心に欲なき時は義理を行う
(十五)
「うん、うん、良ぅおした、良ぅおした」

 老女はにこにこして、幕が下がりきるまで、ずっと拍手をしていた。
「どないやった? “紅梅ちゃん”」
 もう、演目の後に彼女に話しかけられるのも慣れたものだ。弦一郎は驚かず、少し考えるようにしてから、言った。

「……よくわかりません。美しかった、とは思います」

 弦一郎は審美眼はあるが、想像力に乏しく、やや情緒の発達が鈍い。多少の違いはわかるようになっても、どこがどう好きかと言われると、答えられない。人間国宝であろうとそれが変わらぬ朴念仁は、馬鹿正直な感想を述べた。
 しかし老女は気を悪くするどころか、笑みを深くする。

「ほほほ。素直やなァ」
「……すみません」
「それでええんよ。それらしいこと適当に言うより、よっぽどよろしおす」
「そうでしょうか」
「そや、そや。こういうもんは、理屈やないんよ。突然、ぴん、とわかるようになるよって」

 良し悪しがわからぬことに常にばつの悪さを感じている弦一郎は、そう言われて、少し気が楽になる。そういうものか、と、少し笑顔になって、とりあえず頷いた。
「貴女は、どう思われましたか」
「そやねえ」
 老女は、なんだかいたずらっぽく、にんまりと笑った。

「まだすこぉし、尻尾がはみ出しとるかなァ」



 すべての演目が終わり、観客がみなホールを出て行く。
 弦一郎は足腰の悪い老女が通路まで出るのをまた手伝い、ここでいい、と彼女が言った角のところで、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。大変勉強になりました」
「まあ、まあ。良ぉしてもろたんはこっちどすえ。若いお人と話せて楽しおしたえ、えろぅおおきになァ」
 老女はころころと笑うと、とても品のいい綺麗な会釈をして、杖をつきながら歩いて行った。
 人が多いのでなんとなく心配で、その場に立って見送っていると、老女は楽屋に続く関係者用の通路を曲がっていった。おや、とも思うが、なんだか訳知り顔風のひとだったので、関係者ならむしろ納得である。
 そして、関係者なら向こうに連れなり知り合いなりがいるだろうから大丈夫か、と思い、踵を返した──そのとき。

「──弦一郎!」
「うぉっ」

 すぐ後ろで鋭いひそひそ声がしたので、弦一郎は驚いて振り返った。
 声の主は、蓮二だった。弦一郎と同じ制服姿で、なんだか顔色が悪い。表情も、なんだか様子がおかしいようだ。

「蓮二? どうした、おまえ俺には接触するなと」
 念のため、知己であるとわからぬように、と言ったのは蓮二のはずだ。わざわざ声をかけてくるということはなにか非常事態か、と怪訝に思った弦一郎は眉を顰めるが、蓮二は困惑した顔で、そして潜めた声で言った。
「お、おまえ、どうして」
「は?」
 本気で意味がわからず、弦一郎は首を傾げる。蓮二と友達になってから、これほど焦ったような顔は初めて見た。

「お前、あのひとは、──『花さと』の女将だぞ!」

 なんで普通に話しているんだ! と、潜めた声で叫ぶという器用なことをした蓮二に、弦一郎はぽかんとする。
 そしてたっぷり五秒は呆けたあと、──次いで、蓮二を上回って顔色を悪くした。

「ああ、どうするか──、いや、もう仕方がない、こうなれば」

 蓮二はおかっぱ頭を掻き毟るようにしてそう言うと、呆然としている弦一郎に言った。
「弦一郎、とにかく、あのお守りを持って、裏手の広場のベンチにいろ。何があっても帰るな、いや動くな。わかったか、いいな!?」
「う……うむ」
 あの老女が『花さと』の女将、というショックで呆けているところに、見たこともないような剣幕の蓮二にまくしたてられた弦一郎は、なんとかこくこくと頷いた。
 それを確認した蓮二は、はああ、と一度大きく息をついてから、「動くなよ!」ともう一度念を押してから、どこかに走って行ってしまった。






