弦ちゃんへ
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放送を見てくださったとのことで、ありがとうございます。
私も、後で、放送されたものを見せていただきました。端折られているところもあれば、こんなところも撮っていたのかというところもありました。
ちゃんと舞うのを弦ちゃんに見られるのは、初めてですね。実は、あの舞台の前日、弦ちゃんからの手紙がたまたま届いたので、後で弦ちゃんにテレビで見られるのだとはっとして、随分気が引き締まりました。
まだまだ未熟でございますし、しかもひたすら“紅椿”の舞を追求する日々ではございますが、いつか自分の舞を堂々と舞えるよう、これからも精進してまいります。
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放送があってからというもの、声をかけられる機会が、比べ物にならないくらい増えました。テレビの効果が思っていたよりものすごくて、びっくりしています。私は普段テレビをほとんど観ないので、取材といってもあまりぴんときていませんでした。
お座敷遊びはどこも一見さんお断りにさせていただいているのですが、テレビを見て、体験してみたい、という問い合わせも非常に多くなった、と、うちのお母はんが言っていましたが、『花さと』だけでなく、他でもそんな様子のようです。
花街の世界や日舞に注目していただけるのはとても有難いことですが、最近少し話題になりすぎたのか、他の番組への出演のお誘いなども頂いてしまったりなど、困ったこともあります。
お話はありがたいのですが、お舞台はともかく、そうでないのにテレビに出るのは気が進まないなあと思っていますし、お母はんも「安っぽくなる」と言っていて、受ける気はないようなので、私がテレビに出ることはもうないと思います。
でも、宣伝の機会は逃すなということで、サインなどを頼まれたら、写真の絵葉書を渡すようにと言いつけられました。
おばあはんやお姐はんのは今までも配っていたのですが、自分の写真の絵葉書を持ち歩くのは、ものすごく恥ずかしいです。早くなくなって欲しいです。
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放送された『美しき今:人間国宝・上杉紅椿の世界 花から花へ受け継がれる伝統』は、ちょっとしたブームといえるほどの話題になった。
日本の伝統文化が海外でも評価されており、しかもそれが女性ばかりの世界であるというのは、日本という国の国際的な評価の上昇につながるのは明らかだ。そういう、どこかの誰かの意図が、裏事情として働いていたというのもあるのかもしれない。
しかも芸妓といえば日本を代表する美の象徴であり、同時に秘するところの多い文化でもある。老若男女、興味が全くないという人は少なく、朝昼の情報番組などを中心に、大なり小なり含め、両手の指で足りない程度には取り上げられた。
さらに便乗番組といえるような、紅椿は関わっていないながらも、舞妓や芸妓、日舞の世界を取り扱った特集ができたり、クイズ番組のテーマになったり、といった現象がしばらく続いた。
華やかな舞妓姿に興味を示した女の子がいくらかいる以外、さすがに子どもたちの間で盛んな話題ではなかったが、それでも、弦一郎も、「芸妓」とか「舞妓」、「紅椿」という単語がクラスメイトの口から出るのを聞いた。
弦一郎はその度にそわそわし、誰かが「あの子が可愛かった」などと聞こえると、むやみにどきどきし、「大変そうなのに、凄いなあ、えらいなあ」と聞くと、そうであろう、と、一人でこっそり頷いた。
「
梅ちゃん、すごかったな〜、ねえ真田!」
にっこにっこ、といわんばかりの表情で言ってきた精市に、弦一郎は、苦虫を百匹噛み潰して汁にして飲んだような顔をした。
「なに、その顔」
「お前、……お前、あいつと知り合いだと、無闇に言いふらすなよ」
「無闇に言いふらす気は元々ないけど、なんで?」
