心に欲なき時は義理を行う
(二)
蓮二が東京から神奈川に来て、約一年半。
そして立海大付属中学に入学して、そろそろ一ヶ月が過ぎようとしている。
「おはよう」
「やあ……、おはよう蓮二」
朝練のために更衣室に荷物を置きに入った時、挨拶を返してくれたのは、幸村精市だった。赤く腫れた目元と、白いマスク。そしてその中から聞こえる、ずび、と鼻をすする音が痛ましい。
「今日もひどそうだな、花粉。無駄とも思うが、目をこまめに洗ったほうがいいぞ」
「そうするよ……」
ウウ、と唸って、まだ真新しいジャージに着替えた精市は、よろよろとして、鞄から市販の人工涙液のボトルを取り出し、キャップを取り外した。
つい先々週くらいの頃、はじめて花粉症を発症してしまった彼は、目の痒みとくしゃみ、滝のように流れる鼻水という凄まじいハンデと闘いながら、それでも、立海大付属名物、新入部員に対する基礎練地獄というシゴキに耐えている。
蓮二も体験したことだが、まず課せられるのは、果てのないような走り込み。吐くまで走らされ、吐いたら怒鳴られ、怒鳴られたあとは筋トレと球拾いが待っている。
神奈川ジュニアチャンプという鳴り物入りで入部してきた彼が、どれだけの実力を見せつけてくるのか──、と、同時入部した一年生も、待ち構えていた二、三年生も戦々恐々としていたのだが、実際はこの有り様である。
試合をすれば評価は全く変わるのだろうが、男子校、軍学校だった頃の名残色濃い年功序列制度のせいで、入学して一ヶ月程度では、コートに立つことすらろくにさせてもらえない。
だが、すでにこのシゴキに耐えかねてリタイアしていった新入部員が半数にも登ろうという中で、実に大したものである。
「杉なんか絶滅してしまえ……」
目を洗った精市は、呪詛のような、恨みがましい声で言った。
地獄の走り込みにやっと慣れてきたと思ったら今度は突然花粉症になってしまったのだから、気持ちは察して余りある。
だが精市と蓮二がこうして親しく話すようになったのも、この花粉がきっかけだ。
精市は最初、自分の症状を風邪だと思っていた。いやそれは花粉ではないか、と教えたのが蓮二である。
蓮二としては、神奈川ジュニアチャンプという彼が花粉のせいで何もできなくなっているのが痛ましく、つい、声をかけた。立海に入学して、彼のテニスを見るのを楽しみにしていたのに、という感情もある。
蓮二の実母がひどい花粉症なので実際の対処は知っていたし、“データ”も十分だ。何をどうすれば少しは楽になるのか、どんな薬やケアが効くかなどを教えると、精市は蓮二にいたく感謝した。
もともと、この地獄の中で共に生き残っている同士という一体感もあり、以来、精市、蓮二、と呼びあうくらいになった。
蓮二にとって、精市は新しい土地に来てから一番すんなりと仲良くなった、気の合う友人だ。蓮二の“データ”に関しても、凄いなと腫れた目を輝かせ、なら俺のデータも取ってよと言うので、遠慮なくそうさせてもらっている。
「そうだ、精市。花粉症には蓮根が効くようだぞ。人にもよるが」
「蓮二だけに。蓮根」
くだらないことを言って、ふふ、とマスクの下で笑う精市は、だいぶやばそうだ。それでも今日の朝練、そして放課後の部活も最後までやり遂げるのだろうことを、蓮二は知っている。
「ありがとう、家に帰ったらむさぼり食べるよ」
「程々にな」
朝練中、精市は一年生の中で一番つらそうな様子だったが、それでもやはり最後まで倒れずにやり遂げた。
蓮二もまた、まだまだつらいがいくらかは慣れてきた感触に満足を覚えつつ、汗を拭って水分を補給し、ジャージから制服に着替えて、教室に向かう。
「おはよう」
と挨拶をすれば、近くにいたクラスメートが、ぽつぽつと挨拶を返してくれる。自分の席につき、ホームルームが始まるまで、教室を眺める。
クラスメートの名前と顔は、もうすでにすべて把握している。今はそれぞれの所属や成績、性格、あらゆる“データ”を収集しているところだ。
さすがに全校生徒2677名プラス教師や事務員などの“データ”を同時に取るのは不可能だが、こうして毎日観察できる自分のクラスに限っては、今月中に、ほとんどの“データ”が揃う。
