「……………………おい、その格好」
「うるさい」
ロングスカートに袖の膨らんだふわふわのブラウス、ローズピンクのリボンカチューシャという姿の精市を、例えば見たことのない種類の虫か何かを見るような目でじろじろ見る弦一郎を、精市は素早くぶった切った。
弦一郎は思わずちらりと蓮二を見たが、彼は何やら諦念の表情で、小さく首を振るだけである。よくわからぬが苦労の見え隠れする表情に、弦一郎は黙った。
「蓮ちゃんとせぇちゃんが、連れ出してくれはったん」
「そうか。……久しぶりだな」
「へぇ、お久しゅう」
紅梅は、にっこりした。去年より少し顔つきが大人びたような気がしたが、弦一郎の知っている笑顔だった。弦一郎も、思わず微笑む。
そして、笑い合う二人に、精市が半眼になった。
「あー、もう。やってらんない。じゃあ俺あっち行くから」
「まあそう言うな。……弦一郎、俺達はホール一階のカフェにいる。十八時くらいには、お
梅をこちらに寄越してくれ」
「む……、わかった」
「あ、蓮ちゃん、せぇちゃん、えろぅおおきに……!」
ロングスカートを翻してずんずんと歩いて行く精市と、それを追いかけて行く蓮二に、
紅梅が慌てて声をかける。精市はちらっと振り返っただけだったが、蓮二はちゃんと手を振ってくれた。
念のため、見つからぬようと蓮二に言い含められているので、場所を移動し、ホールを出入りする者には見えにくい位置、大きなオブジェの影になったベンチに、二人は座った。
なんだか二人で話すときはいつも隠れているな、と、弦一郎は、いつぞやホールのロビーのブロンズ像の影に隠れ、お守りを交換したり、こそこそと話したことを思い出す。
「……せぇちゃん、なんや気ィ悪ぅしはったやろか」
紅梅が心配そうに、小さな声で言ったので、弦一郎は首を傾げた。
「そうか? あいつはいつもあんな感じだぞ」
「……そうなん?」
「そうだ。もし機嫌が悪かったとしても気にせんでいい。そのうちけろっとしている」
本気で、というか、あの図太いのの機嫌を心配したところで何もならない、と当然のごとく思っている弦一郎はそう言ったが、
紅梅はなにか納得していないのか、更に眉尻を下げる。
「……ほぅか。弦ちゃんが、そう言うんやったら……」
弦一郎には、彼女の心配どころがさっぱりわからない。
「そやけど、会えて良ぅおした。今年は無理かと思とったんやけど」
「俺もだ」
「堪忍なあ、お母はんが急に……」
「そのことなんだが……」
弦一郎は、おそるおそるといった様相で、隣の座席に座ったのが、『花さと』の女将・紅葉だった、ということについて話した。
紅梅はまるで知らなかったことであったらしく、始終びっくり顔で、その上、夕日の中でもわかるほどに顔色を青くした。
「ええ、そんな、……お母はん、何考えてはるん!」
焦ったように鋭い声を上げた
紅梅に、弦一郎は心底驚く。大声を上げる彼女も、泣いて怒鳴る彼女も見たことがあるが、こんなふうにヒステリックに声を荒げる所は、初めて見た。
弦一郎が呆気にとられているのに気付いた
紅梅は、はっとして、肩をすぼめ、ばつが悪そうに「かんにん」と小さく呟いた。
「……いや」
「お母はん、元々何考えてはるんかよぅ読めんお人やよって……。もう、いかにも京女いう感じのお人でなァ。おばあはんのほうが、口悪いぶん、よっぽどわかりやすぅおすわ」
「そうなのか」
「へぇ。お母はんは京生まれの京育ちで、お母はんのお母はんも芸妓はんやし。おばあはんは、元々愛知、名古屋のお人でな」
「京都の方ではなかったのか。意外だ」
「むしろ、舞妓芸妓はよそのいろんなところから来るんが普通やし、生粋の京都っ子のほうが少のおすえ。最近は舞妓のなり手が減っとおし、余計にそやな」
世間話をしたことで少し気持ちが落ち着いたのか、はあ、と、
紅梅が一度息をつく。
数秒、沈黙。しかしやがて、弦一郎が口を開いた。