きょとんとしている精市に、弦一郎は「チッ」と舌打ちし、それが気に食わなかった精市は、にこにこ顔のまま、弦一郎の脛にローキックを入れる。
容赦の無い衝撃に、ぎゃっ、と声を上げた弦一郎に、精市は笑顔のまま、「なんでかって聞いてるんだけど」とのたまった。二人にとっては通常運行のやりとりだが、今にも喧嘩になりそうな殺伐とした空気である。
実際、何かの拍子に取っ組み合いのに発展して血を見る可能性も知っているスクールの面々は、一気に遠巻きになっていた。──ここまで含めて、通常運行である。
「あー……、話題になりすぎて、少し大変らしい。一見さんお断り、のところにどうしてもとねじ込んでこられたりして、ずいぶん迷惑しているようだ。……実際どうかは知らんが、お前の家なら紹介しようと思えば出来るかもしれんし、余計に面倒なことになるかもしれんだろう」
「ああ、そういうこと」
なるほどね、と精市は納得して頷いた。
精市の家業は祖父が興した巨大な広告代理店であり、父親はその役員である。父親は長男ではないため精市も跡取りというわけではなく、そもそも戦後の復興で大きくなった会社であるので、脈々と続く某筋の名家などというわけではないのだが、資産家という点ではかなりのものだ。
だからそれなりの交友・社交関係があり、花柳界も例外ではない。とはいっても、精市の反応からして大のお得意様ではないようだが、全くその世界に縁がないというわけでもないだろう。
弦一郎が口にしたのは、弦右衛門から言付けられたことである。
真田家の場合は、紹介を頼まれても、あろうことか出禁の身である。藪蛇にならないように、と言われているのだ。
だが弦一郎は、その注意がなくとも、
紅梅が自分の知り合いであることも、ましてや長らくの文通相手であることも、誰にも言うつもりはなかった。
舞妓・芸妓特集のクイズ番組で、ほとんど全ての問題に正解できるくらいの知識量があることも、全く自慢したことはない。
だから周囲には、弦一郎の態度は、猫も杓子も話す流行の話題にうんざりしている、というふうにとられていたが、実際はもちろん違う。
紅梅がこうしてにわかに有名になっても、いや、だからこそ余計に、彼女は弦一郎にとって、秘密の、──自分だけの文通相手だ、という意識が強くなった。
皆が話題にしている人物と親しいやりとりをしている、ということに、優越感がなかったわけではない。だがそれよりも、自分の大事なものを、軽々しくその辺りのやつに見せてなるものか、という気持ちのほうが大きかった。
原因は、──あの、フランスでの舞台。
あの舞台の成果で、
紅梅は“紅椿”の後継としてほとんど認められ、名取の試験にも合格した。今では、元祖紅椿よりも早くに名取になった、日本舞踊会の期待の星、と、どこに行っても認められている。
人間国宝・紅椿と全く同じように舞える少女、というのが、世間に認知されている、代表的な彼女の評価である。
実際に、紅椿の舞う動きと、
紅梅の舞う動きをコンピューター・グラフィックスにして重ねあわせると、寸分違わず同じであるというのはあらゆる特集で必ず話題になったし、弦一郎も、あれを見た時は、背筋が震えるようであった。
弦一郎は、彼女の、菩薩のような微笑みも、洗練された佇まいも、知っている。阿呆と怒鳴りながら泣き喚く様も、ムキになってずるをして、髪を振り乱して歯を食いしばる様も、この目で見た。
だがテレビの画面で見た、白塗りの化粧をした、人ならざる天上の存在の如き有り様は、知らなかった。
──あんな、全く手の届きそうにない姿など。
だから、弦一郎は彼女から手紙が来るたび、以前にも増して浮かれたし、頑張っている彼女が誇らしかったし、自分も恥ずかしくないように頑張らねば、と気合が入った。そして何より、ほっとした。
彼女からの手紙は相変わらず弦一郎だけに向けた言葉が並び、弦一郎もまた、
紅梅に対して変わらぬ様子でのやりとりを続けている。
(……
紅梅は、何も変わっていない)
彼女は、自分が知っている彼女のままだ。
だから自分も、そうあろう。彼女との約束を守るのだ。
