心に欲なき時は義理を行う
(十一)
 テニス名門・立海大附属中学のレギュラーのうち三人もが一年生、というのは、世間の注目をおおいに集めた。そしてそのうちの二人が幸村精市と真田弦一郎であることがわかると、やはり、という納得が広まる。
 その点、ジュニアテニスでは注目度が低いダブルスで活躍してきた蓮二は、知る人ぞ知る、という感じで、どちらかというとダークホース的な扱いだった。しかし“データ”に基づく超絶技巧による蓮二のテニスが注目を集めるのは、さほどの時間もかからない。

 優勝こそしないものの全国大会を戦った経験を有し、ベテランの様相の濃い堅実なテニスをする部長・副部長を含む三年生。その下で力をつけてきた、二年生の錦。
 そして一年生とは思えぬレベルの実力を持ち、その上一試合ごとに成長を見せるという、破竹の勢いの一年生三人。

 この死角のないメンバーによって、立海大付属中男子テニス部は、地区予選を楽々通過。そして、更に圧倒的な実力を見せつけつつ、神奈川県大会を優勝したのであった。






 そして、神奈川県大会を終え、来月半ばに関東大会を控えた、六月末の土曜日。

 割と朝早くから、留守番に残された養母を除く柳一家は、新横浜から新幹線に乗って、京都に向かっていた。
 目的は、京花街の合同公演『古都の賑』の鑑賞と、そのあとのおもてなしの会、『花の夕べ』への参加である。

 その催しを、最初の手紙で紅梅が提案した通り、蓮二は、物騒な言い方をすれば、決戦の場に選んだ。

 父はとにかく反対の一点張りではあるが、その実、花街のことなどほとんど知らない。まず花柳界が、大人の、しかもいうなれば上流階級の遊び場・社交場であるという認識から、すなわち大人の自分のほうが何もかもよくわかっている、と思っているだけにすぎない。
 京都の全ての芸舞妓が、所属の花街や置屋の隔てなく舞台に立って舞を披露するという公演『古都の賑』と、同じように座敷で客をもてなしてくれる『花の夕べ』は、そんな父にその世界を見せるには、もってこいの場である。

 また、元々日本古来からの風流をこよなく愛し、蓮二以上に様々な知人友人に連絡をとって駆けずり回っていた祖父母にとっては、単純に楽しみな労いの場でもある。
 それなりに競争率の高いチケットを一家分確保してくれたのは紅梅だが、この公演を蓮二が教えると、祖父母は太っ腹に、財布の紐を緩めてくれた。
 不機嫌な顔で新幹線の座席に座っている父親とは正反対に、仲睦まじい様子で公演のパンフレットを眺めている祖父母は、揃って気に入りの着物を着こみ、なかなかに楽しそうである。

 この、どんなに険悪な場でも基本的にマイペースを貫く祖父母のおかげで、この複雑な家庭環境でも、蓮二と蓮華は祖父母と同じようにマイペースでいられたし、そういさせてくれる祖父母が大好きだ。
 蓮二と蓮華のそれぞれの母も、別れてしまってはいるが、この祖父母のことを悪く言ったことは一度もない。どころか、彼らのおかげで自分の息子や娘が健やかでいられる、と思っている節がよく感じられた。
 それぞれ息子と娘を愛していながら、本人らの意思を尊重して無理に手元に置かずにいるのも、二人の母が柳の祖父母を信頼しているからだ。

 ──そして、約二時間の乗車で、新幹線は京都に着く。

 降車した途端感じる、関東とはどこか様相の違う、六月末のむっとした暑さ。
 緊張で口数が少ない姉、そして最後尾でしかめっ面のままの父を引き連れて、蓮二は事前に調べつくしているルートを、迷いなく歩く。にこにこしているのは、蓮二に任せておけば楽だねえ、とマイペースな祖父母だけだ。

 目指すは、四條。
 江戸時代に建設された、日本最古の劇場、南座である。



 午後の部は、13:15開演、14:00〜16:30上演。
 早めに来たので、四条大橋付近の観光などもぶらりとしつつ、時間が迫ると、南座名物の折詰弁当を購入して、座席に座った。
 すっかり普通に観光を楽しんでいる祖父母のおかげか、あこがれの京の町並みのせいか、それとも舞台への期待のせいか、この頃には、蓮華の緊張もいくらか取れたようだ。蓮二よりも詳しい京都の知識や薀蓄を披露したりもしていたので、蓮二も少しほっとした。

