心に欲なき時は義理を行う
(十四)
 翌日。

 午前中の練習を終えた後、真夏の太陽の苛烈さをいいことに、なるべく水をかぶって汗臭さを拭った弦一郎は、家できちんとアイロンを当て直してきた制服に着替えた。

 公演に行くのは、弦一郎だけである。

 毎年、公演には、弦一郎を含む家族三、四人で向かっていた。今年は弦右衛門と二人で来る予定だったのだが、女将が来るとあっては、万が一ばったり顔を合わせてはならぬということで、急遽キャンセルすることになったのだ。

 蓮二は一度家に帰って家族と劇場に向かうらしく、「それを忘れるなよ」とラケットバッグにぶら下がるお守りをしつこく指さしてから、何故か精市と連れ立ち、大急ぎで帰宅していった。

 弦一郎は適当に昼食を取ってから電車で劇場に向かえば、ちょうどいい時間だった。
 大きく豪華な入口前に毎年どんと置かれる、相撲の番付よろしく木板に筆で見事に書かれた出演者表を眺める。何々流の名取の誰それ、といった名前が並ぶ中、やはり一番でかでかと書かれて目にとまるのは、重要無形文化財保持者・上杉紅椿の名前。演目は、あの『京鹿子娘道成寺』だ。
 弦一郎は二度目だが、舞台装置も衣装もかなり大仰で、演者の負担も大きい演目だけあって、紅椿の当たり役と言われながらも、実際に演じられる機会はあまり多くない、というのを、弦一郎は蓮二の姉・蓮華から聞いた。今回の舞台、彼女はさぞ喜んでいるだろう。

 そしてその横に、紅椿の名前より小さめの文字で書かれた名前を、弦一郎はじっと見た。

  花井流 名取
   上杉 紅梅 演『手習子』


 しばらくその字を眺めてから、弦一郎はラケットバッグを劇場のクロークサービスに預け、ひとり自分の席に向かった。



 紅梅が取ってくれる席は毎年同じような場所なので、弦一郎は迷いもせず、まっすぐ自分の席を見つけて腰掛けた。
 少し離れたところに、柳一家の姿も見える。しかし、念のため知己であるとわからぬようにと打ち合わせをしているので、ちらりと見るだけに留めた。
 席は随分埋まってきているが、まだ始まるまで少し時間がある。照明もまだ明るいので、パンフレットでも見て時間を潰すか、と手元の冊子をぱらりとめくったその時、弦一郎は、ふと気配を感じて顔を上げた。

 すると、弦一郎が座っている列の席に座ろうとしているのだろう、和服を着た小柄な老女が、すんまへん、とことわりながら、着席している観客の膝を避けて進んでいるのが見えた。
 しかし老女は杖をついていて、そして杖をついているだけあって、足が悪いようだ。そして自分の足に加え、杖が人の膝にぶつからないようにするのに、人一倍難儀しているようである。
 それでも通路側の数人をなんとか乗り越え、あともう一人となる。しかし最後の一人は少しヒールの高いブーツを履いた女性で、申し訳無さそうに限界まで脚を引っ込めてはいるが、ほとんどすり足で歩いている老女が通るには、どうも危なっかしい。
 見かねた弦一郎は、立ち上がった。

「大丈夫ですか」

 弦一郎は、静かに声をかけた。
 お手伝いします、杖を持ちましょう、と手を差し出せば、まず、ブーツの女性が、ほっとしたような、感心したような顔で、制服姿の弦一郎を見る。
 そして、老女がにっこりと微笑んだ。

「へぇ、えろぅおおきに」

 とてもやさしい、ほんわりとした上品な声。
 あまりにも耳にやさしい声、そしてしばらく聞いていない、かの土地の言葉に弦一郎は少し驚き、しかし思わず笑みを浮かべた。
 弦一郎は丁寧に杖を受け取り、もう片方の手で老女を支えると、ブーツの女性の前を通るのを手伝っただけでなく、そのまま席まで案内する。

 ──席は、弦一郎の隣だった。

「大丈夫ですか」
「へぇへぇ、ほんに親切にして頂いて」
 腰も悪いのか、ひどくゆっくりと席につく老女を、弦一郎は丁寧に、そして的確に支えた。
 それは祖母が入院していた頃、看護師がやるのを見て、聞いて、いつかできるようにと教わったやり方だった。
 あの頃の弦一郎は小さくて祖母を支えることも出来ず、結局覚えたことを祖母にしてやることはできなかったが、何が役に立つかわからないものだな、と、弦一郎はひとり密かにしみじみする。