蓮二は知的好奇心が飛び抜けて強く、それを満たすために生きていると言っても過言ではない。
趣味に人生をかける柳家の血をことさら濃く引き継いだ蓮二にとって、“データ”は生きる指針であり、また周りの人々こそが、その“データ”そのものだった。
幼馴染の乾貞治も“データ”の虜である同士であり、しかし彼は何もかもを数値化したそれにこだわる。それも“データ”の一種だが、同時に一種でしかない、と蓮二は考えていた。
端的な言い方をすれば、理系的な捉え方をするか、文系的な捉え方をするかの違い。蓮二も貞治も、実際は、もっと奥深いものだと考えてはいるが。
単なる知識なら、本を読み、資料を集めれば済む。だが今そこに生きている人々の心、考え、信念、感情。しかも刻一刻と変化し、成長し、次の瞬間には消えている時も、爆発したかのように突き抜けることもあるそれらに、蓮二は魅入られ、恋にも近い気持ちを抱いているのだ。
そしてテニスは、そのデータを活かして、様々なことができるスポーツだ。
もちろんテニスそのものも好きなのだが、蓮二にとって、テニスは、己の“データ”の有用性を確かめるための、この上ない実験場だった。
実験では、より断定的な結果を出すために、様々なツールが使用可能なことが望ましい。だから蓮二は自分のテニスの腕を磨き、主にテクニックを重点的に鍛えた。色々なショットが打てれば、実験の幅が手っ取り早く広がるからだ。
様々な情報をすり合わせ、分析し、どうすれば勝てるか、どうやれば負けるかを導き出し、それを多彩な方法で実践、実験する。強い者ほどデータの取り甲斐があり、攻略が楽しい。
蓮二はそうしてテニスに魅入られ、テニスに没頭し、ここまで来た。
そしてそんな風だからこそ、蓮二は自分でコートに立つのと同じくらい、強い選手の試合を見るのが好きだ。
立海に入学したのも、それが理由だ。単にテニスの強豪校だというのもあるが、それだけなら、青春学園や、氷帝学園、他の学校はいくらでもある。
蓮二が立海を選んだのは、まず上級生にあたる選手のデータに加え、神奈川ジュニアの主席と次席が揃って入学するという“データ”を手に入れたからである。
「──おはよう」
少し掠れた、低い声。
声変わりの終わりかけと思われる声は通りが良くないはずだが、それでも、すとんと空気を切り裂いたように、誰の耳にもよく届いた。シン、と一瞬教室が静かになったのは、気のせいではないだろう。
おはよう、と、蓮二の時より少なめの返答がいくつかある中、彼は何も気にしていない様子でまっすぐ自分の席に向かい、椅子であるのに、まるで座禅でも組むかのように、ずっしりと腰掛けた。
──真田 弦一郎。
蓮二と同じテニス部員であり、精市とともに、蓮二が立海入学を決めた要因の一人。
そして彼は、あの地獄のシゴキを、最初から、けろりと、とまではいかないにしろ、嘔吐もしなければろくに休憩も取らずに黙々とこなした、極少ない人物でもある。
今日とて、誰よりも早く朝練に参加し、黙々と走って筋トレを終え、コートの外まできびきびとボールを追いかけていた。
小学五年生の時、神奈川に引っ越してきて間もなくの頃、たまたま姉に連れられてきたテニススクールで、蓮二は真田弦一郎を見たことがある。
彼はなぜか剣道着姿で、長い髪の女の子に、丁寧にテニスを教えていた。
彼は年上の不良に絡まれていて、ハンデともいえないような妨害付きのテニスを挑まれ、それでも勝った。
その様子があまりに痛快だったので、いいものを見せてもらった礼代わりに、逆上して彼に殴りかかろうとするところを、こっそり止めたりもした。
その後、次席でああならば主席はどうなのだろうかと大いに興味を持ち、蓮二は精市のこともリサーチした。
さすが主席だけあって精市は弦一郎に負けなしだが、蓮二は、その単なる勝敗よりも、彼らのテニスのあり方の違いの方に興味を惹かれた。
喩えるならば、龍虎。
全く違う場所で生き、全く逆の生態を持つ者同士の戦い。
真田弦一郎が幸村精市に勝てないのは、彼が精市よりも弱いせいではない、と蓮二は分析する。
