心に欲なき時は義理を行う
(十二)
「どうぞおいでやすぅ。梅ちゃん、お通ししといて」
「へぇ」
すぐ近所どすの、と紅式部が案内した『花さと』は本当に瓢屋の近所で、殆ど斜向かいと言っていいような場所にあった。
紅式部が奥に消え、蓮二たちは紅梅に案内されて、美しい調度の座敷に通された。『花さと』は置屋であって茶屋ではないが、まるで茶室のような、優雅に洗練された応接間である。
茶道家であり、そのため骨董や調度品にも詳しい祖父が、ほぅ、と惚れ惚れした声を上げた。
それから先は、目が回るほどにトントン拍子だった。
あまりに調子よく話が進むので、父はもちろん、事前に段取りをわかっていたはずの蓮華本人や、あの祖父母でさえ目を白黒させている。
あの『花さと』の芸妓である紅式部や、紅椿の後継者と言われる紅梅とあっという間に知りあったかと思うと、いますぐ女将と人間国宝・紅椿に面接、という運びになったのである。驚かないほうがおかしい。
実際、蓮二が描いたシナリオとて、もう少し紅梅に駄々をこねてもらったりと力技を使う予定もあったのだが、思いの外すんなりと行き過ぎて、拍子抜けしたほどだ。
お茶が運ばれてくると同時に、女将の紅葉、そして紅椿が姿を現す。
芸能人に会った、というならその通りなのだが、人間国宝という肩書、また何より本人が醸しだす雰囲気と迫力は“芸能人”などという安っぽい響きにとても釣り合うものではなく、例えば歴史上の偉人に会ったような感覚に近い、と、少なくとも蓮二は感じた。
実際、人間国宝として歴史に名が残る人なので、その認識は間違いではないだろう。
「へェ、いまどきえろぅ熱意のある娘さんどすなァ。習い事もきちんとしてはるし、うちに来ておくれやすのやったら、うちとしてはありがたいことどすえ」
蓮華の持っているスキルを話し、熱意と心構えを伝えて面接すると、にこにことして、『花さと』の女将──紅葉は言った。
直接の原因であるらしい弦右衛門のみならず真田家全てに出入り禁止を言い渡し、紅梅の生活のすべてを管理しているという事実、また弦一郎がなんだか妙に畏れを含んで話すので、もっときつい感じ──大げさに言えば鬼婆のような姿を想像していた蓮二であるが、実際の女将は、真っ白な、しかし豊かな髪を美しく結い上げた、とても上品で優しげな老女だった。
また、平均よりだいぶ小柄な人なので、そのちんまりした感じもなんだか可愛らしく、市松人形がそのまま老女になったような感じだ。
紅梅を菩薩に例えたが、菩薩ということなら、この女将のほうがよほどそれらしく思えるほどだ。後光が差しそうなほどに柔和な姿は、思わず手を合わせて拝みそうになる。
その舞は人ならざる、神の化身のごときと言われる迫力を持つ紅椿がすぐ隣りにいるので、女将の柔和さは、一同を心からほっとさせた。
「ほ、本当ですか!」
蓮華が身を乗り出し、感動のあまり、目をうるうるさせる。
憧れの『花さと』に上がり、誇張なしに神様のように思っている紅椿を目の前にして卒倒するのではないかというほど緊張していた彼女であるが、本番に強い性質を大いに発揮し、どれだけこの世界に入りたいか、どんなにやる気があるのかということを存分にアピールすることができた。
もはや熱血と言っていいほどの熱意は、あれほど反対していた父でさえぽかんとしてしまうほどのもので、そして女将は、うんうんと頷きながらとても嬉しそうににこにこ微笑んでそれを聞き、先ほどの台詞を言ったのだった。
「実は前から新しい妓ォ入れとおすなァて言うとったんどすけど、なかなかご縁がのぉて」
『花さと』は一般から舞妓見習いの募集をしていないが、求めていないわけではない。
むしろ店の存続のため、そして最近では割と切羽詰まって見習いの娘が入ることを希望してはいるのだが、人間国宝を有する格式高い置屋の立場としては、そのへんの馬の骨を手当たり次第に受け入れるわけにも行かない。
だから例えば日舞や茶道、華道、三味線、そういった縁ある習い事の師匠や家元、あるいは着物や小物の職人などに紹介を持ちかけてもいるのだが、彼ら彼女らにしても、あの『花さと』に紹介するならこれぞという娘を紹介しなければ、と意気込むので、なかなかすぐに差し出せぬ、というのが現状であったのだ。