 預かっていた杖をそっと肘掛けの隙間に立てかけると、老女は「えろぅおおきに」ともう一度礼を言い、にこにこしながら、小さく頭を下げた。
 老女はとても小柄で、肩がないのではないかというくらいのなで肩で、しかしこの上なく着物の似合う、華奢なひとだった。弦一郎よりも、ふたまわりくらい小さい気がするほどだ。地味な色だが、かなり上等な訪問着をぴしりと美しく着こなしていて、真っ白な髪を上品に結い上げている。
 洗練された品のいい身なりだが、それよりも弦一郎は、老女が常ににこにこと微笑んでいてやさしげな表情であるのに、とても好感を持った。小柄なのもあって、地蔵菩薩がそのまま老女に化身したような感じである。思わず手を合わせてしまいそうだ。

「紅椿はんを観に来はったの?」
「あ……、いえ、はい、まあ……」

 ふんわりとくすぐるような声で話しかけられて、弦一郎は曖昧な返事をしてしまった。
 この公演は様々な演者が舞台に立つが、やはり目玉は人間国宝・紅椿であるし、実際それ目当ての観客がほとんどであろうが、弦一郎は、紅椿のファンというわけではない。
 適当な事を言えばいいものの、馬鹿正直に答えに窮している弦一郎に、老女は目を細めた。その表情はとても慈愛にあふれていて、本当に地蔵菩薩に似ている。

「ほな、“紅梅ちゃん”やろか」
「えっ」
「人気やもんねえ、いま」
「……そう、なのですか?」

 今日舞台に立つのは、紅椿だけではない。何々流の名取の誰それが何人もいる中、もしかしなくとも最年少の紅梅の名前がすぐ出てきたのに驚いて、弦一郎は呆然とした声を出す。

「そら、もォ。まずあの紅椿の跡取りやし、えろぅ若うで名取になって、可愛らしぃしなァ」
「……はあ」
「ファンクラブもあるんよ」
「はあ!?」
「おじさんと、おばさんばっかりやけど。ちょっとしたアイドルどすえ」

 狭ァい世界の話やけどな、と言って、老女は上品にころころ笑った。

「そやからあんたはんも、あン子のファンかと思たんやけど」
「ああ、ええと、……はあ、」
「可愛らしぃもんなァ」

 弦一郎のもたもたした返事をどう捉えているのか、勝手ににこにこ話す老女に、弦一郎はまた「はあ」と不明瞭な返事をした。
 状況に、ついていけない。紅梅は紅椿の後継者であり、テレビで取材もされ、日舞の雑誌にも掲載され、花柳界で、日舞の世界でそれなりに有名で特別な存在であるということはわかっていたが、ファンクラブがあるなどということは、全く知らなかった。

「あ、……貴女は、紅梅……さん、の、ファン……、なのですか?」
「ほほほ。そやねぇ、まだまだ紅椿には及ばんとは思うけど」

 まだ幕の上がっていない舞台を遠く見つめ、菩薩の笑みを浮かべた老女は、とてもやさしい声色で言った。

「──よぅ出来た子や」

 フッと照明が暗くなり、それ以上会話が続くことはなかった。



 まずは何人か、──つまりは何々流の名取の誰それらの演目がいくつか続いたが、相変わらず、弦一郎には豚に真珠であった。
 紅梅から『松廼羽衣』を習い、実際にやってみたことで、あああそこは難しそうだなあ、とか、今のはすばらしく上手かったな、などの技術的な所は理解できるようになっていたし、紅梅が載っている日舞の雑誌を流し読みでも読んで知識はぐんと増えていたので、今までよりはかなり理解をした上で鑑賞出来たように思う。
 だがそれでもやはり、例えば「どういうところが好きだったか」などと聞かれたら、弦一郎は答えられないのだった。違いはわかってきても、本心からの興味が動かない。

 そしてそれは、小休憩を挟み、二度目に観る紅椿の『京鹿子娘道成寺』に関しても、本質的なところでは同じだった。
 人とは思えぬ神気でホールのすべてを支配する凄みは相変わらずだが、見終わった後、たくさんの観客たちが夢を見たようなぽわんとした顔をしている中、弦一郎は、はあ、と重い溜息をついただけである。
 周囲の人はまるで天女でも見たような様子だが、弦一郎としては、どちらかというと、百鬼夜行が通りすぎるのを、息を潜めてやり過ごしたような感覚に近かった。

