心に堪忍ある時は事を調う
(八)
弦ちゃんへ

お誕生日、おめでとうございます。
また歳を越されてしまいましたね。

 …………

佐助くんの手形、ありがとうございました。とても元気そうで何よりです。
前会った時より二回りは大きくなっていて、びっくりしました。男の子なので、そのうち背たけも手も私より大きくなってしまうのかと思うと、不思議です。
でも、この手形を見ると、まだまだ小さくてかわいいので、今度会うのが楽しみです。

 …………

お恥ずかしながら、番組の放送の日時が決まりましたので、お伝えいたします。

 …………







「ただいま帰りました!」

 大声を張り上げ、同時に忙しなく靴を脱ぐ弦一郎に、「おかえりなさい、まだ始まっていませんよ」と由利が苦笑気味に声をかける。
 弦一郎はちゃんと靴を揃えると、殆ど走ってランドセルとラケットバッグを部屋に置き、手を洗い、うがいをして、テレビのある居間へ向かった。

「お祖父様ただいま帰りましたテレビは!」
「落ち着け」

 はーはーと大きく息をしつつ、言うべきことと言いたいことをノンブレスで言い切った孫に、弦右衛門は苦笑した。
「まだ始まっとらん。ちゃんと録画もしとるから安心せい」
「……はい」
 一度深呼吸をして、弦一郎は自分の定位置に胡座をかくと、由利が入れてくれた麦茶を一気に煽る。水分を取ると、だいぶ気が落ち着いた。

 今日は、人間国宝・上杉紅椿の──、いや正しくは、紅椿と紅梅の密着取材の番組が放送される日であった。
 番組は『美しき今』というシリーズで、公共放送のBSプレミアムチャンネルにて、美術のカテゴリに入っている。
 日本国内にかかわらず、世界の文化や美術、芸能、建築などを広く扱い、ただしその全ては少なくとも一年以内の撮影内容であり、その分野のまさに“今”を紹介する、というのが売りだ。隔週、一時間半の枠で特集が組まれているが、なかなかの人気番組である。
 卓袱台の上に置かれた新聞はテレビ欄が上向けてあり、公共放送の欄、『美しき今:人間国宝・上杉紅椿の世界 花から花へ受け継がれる伝統』と銘打たれたタイトルに、黄色の蛍光マーカーで線が引いてある。

 当初は、現在の女性日本舞踊家の頂点というテーマで、紅椿の活動を追った番組になるはずだった。
 しかし、常に彼女について回っている、彼女の後継者とされる小さな女の子の境遇の珍しさ、そして本人の実力から、新旧二人の“紅椿”を対比させる形の番組になった──、という経緯を、本人と手紙をやりとりしている弦一郎は知っている。

 しかし、弦一郎はこうして紅梅本人からの情報ソースがあるわけだが、家族はただ紅椿の名だけで番組をチェックしたのだろう。紅梅がたくさん映るのを見たら驚くかもしれないな、と、弦一郎はまたそわそわしながら、番組が始まるのを待った。



 そして、午後六時ちょうど。
 弦一郎も何度か聞いたことのある、壮大なオーケストラのオープニングが流れる。

 ──古都・京都。日本の女性たちが守る伝統が、ここにあります──

 今回は日舞と京花柳界がテーマというだけあって、大河ドラマで使われるような音楽が流れ、女性の落ち着いたナレーションで、番組が始まった。

 最初の十分程度で、京の町家の風景が映り、そこを歩く舞妓や芸妓たち、そして彼女らが花街ごとに行う季節の華やかな舞台などが少しずつ紹介され、複雑な仕来りの世界を上手く端的に紹介される。
 また、いま日本で最も有名な伝統舞台芸能である歌舞伎の創始者が女性であること、その起源から現在までの彼女らの略歴も、わかりやすい前振りとしてまとめられている。
 冗長になりがちなこの手の番組には珍しい、この飽きさせないテンポのよさも、この番組が人気を博している理由のひとつである。

 それが終わると、クローズアップされる、人間国宝・上杉 紅椿。
 豪華絢爛な道明寺の清姫の舞台での彼女を映しながら、その略歴や舞台経験などの文字情報が、まるで映画のエンドロールのような量で、滝のように流れる。詳しく読ませるのが目的ではなく、その量の膨大さを伝えるがための演出だろう。