 ──そして、開演。

 祇園、宮川町、先斗町、等々。それぞれの花街から、一幕ずつ舞が披露される。
 本来、座敷遊びは贔屓の置屋や茶屋を渡り歩くのは野暮と言われて嫌われるため、こうして全ての花街の芸妓や舞妓、その舞を一度に全て見られるというのは、この年に一度の合同公演、『古都の賑』だけの贅沢だ。
 更には最後、すべての花街の舞妓が全員舞台に上がり、バレエの群舞コール・ドよろしく舞うのであるから、圧巻である。

 二時間以上の公演、観客たちは惜しみない拍手を贈った。
 蓮二もまた拍手をしながら、ちらりと横の家族を見る。
 己が憧れ、目指す姿を目にして完全に緊張が取れ、それどころか彼女一流の闘志にも近い決意を目に宿らせている姉を心強く思いつつ、やはりしかめっ面で、あからさまに儀礼の粋を出ない拍手をしている父を見て、蓮二もまた気合を入れなおした。



 そしてすっかり暗くなった18:30頃から、すべての花街の舞妓と芸妓がもてなしをしてくれる食事会、『花の夕べ』である。
 ホテルの大広間を会場とするほうは定員も多めで料金も安いが、老舗料亭に三十人ほどずつ分けられてのほうは競争率が非常に激しく、料金も倍はする。──それでも、個人で普通にお座敷遊びをするよりは、比べるべくもなくリーズナブルな値段であるが。

「どのお姐さんたちも、綺麗だねえ」
「ええ、本当に。みなさんやさしくて、天女様のようねえ」

 襖を取り払って膳を並べ、そこに舞妓や芸妓が酌をして回ったり、向かいに座って話をしてくれたり、あるいは舞を含む座敷芸を披露してくれるこの食事会を、祖父母は素直かつ存分に楽しんでいる。
 父も、それこそ“天女”さながらの彼女らの独特の雰囲気に毒を抜かれたか、それとも蓮二にはまだわからぬ酒の力か、いくらかは険が取れたような気がするが、同時に、相変わらず、騙されぬぞ、というような気配も見て取れる。

 ちなみに、祖父母と蓮華は着物姿であり、父はスーツ、蓮二は制服である。
 正直言えば、せっかく滅多に味わえぬ場であるので蓮二も着物を着て参加してみたかったが、身なりからして家族の間で孤立している父とつながりを持たせる雰囲気が出れば、と思い、蓮二はこの姿を選んだ。
 しかし、学生の立派な正装とはいえ、この場で中学校の制服姿はやけに目立つ。

「姉さん、そろそろだと思う」

 宴もそろそろ終わりかけという頃、ひそり、と蓮二が耳打ちする。蓮華はぴくりと肩を震わせて、緊張の面持ちで頷いた。
「リラックスして。いつもの調子で行けば大丈夫だ」
「わ、わかったわ、蓮二。頼んだわよ」
「任せてくれ」
 ひそひそ声の合間に蓮二がしっかりと頷くと、蓮華は安心したのか、緊張で白くなった顔を少し緩ませる。
 それにまた微笑みで持って頷き返すと、蓮二は「手洗いに行ってくる」と言って席を立ち、広間を出た。

 自分も緊張をとく意味もあり、本当に手洗いに行ってから、蓮二は、広間とは違う方向に伸びる廊下に足を進めた。
 事前に知らされ、『瓢屋』の間取りは頭に入っている。
 そうでなくても、蓮二が道を間違えるということは殆ど無い。だからこそ、その出会いは用意された必然だった。

 つるつるに磨かれた飴色の廊下をいくらも歩くと、みごとな中庭の見える縁側に出る。ちょろちょろと涼しげな音をたてる流水、その水に透ける、風情溢れて苔むした岩。
 そして立派な枝ぶりの松の向こう、蓮二が居る廊下を直角に曲がった先の縁側に、水色の着物の女──いや、少女が立っている。