「……しかし、その、意外といえば、女将殿だが」
「え?」
「驚いた。俺は、こう……、もっと、なんというか、苛烈な方だと思っていたのだが」
例えば鬼婆のような、とまでは言わなかったが、ニュアンスは伝わるだろう。弦一郎の母が鬼婆ならぬ鬼子母神のようなひとで、弦一郎が最も頭が上がらぬのがこの女傑であることは、
紅梅も知っている。
「とても穏やかな方だった。仏と話しているかのようだったぞ」
「……お母はんは、えろぅ優しいお人どすえ」
お稽古は厳しおすけどな、と、
紅梅は言った。
「こらー、とか、大声あげたり、絶対せえへんしな」
怒っていなくても大声を張り上げている真田家では、考えられないことである。
「そやけど、うちが言いつけ破ったり、口ごたえしたりするとな、泣きはるんよ」
「泣く……」
「なんでそないなことするの、お母はんは良かれと思って、ヨヨヨ、いう感じ」
「それは……」
ぐっ、と、弦一郎は詰まった。
弦一郎は怒鳴られ殴られで育ってきたが、それよりも、例えば祖母に悲しそうな顔をされたりすることのほうが、比べ物にならないくらいショックで、胸が痛い事だった事を思い出す。
悲しげにされるだけでああもどうしようもない気持ちになるのに、もし泣かれでもしたらと思うと、
「……参るな」
「参るわ……」
その声には、心からの同意と、どっと重たい疲れが滲んでいた。
「その上、本心どない思てはるんかよぅわからんし……」
「……確かに、何をどこまでご存知なのか……わからんが。そうだ、あとで蓮二に相談してみよう」
名案、というふうに弦一郎が言うと、
紅梅もまた少し微笑み、大きく頷いた。
「ああ、そやね。お母はん本人に聞いたら藪蛇になりそぉやけど、蓮ちゃんやったら、何かわかるかもしらんね」
「うむ」
「ほんまに蓮ちゃんは頼りにならはるなァ」
「そうだな。俺も、本当に世話になっている。あいつはすごい奴だ」
それから、蓮二がいかに頼りになるかという話をしばらくすると、二人とも、気分がいくらか上昇した。
さらに、
紅梅と蓮二が似ているという話もした。これは蓮二の家族や、『花さと』一同も同意したことらしく、蓮華、蓮二、
紅梅と並ぶと、姉、長男、妹、という感じに見えると散々言われたという。
弦一郎も、そう思った。想像するだけでも十分納得していたが、先ほど実際に並んで立っていた
紅梅と蓮二を見ても、やはり、と思ったほどだ。身長が同じくらいで、蓮二が市松人形を思わせるおかっぱ頭なので、同じ人形師が作ったタイプ違いの日本人形、という感じだった。
「蓮華お姉はんはほんまにうちの“お姐はん”にならはるし、そういうたら、蓮ちゃんもうちのお兄はんやね、いうとったんよ」
「頼りになる兄が出来たな」
「ほんまに。そやけど、似とるんは今だけかもしらんなァ」
「なぜだ?」
「そやかて蓮ちゃん、男ン子やもん。背ェももっと伸びるし、声も低なるやろ。弦ちゃんみたいに」
紅梅は目を細め、微笑んで、弦一郎を見た。
「……もう、背ェは追い抜かれへんやろなァ」
いつぞや、
紅梅は、弦一郎と同じか、それより高いくらいの身長だった時期があった。しかし今、
紅梅は弦一郎よりも、十センチくらいは身長が低い。
それでも
紅梅は舞妓になる身としては身長が高い方であるらしく、これ以上あまり伸びないほうが良い、とも言われているらしい。舞台で舞う役者は背の高さが武器になることもあるが、狭い座敷で舞わねばならない舞妓や芸妓は、なるべく小柄な方が良いとされている。
明確な身長制限があるわけではないが、百五十センチ台前半が望ましく、高くても百六十五センチくらいまでだろうか。
長身が多い柳家の遺伝子を持ち、今現在で百六十センチを超えている蓮華はそこが唯一気がかりではあるらしいが、一度受け入れられたのだから、身長が伸びすぎたので出て行けとは言われないだろう。それに、天下の紅椿も、百六十センチ以上ある。彼女の世代としては、長身な方だ。