そうして弦一郎は、彼女からもらった黒い守り袋を携えて、剣を、ラケットを、黙々と振るった。
彼女がいつか、堂々と自分の舞を舞うことを目指して精進するように、弦一郎もまた、どんなときも、常に己のテニスをするのだと。
「……そういえば、次の大会だが」
弦一郎は、晴れ渡る初夏の空をちらりと見上げてから、精市に言った。
「たまたま、
紅梅が来る日とちょうどかぶった」
「へー、じゃあ会えるじゃん、……って、ちょっと」
「俺は助け舟を出さんからな」
紅梅はいまだに精市を女の子だと思っていて、手紙でも、元気かと訪ねてくることがある。
弦一郎はわざわざややこしい誤解を解いてやる気もなかったが、嘘をつくのもなんだか気分が悪かったので適当に回答し続けた結果、“弦一郎に勝てるまでにテニスの強い女子・幸村せい子”というのが、
紅梅の中で出来上がってしまっているのである。
だが、女物の浴衣を着ていたとはいえ、わざわざ女のふりをしたのは精市本人だ。正直に男だと言うなり、スコートを履いて試合に出るなり、好きにすればいい、と、弦一郎は解決の道を精市に丸投げした。
「勘弁して……」
精市は両手で顔を覆って天を仰ぎ、潰れたような声で呻いた。
未だ一度も勝てたことのない神の子が本気で悩んでいるその様に、弦一郎はいささか良い気分でもってコートに入った。
そして、夏休み。
空は真っ青に晴れわたり、強い光を反射して白く輝く雲とのコントラストが眩しい、絶好のテニス日和の真夏日。神奈川全域のジュニアを集めた、大規模なトーナメント戦が開催されていた。
弦一郎は祖父から買ってもらった帽子をかぶり、試合に挑まんとしていた。ラケットバッグには、もちろん、帽子と同じ黒い色のお守りがぶら下がっている。いつの間にか、弦一郎は、身の回りのものをだいたい黒で揃えるようになっていた。
「ふむ、そろそろ新幹線に乗るそうじゃ。試合に間に合うかどうかは微妙な所じゃのう」
朝、弦右衛門からそう言われ、弦一郎は少し残念な気持ちで頷いた。
今日は大会の日であり、また、
紅梅が来る日でもある。せっかくなので試合を見てもらいたい、と弦一郎は思っていたし、
紅梅も、前々から手紙でそう希望していた。
しかし、去年のフランス公演を事実上のお披露目とし、後日名取になり、にわかに名前が売れた
紅梅は、舞台に座敷に稽古にと、以前にも増して忙しい。
学校が夏休みに入って更に増えた稽古をぎゅうぎゅうのスケジュールでこなし、やっと新幹線に飛び乗ってやってくる彼女をこれ以上急かすのは、どうやっても不可能だ。仕方がない。
「……そうですか。しかし、決勝には間に合うかもしれませんし」
決勝に残るのは当然、というふうに、弦一郎は言った。
大言壮語──、ともいえない。四年生から大きな大会に出場が可能になってからというもの、弦一郎は、決勝に残らなかったことなど一度もない。精市が出場していなければ必ず優勝していたし、そうでない時は、いつも準優勝だった。
精市と弦一郎の実力は、それほど飛び抜けていたのである。国内でもテニスに力を入れている県として認知されている神奈川でそれほどということは、いまだジュニアではあるものの、全国レベルの実力である、ということでもあった。
だから今回の大会も、精市と弦一郎が優勝と準優勝、というのは、本人たちも含めて、誰もが疑っていない。
「うむ。では、迎えに行った時に間に合いそうなら、お
梅ちゃんと一緒に会場に行こう」
「わかりました。よろしくおねがいします」
結果、ジュニアのレベルの試合ではない、と評価された接戦を繰り広げをしたものの、弦一郎はまた準優勝だった。
準優勝の賞状を貰った時の弦一郎はもれなくぶんむくれているのが通常のことである。今もまた通例どおりの表情で賞状を握りしめている弦一郎を、精市は覗き込んだ。
「
梅ちゃん、間に合わなかったって? 残念だったなあ。でも真田は良かったんじゃない? 負ける所見られなくて」
「……ふん。間に合わなくてよかったと思っているのはお前だろう」
「どういう意味だよ」
「スコートを履いていないだろう。いいのか」