 白塗り化粧はせずすっぴんで、簪もないので、舞妓ではない。
 だがその姿は風情ある庭と古い建物によく馴染み、まるで一枚の日本画のようだった。

 蓮二が目線を向けると、彼女もまた、蓮二に気づいたようだ。すすす、と滑るように移動し、直角の廊下を曲がって、蓮二の前までやって来る。
 近づくに連れてよく見えるようになったその佇まい、表情を見て、菩薩のようなやつだ、という弦一郎の言葉に納得する。こうして遅くもなく動いていてもゆったりとして見える様子や、おっとりと微笑んだ顔つきは、確かに菩薩を思わせる。
 そして、そんな少女が口を利いた。

「こんばんは」

 若い女らしく高い声だが、京ことばのイントネーションのせいもあるだろうか。苔に染みこむ水のようにしっとりした響きがあり、耳にまったくうるさくなく、静かなのに、聞き取りやすい。
「……こんばんは。“久しぶり”、上杉紅梅、さん」
 滅多にない“謀”の本番がいよいよやってきた、という高揚を感じながら、蓮二は挨拶を返した。

「へえ、“お久しゅう”。柳蓮二はん」

 にこり、と、彼女の笑みが深くなった。

 もちろん、二人が顔を合わせるのは、これが“はじめまして”だ。
 しかしこの日のために、二人は“口裏を合わせる”ことになっている。つまり、毎年の夏に東京・神奈川にやってきている紅梅は柳姉弟と偶然仲良くなり、小学校二年生から毎年会って遊んでいる、という“設定”。
 弦一郎との関係を改変し、まったく嘘ではないが根本的な所が捏造であるその“設定”はいくつかのエピソードまで用意し、万が一突っ込まれても大丈夫なように、綿密な打ち合わせがしてあった。
 その全てはもちろん頭に入っているがしかし、こうして実際会って、手早くその確認をしてみると、蓮二はその“設定”が、まるで本当のことだったかのように、自分に馴染んでいくのを感じた。

「……なんだか、初めて会う気がしないな」

 思わず口に出してしまったが、蓮二は本当に、驚くほどそう感じていた。

「“初めて会うんやない”んやから、よろしおすのやない?」
 紅梅は、くすくす笑った。
「ふふ。なんやうちも、そういう感じあるわ。うちは、弦ちゃんからよぅ聞いとったせいもあると思うけど。やりやすそぉで安心したえ」
「そうか。今日はよろしく頼む」
「へぇ、よろしゅうお頼もうしますぅ」

 まずこの計画にこうして全面的に協力してくれたことや、無駄のない手紙のやりとりで、彼女がまずとても親切で、聡明かつ女性らしい性格のひとであるということは、重々実感していた。
 しかしこうして実際に会って話してみると、小気味良いほど機知に富んだ、軽快、かつ柔らかな丁々発止の応酬が心地よい。
 蓮華と話すときの感じにも似ているが、どちらかというと好き放題奔放に話す姉に突っ込みを入れつつ、そしてそれを楽しみながら話すという感じなのと違い、紅梅は常に蓮二が何を思ってどう言うかを伺いながら話す気配がある。
 ああ言えば、どう言うか。こう言うか。なんだか会話で将棋でも指しているようだな、と思いつつ、蓮二は彼女に、はっきりとした好感を持った。

「では、……お、と呼んでも? 何しろ初めましてではないので」
「へぇ、よろしおすえ。はじめましてやないし」

 茶目っ気を滲ませた蓮二の言葉に、くすくす、と、紅梅もまた、茶目っ気のある様子で返し、笑った。
 お、というやや古臭い呼称を選んだのは、この特別な“謀”の同志へ敬意と親しみを込めてみた、というか、半分悪のりである。

「ほな、うちも蓮ちゃんて呼ぶえ」
「れんちゃん……」
「弦ちゃん、せぇちゃん、蓮ちゃん。なかなか調子がよろしおすやろ」
「なるほど」
「──あ、あ、蓮二、と、こ、紅梅、ちゃん?」

 そうしていると、蓮華がぎこちない様子で現れた。
 手洗いからなかなか帰らない弟の様子を見に来た──、という、“設定”である。
「やあ、姉さん」
「へぇ、蓮華お姉はん」
 お久しゅう、と“設定”どおりに言ってにっこりした紅梅とともに、蓮二も姉に笑顔を向ける。
 そんな二人を見て、緊張でがちがちだった蓮華の表情が、きょとん、となった。
「なんか……」
 蓮華はまじまじと二人を見比べて、言った。