「──待たせたな」

 劇場を飛び出した蓮二は、入り口前、待ち合わせ場所としてよく使われる大きなモニュメントの下にいた人物に声をかけた。
「遅いよ蓮二。さっきナンパされたんだけど」
「よし」
「よし、じゃない」
 半眼になって突っ込んだ待ち人──精市は、ふわふわしたブラウスに、フリルのついたスカートを履き、エナメルの、ローズピンクのカチューシャをしていた。

 つまりは、女装である。

「よし、だろう。ちゃんと“せい子”に見えるということだ。昨日はどうなるかと思ったが」

 良かった良かった、おばさんに感謝だな、と、いつになくテンションの高い蓮二は、数度頷いて笑顔を見せる。
 昨日、幸村家にて、衣装を揃えるのに、精市の母・愛実の協力を仰いだのであるが、幼いころに本当に精市に女装をさせていた母は、詳しい事情も聞かぬまま、非常に乗り気だった。
 やれ最近はやたらにがさつになってだの、足が逞しくなって可愛くないだの、靴下が毎日ドロドロであるだの汗臭いだの、とにかく男の子はつまらないという愚痴を言いながら、彼女は自分の若い頃からのワードローブを、惜しみなく大放出してくれた。

 だが、絶世の美形で顔は本当にきれいなのだが、妙に男らしく成長した精市は、予想に反して、あまり女装が似合わなかった。
 まずテニスで鍛えられて腕も足も結構筋肉がついているし、ブラウスを着てみると、なんだか割と肩幅があるのがわかる。

 美形だけど、全然かわいくない。

 とは精市の母のコメントだが、まさにそのとおりだと蓮二も思った。
 見た目は芸術品のように美しいはずなのに、女性らしさというものが欠片もない。いわゆる守ってやりたいと思わせるたおやかさとか、恥じらいとか、最近の言葉を使えば萌えというものが、もののみごとに握りつぶされているのだ。無残ですらある。
 一般的な意味とは違うのかもしれないが、見た目で女を選んではならない、という言葉が、蓮二の頭をなんとなく過った。

 こういう感じであったため、精市に似合う、というか、違和感なく女の子だと思わせる衣装を選ぶのが地味に大変で、蓮二が帰らなければならない時間までに結局衣装が決まらず、精市の母に任せたのだが、彼女は大変にいい仕事をしたようだ。
 筋肉のついた足はロングスカートで隠されているし、何気に広い肩幅や筋っぽい上腕は、ふわふわしたシフォンのブラウスの袖で誤魔化されている。ゆるやかなカーブを描く天然パーマの髪をカチューシャで留めれば、特徴としてインパクトがあるだけに目が行き、他の違和感が薄れる。

「うれしくないなァ」
「頭を掻くな。カチューシャがずれる」
「スカートすごいスースーする、長いのに。あっ、パンツはトランクスだからねさすがに」
「聞いていないし、言わなくてもいい」

 さすがの美形、黙って立っていればなかなかの美少女だが、やはり喋って動くと台無しだな、と蓮二はため息をついた。
 相当気をつけないとすぐ脚を開いて座るし、ばりばり頭を掻いたりもする。普段精市の行儀が悪いと思ったことなどなかったのに、女性らしくということになると、とんでもないという点がたくさんあった。
 今回のことで、女性とはいかに楚々として動くものか、それがどれだけ大変かということを、蓮二も精市もとくと痛感した。
 そして、ただ普通の女性として振る舞うだけでもかなり気を使うのに、舞妓・芸妓としてあれほどみごとに女性らしくあるのはどれほどの鍛錬が必要なのか、と思い、蓮二は紅梅たちのすごさを改めて理解したのだった。
 男は素のままいて普通に男でいられるが、女が女らしくあるには修練が必要である、ということを二人は学び、ひとつ賢くなったのである。

