的感覚。例えば祖母や姉が服やらなにやらを選ぶときに、そういうことを言うのを、蓮二もよく聞く。暑い時には涼しげな色を、寒い時には暖かな色を選ぶ感覚は、自然なものではあるだろう。

 しかしそれを、インクの色で、しかも不良を大声あげて投げ飛ばすような同い年の少年が、ごく自然に、さらりと口にしたのだ。
 それまで蓮二は、桜が散って葉桜になっていることなど、わかっていても、特に感じ入って気にしたこともなかったというのに。

 弦一郎がどんな顔をして今の発言をしたのか、彼の後ろ姿しか見えない蓮二には、わからない。
 だが蓮二は、日誌に書かれた、彼の字を思い出していた。ただ整っているだけではない、味のある文字。
 なるほど、あの字を万年筆で書くなら、おそらく滲みも味のひとつになる気がするな、と蓮二は思った。しかもその色が、みずみずしく鮮やかなあの緑であれば。

 ──風流。まさにそれだろう。

「紙は、この間買ってくれた、あれかな」
「はい。そろそろなくなりますが」
「早いなあ! じゃあ、新しいのを買っていくかい?」
 なるべく滲みにくいやつ、と店主がどこか面白そうというか、楽しげに尋ねるが、弦一郎は小さく首を振った。
「いえ、……使いきってからにします。書き味も試したいですし」
 そうかね、と店主は言って、レジを操作し、緑のインクを精算した。そしてストライプ模様が入った、薄茶色の油紙の袋に商品を入れて、弦一郎に手渡す。

「お買い上げありがとう。──ところで、さっきからいる彼は友達かな?」

 小さな老眼鏡越しの、どこか悪戯っぽい紳士の視線を受けて、蓮二はつい背筋を伸ばす。

「──柳?」

 後ろを振り返った弦一郎の目は、丸く見開かれていた。
 どうやら名前は覚えてもらっているらしい、と蓮二は“データ”に書き加えつつ、「やあ、真田」と、初めて彼と向き合った。
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BY 餡子郎
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