「あなたたち、なんだか、似てない? きょうだいみたい」

 彼女の言葉に、二人は、思わず顔を見合わせた。
「蓮二が和服だったら、もっとそれっぽいわよ。男の子と女の子の双子って言われたら、ちょっと信じるかも」
「そない似とるやろか」
「似ているか似ていないかといえば、似ている方ではある、か」
 と、蓮二も認めた。
 言われてみれば、彫りの浅いつるんとした顔立ちや、さらさらのストレートな髪は共通点として大きいし、まず二人共、かなりの和風顔である。更に蓮二がまだ声変わりを迎えておらず、髪型もおかっぱなので、タイプ違いの市松人形のようだ。

「そやけど、蓮華お姉はんがうっとこの舞妓はんにならはったら、うちのお姐はんやし、そしたら蓮ちゃん、一応、うちの兄はんえ」

 同じ置屋に所属すると、擬似的な姉妹関係が為され、先輩を姐、後輩を妹と呼ぶ。
 経験ということであれば家娘の紅梅は断然先輩であるのだが、蓮華のほうが年齢がみっつも上なので、もしこのまま蓮華が『花さと』に所属すれば、店出し、すなわち舞妓としてデビューするのは蓮華のほうが先になる。
 更にその肉親のことも兄だの弟だのと呼ばなければいけないという文化はないが、呼んでも不自然ではない、どころか、良好な関係を築けている、というような印象になるだろう。

「ではそうなるように、ということだな、お
「へぇ。お気張りやしょ、蓮兄はん」

 そう言って、市松人形二人が浮かべた共犯者の笑みは、確かにとても良く似ていた。



 座敷に戻ると、宴は既にお開きになっていて、いい気分になった客達を、舞妓や芸妓が送り出しているところだった。
 このタイミングもまた“計った”ものだが、蓮二たちを待って座敷の出入口あたりで待っていた祖父母と父は、舞妓ではないが、やたらに雰囲気のある和服姿の少女を伴って蓮二たちが戻ってきたことに、目を丸くした。更に、
上杉紅梅と申しますぅ」
 と紅梅がみごとに頭を下げれば、『美しき今』の録画を蓮華に付き合って何度も観ている祖父母は更に驚き、父は何がなんだかわからなさそうな顔をしていたが、しかし「上杉」という苗字に片眉を上げた。

「姐はん。式部姐はん」

 柳家以外の客がほとんど帰ってしまったのを見計らったようにして、紅梅が見送りをしている芸妓のうちの一人を呼んだ。
 楚々とした足取りでやって来た芸妓は、艶やかな碧色の着物を着た、芸妓としてはやや背の高い美人だった。柳家一同に軽く頭を下げてから、「どないしたん、ちゃん」と首を傾げる。

「どないしたんて、ほら、柳千代センセ。姐はんえろぅファンやのに、姐はん気付かんかったん?」
「へぇ? ……あらぁ!」
 紅梅が紹介した、柳家の祖母──柳千代を見て、芸妓は目弾き紅の化粧を施した目を見開き、高い声を上げた。

「まあ、まあ! ほんまに千代センセ? うち、センセの大ファンどすの! いやァ、こないなとこで会えるなん思わへんかったわァ、嬉しおすぅ」
「あら、まあ」
 美しくも職業的な微笑みではなく、白塗りの顔に本心からの笑みを浮かべる芸妓に、千代もまた、嬉しそうな顔をした。
「こないだのお休みなん、新幹線でとんぼ帰りして個展見に行かはったんどすえ」と紅梅が言えば、まあまあそんなにしてくださって、とってもええ作品ばっかりどしたえ、などと、手芸に関する話が弾んでゆく。

 彼女──紅式部は、紅椿の妹芸妓であり、現在の『花さと』で、紅椿以外の唯一のお抱え芸妓である。彼女の趣味は和裁、刺繍を始めとした手芸で、手芸作家“柳 千代”のファンでもある。
「アレ、ほな、こちらのお父はんは、お茶のセンセしてはるいう?」
「あ、そうです。これはこれは」
 祖父・蛍丞けいすけは、照れた様子で頭を下げた。
 彼は鎌倉を中心とする地主であり、いくつかの古民家やホールの賃貸オーナーをして収入を得ているが、趣味で茶道の教室も開いている。