県大会で、知る人ぞ知る選手ではあるがダークホース、という扱いであった蓮二と、はからずも、姉弟揃って同じような具合になったとも言える。
「柳センセんとこの娘さんやし、うちとしてはええご縁やと思いますえ」
とにこにこする女将に、蓮二は、こういう業界における自分の祖父母の知名度について、“データ”を上方修正した。
蓮二も祖父から茶道を習ってはいるが姉ほど本格的にではないし、祖母の手芸趣味についても、かなりのレベルだということは知っていたつもりだが、『花さと』の芸妓や女将が「ああ、あの」とすぐ頷くほど有名だということは知らなかった。
紅梅も手紙で「柳先生おふたりともいらっしゃるのでしたら、それでだいたい大丈夫だとは思います」と書いて寄越してきてはいたが、これほどまでとは思っていなかったのだ。
「じゃ、じゃあ……」
「そちらの都合のええ時から、仕込み、見習いに入ってもろて……」
「まァ、保護者がちゃあんと納得しはったら、やけどな」
ぱちん、と扇を閉じる音をさせてそう言ったのは、紅椿である。
その声に篭もる、霊力とも妖力とも感じる凄みに思わずごくりと唾を飲み込むと、切れ長の目がきろりと動き、蓮二と蓮華の父──鈴彦を見る。スーツを着込んだ父の肩がびくりとしたので、蓮二はなんだか気の毒な気持ちになった。
「お哥(にい)はん、さっきっからどうも納得いかんお顔してはりますやないの。あとから色々言われても困るよって、今のうちになんでも言うといたほうがよろしおすえ」
「もう、あんたはまたそない失礼な物言いしてからに。すんまへんなァ、お哥はん」
偉そうというよりは当然のごとく偉いという感じの紅椿の迫力と、困った顔で紅椿を宥める女将に、鈴彦は気圧されつつ、「いえ」と短く答える。
そんな彼に、紅葉はとても優しい顔をして、小さい体を更に屈め、伺うような姿勢をしてから、ゆったり言った。
「アテらの世界はやっぱり独特やし、今の御時世、中学卒業したばっかりの大事な娘はん預けるなん、心配なんは当然どすえ、なァ。すこぉしでも安心できるまで、なんでも聞いとくれやす」
慈愛と気遣いに溢れたその優しい物言いのあたたかさは、まさに菩薩の後光のごとしであった。
ぽかぽかと心が暖められるような心地に、柳家全員、思わずほぅっとため息をつく。そしてそれは、あれほど花柳界入りを反対していた父・鈴彦とて例外ではない。
「む、娘の母親は、銀座に店を持っておりまして」
「あらァ、そらご立派なことどすなァ」
「はい。しかしそのぶん、彼女はとても苦労をしました。高卒だということ、決して如何わしい商売ではありませんが、やはり水商売ですので、そういう面でも。……そして私はそれに大した理解も協力も出来ず、結局別れてしまいました」
「お父さん……」
父が蓮華の母についてこんなふうに言うのは初めてのことで、声を発した蓮華だけでなく、蓮二、そして祖父母も驚き、目を丸くした。
「私は、あまりいい父親ではありません。ですが娘には、なるべくいらぬ苦労はしてほしくないと思っています。それが、いい父親ではないのに養育権を譲ってくれた、この娘の母親への償いでもあります。何より、私がそうしたい」
しん、と、座敷が静まり返った。
スラックスを履いた膝に置かれた父の指に僅かに力が入っているのを、蓮二は見た。
「この子は学業が優秀ですし、今までは将来の夢として研究職の類を示していたと思っていたので、花柳界というのは青天の霹靂でした。母親と同じような──あ、いえ」
「ははあ、そら。水商売いうぶんには同じどすよってなァ、そら心配にもなりますわなぁ」
女将がうんうんと頷いて同意を示してくれたので、彼はホッとしたのか、僅かに笑みさえ浮かべた。仕事人間でほとんど家に帰らず、朗らかに話をするということも殆ど無い父がそうして笑うのを、蓮二も、蓮華も、もう何年ぶりに見ただろうか。
「ええ、それで私も驚いて、……つい、きついことを随分言ってしまいました。……悪かったな、蓮華」
「え、あ、うん……」
蓮華は、ほとんど呆けている。無理もないだろう。
「お前のお母さんとも、こういう感じで……、その。反省したつもりだったんだが」
「……そうなの」