 人形師や絵師たちが望み、その手で創り出そうと生涯を賭ける理想の姿が、そこで生き、動いているようです──、というナレーションは、とても的を得ているだろう。

 紅椿に限らず、こうして化粧をして衣装をつけた彼女らの美しさは、もういっそ人間の範疇を超えている。それは仏像などに対して感じるような、神々しいまでの芸術的美しさだ。もはや人間として、女としてどうというレベルではない。
 現世とは隔絶された世界で、人ならざるまでの美しさで存在し続ける彼女たちは、古来より高嶺の花、天女のごとし。そしてそんな存在になるのは、生半可な苦労ではないのだ。

 ──なかでも、日本が誇る大輪の花、紅椿。それを受け継ぐ、まだ蕾の少女がいます──

「おっ、ちゃん」

 弦右衛門が声を上げるが、弦一郎は返事をしなかった。画面に釘付けであったからだ。

 紅椿の紹介の時と同じように、まずはすっぴんの稽古場での風景とともに、生まれ年などが紹介される。だが紅椿と違って、その舞台経験は二十程度。多いのか少ないのかは分からないが、とにかく、紅椿とは比べ物にならないほど少ない。
 初舞台を踏んだのは三歳、とあるのを、弦一郎はじっと見た。

 稽古風景からがらりと場面が変わり、画面の中に現れたのは、菊の精。
 白塗りの化粧をし、一つ一つが大輪の、色とりどりの菊の花がみっしりと飾られた花笠をかぶり、両手にも同じものをそれぞれ持って舞台で舞う、紅梅の姿だった。
 画面の端に、『長唄:菊尽くし』という演目が小さく出されている。

 ──舞台で舞う紅梅を見るのは、初めてだ。

「かわいらしいのう」
「お人形さんのようですねえ」

 祖父と義姉がほのぼのと言うのに、弦一郎は同意した。
 おそらく弦一郎と出会うより前の頃だろう紅梅は、幼いゆえの等身の低さが、まさに動く市松人形といった様相だ。また、肝心の舞は、さすがのもので振りを間違えたりする様子はないものの、弦一郎が見てもたどたどしいとわかる動きをしていて、舞というよりは、豪勢なお遊戯という印象だった。
 弦一郎は、最初に出会った夏の日、盆踊りの櫓の上で、オルゴールの人形のように舞っていた彼女の姿を思い出す。

 以降、二十分程度は、紅椿の多忙な舞台、座敷行脚を軸にして、女将や他の芸妓、舞妓、そして紅梅の生活が対比されながら紹介された。
 この対比の仕方が“狙って”いるのだろうとすぐわかるもので、パーティードレスやタキシードの人々に囲まれ、女王というより女神のごとく中央に佇む豪勢な衣装の紅椿を映した後、ランドセルを背負った普通の小学生たちに混じり、着物に風呂敷の荷物を抱えて登校する紅梅が映されたりする。
 本人からの手紙で知ってはいたが、場所どころか時代を間違えているような紅梅の姿は、ひどく目立っていた。弦一郎も言葉遣いや生活様式の古風さでクラスメートにからかわれることが度々あるが、紅梅に比べれば、まったくたいした程度ではないように感じる。

 まったく“普通”の小学生ではありえない、特別な生活。
 友だちと遊ぶことも殆ど無く、同じような立場の仲間もおらず、自分以外の全員が目上の人間という、数百年単位の古い縦社会で生きる少女の姿は、「もっと子供らしく……」などと軽々しく口を出すのもはばかられる、独特の厳しさで満ちていた。

 楽器や茶道、また英語などの特別な稽古事の師匠を除き、基本的に、紅梅の回りにいるのは、当たり前だが全員女性だ。
 彼女らは常に物腰柔らかく、紅梅を怒鳴りつけることなどない。だが糸を一本ぴんと張ったような緊張感が常にあり、弦一郎が普段受けている、武道における厳しさとはまた違う厳しさがあるのがわかる。
 直接的な言葉は使わず、むしろ言葉だけなら褒めているように取れることもある、叱咤の言葉。仏像のような笑みとともに課される、容赦も妥協もない躾や稽古。あれは女性の世界ならではなのか、それとも京都独特のそれなのか、もしくはあの世界だからなのか。
 まさに“空気を読め”、“察するべし”が、さらにまた“暗黙のルール”であるその世界を目の当たりにして、だめならだめだと怒鳴ってもらえることの、なんとわかりやすくありがたいことか、と弦一郎は理解し、ぞっとし、また、紅梅の持つ察しの良さに納得した。