実際、弦一郎は精市より握力も腕力も、体力もある。体格でも勝っているし、練習量がものをいう、堅実なテクニックも備えている。そういう、数値的な面だけ見れば、弦一郎が勝ってもおかしくはないのだ。
だから彼が勝てないのは、彼が弱いのではなく、彼のテニスのあり方が、精市のテニスに勝つための要素を満たしていないからだ。
そしてそれは、彼のテニスが進化することで、覆される可能性がある。天に君臨する龍を、険しい山の頂上まで辿り着いた虎の爪が引きずり下ろすように。
──そして立海に入学し、蓮二が一年ぶりくらいに見た真田弦一郎は、少し雰囲気を変えていた。
以前見た時の彼はひたすらエネルギーが迸っていて、集中力は凄いが全速前進のみ、というような印象があった。
しかし、真新しい立海の制服を着た彼は、そのエネルギーをきちんと自分の中に収め、注意深く、ひとつひとつのものを見渡している様子が見て取れた。
──そして、入学して一週間そこそこの頃。
彼は、蓮二が初めて彼を見た時と同じように、いわゆる不良と呼ばれる人種のグループに絡まれたことがある。
見せしめにしようという意図か、わりと人目の多いところで、真田弦一郎は、頭髪を染色し、ピアスをいくつも開け、ズボンをずり下げる限界に挑戦しているような上級生に声をかけられ、威圧的な言葉とともに囲まれた。
立海は受入人数の多さゆえに入試は比較的簡単だが、入学後の授業は他の学校よりも難しく、二年生からの選択科目にも、フランス語やドイツ語、経済学など、公立中学ではまず無い科目が多くある。
更に赤点のラインも高く、だからこつこつまじめに勉強しなければついていけないのだが、それができず、こうして脱落した挙句にぐれている連中が、一定数存在するのだ。
そして、言っては悪いが、真田弦一郎の容姿は、良く言えば凛々しく、悪く言えば険しい。もっと悪く言えば、ああいう人種にとっては、喧嘩を売って歩いていると取られてもおかしくない顔つきをしている。かつても同じような状況になっていた事実からして、実際、彼は不良に絡まれやすいのだろう。
だから傍目にその状況を見ても、蓮二を含めて、誰もが、気の毒になという気持ちと、ああやっぱりな、という感想を同時に抱いていた。
だが今からリンチまがいの目にあわされそうな状況にもかかわらず、彼の表情は眉間の皺が深くなったくらいで、つまりまったく“びびって”いなかった。
まるで、餓鬼に囲まれて堂々と立つ明王のような佇まいだった、と、たまたま近くにいた蓮二は回想する。
その態度が気に食わなかったのだろう、国語の成績はさぞ悲惨なのだろうと易易察せられる語彙でもって、面々は威嚇を始めた。
それでも真田弦一郎は沈黙を守ったが、ばしっ、と音を立ててリーダー格の上級生が彼の頬を叩いた瞬間、空気が変わる。
「ふん、やりおったな」
妙に時代がかった、そして重々しく、堂に入った声だった。
「ハァ!? マジクソ生意気な一年だな!」
唾をまき散らしながら、上級生が怒鳴る。そして更に、もう一度、バシッと彼の頬を叩いた。先程より明らかに大きな音に、うわっ、とか、きゃあ、といった声が周囲から上がる。
だがそれでもやはり、真田弦一郎の態度は変わらなかった。
「二度。そろそろやめておいたほうがいいと思うが」
もはやふてぶてしいくらいのその台詞に、上級生はいまどきの若者らしく、揃って“キレ”た。日本語で表現できないような怒声を上げた誰かが、とうとう拳で殴りかかる。
誰か、先生呼べ、という声がした。
「……三度目か。この」
掠れているせいで、獣の唸りのように聞こえる低い呻き。
見れば、殴りかかった拳は、弦一郎の片手で、しっかり掴まれて止められている。
──そして。
「──痴れ者がァ!!」
時代劇顔負けの古めかしい台詞の大声とともに、彼が、まさに電光石火の早技で、拳を掴んでいた手を軸にして、上級生を見事に投げ飛ばした。
あまりに綺麗に人が宙を舞ったので、その場にいた全員が呆気に取られる。
「この野郎!」
衆目は割と長いこと呆けていたと思うが、さすがに喧嘩を売った当人はそうも行かないようで、貧しい語彙の罵声とともに、次々に彼に殴りかかった。
しかしある者はみぞおちに見るからに重そうな拳を食らい、ある者はまた投げ飛ばされ、ある者は電撃の如き平手を食らい、最後の一人は顔面を掴まれて、悲鳴をあげていた。