「そうだな、テニスは身長がある方が有利だ。なるべく伸ばしたいとは思う」
「弦ちゃんとこ、みぃんな大きいもんなァ。信兄はんものっぽやし」
「うむ。確か、百八十五センチで止まったと言っていた」
「弦ちゃん、最初に会った時から、男ン子、いう感じやったけど」
紅梅が弦一郎の顔を覗き込み、じっと見たので、弦一郎は少しどきっとした。
「毎年、男らしゅうなるなァ。これからどんどん男らしゅうなるんやろなァ」
「まあ……、男だからな」
どうコメントしていいのかわからず、弦一郎が曖昧なことを言うと、
紅梅は、ふんわりと滲むように笑った。
「そやね、男はんやもんね」
なんだか遠い声で、
紅梅は言った。流れる風のように、どこかに消えてしまうような声だった。
「男ン子は、すぐ追いつけんよぅなるなァ。もう、腕相撲でも勝たれへんのやろなァ」
「いや、そもそも勝っていないだろう」
「そんなことおへんえ、もうひと勝負しとったらわからんくらいやった」
笑いながらではあるが、未だに負けを認めない
紅梅に、弦一郎も笑う。
その近しい笑顔を見ながら、しかし弦一郎は、先ほどの舞台の彼女を思い出していた。
彼女は今、弦一郎が遠くなると言ったが、それは、弦一郎も同じように思っていることだ。今でさえ、遠い京都の、一番奥まった花の古都に住み、人間国宝の後継と言われ、舞台の上で、まるで天女のように舞っている彼女である。
そして何より、彼女は、女性だ。
女将が来た事こそ想定外であったが、今年彼女が真田家に来なかったのは、ただ
紅梅が忙しかったから、だけではない。小学生の時ならまだしも、中学生になった女の子を、同い年の男子がいる家に泊まらせるのはよろしくないだろう、と、真田家側が申し出たのだ。
紅梅が女の子であることなどわかっていたことだし、彼女の女性らしい振る舞いを好ましくも思っていた弦一郎であるが、そんな風に意識したことがあまりなかったので、「年頃だから」と言われた時は、ついきょとんとしてしまった。
そして、それはそうだと──、いや、そういえばそうだった、という感じで納得し、では外で会おう、ということになったのである。
彼女がしているのは、ある意味、女性らしさを極めるような修練だ。
彼女はこれからどんどん女性らしくなり、舞妓になって、芸妓になる。もしかしたら、紅椿と同じか、それ以上の舞手になるかもしれない。
そうなれば、──弦一郎とは。
ただでさえ出入り禁止を食らっている、遠い神奈川の剣術道場の子息などとは、
「今日の舞台」
頭に浮かんだ靄を打ち払うようにして、弦一郎は言った。
「お前が舞うのを、生で初めて観たが、……凄かった」
「そお?」
こてん、と、
紅梅は首を傾げた。
「うむ。美しかったし、……紅椿殿の舞と、よく似ていた」
徹底して鍛えられたボディバランスを用い、人ではないような動きを可能にする、紅椿一流の舞。彼女はそれを完全トレースしようと試み、そして完全ではなくともそれを成し、名取にまでなっている。
そして今日、『手習子』が『京鹿子娘道成寺』のエッセンス・バージョンであるように、
紅梅の舞には、紅椿の舞のエッセンスが、各所によく散りばめられているのを感じた。
このまま更に洗練されていけば、彼女は誰に文句を言わせない、二代目“紅椿”になるだろう。──とは、『月刊 日本舞踊』の記事の受け売りであるが、実際に彼女の舞台を見て、なるほど、と納得できるくらいには、彼女の舞は“紅椿”だった。
「さよかぁ。ほな、良ぅ出来たんやろなァ」
あっけらかんと言う
紅梅は、笑ってはいるが、特に嬉しそうでもなかった。
「……だが」
「うん?」
「あれは、“紅椿”の舞で、お前の舞ではないのだろう?」
──うちが、こうしたほうがええんやないか思て舞うても、それは紅椿とちゃうよって、へたくそやて言わはるんよ