 紅梅もまた、たどたどしかった動きの一つ一つが洗練されてゆくのが、数年間をダイジェストで見せられているだけに、とても良くわかる。弦一郎が最後に会った頃の紅梅の姿になる頃には、あの、ただ茶を飲むだけで、立っているだけで目を惹く所作を、息をするようにこなせるようになっていた。

 厳格な伝統の中、真綿で絞めつけられながら、彼女たちは、洗練された柔らかさを身につけてゆく。生々しさが消え、幽玄に変わる。そのさまは、まさに人が天女になるが如しであった。

 彼女らの暮らしと、その世界における終わりのない精進の様子。
 まさに別世界のような光景を一区切りさせ、番組全体の半分くらいになると、紅椿のフランス公演を密着して追いかける流れになる。

 この頃、リアルタイムで本人から手紙を受け取っていた弦一郎は、さらにぐっと身を乗り出して、画面に見入った。

 飛行機に興奮したり、せっかく習った英語が通じずに愕然としたり、なのに紅椿に通訳のようなことをさせられてむくれたりなど、紅梅は生まれて初めての海外にそれなりのはしゃぎっぷりを見せていた。ナレーションも、“この時は、年齢相応の……”と、弦一郎が思ったのと全く同じことを言っている。
 だが、弦一郎は、指の先まで洗練された所作を行う紅梅も知っているが、阿呆と怒鳴って真っ赤な顔で泣き喚く紅梅も、腕相撲にむきになって髪を振り乱す紅梅も、本当に嬉しい時、変な声で笑う紅梅も知っている。

 それに、画面では解説されない紅梅の行動が実はどういうものなのか、弦一郎は本人からの手紙で知っているので、ときどき、にやりとすることもあった。
 中でも、通じないフランス語に振り回され、更に紅椿に振り回され、不当な幼児扱いを受けて疲れ果てた初日。ホテルの部屋に入った紅梅を追いかけて、テレビカメラが、そうっと部屋の扉を開ける。すると、机に向かって、何やら熱心に書き物をしている紅梅がいた。
 紅梅はすぐにカメラに気付き、小走りにドアまでやってくる。

 ──何を書いているんですか?
 ──見んとっておくれやす


 紅梅は困ったような、照れたような、怒ったような顔で眉を寄せると、カメラを追い返し、ドアを閉めた。しかし、すぐに少し開けて、「おやすみやす」と律儀に挨拶してから、また閉める。
 日記でしょうか、とナレーションが少し茶目っ気をにじませて言ったが、弦一郎は知っている。

 ──あれは、手紙だ。自分宛ての。

 奇妙な優越感にも似た興奮を抱きながら、弦一郎は、画面を眺め続けた。

 そして、弦一郎が知っているとおり、紅椿の前座のような扱いで舞台を踏むはずであった姉芸妓が、食あたりで寝込んでしまうというアクシデントが起こる。
 慌てふためくスタッフに、紅椿は悠々と扇を開いて、言った。

 ──大事おへん。こン子にやらしたらよろしおす

 それで問題は解決した、とばかりに、紅椿は踵を返して出て行ってしまう。
 しかしスタッフの殆どはフランス人、京ことばを理解できる者はおらず、ただ紅梅だけが、目を真ん丸にして立ち尽くしていた。

 紅椿の発言の意味が知れ渡ったあとは、紅梅が人間国宝の前座を務めるには若年すぎ、この場においては更に幼く見られていたこともあって、随分もめた──、と手紙には書いてあったが、そのあたりはほとんど端折られ、ナレーションによる軽い説明があっただけだった。
 だが逆に、当の紅梅がどうしたか、というのは、手紙にはあっさりとまとめられただけだったので、弦一郎は画面に注目した。

 紅梅らが属する流派では、名取にならねば、一人で舞台に立つことは許されない。座敷での舞は良いが、こうした舞台でのお披露目は、名取の演者の脇役とか、発表会などの機会でないといけない、ということになっている。
 紅梅は、最年少でそうなることがほぼ内定しているはいえ、まだ名取ではない。本来なら、名取になれるような年齢でもない。そして、今回の舞台は、紅椿の前座ではあるが、ひとりきりの舞台だ。