蓮華の母は、蓮華によく似た、一本気で勝ち気な性格である。今回父がしたように頭から否定されたりしたら、これまた蓮華と同じように激高するというのは目に見える。
「この世界にしても、お母さんの仕事にしても、その、職業差別をしているわけではないんだ。今日もとても綺麗だったし、プロなんだなあと思う所がたくさんあった。……でもやはり、特別なぶん、潰しのきかない職業なことは確かだろう?」
何かあった時にやっぱりなあ、と続けた声には、紛れも無く、娘に対する心配がたっぷり篭っていた。
「でもお前は、本当に、この世界に入りたいんだな」
「うん」
「そうか……」
蓮華がはっきりと言うと、父は、力なく笑った。
「そうか……。私は、いよいよお前に何もしてやれなくなるんだな……」
ぼそり、と発されたその言葉に、蓮華は、これ以上なく目を見開いた。
「……お父さん、私に興味が無いんだと思ってた」
「それはない」
父は、先ほどの蓮華のように、はっきりと言った。
「いや、正直言って、茶道とか日舞とかはさっぱりわけがわからないんだが、なるべくお前のしたいようにしてほしいとは思っている。好きな学校に行って、好きな習い事をして、好きな人と結婚して……、という」
そう言った彼は、確かに、決して安くはない立海大付属の学費はもちろん、他のよくある習い事よりもはるかに費用のいる茶道や華道、三味線や日舞などの習い事も二つ返事で習わせたし、書籍やDVDも、着物も、楽器も、惜しみなく購入させていた。
「大学に進むなら、もっと学費とか、してやれることがいくらかあったんだがな。こういう世界に入るなら、お父さん、もう何もしてやれないからな」
寂しそうにそう言う父にはっとした蓮華は、やるせない気持ちで、くしゃりと表情を歪める。
この父は、仕事ばかりで、ほとんど家に帰ってこない。──それは一体どうしてなのか、自分は、ちゃんと考えたことがあっただろうか。
いや、それどころか、情緒溢れる趣味を解さぬ、面白みのない仕事人間だからと切り捨てて、自分の父をある種蔑んでもいた自分を顧みて、蓮華はとても恥ずかしい気持ちになった。
「すまないな、何もしてやれなくて」
「お父さん」
「ここに来れたのも、蓮二や、お祖父さんとお祖母さんのおかげだからな。私は本当に仕事しか出来なくて、まったく面白みのない人間だと今回つくづく──」
「そんなことない」
蓮華は、唇を噛んだ。声が震えている。泣くのを堪えている、と蓮二にもわかった。
「そんなことない。お父さんのおかげで、習い事とか、勉強とか、いっぱい出来たもん。だからここに居れるんだもん」
やりたいことがあっても、届かないどころかそのために努力することさえ出来ないもどかしさを、蓮華はこの一件でとくと体験した。
そして、周りの人達がチャンスを与えてくれる有り難さと、それに対してこの上なく感謝をしなければならないのだということについてもしっかり学んだ彼女は、目の前にいる自分の父こそその第一の人であったのだ、ということを、今、雷に打たれたように理解していた。
「いや、お前が頑張ったからだ」
「頑張ったけど、頑張らせてくれたのはお父さんだよ」
ずず、と、鼻をすする音がした。蓮華は一本気で勝ち気な性格だが、その反動のようにひどく感動屋だ。彼女の心は今、とても震えているのだろう。いつもは年齢以上にしっかりしている言葉遣いも、なんだか子供のようになっている。
「ごめんなさい、お父さん。ほんとにありがとう」
「そうか。そう言ってくれたら、私も」
そこまで言って、父もまた、目頭を押さえて黙った。
女将と紅梅はそれぞれ老若の菩薩のような佇まいでそれを見守り、後ろのほうにいた紅式部は、もらい泣きして手拭の端で目を押さえている。祖父母もまた、ずっと冷戦状態のようだった息子と孫が仲直りをしたので、肩を寄せあって嬉し泣きの涙が滲んでいるようだ。
そんな一同を見遣ってから、蓮二は、ひとり勝手に茶を飲んでいる紅椿を見た。するとばちりと目が合い、にやりと微笑まれる。
──蓮二は、弦一郎がこのひとを「大妖怪」と恐々言った意味を、このときなんとなく理解した。
それからは、更に和やかに話は進んだ。
