弦ちゃんへ
急に涼しくなってまいりましたが、体調など崩されておりませんか。
風林火山、とてもいい名付けですね。
この間見せてくださったグランドスマッシュが『火』ですよね? そのものだと思います。
次に会えるときには、あの時よりももっと強くなっているのでしょうね。そうなれば、私とダブルスなどしたら、もう私は足手まといにしかならないでしょうか。それとも、弦ちゃん一人ですっかり勝ってしまえるでしょうか。
…………
私は名取試験に向けて稽古の内容も前より濃厚なものとなり、おばあはんやお姐はんに着いて、お座敷やお舞台にも、定期的に出るようになりました。
日本髪を結うのが、とても大変です。結ったら五日は解けないので、その間は頭を洗えないですし、学校にもその頭で行かなければなりません。私はかんべんして欲しいと何度もお願いしましたが、だめでした。
お姐はんがさすがにかわいそうだと言ってくれたので、どうしてもという時だけにしてもらいましたが、それでもこの間、その頭のままで学校に行ったら、「江戸時代が来た」とか、「今は平成やぞ」などと言われました。言われなくともわかっています。
クラスの子は色々言ってきても意地悪なわけではないのでいいのですが、頭を毎日洗えないのがほんとうに嫌です。
…………
弦ちゃんへ
まだ冷たい空気の中、天神様の梅の花が満開になりました。
神奈川でもこの香りが漂っておいででしょうか。
もう五年生も終わりですが、私はやっと弦ちゃんと同じ十一歳になりました。早生まれだと、なんだかみんなから遅れているような感じがします。弦ちゃんと同い年なのも、三ヶ月ぐらいでございますものね。
…………
ちょうど春休みにフランスで公演があり、一週間、私もついていきます。京都を出るのも稀なのに、いきなり海を越えて外国です。
ついていくだけなので私は何もしませんが、初めての外国で、楽しみでもあり、緊張もしています。
フランスは日舞や歌舞伎、他の日本文化に関してもとても感心が強く、特に文化的な面でとても親日的な国です。芸妓が初めて海外でお座敷を設けたのも、フランスです。最近はアニメなども注目されているそうです。
…………
弦ちゃんへ
Bonjour.
フランスから書いております。初めてのエアメールで、ちゃんと届くのか心配です。
せっかく英語を勉強しているのに、フランスでは英語があまり通じませんでした。外国ですのに、と申しましたら、フランスだ、と言われました。それはそうなのですが、なんとなく納得がいきません。
くやしいので、フランス語も少し喋れるように頑張っています。
でも、歓迎のパーティーで会った、私達と同い年の男の子は、日本語も英語もフランス語も、あとドイツ語やギリシャ語などもできるそうで、びっくりしました。跡部財閥の御曹司だそうですが、そんな立場ともなれば、この歳でこれほどでなくてはいけないのですね。
青い目で、ほとんど金色の髪をしていらっしゃるので、お人形のようだと言ったら、お前のほうが人形みたいだと言われました。日本人形に似ているというのはよく言われますが、髪が伸びるやつ、と言われたので、それは呪われているものだと教えてあげたら、ちょっと引きつっていらっしゃいました。家にあるそうです。
普段はイギリスで暮らしているそうですが、お母様たちがおばあはんのファンで、舞台も観にいらっしゃるそうです。
…………
弦ちゃんへ
こんにちは。
いろんなことがありすぎて、続けて手紙を書いてしまいました。うるさくて申し訳ありません。弦ちゃんに手紙を書いていると、少し落ち着くことが出来ます。
フランス語などわからないと言っているのに、おばあはんが「英語は出来るやろ」とわけのわからないことを言って通訳のようなことをさせるので、すごく困っています。
日本人はこちらではかなり若く見えるそうで、私もとても小さい子のように扱われます。最初は戸惑い、いちいち訂正していましたが、そのせいでたいていの方が過剰なほど親切にしてくださることに気づいてからは、もう訂正していません。いくつに見られているのかわかりませんが、なりふり構っていられません。
だって、レストランなどならまだしも、舞台の打ち合わせなどもその調子なのです。信じられません。大事な話だったらどうするつもりなのでしょうか。
…………
とにかくお米が食べたいです。
紅梅より。
弦ちゃんへ
お返事をありがとうございます。
ちょうど舞台の前の日に届いたので、とても勇気づけられました。
といいますのも、実は、直前になって、おばあはんの前座のような催しをやるはずだったお姐はんが食中毒で入院してしまい、私が代役をやることになりました。
リハーサルも全部ついていって見ていたので段取りはわかっていましたが、小学生が人間国宝の舞台に、賑やかしとはいえ出るなど、日本だろうがフランスだろうがありえません。
それに、小さく見られているのはわかっていましたが、私はスタッフさんたちにも七つぐらいだと思われていたようで、そんな私を代役になど、と、とても驚いておられました。十一歳だということがわかっても、七つも十一も似たようなものだと言われました。私もそう思います。だいたい、私はまだ舞妓にもなっておりません。