弦一郎が、目を据わらせて言う。
当然ながら精市は弦一郎と同じテニスウェア姿で、男子が身に付ける短パンを履いている。しかし、隣でやっていた女子の部は、短パン姿もいるが、大体がスコートだ。
精市をすっかり女の子だと思っている
紅梅が見れば、どうして男の子のような格好をしているのか、と不思議に思うだろう。そもそも、どうして女子なのに男子の大会に出ているのか、というのが最大の疑問であろうし、それがそのまま事実である。
精市はひくりと引きつり、次いで、こちらも目が据わった笑みになった。
「……別に? 会っちゃったら、その時は正直に言うつもりだったよ」
「そうか。
紅梅は今、ここに向かっているところだそうだ」
もしかしたら間に合うかも、という微妙な時間だったためだ。結局間に合わなかったのだが、合流して食事でもして帰ろう、ということで、今、
紅梅は弦右衛門とともに東京駅からこちらへ向かってきている。
そう何十分もしないうちに到着するだろう、と、弦一郎は妙に淡々と言った。
「このままここにいれば、会えるぞ。さあ、自分は男だと真っ向から言うがいい」
「……俺、ちょっと喉が渇いてきたかな」
精市はわざとらしく目を逸らし、自動販売機のある建物の方へ、さっさと歩いて行ってしまった。
逃げたな、と思いつつ、この話題になるとすぐさまああして気まずそうに退散する精市は、弦一郎の溜飲を大いに下げる。普段はあの傍若無人極まる性格に振り回されているのだから──、と、少なくとも弦一郎は思っている──、この時ばかりはこうしてからかっても罰は当たるまい、というのが、弦一郎の考えだった。
精市がどこかに行ってしまったので、弦一郎は日陰に入り、スポーツドリンクの残りを飲もうとした──、が、ドリンクはほとんど残っていなかった。
真夏日なので、熱中症予防に水分は必須である。この炎天下で散々運動して汗だくなのもあり、弦一郎は、精市が行ってしまったのとは逆、蛇口がいくつもついた水道に向かった。
練習や試合があるときは大抵人がいる場所であるが、大きな大会を終え、大方の出場者や観客が帰り始めている今、水場は誰もいなかった。
どうせすぐ乾いてしまうのだし、頭から水をかぶってクールダウンしよう、と、弦一郎は、一番端の蛇口を思い切りひねった。
「うわ……!」
ぶしゃあ、と、想像よりもかなり勢い良く、そして多方のあらぬ方向へ噴出した水に、弦一郎は驚いて声を上げた。
慌てて蛇口を締めると、涼しさを求めるあまりに気づかなかったが、蛇口が微妙に歪んでいて、できた隙間から水が漏れているのがわかる。なるほど、これが原因で、この蛇口は出来の悪い噴水と化してしまっているらしい。
どうせ汗だく、水をかぶるつもりだったので構わないが、注意書きぐらいしておいてほしいものだ──、と弦一郎が別の蛇口に行こうとした、その時。
「あ」
振り向いたそこには、まさに通りがかった、という様子で、ラケットバッグを背負った、おそらく弦一郎と同じ年ぐらいの少年が立っていた。
そして彼は、濃茶の髪や、オーバルフレームの眼鏡から、ぽたぽたと盛大に水を滴らせていた。濃い色なのでわかりにくいが、ポロシャツの方も随分濡れている。状況からして、弦一郎が噴出させてしまった水を頭や顔にもろにかぶってしまった、というのは、明らかすぎるほど明らかだった。
「……す、すまん」
「ああ」
弦一郎が声をかけると、少年は、こくりと頷いた。
「いや、……すまん。蛇口が壊れていたようでな」
「そのようだ」
「拭くものはあるか?」
「大丈夫だ。暑いので、すぐ乾く」
「まあ、そうだろうが……」
蛇口が壊れていたとはいえ、百パーセント弦一郎に非があるのだからもっと怒ってもおかしくないだろうに、少年の反応は薄い。更には無表情のまま眉のひとつも動かさないので、怒っているのかそうでないのか、全くわからない。
なんだかぼんやりした変なやつだな、と弦一郎は思いながら、更に声をかけた。
「とはいっても、水をかけてしまったのは申し訳ない。悪かった」
「……ああ。気にしないでくれ」