「……すまないな。俺の顔が割れていなければ、俺がしても良かったんだが」

 蓮二は、申し訳無さそうに言った。
 声変わりもまださっぱりで、髪型もおかっぱなため、普段から女の子に間違えられることのある蓮二のほうが、まだ女装がしっくり来るだろうことは明らかだったからだ。
 だが蓮二は蓮華の弟としてしっかり紹介されているし、また、この件に関するあらゆる秘密を共有してもいいと思えるほどの女友達もいない。
 精市に泣きついたのは、“せい子”がかつて精市が女装をして紅梅に会った時の仮名だということから蓮二がひねり出した、苦渋の選択だった。

 だが昨日、弦一郎と紅梅の関係も含めたすべての事情を蓮二から聞かされた精市は、──緊急事態ということもあるし、もう精市だからいいだろう、と蓮二は判断した──、目を見開いて驚いた上、「真田のくせに生意気だな」とか、「でも文通とか年に一回しか会わないとかあいつらしすぎて笑える」とか散々言ったがしかし、最終的に、蓮二の頼みを了承してくれた。
 そして今また、昨日蓮二がこの役を頼み込んだ時と同じように、彼は肩をすくめて笑う。

「いいさ。友達の頼みだからね」

 精市は、見た目に反して実に男らしくさっぱりしていて、傍若無人なところもあるが、肝心な部分でしっかり優しい。
 彼のそんなところがとても好きで、尊敬すべきところだと思っている蓮二は、もう何度目かになる「ありがとう」を、もう一度言った。

「よーし。それじゃあ行こうか、蓮二」
「おい、がに股はよせ」

 しかし、ロングスカートをばっさばっさとさばいて歩く姿に不安を覚えつつ、蓮二は“彼女”とともに劇場に戻った。



「──なんで跡部景吾がいるんだよ」

 意気揚々と楽屋前までやってきた蓮二と精市であったが、流派別ということで紅椿と紅梅合同の控室前に立っている少年の姿に、初っ端から出鼻をくじかれた思いで立ち尽くした。
 少年の存在と名前を、二人はついこの間知ったばかりだ。

 ──跡部景吾。
 世界規模の大財閥のひとつ、跡部財閥の御曹司であり、中学に上る前までは、イギリスにいたという。蓮二たちと同じ一年生でありながら、東京・氷帝学園の男子テニス部部長となった人物である。生徒会長でもあるらしい。

 氷帝学園自体も屈指の裕福な子女の通う学校ではあるが、あの跡部財閥の御曹司で、更には精市ともまた違うタイプの絶世の美形、外国の血が入ったアイスブルーの目にブロンドに近い茶色の髪という容姿の持ち主とあって、注目度はもともと高かった。
 しかし彼は大げさなのではないかというほどの前評判と見た目の派手さを裏切らず、関東大会では三位の実績を叩き出し、全国大会への出場資格をもぎ取った。
 そうして、彼はただ派手なだけのお坊ちゃまではなく、跡部景吾侮れぬ、と、浮ついていない確かな注目をしっかりと集めた──、つまり、一目置かれたのである。

 蓮二たちもまた、相手の弱点を素早く見抜いて対応する彼のテニス、さらに財閥御曹司らしい尊大な振る舞いをカリスマに昇華させ、テニス部どころか氷帝学園全体をまとめあげているという実力と人柄を、決して侮ってはいない。
 今年は彼のワンマンな部分が大きかったが、今年以降、彼のやり方について行けるだけの選手が揃えば、氷帝学園は全国優勝の有力候補のひとつとして、全く無視できない存在になるだろう。

「……跡部財閥の御曹司となれば、人間国宝の舞台を観に来ていてもおかしくはない、が」
「そんなことはどうでもいいよ。どうすんだよ、俺たち、あいつとこないだ喋ったばっかりだろ! ……ああああ、入ってった」