でもおばあはんは「大事おへん」の一点張りで、聞く耳を持ちませんでした。
そして、私に、「出来んのか?」といじわるに笑って言いました。大事無いと言われているのに出来ないとは言いたくありませんでしたので、出来ると言いました。
…………
直前でのことで、私もスタッフさんたちもとても大変な目にあいましたが、私の年齢が若いことと、見習いおちょぼが舞台に立つ珍しさを逆手に取って宣伝してくださったおかげか、舞台は無事成功いたしました。
良かったです。本当に良かったです。肝が冷えました。
食中毒になったお姐はんは、安静にしていれば大事ないそうで、それも良かったです。舞台に出られなかったことと同時に、パリ観光が全部潰れたことを悔しがっておいででした。
牡蠣、私もおばあはんも当たらなかったですのにね。
…………
弦ちゃんへ
いかがお過ごしでいらっしゃいますでしょうか。
海外公演から、やっと帰ってまいりました。実は、おみやげを送りたかったので、飛行機の中で書いております。空港から出しますね。
十二時間も飛行機に乗るのはうんざりしますが、弦ちゃんにこうして手紙を書いていると、少し気が紛れます。
舞台の後、飛行機に乗るまで、少しの間でしたが、観光をいたしました。おばあはんたちは何度もおいでなので買い物に行ってしまいましたが、私は、舞台を見に来てくださっていた、英語を教えて頂いている先生と、前のお手紙で書きました、跡部財閥のご子息のご厚意で、お二人に、テニスに関係する案内をしていただきました。
先生は昔プロとして活躍していたこともある方で、テニスのことも色々教えてくださる貴重な方です。ご子息も、テニスをやっていらっしゃるそうです。
テニスといえば日本やドイツ、ブラジル、ウィンブルドンのあるイギリスなどだと思っておりましたが、テニスの起源は、厳密にはフランスだそうですね。
弦ちゃんは、ご存知でしたか? 私は寡聞にして存じませんでした。
…………
お土産は、昔のコートを見に行った時に撮った写真と、リアルテニス用のラケットと、ボールです。日本ではほとんど売っていない珍しいものなので、ぜひご覧に入れたいと思いました。
それにしても、今のテニスの黄色いボールでも当たれば相当痛そうなのに、こんなに硬いボールを打ち合っていたなんて、信じられません。当たったら絶対に大怪我をします。
リアルテニスのボールよりはましかもしれませんが、弦ちゃんもボールに当たって怪我をしないように、気をつけてください。
…………
次のお手紙は、日本国内からですね。着いたらお米が食べたいです。
紅梅より。
弦ちゃんへ
帰りましてすぐ入学式で、六年生になりました。始業式の日、時差ボケで眠くてたまりませんでしたが、なんとか居眠りをせずにすみました。本当です。
京都は、桜が満開です。
京の桜を見にたくさんの方がおいでですが、どこに行っても一面桜色、私にとっては毎年のことで、正直なところ飽きて参ります。どちらかというと、梅や桃のほうが良いにおいがするので好きでございます。
…………
おみやげ、喜んで下さってよかったです。
弦ちゃんにはテニスに関わるものがいいと思って選びました。向こうの剣のレプリカなどもあって迷ったのですが、刃物は飛行機で持って帰れないというのもあります。
実用的なものではありませんが、佐助くんのお気に入りになったのでしたら、やっぱりラケットでよかったです。
…………
お米がおいしいです。最高です。
紅梅より。
弦ちゃんへ
…………
佐助くんは、もうおしゃべりが出来るのですか!
最初の言葉が「げんいちろう」だなんて、佐助くんは弦ちゃんが大好きなのですね。弦ちゃんは面倒見が良いので、良いお兄さんだと思います。実際は、叔父さんですが。
でもまだ小さいので、私のことは覚えていないでしょうね。次に会った時にお喋りしたら、覚えてくれるでしょうか。
…………
弦ちゃんへ
…………
悩んでいるという風林火山の『山』ですが、弦ちゃんの言うとおり、動かざること、という響きは、確かに、常に動き回るテニスと繋げにくいですね。
私などが弦ちゃんのテニスに助言ができるとは思えませんが、素人考えながら、『風』が居合い抜きの高速ストローク、『火』が例のグランドスマッシュ、ということを踏まえますと、どちらもとても攻撃的、というか、好戦的な技に見受けられます。
弦ちゃんらしいですし、攻撃特化というのも格好いいとは思うのですが、前に言っていた「全ての方面でのそれぞれの必殺」とか、「オールラウンダー中のオールラウンダーとしての技」としては、防御や回避などの面が若干足りていないように感じます。
テニスにおいて防御の要素があるのかがまず私にはよくわからないので本当に素人考えですが、本来、孫子が記した兵法としての「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の句で、『山』は動かざること、『林』は徐かなること。つまり特に防戦を行う際の極意であるようなので、そういう印象があるとだけ申し上げます。