あの痛がり方や、抵抗を受けてもびくともしない様子から推測するに、おそらく握力60キロぐらいあるのではなかろうか、と蓮二は妙に冷静に思った。
蓮二もまた、遭遇したことのない事態に、少し混乱していたのかもしれない。
「くだらんことで喧嘩を売るな! 上級生だ敬えというならせめてそれらしくせよ!」
まったくもって正論。
奉行のお沙汰のごとき朗々とした声を響かせた彼は、顔を掴んでいた上級生を、地面に払い落とすように離す。
そして、痛い、うええ、などと情けない声を上げ、誰一人として顔を上げてこない彼らを一瞥すると、カッと目を見開いた。
「──たるんどる!」
ドォン、と、和太鼓の幻聴が聞こえた気がしたのは、蓮二だけではあるまい。
それからすぐに、厳しいと評判の生活指導の教師が飛んできた。
だが教師の顔を見るなり「お騒がせして申し訳ありません」と、まだ立海は軍学校だったかと錯覚するような直角のお辞儀をしてまず詫びた、第一ボタンまできっちりネクタイを締めた弦一郎と、普段から問題がある、倒れた調子に完全にズボンが脱げ、パンツどころか尻が半分出ている不良、どちらが悪いのかは明らかだった。
その上、多くいたギャラリーの誰もが上級生のほうが理不尽なちょっかいを出したのだということ、また上級生は弦一郎を三度も殴ったが、弦一郎は彼らに一度ずつしかやり返していないことがわかれば、もう審議の必要もない。
とどめに、弦一郎は証言をしてくれた面々にその場でまた直角のお辞儀をし、「騒がせた。協力を感謝する」と言ったので、彼に対する皆の評価は、「やたら肝の据わった、喧嘩の強い、しかし礼儀正しく、だが近寄りがたい」という、好印象なのか悪印象なのか、よくわからないもので固まった。
ちなみに翌日、上級生らは全員停学処分になり、弦一郎にお咎めはなかった。
──以来、蓮二は、このクラスメートに改めて注目するようになった。
いや元々注目はしていたが、テニスのことだけでなく、その人柄というか、キャラクター、振る舞いに興味を惹かれたのだ。
真田弦一郎は、あまり喋らない。
挨拶はきちんとするが、世間話や雑談を誰かとしているところは見たことがないし、目撃証言もない。
同じ神奈川第一小学校の出身者に話を聞けば、彼は当時から、知らない者はいないくらいの有名人だということがわかった。
実家は廃刀令の頃から存続する剣術道場で、道場主である彼の祖父は元警察官、居合藩士として、その道では誰もが知っている人物だ。
さらに、師範として剣を振るうこともあるという母親は陸上自衛隊で長く教官をやっており、父親もまた自衛官だという。
真田剣術道場では、居合道を深く取り入れた独自の流派を教えており、望むものには憧れの地だが、そうでなければ、凄まじく稽古が厳しいので有名だった。よって、
「小さい時、悪い事すると、“真田さんの所で根性叩き直して貰うよ!”って、母親とか先生に脅されるんだよ。あの辺りじゃ、みんな言われてるよ、多分」
ということらしい。
まるで明王を崇めるが如き有り様だな、と、不良に囲まれて堂々と立っていた弦一郎の姿を回想しながら、蓮二は思った。頼りにされ、畏れられ、しかし間違いなく愛され、敬われている。
そしてそんな道場の次男坊であり、物心つく前から誰よりも厳しく育てられた弦一郎もまた、同じように扱われているのだった。
決して悪い人間ではない、むしろ真面目すぎるほど真面目で実直誠実、だがどこまでも厳しく、喧嘩になればどちらかが病院送りになるまで徹底して決着をつけようとするので、親しく付きあおうとすると覚悟が必要、よってあまり近寄る人間はいない、という具合だ。
今ここ立海でも、先日の一件をきっかけにして、そういう空気が出来上がっている。
弦一郎が挨拶をすれば、みんな挨拶を返す。しかしそれには一瞬怯むような間があるし、自ら率先して声をかけようとする者は皆無である。
あの礼儀正しさや真面目さ、きちんと礼を言って頭を下げる振る舞いからして、気に入らなければ暴力に訴えるなどということはしないと皆わかっているのだが、上級生をあっという間に畳んで潰したとなれば、そんな勇気はなかなか出ない。