 豪華な花束を持って控室に入っていってしまった跡部景吾に、精市は頭を抱えた。

 精市の言う通り、関東大会にて、片やあの立海大付属で一年生ながら三人揃ってレギュラーとなった三人、片や同じく一年生で部長になって全国に殴り込もうとしている者として、彼らは顔を合わせたことがある。
 氷帝学園との対戦自体は叶うことがなかったが、五分程度は話したし、お互いに印象深かったので、まさか顔を忘れたということはないだろう。そうでなくても、なんだか人の顔を覚えるのが得意そうな人物である。

「跡部がいなくなってから行く?」
「いや、……もう今の時点で、あまり時間に余裕が無い。このまま行こう」
「えええええ……」
「跡部は洞察力に優れている……要するに、空気を読むのに長けた人物だ。俺達を見て怪訝には思うだろうが、なにか事情があることを察するだろう。こういうことを言いふらしそうな感じでもないしな」
「ああ……、まあ、そうかな……」

 精市の声は、暗い。
 本当は、女装だけでも本当はいい気はしていない。了承したのは、蓮二の頼みだからというのと、どうせ知っている奴に見られるわけでなし、という開き直りがあってこそである。
 それをよりにもよって、間違いなくこれから中学三年間付き合いがあるだろうテニスプレーヤーに見られるということが決定したのである。精市は、がっくりと肩を落とした。

「いいか、とにかく女性らしく、おとなしくだ」
「──了解。俺の演技力を見せてやるよ」

 男らしい精市は、開き直るのが早い。さすがだ精市、と蓮二は頷いて、自分もまたネクタイを一度整えると、控室のドアをノックした。



「こんにちははじめまして真田せい子でえす!」

 ──ひどい大根だ。
 蓮二は、頭を抱えてうずくまりたいのを堪えた。

「……アーン? おい、立海じゃねえか。一体どういう……」
「キャーあとべさまー! こんなところでおあいするなんてぐぅぜぇん!」

 精市が変に裏返った棒読みで言うと、景吾は、気色悪そうな顔で黙った。
 そして、この上なく胡乱げな目で──もっと具体的に言えば、珍しいだけで全く可愛くない珍獣でも見るような目でじろじろ精市と蓮二を観察する景吾の視線を、蓮二はそっと受け止める。
 蓮二のその遠い目に何かを悟ってくれたのか、景吾はひたすら訳がわからなそうな半目で、しかしとりあえず、それ以上なにか言うのをやめてくれた。感謝である。

 控室には紅椿、紅梅、紅葉女将、それに柳家一同と、さきほど入室した跡部景吾、そしてなぜか氷帝学園男子テニス部監督である、榊太郎が勢揃いしていた。
 そして「あら、せい子ちゃんも来たのね」と打ち合わせ通りに話を振ってくれた蓮華に返した精市の台詞が、今の台詞である。

「……え、せぇちゃん?」

 公演のトリであったためにまだ舞台衣装のままの紅梅が、白塗りの化粧でも驚いているとわかる顔をした。しゃら、と、頭についた飾りが揺れる。

「ええ、ほんまにせぇちゃん? ……いやァ、相変わらず別嬪さんやなぁ」
「えーそおー? ちゃんのほうが綺麗だよー?」

 棒読みだが、精市的に、それなりに女の子らしい受け答えなのだろう。
 何度か家に遊びに行っているがゆえに精市の性別をもちろん知っている柳家一同、そして景吾は微妙な顔をしているが、当の紅梅は、弦一郎から「幸村のことを本当に女だと思っている」と聞いた通り、何の疑いも持っていないようだ。思い込みとは恐ろしいものである。
 事前に、例えば蓮華を通して彼女に本当のことを説明することも出来たが、より疑われないやりとりをするため、蓮二はあえて、紅梅に精市の性別を伝えるのを止めたのだ。
「うちはお衣装やもん」
 それを言うなら精市も“お衣装”なのだが、もちろん、蓮二は心の中で突っ込むに留める。そして、こほん、と一度咳払いをして、言った。