結果として、蓮華を受け入れるための『花さと』の準備期間、せっかく仲直りしたのだから短い間ではあるが親子水入らずで過ごしてはどうか、という提案を兼ねて、蓮華は全国大会が終わる、夏休み明けくらいに『花さと』の仕込みになることになった。
初っ端から過酷な京都の夏を体験するのも辛かろうから、涼しくなっていく時期に、というのもある。
「ほな、神奈川で知り合うたおともだちいうんは、蓮華ちゃんと蓮二くんやったん?」
「そぉ」
女将の質問に、紅梅は、こくりと頷いた。“設定”どおりに。
「真田の家の子とちゃうかったんか」
「……それは、ちゃう女の子や」
真田家に毎年出入りしている、ということ自体は、小学四年生の夏に既にばれている。しかし、仲良くなった友達──つまり弦一郎が男であることを伏せ、なんとか勘弁してもらっているのだということも、蓮二は事前に知っていた。
「ははあ。ほな瓢屋はんのとこで受け取っとる手紙は、その子かえ」
紅梅が、びくりと肩を震わせる。知られているとは知らなかった、ということだろう。
「名前は?」
「……せぇちゃん」
咄嗟か、それとも前から用意していたのか、紅梅は精市の名前を出した。
「せぇちゃん?」
「せい子ちゃん」
「……俺のクラスメイトでもあります。今回のことも、少しだけ口を利いてもらって」
真田せい子、という謎のハイブリッド・キャラクターが生まれてしまった瞬間を、蓮二は目撃した。はらはらした様子の姉をアイコンタクトで制止し、蓮二はそっと口を挟む。
「詳しいご事情は存じませんが、自分の名前を出すのはあまり良くないだろうから、とも言われました。ご不快でしたら、申し訳ありません」
「ああ、ああ、ええんよ。別に怒っとるわけやないんやし」
女将は仏像さながらに微笑んではいるが、もしかしたら笑面夜叉かもしれない。さすがの蓮二も、老舗置屋の女将の京女ポーカーフェイスを読み取れる自信はなかった。
先ほどまでの女将はまことに慈愛溢れて菩薩のごとしであったし、今も美しい微笑みを浮かべてはいる。しかし真田家を出入り禁止にし、紅梅のすべてに関して管理を徹底しているのも事実なのである。
このひとの本質がどんなものなのか、いくらデータがあろうとも、人生経験の足りない蓮二にはわからなかった。
「……ほぉかぁ……、縁やなあ……」
ぼんやりした感じの女将のその声は、なんだかとても遠かった。
「──そうか。全てうまく行ったなら何よりだ」
「良かったね」
「ありがとう、二人共」
神奈川に戻り、翌日の練習で、蓮二は早速、弦一郎と精市に結果を報告した。
蓮華が無事に『花さと』に入れることになったこと、また父親と和解したことについて、二人は心から良かったと言ってくれたので、蓮二もまた、心から二人に礼を言った。
姉も改めて礼をしたいと言っているので、また近いうちに遊びに来てくれ、と言った蓮二に二人が頷いてから、それぞれ練習に戻る。
七月半ばには、関東大会だ。今まで基本的に神奈川県内の選手としか試合をしたことのない精市と弦一郎にとっては、ほとんど初めての規模の大会である。
「ああ、弦一郎、ちょっといいか」
練習の合間の頃合いを見て、蓮二は弦一郎を呼んだ。
そして少し申し訳無さそうに、“真田せい子”の話をする。
相手が弦一郎という同い年の男であることはまだばれていないようだが、真田家の人間と文通をしている事自体は女将に知られている、ということを聞いて、弦一郎は驚き、少し青くなった。
「……なので、これからは、差出人名や宛名は、念のため“真田せい子”と書いたほうがいいかもしれない」
「そうか……わかった」
弦一郎は、神妙に頷いた。
「……紅梅は、元気だったか」
少し間を空けて、ぼそり、と呟くように発されたその台詞に、蓮二は微笑む。
「ああ、とても。お前から聞いていた通りの人だった。おっとりしていて、いつもにこにこしている感じの。だが話すと、口調は穏やかだが隅々まできっちりしていて、気持ちが良いな」
「そうか」
と答えてはいるが、大きく頷きながらの弦一郎の様子は、そうだろう、とでも言わんばかりだ。
「だが、背丈は聞いていたより少し高いくらいだったな。ちょうど俺と同じくらいだ」
「ふむ、では、伸びたのだな」