糞真面目、別の言い方をすれば大げさに、そして礼儀正しくしっかり頭を下げて謝った弦一郎に、少年は僅かに目を見開き、そして再度頷いた。本当に怒っていないようである。
「それより、少し、道、というか、バスについて聞きたいのだが……、わかるか?」
少年の言葉に、弦一郎は、「多分」と頷いた。
弦一郎の家はここのすぐ近くというわけではないが、地元であることには変わりないし、この会場には試合で何度も来ている。大抵の事ならわかると思う、と弦一郎が言うと、東京から来たという少年は、少しホッとした様子で頷いた。
なんとも表情の読みづらい少年だが、もしかすると、だいぶ困っていたのかもしれない。
「ああ、このバスか。これは一時間に一本だけだから、次まで四十分くらいだな」
少年が示したメモにあったのは、この会場から最寄りの駅まで往復している、無料のシャトルバスだった。
この会場は広大な敷地を有するため、神奈川でも山の多い、僻地と言ってもいいような地域にあり、駅からは車がないと来ることができないため、そういうサービスも用意されている。しかし無料だけあって、本数がかなり少ないのだ、と弦一郎は説明した。
「普通の市バスは本数が出ているが、バス停まで少し歩くし、乗り換えもある。特に急いでいないのなら、ここで四十分待ったほうが楽だと思うぞ」
「わかった」
少年は頷き、ならば四十分待とう、と言った。
「東京から来た、ということは、選手ではないのか」
弦一郎は、不思議に思っていたことを、ふと聞いた。
少年は、鮮やかな群青色のラケットバッグを肩にかけている。なので初見で当然出場者だと思ったのだが、東京から来たのなら、それはありえない。開催されているのは、神奈川のジュニア大会だからだ。神奈川の学校、もしくはテニススクールの生徒でなければ、出場資格そのものが与えられない。
「選手じゃない。観戦だ」
神奈川はレベルが高いと聞いたので、と、少年は淡々と言った。
「ならなぜラケットを持ってきているんだ。このあたりはストテニのコートもないぞ」
ストテニ、とはストリートテニスの略で、無料開放、もしくはワンコイン制などの体裁のテニスコートのことだ。テニスが最も人気のスポーツである日本では、全国津々浦々、コンビニほどとは言わないが、わりとどこにでもある。
しかし、こうした大会会場になるような巨大な施設の周りには、むしろ少ない。
「いや、……なんとなく」
少しきまり悪そう、照れくさそうに、少年はぼそぼそと言った。
だが、テニスにする場に行くとき、たとえ自分の試合がなくとも意味なくラケットを持って行ってしまう気持ちは弦一郎にもとても良くわかったので、呆れたりはしない。むしろひそかに共感を示した弦一郎は、はは、と軽く笑う。
「そうか。壁打ち用のコートなら、自由に使えるぞ」
テニスに傾倒する同志とわかった少年に、弦一郎は親切に言った。
「ああ、……」
しかし少年は弦一郎が指し示した方向ではなく、弦一郎をじっと見て、言った。
「……準優勝の、真田だろう」
「そうだ」
観戦していたのなら、少年が弦一郎をこうして知っているのは当たり前のことだ。弦一郎は頷く。
「もし時間があるのなら、バスが来るまで、打ってもらえないか」
「俺と?」
「ああ」
少年は、弦一郎をじっと見た。
夏の強い日差しが水分を急速に乾かし、レンズに滴っていた水滴はなくなっている。クリアな眼鏡の奥の目は強く、睨みつけているわけではないが、明らかに挑むような目だった。
「まあ、……俺も、人を待っている。それまでで良ければ」
水をぶっかけてしまった詫びも兼ねて、弦一郎は、少年の申し出を受けることにした。
少年はどうも相当テニスに傾倒しているようであるし、ならば、準優勝の弦一郎に挑んでみたい、と思う気持ちはわかる。それに、最近は精市と揃って実力が飛び抜けすぎて、こうして真正面から挑んでくるような者は皆無に等しかったので、挑戦されるのは新鮮で、悪い気はしない。
申し出を受けた弦一郎に、少年は、ありがとう、と、やはり律儀に言って、左手を差し出した。
「手塚国光だ。よろしく頼む」