「……あんたはんは、化かされてへんのやねえ」

 紅椿の舞台の直後だったからか、静かな声が自分に向けられたものだと、弦一郎はすぐにはわからず、更には聞こえた方向もなんだか曖昧になって、少しきょろきょろしてしまった。
 そして真横に顔を向けると、白髪の小柄な老女が、少し面白そうな、──だがどこか見定めるような目で弦一郎を見ていたので、弦一郎はぎくりとした。

「ば、化かされる、とは……どういう」
「玉藻前、て知ってはる?」
「……栃木の、殺生石の、ですか」
「そや、そや、よぅ知ってはるなァ、若いのに」

 老女は、にっこりした。
 彼女が言ったのは、いわゆる九尾の狐、白面金毛九尾の狐のことだ。
 中国神話が原点と言われているが、定かではない。物語の多くでは絶世の美女に化けた悪しき霊的存在として登場し、殷の紂王を誘惑して国を滅亡させた妲己や、古代インドの王子・班足太子の妃になった華陽夫人も九尾の狐の化身といわれている。
 そして老女の言った「玉藻前」とは、御伽草子に登場する、これまた絶世の美女に化けた狐のことだ。鳥羽上皇の寵愛を受け、しかし上皇を取り殺そうとしたのを陰陽師に見破られ、白面金毛九尾の狐の姿となって行方をくらました。
 その後、白面金毛九尾の狐は今の栃木県、那須野で発見されて討伐され、殺生石という、近づくものの命を奪う呪われた石となった──という結末が記されている。
 また、傾国の美女に化けた悪しき九尾の狐という題材があまりにもぴったりかぶっているので、妲己、華陽夫人、玉藻前は同一の存在で、インドから中国、最後に日本に来て同じことをしてとうとう討伐されたのだ、という説もわりと定番である。

「ここだけの話な」

 老女は声を潜め、いかにも内緒のことである風に言った。

「紅椿はん、狐やの」
「は」

 弦一郎はぽかんとして、今までで一番間の抜けた声を出してしまった。

「……きつね、ですか」
「そう、そう。そやから化かすん得意やの。内緒え」
 もちろん冗談であろうし、わざとらしくまじめな顔を作って言う老女を見れば、それは明らかだ。
 しかし、老いてなお美しい紅椿の容貌、切れ長の目や口の端を釣り上げるような笑い方など、紅椿のことを思い出せば思い出すほど狐っぽいような気がする。そして何より“化かすのが上手”というのが彼女に当てはまりすぎていて、弦一郎は思わず「ああなるほど」と納得してしまった。
 更には、

「はあ、………………蛇だと思っていました」

 と、つい言ってしまった。
 ぼんやりしたふうの弦一郎のその言葉に、今度は老女が目を丸くする。そして弦一郎が、しまった、とはっとした時には、老女は割と大きく噴き出していた。

「ほほほほほ! あんたはん、言いよるなァ」
「あ、いえ、あの、すみません」
「ほほほ、蛇、ほほほ。まあ、今まさに蛇やったけども」

 何かつぼにはまったらしい老女は、「ああおかしい」と言いながら、取り出したハンカチで、目元を押さえさえしていた。

「ほほほ。まあ、わかっとったらよろしおすのや」
「……はあ」
「そやねぇ。蛇はどっちかいうたら縁起モンや、特に白いのはな。弁天様てわかる? 弁財天」
「はい」
 七福神の紅一点でもある女神だ。琵琶を持ち、中国の女神っぽい衣装を纏った姿を思い浮かべながら、弦一郎は頷く。
「白い蛇は、弁天はんのお使いていわれとるんよ。芸事の、特に女子おなごの芸事上達のご利益があるよって、アテらには特に縁起がよろしおすの」
「へえ……」
「そやから、白蛇いうたら女神様や。清姫や花子みたいに、怨霊ばっかりやないんよ」

 年賀状などの蛇年の絵柄は必ず白蛇であるし、白蛇が縁起物ということは、弦一郎も知っている。しかし弁才天の使いだからというのは知らず、感心した。

「蛇の女子はなァ、情の深い、健気な生きもんなんよ。白娘子とか」
「はくじょうし?」
「オヤ、これは知らへんか。中国のお話。『白蛇伝』いうてな、面白おすえ。清姫もなァ、……ほんまに安珍が好きやっただけや。裏切ったんは、安珍のほうえ」
「……まあ、そうですね」