俺より高い時もあったから、もしかしたら長身になるのかもしれない、と言って、弦一郎は、自分より些か低い、蓮二の頭頂に目をやった。これくらいか、と思っているのだろう。
「お梅、と呼ぶことにした」
とも、報告した。
蓮二としては、もしかしたら、例えばいらっとされるとか、面白くなさそうな顔をされたりなどするかなと思ったのだが、弦一郎の答えは「うちのお祖父様などもそう呼んでいるな」と、ごく普通であったので、蓮二は少し拍子抜けした。
だが、「話した時間はあまり多くなかったが、お前のことばかり聞かれたぞ」と言うと、むにゃ、と弦一郎の口の端が見たことのない形に歪んだので、蓮二はつい笑いそうになるのを堪える。
そして帰り際、まだ少し話している大人たちから少し離れて、紅梅と一対一で言葉を交わした、短い時間を思い出した。
「……それ、立海の制服やね?」
蓮二の服装をまじまじと見て、紅梅はそう言った。
「ああ。冬服はブレザーの上着を着る」
「弦ちゃんも、おなじの着てはるんよねえ」
女将たちに聞こえないように、紅梅の声はひそひそとしている。
「……弦ちゃん、ボタンひとつ外して、ネクタイもすこぉし緩めてはる?」
立海に入学してから、弦一郎には一度も会ったことのないはずの紅梅のその言葉に、蓮二は少し驚いた。その通りだったからだ。
「よく知っているな」
「喉が苦しゅうてしんどいて、手紙で言うてはったんえ。ほいで、ボタンひとつとネクタイ少し緩めるくらいやったら、そないだらしなくもないんとちゃうかなて言うたん」
「……なるほど」
入学当初はきっちりとすべてボタンを止め、ネクタイも詰めていた弦一郎が、いつ頃からか今の着方をするようになったのは彼女のせいと知り、蓮二はなんだか不思議な気分になった。
彼らは、一年に一度しか会えない間柄のはずだ。だがこうして襟元の細かい着こなしを把握しているほど、その距離は近く、親密なのである。
「蓮ちゃんは、きっちり着てはるなぁ?」
「俺はまだ、喉が出ていないからな。そのうち苦しくなったら、弦一郎のようにするかもしれない」
「ふぅん、男はんて不思議やねえ」
まじまじと喉を見られて、蓮二はむず痒い気分になった。
「弦ちゃん、声、低ぅなった?」
「高い時を知らないが、初めて会った頃は、声変わりの途中で、がらがらしていたな。少し辛そうだった。今は……、そうだな、普通より少し低いくらいじゃないか」
「ふひゃ」
紅梅が、その佇まいからはちょっと想像がつかないような珍妙な笑い声を上げたので、蓮二は少しびっくりした。
彼女は指先を隠した袖を口元にあて、垂れ目が本当に蕩けそうなほど目を細めている。
「さよかぁ。聞くの楽しみやなぁ」
そのあと、弦一郎と同じようにボタンをひとつ開けてネクタイを緩めてみてくれと言われその通りにすると、紅梅は何が楽しいのか、蓮二の周りをうろうろしながら、ずっとにまにま笑っていた。
「あとは、そうだ。俺も少し驚いたのだが、俺とお梅が似ているとか、兄妹、双子に見えるとかよく言われてな」
「お前と、紅梅が?」
最初に言い出したのは蓮華だが、皆の前で言うと、あら本当、確かに、と同意を得られたことも話す。
弦一郎はきょとんとした顔をして、蓮二の顔をまじまじと見た。そして数秒してから、なんと、「……ああ」と、納得したような声まで出した。
「似ているだろうか」
「うむ、そう言われれば、似ている」
二度重ねて頷いてから、弦一郎はきっぱり断言した。
「兄と妹とか、双子と言われれば、信じるな、確かに。そういえば、初めて会った時、あいつはお前と同じ髪型だった。……いや、そんなことより、何だ。顔がどうこうというより、雰囲気が似ている。静かな感じが」
「そうだろうか」
「うむ。似ている」
その後、弦一郎は「似ている」と少なくとも三度は言い、どこが似ているとか、そこは違う気がするとかも、いちいち言った。
京都で、紅梅のために弦一郎と同じ制服の着方をしてみせたこともそうだが、さんざん世話になったのだから、二人の間の橋渡しくらい、蓮二は喜んでするつもりではある。
なので二人が満足するなら大変結構ではあるのだが、その後数日間、時々、じっと蓮二を見つめたりする弦一郎には、正直ちょっと勘弁して欲しい、と思ったというのは、余談である。