彼女はそう言って、自分の舞を封印したのだ。
今は我慢だと、今はひたすら猿真似と稽古に徹し、いつか誰にも文句を言われない立場になったら、自分の舞を舞うのだと言って。
「……うん」
紅梅は俯いて、小さく頷いた。
その小さい姿を見て、ああ、自分が好きにテニスができることの、なんと幸福なことだろうか、と弦一郎はつくづく思う。そして、彼女とした約束を果たすことを、今一度誓った。
「そうか。早く、お前のしたいようにできるといいな」
弦一郎は、大きくはないが、強い声で言った。
「俺も、お前の舞が見れるのを、楽しみにしている」
──約束した。彼女が自由に舞えるようになったら、その舞台を観ること。そしてそれまで、弦一郎は、自分のテニスを貫くこと。
だから、弦一郎は、考えるのをやめた。彼女は遠い古都に住み、人間国宝の後継で、舞妓になり、芸妓になり、──いつか、弦一郎の手の届かないところに行ってしまうのかもしれない。
しかしそれでも、この約束だけは、絶対だ。
「……うん」
紅梅が、顔を上げる。笑顔だった。
「おおきに、弦ちゃん。うち、がんばる」
この先どうなるかなど、弦一郎にも、
紅梅にもわからない。
だが、努力することはできる。約束を守れるように全力を尽くすことを弦一郎は諦めないし、
紅梅もきっとそうだろう。
会えなくなっても手紙は届き、話すことが出来なくても、想うことはできるのだ。
──不義理だけは許しまへん
大蛇だか、九尾の狐だか、神気の篭った声を思い出す。
だが言われずとも、物騒な歌に誓わずとも、そうするつもりだ。
弦一郎は、男の沽券にかけて、もう一度指を切った。
「──蓮二、幸村」
ホール一階のカフェ、一番奥まった場所にある丸テーブルの席にいた二人に、弦一郎は静かに近寄った。
肩にかけたラケットバッグには、前と同じ、しかし真新しい黒いお守りがぶら下がっている。
蓮二は
紅梅に似た微笑をたたえて弦一郎を見、スカート姿のくせに足を開いて座っている精市は、半目で弦一郎を見ながら、ズゴー、とアイスコーヒーを吸い上げた。
「お
梅は、戻ったのか?」
いつもどおりに穏やかな声で、蓮二は尋ねた。
その声の穏やかさに、先ほどまでの蓮二がいかに必死に奔走してくれていたかということを、弦一郎は今、あらためて実感する。
「うむ。裏口のところまで送った」
「そうか。建物の中に入ったなら、何事もないだろう。迎えの車も来ると言っていた」
蓮二は、頷いた。
「良かったな、弦一郎」
心から言っているというのがよく分かる、しみじみとした声だった。
その声に、弦一郎は感動する。ああ、自分はかけがえのない友人を持った、と、大げさでなく思った。
「ああ、……ありがとう、蓮二。本当に」
「礼を言われる程ではないさ。俺だって散々良くしてもらったのだからな」
「俺は繋ぎをつけただけだ。あれは
紅梅が……それに、お前や、蓮華姉上自身が」
「そう言うなら、俺とてプランを練っただけで、実際に体を張ったのは俺ではない」
蓮二がちらりと見た方を、弦一郎も見る。
女子にはあるまじき男らしい座り方で、アイスコーヒーのストローをくわえている精市と目が合った。
その格好のおかしさと、そして胸に湧き上がる何かに、弦一郎は笑いながら口を開く。
「幸村」
「何だ」
「ありがとう」
弦一郎が、こうもはっきり精市に礼を言ったのは、初めてだった。
といっても、単にお互いに礼を言うようなことをしたことがない、というのも事実なのだが。
「それと、──その格好、全く似合っていないな。ひどいものだ」
にやり、と笑ってやれば、精市もまた、にやり、と笑い返してくる。
「……どういたしまして!」
ここお前の奢りだからな! という精市の要求を素直に受け入れ、弦一郎は二人と同じように、笑いながら、丸テーブルの席についた。
- 心に欲なき時は義理を行う -
(無欲であれば、義理を通すことができる)
終