 外国での、やむを得ない緊急事態と、前座であるというあってないような建前と、紅椿の後継者であるという紅梅の立場と肩書が、この世界では絶対の“仕来り”を破って、例外となり得たのである。

 紅梅は、俯き、震えているようだった。
 無理もない。言葉もろくに通じない外国で、まだ名取でもないのに、初めて一人で舞台を踏むのだ。しかも、人間国宝の前座という舞台を。

 ──出来んのか?

 人ならざるような、天衣無縫の天女の頂点は、意地悪く笑ってそう言った。
 同じことを、弦一郎も、彼女に言ったことがある。去年の別れ際、彼女の奥にある炎を煽るように、紅椿と同じようには舞えぬのか、と挑発した。
 そして少女は、あの時と同じように、俯いていた顔を上げる。

 ──出来る

 天上の存在を仰ぎ見るその目に、弦一郎は覚えがあった。
 獄炎の中から睨みつけるような烈しく生々しい眼差しは、去年、紅椿の舞台を見ていた、あの目。そしてそれは、神の子を引きずり落とさんと、歯を食いしばり、泥にまみれてもひたすら上を目指す、己の目と同じでもあった。
 もしかしたら、あの震えも、武者震いであったのかもしれない、と弦一郎は思った。自分ならそうだ、という理由で。

 演目は長唄、『松の緑』である。

 登場人物は主役の禿・緑だけでなく、男、女、太夫、奴、左褄、翁と、様々に変化し、演じ分ける必要がある、なかなかに難しい曲だ。
 多くは素踊りで盛んに踊られてきた曲であるが、芸妓・舞妓が属する流派ならでは、華やかな禿の姿で踊ることになっていた。

 食あたりになった芸妓の身長が低く、肩上げをした禿の衣装である、というのもあって、着物は調整で何とかなるようだ。だが鬘は専門の職人が頭に合わせて金属を叩いて作るものなので、用意が間に合わず、紅梅は土壇場で日本髪を結うことになった。
 舞台を観に来ているのはだいたいがフランスの日舞ファンだが、わざわざ日本から来ているマニアも多くいて、更にその中には、紅椿の顔なじみもいた。その中の一人が髪結の技術を持っていて、聞きつけるやいなや、むしろ大喜びで髪結を引き受けた。
 天衣無縫の“紅椿”は、多くの人々の女神である。そのお召とあらば、喜び勇まない者などいないのだ。

 姿がどうにかなれば、あとは代役の舞だけである。
 本番まで、紅梅は時間が許す限り稽古をした。特に前日の映像は、鬼気迫る勢いだったように思う。──弦一郎が書いた手紙が、彼女の手元に届いた日だ。

 そして、当日。

 普段は小規模なオペラや音楽会などが催されるという、フランスらしい華やかな装飾が施された舞台。
 観客席は盛装した人々でぎっちりと埋まっていて、空席などひとつもない。

 ──場面が変わり、薄暗い照明の劇場。
 開演のブザー、フランス語の前説があり、劇場に似合わぬ軽快な三味線の音が響くと同時に拍手が起こる。そしていよいよ、濃赤の緞帳が上がった。

 現れた舞台装置の背景は、橋と松。
 その前、ちょうど中央に、重厚な衣装と、高く結った髷に派手な飾りをたっぷりつけた禿が、三指をついて頭を下げている。

 前に置いた扇を手に持ち、ふわり、と浮き上がるように顔を上げる。

 弦一郎は、予想以上のその姿に、瞬きをするのも忘れて、見入った。
 それは弦右衛門や由利も同じだったようで、はぁー……と、二人がそれぞれついたため息の音だけが聞こえた。

 白塗りの化粧に華やかな衣装を着けた紅梅は、本当に、人間ではないようだった。
 真っ白な顔が大写しになっても、その印象は変わらない。幼いたまご型の輪郭は完璧なバランスで、ちょこんと小さめの鼻は、白く塗られて凹凸が曖昧になっている。赤く塗られた小さな唇が目立ち、いつもは愛嬌のある眠たげな垂れ目は、墨のアイラインと目弾き紅で強調されて、魔力を感じるまでの切れ長の目元になっていた。
 薄い撫で肩、襲ねの襟から伸びる首は長く細く、重たげな飾りのついた頭を支えるにはとても頼りなくて、今にもすこんと身体から抜け落ちてしまいそうだ。