「お、その、……“せい子”とは、久々に会うだろう? それに、“他の友人”も外にいるんだ。会ってやってくれないか」

 ──“他の友人”。
 察しの良い、そして蓮二とのやりとりにおいてはなぜかさらに察しの良い紅梅は、その単語に、ぴくりを身を震わせた。

「……ほんまに? 来てはるの?」
「ああ。楽屋に押しかけるのも迷惑かと思ったので、外にいる。時間は短いだろうが……」

 そう言って、蓮二はちらりと、『花さと』の女将、紅葉を見た。
 足の悪い彼女は、屋形でもそうであったように正座用の椅子を使って、しかし流石に美しい姿勢で座っている。そして、精市、もとい“せい子”をじっと見つめていた。
 海千山千もいいところだろう置屋の女将、しかも仏像に似た佇まいの微笑みでもっての視線は、何もかもを見通してしまいそうで、蓮二は冷や汗を流した。そして精市もまた、同じような様子である。“神の子”と呼ばれる彼も、数百年の歴史を持つ店の女将、本当に菩薩のような老女の視線には怯むようだ。

「……へぇ、わざわざこン子のために来てくれはったんやねぇ」

 じわり、と、長い年月をかけて岩に染みこむ清水のような声に、蓮二は背筋がぞぞっとした。
 ──彼女は、一体どこまでわかっていて、今の発言をしたのだろうか。蓮二は必死で頭の中にある“データ”を隅から隅までひっくり返すが、やはり何もわからない。ただ、京女恐るべしである、と、“データ”に赤ペンで書き加えた。

「……ふふ。よろしおしたなァ、紅梅。行っといやす」
「えっ、……え、よ、よろしおすの?」
 紅梅が驚いた声を出したが、蓮二も驚いた。まさか、こんなにもあっさり許可が出るとは、思いもしなかったのである。
 何もかも知っているかもしれない、そうでなくとも何かに感づいていそうと思っていたのに、そうではなかったのだろうか。──ますますわからなくなる。

「そら、せっかく来てくれはったんやから。なァ?」
「へぇ……」
 紅梅も、蓮二と同じように戸惑っているのだろう。この中で最も小柄で、にっこりしている女将より目線が高いはずの彼女は、おどおどとした上目遣いで女将を見ている。

「ええから早よ行っといで。お化粧落として、着替えてから」

 こちらは既に着替えて化粧も落としている紅椿が、しっしっ、と払うような仕草で扇を振り、紅梅を追い立てた。






 クロークに預けたラケットバッグを受け取った弦一郎は、蓮二が指示した通り、劇場裏手にある広場のベンチに、ぽつんと座っていた。
 広い敷地の地面を白く整え、同じような色合いの大きな石のオブジェがあり、噴水から水路に水を流しているため、特に夏場は涼しげな広場だ。浅い水路に裸足で入って、軽い水遊びをする小さな子供などもよく見かける。
 だが真夏の太陽は早くも沈みかけており、人の影はもう随分まばらだった。

 長くなっていく影をぼんやりと見つめながら、弦一郎は、物思いに耽る。

 まさかあの老女が『花さと』の女将とは、青天の霹靂もいいところだ。
 しかも、あのように、紅梅以上に正真正銘菩薩の如きひとが、というのが、弦一郎は未だ信じられず、呆然とした気持ちが抜けない。

 なぜなら、祖父がなにか不手際をして彼女の不興を買い、一族まるごと出入り禁止を言い渡されている、ということがまずひとつ。そして、紅梅が何かと「お母はんが」と畏れるのを、弦一郎は長年見てきたのだ。
 更にはあの紅椿でさえ頭の上がらぬことがあるという彼の人を、弦一郎は、失礼千万ながらも、浮世絵の妖怪画によくある鬼婆のようなイメージで認識していた。

 大蛇だか九尾の狐だか、神に近いような大妖怪も頭の上がらぬ、そしてその後継の少女を押さえつけ従える、実利第一の女将。まさに浅茅ヶ原の鬼婆のように思っていたひとが、あのような菩薩の化身のごときであるとは、まさに夢にも思わない事だった。

(人は見かけによらぬ、……いや、逆か?)