 道成寺物の下地となっている安珍・清姫伝説にはあらすじが諸説あり、はじめ安珍が清姫に結婚すると言ったくせに正体を知って恐れて逃げたというものや、いわゆる伊勢物語の筒井筒のような幼馴染だったのにやはり安珍が裏切ったとかもあれば、一方的に清姫が安珍に思いを寄せ、女だてらに夜這いをかけたが応えてもらえなかった、というものもある。
 だが、清姫の想いに安珍が応えず、それを恨みに思った清姫が化けて出て怨霊になった、というところは共通している。

「『白蛇伝』は、そのあたり、逆やの。白娘子は白蛇の精で、人間の男はんの、許仙いうんと相思相愛になって、夫婦になって、いろんな苦難を乗り越えて……子供が生まれて、幸せに暮らすんよ」
「へえ……、悲恋ばかりではないのですね」
 子供に聞かせるような昔話の類はハッピーエンドのほうが多いが、そうでない場合、古典の恋愛譚は悲恋のほうが多い。
「まーァ、許仙もなかなかへたれた男どすけどな、捕まった白娘子を助けようと色々するんよ。格好悪くはあるけども、途中で逃げたり、心が変わったり、せえへんの」
「確かに、安珍とは逆ですね」
 徹頭徹尾、安珍は清姫から逃げ続け、彼女に真正面から相対することはない。ただ清姫を化け物と恐れ、恐ろしやと怯えるだけだ。結局清姫は調伏されてしまうが、弦一郎としては、清姫が安珍を丸呑みでもしたほうがすっとする、とさえ思っている。

 ──と、つい弦一郎が言えば、老女は面白そうな顔をした。

「そやねえ。清姫も、それができたら楽なんやろねェ」
「どういう意味ですか?」
「清姫は、安珍が好きで好きでたまらんのんえ。可愛さ余って憎さ百倍や。そやし、安珍を食い殺してしもたら、自分は恋する女やのぉて、ほんまに化け物いうことになってまう。そやから清姫は安珍を追いかけて、追い詰めて、ひどいことはするけども、結局殺さんし、逆に殺されてまうんよ」
「……なる、ほど」

 審美眼はあるが、想像力に乏しく、やや情緒の発達が鈍い弦一郎は、目から鱗、という感じで頷いた。

「そや、乙女心は怖おすえぇ。女子が化けるんは、男はん次第や」

 そう言って、老女はにっこりした。
 相変わらず柔和な笑みだが、どこか凄みを感じて、弦一郎は少し気圧される。

「はくじゃでん、……『白蛇伝』ですか。帰ったら、調べてみます」
「そうし、そうし」

 うんうんと老女が頷くと、また、幕が上がった。



  今を盛りの花の山 飽かぬ眺めの可愛らし……

 お囃子のような軽い調子の音楽とともに花道に現れた姿に、観客たちから、微笑ましさの滲んだ息がほうと漏れ、和やかな感じの拍手が起こった。
 先ほどまで、大蛇と化して大暴れしていた紅椿の花子白拍子を見ていただけに、だらりの帯を締め、赤い鹿の子や房、何本もの花かんざしや櫛を使って華やかに髪を結い上げた若々しい町娘は、とても初々しくて可愛らしく感じられるのだろう。

 ──もちろん、紅梅である。

 手習草紙を手に持ち、こてん、と首を傾げてちょこちょこと花道を往く少女の姿は、日舞の分からぬ朴念仁の弦一郎でも、素直にただ可愛らしいな、と思えた。
 花道を行き、紅梅が舞台中央まで来ると、もう一度まばらな拍手が起こる。弦一郎も、控えめに拍手をした。

  遅桜 まだ蕾なり花娘
  寺子戻りの道草に てんと見事な色桜


 演目の名は、『手習子』。

 二十分もないくらいの演目で、着物の肩上げもまだとれないような町娘が、寺子屋帰りに日傘をさして、のどかな春の陽を浴びながら、蝶を追ったり、恋についてのおませな歌を歌いながら道草をするという、これといったストーリーのない内容だ。
 ただし、恋心を踊る歌詞に、“ふつり悋気”とか、“言わず語らぬわが心”など、紅椿が演じた『京鹿子娘道成寺』と同じ節が、度々現れる。これはもちろん偶然ではなく、つまり『手習子』は、ストーリーこそ全く違うが、『京鹿子娘道成寺』のエッセンスを抜き出して作られた演目でもある。
 道成寺を無垢な少女に演じさせたらどうなるか、というパロディ的な意図や、安珍に裏切られる前の幸せだった頃の清姫をイメージしているとされることもある、とは、パンフレットの解説である。