 まずは、三指ついての土下座から、剣道の蹲踞にも似た、背筋を伸ばして片膝をついた姿勢へ。どちらもぴしりと決めるには訓練が必要なそれを、紅梅は何をどうやったのかわからぬほどに危なげなく、流れるように行ってみせた。

  今年より 千たび迎うる 春毎に
  なおも深めに 松のみどりか 禿の名ある

 唄が始まると同時に、若草が急に伸びるがごとく立ち上がった禿が、おもむろに踊りだす。
 膝を中途半端に曲げた、不自然な、そして日舞においては基本の姿勢は、全くぶれることがない。そのまますり足で歩こうと、くるりと回ってみせようと、華やかに飾った重たげな頭が揺らぐことはなかった。
 紅梅の、あの気味の悪いほど精密で強靭なボディバランスが、いま、遺憾なく発揮されている。

 日本人で、和服での動きも知っていて、本格的に剣道をやっている弦一郎がこうまでぎょっとするのだから、観客席にいる外国人たちには、もはや意味不明であろう。実際、日本人でも、最初の立ち上がりだけで後ろにひっくり返りそうな振付である。
 だというのに、片足を振り上げて止まる振りにおいても、紅梅はまったく、微動だにしない。ふわりと巡らす扇は完璧に床と並行であり、きゅっと傾げる首は、頭の派手な飾りの重さを微塵も感じさせないほど軽やかだ。

 ──その姿は、人のようでもなく、だが、人形のようでもなかった。

 紅梅が美人であることを、弦一郎は知っている。
 だが今の紅梅の姿は、そんな範疇に収まるものではなかった。人形師や絵師が望み、その手で創り出そうと生涯を賭ける理想の姿が、そこで生き、動き、そしてこの世のものとは思えぬ動きで舞っている。

 だん、と、紅梅が舞台を踏み鳴らす。
 先ほどまで、まるで重力を感じさせない動きだっただけに、心臓を掴まれるような心地がした。

  二葉の色に 太夫の風 吹き通う
  松の位の 外八文字
  華美を見せたる 蹴出し褄
  よう似た 松の根上がりも
  ひとつ囲いの まがきにもるる


 長唄を代表するこの曲は、『勧進帳』や『吾妻八景』などの名曲を残した、四代目杵屋六三郎が、自分の娘の襲名披露のために作曲した祝儀曲である。
 ストーリーとしては、遊里・吉原の禿である“緑”という名の少女の出世を祈り、祝った内容だ。娘の祝いを廓で例える感覚は現代ではぎょっとするが、遊里は音曲を含めすべての流行文化の中心地であり、その最高位の太夫とあらば、文化人として一目置かれる存在だったので、題材として喜ばれたのだ。

 そしてこの曲において、“緑”という禿は、太夫の最高位である『松の位』は確実であろう、と謳われ、まだ幼いその身でなお、その期待にふさわしい風格を見せる少女という設定だ。

  廓は 根引の別世界
  世々の誠と裏表
  くらべごしなる 筒井筒
  振分髪も いつしかに
  老となるまで 末広を
  開き始めた 名こそ祝せめ


 ──時間にして、八分強程度の、短い曲である。

 歌詞も、まず、まだ若々しい二葉の緑に、その色が、すでに備わっている、というところから始まり。松の位となり、太夫独特の外八文字の歩き方で道中を歩む姿が目に浮かぶ、と。さぞ華やかで美しかろう、と。
 ここは人の誠も世の中の裏も混在する別世界。丸い井戸の竹垣と背を比べあう振分け髪の禿の彼女であるが、いつか松の位となるだろう。扇を開き始め、道を歩み出した。老いていくまで、その名を祝げ──、というものだ。

 そして、禿のお披露目を祝い、その有望さを証明するその舞を、まだ名取にもなっていないはずの少女は、──天女の衣、天衣無縫を纏いし“紅椿”を引き継ぐとされる彼女は、初舞台として、見事に舞い切ったのであった。
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BY 餡子郎
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