 奇しくも蓮二と精市が別件で思い知り自問したことを、弦一郎もまた自問した。

 更にそこから思考は流れ、さきほどの舞台、『手習子』を舞う彼女の姿を思い出す。
 ──美しかった。良し悪しがわからぬとも、あれが芸術品である、ということは、まさにひと目でわかる。そして、問答無用でわからせるほどの力は、一定以上の実力──名取になれるくらいの実力があるからこそであるのだということも、わかる。

 あれは、本当に、自分の知っている彼女だったろうか。

 白塗りの化粧に、豪華な衣装、結い上げ、飾られた日本髪。
 人形師や絵師たちが望み、その手で創り出そうと生涯を賭ける理想の姿が、そこにあった。その美しさは、ただかわいいとかきれいだとかではなく、まず、ただホゥと溜息を零してしまうようなものだった。
 あの美しさはもはや女として、人間としての範疇を超え、国宝の仏像などに対して感じるような、神々しいまでの芸術的美しさでもって為されたものだ。

 舞妓や芸妓とは、古都の花街、現世とは隔絶された世界で、人ならざる天女の如き美しさで存在し続けてきた、古来よりの高嶺の花である。
 それになるために、彼女が生半可ではない稽古をし、努力を重ねていることを、弦一郎は知っている。

 舞台の上の彼女を、美しいと思った。
 だが、彼女を思い出す時に弦一郎の頭に浮かぶ姿は、──違うのだ。

 例えば、着物姿のまま走り回って、汗まみれになりながらラケットを振る姿。
 髪を振り乱して全力で弦一郎の手を握り、裾や襟が乱れるのも構わず脚を踏ん張り、眉をしかめて頬を膨らまし、歯を食いしばる顔。ズルをしたくせにどや顔を浮かべ、疲れ果てているくせに負け惜しみを言う姿。

 ──本当に嬉しい時の、引き攣ったような、珍妙な笑い声。

 そんな彼女の姿を、弦一郎は、夏の鮮烈な日差しのように、まぶしい気持ちとともに、すぐそこに彼女がいるかのように、ありありと思い出すことができる。
 弦一郎の中にいる彼女は、あの、ただただ美しく、舞台の上どころか、まるで雲の上にいるかのように薄霧に包まれた、遠い姿ではない。──そのはずだ。

 そんなことを思いながら、弦一郎は、ラケットバッグから取り外した小さなお守りを、思わずぎゅっと握りしめた。



「──弦ちゃん」



 ──水の音かと思った。

 それほどに滑らかで、すぅっと耳に染みこむような声だった。
 だが弦一郎は、その声を知っている。彼女だけが使う呼び名で、自分を呼ぶ声を知っている。

 白い石のベンチから立ち上がって振り向くと、二人の友人と、彼女がいた。
 彼女は化粧などしておらず、着物姿ではあるが、普通の小袖を着ている。聞いていた通り、身長は蓮二と同じくらいだ。隣に並んで立っているので、明らかである。

紅梅

 名前を呼ぶと、「ふひゃ」と、彼女は妙な笑い声を上げた。

「ひゃあ、ほんまにお声が低おすなあ」

 そう言った彼女は、そのまままたくすくす笑った。元々垂れ目な目尻をよりいっそう下げて、すぐ目の前、すぐ近くに立って、真正面から弦一郎を見ている。

(──ああ)

 自分の知っている彼女だ、と、弦一郎もまた、笑みを浮かべた。
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BY 餡子郎
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