 そしてこの演目が選ばれたのは、紅梅が紅椿の後継者と言われており、また世間がその期待を持って注目し、観に来ているということを意識してのことだろう、というのは、弦一郎にもすぐ察することが出来た。

  雛草結ぶ島田髷 はしたないやら 恋じゃやら
  肩縫い上げのしどけなく こより喰い切り 縁結び
  ほどけかかりし繻子の帯 振りの袂のこぼれ梅
  花の笑顔のいとしらし 二つ文字から書き初めて
  悋気恥ずかし角文字の 直ぐな心の一筋に
  お師匠さんのおしゃったを ほんに忘れはせぬけれど
  ふつり悋気せまいぞと たしなんで見ても情けなや
  まだ娘気の後や先 あづまへもなきあどなさは
  粋なとりなり 目に立つ娘
  娘々と沢山そうに 言うておくれな手習おぼえ
  琴や三味線 踊りの稽古

『京鹿子娘道成寺』のエッセンスが確かにあるのに、『手習子』には道成寺の緊張感など何もなく、ただ穏やかで、愛らしい。ひたすら楽しそうに踊る少女を、観客たちは、ぽわんとした気持ちで眺めていた。
 それは、弦一郎とて例外ではない。だが、白塗りの化粧に豪華な着物を纏い、さらさらと飾りが揺れる日本髪の彼女が本当に自分の知っている“上杉紅梅”なのかわからず、弦一郎はじっと舞台の上で舞う少女を見つめた。
 ──蓮二と同じくらいの身長になった、と聞いた。しかし、膝を曲げ、日本髪を結い、ゆったりとではあるが一瞬たりとも止まることなく動き続ける少女が自分の友人と同じ身長かどうか、舞台にはとても手の届かぬ座席に座った弦一郎には、よくわからない。

 少女は手習草紙を扇に持ち替え、更に今度は、透け紙の傘を使って舞い始める。

  言わず語らぬ我が心 乱れし髪の乱るるも
  つれないはただ 移り気な
  どうでも男は悪性もの
  桜々と謡われて 言うて袂の分二つ
  勤めさえただうかうかと どうでも女子は悪性者

 あどけない少女が、大人のように舞う。恋を知っているかのように舞う。
 好きな男に裏切られ、それでも恋を捨てられず、恨んで化けて追い詰めて、しかしやはり男を殺せなかった清姫と、同じことを歌いながら。
 隣にいる老女は、女が化けるかは男次第だと言った。ならばこうして楽しげに恋を歌う可憐な少女も、男に裏切られたその時、恨みに化けて大蛇となり、炎に身を焦がすのだろうか。

  あずま育ちは 蓮葉な者じゃえ
  恋のいろはにほの字を書いて それで浮名のちりぬるを
  わが世誰そ 常ならむ 心奥山きょう越えて 逢うた夢見し嬉しさに
  飲めども酒に酔いもせず 京ぞ恋路の清書なり

 娘が、手に持った手習草紙に、なにか書くような仕草をする。
 綴るのは、寺子屋で習ったいろはだろうか、それとも誰かに伝える言葉だろうか。

  つまのためとて天神様へ願かけて
  梅を断ちますめいはく サア我一代
  断ちますめいはく 梅を
  梅を断ちますめいはく サア我一代


 傘をくるりと回し、時に投げて受け取りといった、やや曲芸じみた振付が続く。
 ゆっくり動いているのに傘を取り落とすことなど全くなく、なんだか傘が宙にふわふわ浮いているようにも見えてくる。
 少女は舞台の中程で蝶を追いかけたりしてひっきりなしに走り回っており、一見無邪気な様子そのものだが、頭の位置は全く変わらず、まるですぅと滑って──浮いて移動しているようだ。足音も、全く聞こえない。

 あれは、本当に人間の娘だろうか。
 羽衣を纏った、天女ではないだろうか。

  諸鳥のさえずり 梢々こずえこずえの枝に移りて
  風に翼のひらひらひら 梅と椿の花笠着せて

 あれは、本当に、──弦一郎の知っている、彼女だろうか。
 纏う紅色は、椿だろうか。梅だろうか。

  梅と椿の花笠着せて 眺めつきせぬ春景色……

 手習草紙を手に持ち、日傘を傾けて、少女の動きが止まる。
 途端、盛大な拍手が沸き起こった。
 / 目次 / 
BY 餡子郎
トップに戻る