使わないとわかっていても、凶器を持っている相手には、どうしても怯んでしまうのは、しかたのないことだろう。
だがその当人はといえば、そんな扱いを気にするわけでもなく、黙々と学校生活を送っているようだった。
授業態度は模範的で、何事にもまじめに取り組む。教師に当てられて答えられなかったことは一度もなく、宿題を忘れてきたこともない。その様子からして、予習復習をきっちりしていることが伺える。
昼食はきまって学食、いつも一人だが、それをどう思っている風でもなさそうだ。ほぼ作業的に、そして豪快だが行儀よく昼食を終えると、余った時間は何か本を読んでいる。時代小説が多いようだ。
部活では、めきめきと体力が付いて行っているのが、目に見えてわかる。本人もそれがわかっているのか、信じられないことに、地獄のシゴキ以上のことを自主的にやることすら出てきている。
真田弦一郎は、嫌われているわけでも、孤立しているわけでもない。
だが、たった一人で学校生活を送っている。
唯一親しかろうと思われるのが、幼馴染であり、数年にわたって神奈川ジュニアの主席と次席をそれぞれ守ってきた精市であろう。
しかし、真田弦一郎とはどういう人間かと彼に話を聞いた時は、まず仲がいいということを否定した上で、
「真田? 見た通りのやつだけど」
曰く、糞真面目すぎて融通が効かない。
曰く、体力馬鹿。
曰く、喧嘩っ早い上に、そうなると容赦がない。
「俺なんて、鼻の骨折られたことあるんだよ。信じらんない」
救急車呼んだんだよ、と、精市は、一度折られたとは思えぬほど美しく通った鼻筋──今は花粉にやられて真っ赤になっているが──を逸らして言った。
蓮二が“データ”を集めていることを知っている精市は、他にも色々な、知る限りのことを親切に、そして大安売りで教えてくれた。
例えば家族構成、家の場所、好きなものや嫌いなもの。そこまで色々知っているくらいなのだからやはり親しいのではないのか、と言うと、あまり嬉しくはなさそうな顔で、「よく知ってるだけだよ、仲良しではないね」と言った。
──よくわからない。
このあたりはもっとデータ収集が必要だな、と、蓮二は分析を中断した。
今の時点で蓮二が分析した所、真田弦一郎は、見た通り、評判通りの人間である──、という精市の意見も、事実であろう。
実際彼は糞真面目で、あまり融通もききそうになく、体力は群を抜いており、喧嘩も強い。
だが彼には、それ以上の何かがあるのではないか、と、蓮二はどうしても感じ、興味を逸らすことができない。
周りから腫れ物にさわるような扱いを受けても全く気にしていないマイペースぶりや、喧嘩が強いのに、三発殴られるまでじっと耐えて様子を見た冷静さ。
ただ喧嘩っ早いだけでは、ああはいくまい。彼は喧嘩っ早いというより、おそらく、喧嘩慣れしているのだろう。上級生をそれぞれ一発でダウンさせるのも、つまり、人を殴り慣れていないと、程度の加減が難しい。
あれほど“慣れる”まで、どれほど喧嘩をしてきたのか、と思うと、確かにそれはそれで恐ろしいところはあるが、蓮二の中で、その恐れよりも興味が勝った。
それに、これほど近寄りがたいと遠巻きにされている彼が、二人っきりで、初心者の女の子にテニスを教えている現場を、蓮二は見ているのだ。しかも、姉曰く、「男はああでなければ」というほどの丁寧さで。
他にも、日直が担当する学級日誌に書かれた、彼の字にも驚かされた。蓮二も字はかなり整っている方だが、彼の字はただ整っているだけでなく、もはや風流と評してもいいほどの味があった。
また使っている筆記用具はボールペンで、他のどの日よりもびっしり書き込んでいるというのに、誤字脱字も、修正ペンの跡もない。
字はその人の人柄を表す、というデータもある。少なくとも、真田弦一郎は、喧嘩慣れしていると同時に、書くことにも非常に慣れているのだ。それはなぜか?
彼には、何かある。見た目以上、噂以上の何か。
幼馴染の精市も知らない、誰にも知られていない、奥深く、興味深い“データ”が、彼にはきっとある。
真田弦一郎という人間、彼が秘める“データ”に、蓮二は強烈な興味を持っていた。