「まー! ちょっと待っておくれやすぅ。まめ蝶はん、孝鶴姐はん!」
 紅式部が声をかけると、すっかり客達を見送り終わった芸妓たちの中から、紅式部と同年くらいの少しふくよかな優しそうな芸妓と、ベテランの様相の年配めの芸妓が近寄ってくる。
 そして紅式部が「お茶のセンセの柳蛍丞センセと、手芸の千代センセ」と紹介すると、あらまあ、本当、ウチらファンやの、前のお茶会行きおしたえ、などと話が始まった。

 あっという間に、格式高い京芸妓との個人的な“縁”ができてしまったその様に、蓮華はもちろん、蓮二でさえ圧倒されて目を白黒させてしまった。
 しかしふと隣の紅梅を見ると、彼女は不動の仏像のように落ち着き払っている。そして一度蓮二ににっこりしてから、彼女は姐たちの会話の隙間に、するりと口を挟んだ。

「式部姐はん、こっちの蓮華お姉はんなァ、『花さと』で舞妓になりとおすのやて」

 あっさり、すっぱり。
 喉から手が出るほど望んだ『花さと』の芸妓にそう言った紅梅と、まっすぐこちらを見て「あらぁ」と言った紅式部に、蓮華は本当に喉から何かが出てしまいそうだった。

「姐はん、うっとこにも舞妓が欲しいなァて、いっつも言うてはるやろ」

 まじまじと蓮華を見ている紅式部に、紅梅はにこにこして言った。
『美しき今』の放映からにわかに芸妓ブームが起こり、特に紅椿が身をおく『花さと』には、座敷の依頼が殺到している。
 しかし、芸妓であると同時に、日本舞踊家、人間国宝として、海外を含む各地での舞台公演を活動の主としている紅椿が座敷仕事をすることは少なく、結果、紅式部にすべてのお鉢が回ってきている状態なのだ。
 伝統芸能の世界でこれほど仕事があるのはありがたいことだが、紅梅が正式に舞妓になるまであと三年もこの状態なのか、とてんてこ舞いの紅式部は、「妹舞妓が欲しい」といつもぼやいている──とは、紅梅からの情報である。

「蓮華お姐はん、えろぅおばあはんのファンやの」
「へぇ」
 紅梅が言うと、紅式部は少し面白そうな顔をして、蓮華に向き直る。
「お舞はやってはるの?」
「は、はい、一年くらいになります」
 ごくりと唾を飲み込んでから、蓮華はなんとかそう答えた。
「お茶も?」
「はい、それは随分前から、祖父に見てもらっています。あと華道と、三味線と、書道も少し。……着物は一応、自分で着れます」
「あらぁ。ほなそれ自分で着はったん?」
「はい」
「綺麗に着てはるわァ、若いのに」
 紅式部は、うんうんと頷きながら言った。がちがちに緊張している蓮華に、「大丈夫どす、嫌味とちゃうよって」とこそりと耳打ちした紅梅に、「いらんこと言うて」と紅式部がその頭を軽く小突く。

「そやし、ご家族揃うてはるし、お母はんとおばあはんに見てもろたらどやろか思て」

 紅梅のその声は不思議とよく響き、他の芸妓たちの耳にも届いたようだった。
「あらぁ、『花さと』はん、新しい妓ォ入れはるん?」
「よろしおすなァ」
 などと声が届き、すっかり“『花さと』が新しい舞妓の面接をする”という空気が広まると、紅式部が、半眼になってちらりと紅梅を見た。紅梅はにこにこしている。

「……そやねぇ。身元も確かやし、お習い事も出来てはるし……」

 紅式部はそう言って、うん、と頷いた。

「ええんとちゃうやろか。今日はもうお花あらへん*予約のお座敷がないし」

 更には、「ちょうど紅椿はんも居てはるし」と続いた言葉に、蓮華の背筋が伸びる。その強張った肩を、どうどうと宥めるようにして、蓮二はポンと叩いた。
 / 目次 / 
『お花』=お座敷遊びの予約・シフトのこと。芸妓・舞妓側が使う言葉で、客が「お花を予約した」などとは言わない。「今日はお花が仰山ある」と言うと、今日はお座敷遊びの予約がたくさんあります、という意味。
BY 餡子郎
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