…………
弦ちゃんへ
…………
本当に拙い意見でしたが、きっかけになったようで嬉しいです。
弦ちゃんらしいテニスを作る、素晴らしい技が生み出せることを祈っております。がんばってください。
…………
弦ちゃんへ
桜が散って、緑が増えてまいりましたね。
暖かくなると、弦ちゃんに会える時が近づいてきたと感じます。
…………
実は、予定を繰り上げて、名取の試験をすることになりました。
フランスの公演の少し前から、密着取材としてテレビの人が定期的に撮影をしています。もちろんおばあはんの取材なのですが、私のような家娘のおちょぼは珍しいので、おまけのようにちょこちょこ撮られていました。
それが、フランス公演でのできごとをきっかけに、人間国宝の紅椿と、その跡取り候補で見習いの私の対比のような形の番組にするということが急遽決まり、それに合わせて、名取の試験も行うことになりました。
お母はんやお家元も「いいタイミング」とおっしゃいましたし、テレビの方も、最後に私が名取になるという流れだと、まとまりが良くて助かるそうです。テレビはほとんど観ないので、よくわかりません。
「うちより早いて生意気な」と、おばあはんにほっぺたをつねられました。えろぅ痛い。
でも、早うおばあはんみたいに舞えるよおなったら、うちのお舞を弦ちゃんに観てもらえるんも早なるよって、もっとがんばる。
…………
がんばります。
紅梅より。
・
・
・
「きぇーぅ!」
「痛っ」
佐助が振り回したラケット──、
紅梅がフランス土産に贈ってくれたラケットが背中にぶち当たり、弦一郎はペンを置き、小さく声を上げた。
現在のテニスの前身である『リアルテニス』用のラケットは、現在の普通のテニスラケットよりやや小さいので、歩いたり喋ったりし初めの佐助にとっては、格好の玩具であるらしい。
紅梅の言うとおり、日本ではなかなか手に入りにくい、珍しい──というよりはマニアックな代物なので、テニスを中心に生活していると言って過言ではない弦一郎にとっては、ツボを突いた、嬉しい贈り物だった。
現在のテニスの直接の祖先に当たる球技は、八世紀ごろにフランスで発生したとされる。当初はボールを手で打ち合う遊びで、ボールを太陽に見立てて、ケルト語で太陽を意味するスールと呼ばれていた。
そして、これが、フランス貴族の遊戯、“
jeu de paume(ジュ・ド・ポーム)”、日本語にすると「掌の遊戯」として定着したのが十六世紀ごろ。同時にイギリス貴族にも伝わって盛んに行われ、こちらでの“リアルテニス”の名称のほうがメジャーになり、これは現在でも少し行われている。
そして、本来飾るしかないラケットとボールは、大人たち、いや年が近い兄分の弦一郎がやることを何でも真似したがる小さな甥っ子の、大のお気に入りになってしまっていた。
大事な贈り物ではあるものの、二歳児の玩具にして壊れるようなものではないので、弦一郎も基本的に好きにさせている。しゃぶってよだれがついたり、うっすら歯形がつくことも許容の範囲内だ。贈り主の
紅梅にも一応報告しているが、本来実用的でないものが何かの役に立ってよかった、と言われている。
しかしながら、本来鈍器に近いような重いボールを打つものなので、フレームは硬い木製で、二歳児の力でも、これで叩かれるとなかなか痛いのだ。
「……こら、それは人を叩くものではないと教えたろう」
「やー! ゲンイチロー、やー!」
「やーじゃない。ほら、こっちにしろ、刀」
「やー!」
当たっても痛くない、柔らかいビニール製の玩具の刀に取り替えようとするが、佐助は頬を膨らませて拒否する。
生まれた時から割と積極的に面倒を見てきたせいか、佐助が初めて喋った言葉は「ゲンイチロー」だった。
そのことに感動し、何かが芽生えた気がした弦一郎は、以来、この甥っ子の面倒を更によく見ている。しかし、喋り始めた頃は素直だったのに、口が達者になるに比例して「イヤ!」が頻発するようになった甥っ子に、小学六年生になった叔父は、慣れの篭った溜息をついた。
「ああそうか。こっちの方が強いのだがな。佐助はそれのほうがいいか」
「う?」
「ほら」
弦一郎は玩具の刀を腰に構え、刀身と同じソフトビニールの鞘からシュッと抜くと、ヒュンヒュンと振り回して、くるりと回し、一瞬たりとももたつかず、またしゅっと納刀した。
何度もやっていることだが、途端、佐助の丸い目がきらきらと輝く。
「ああー、こっちの方が強くて格好いいのだがなあー、佐助はラケットがいいかー」
わざとらしくそう言ってやれば、まんまと「やるぅー!」と叫んでよちよちと走り寄って来る甥っ子に、弦一郎はウムと頷いた。
「では交換だ。ラケットを弦一郎にくれ」
「あいっ!」
満面の笑みでラケットを差し出す佐助に、「よしいい子だ」と頭を撫でる。
「ラケットをくれた佐助には、代わりにこの強い刀をやろう」
「あい!」
両手で恭しく渡してやれば、佐助も小さな両手で受け取り、座り込んで頭を下げる。佐助も夕飯前に時代劇を見ているせいだろう、やりたいことは何となく分かる。這いつくばっているようにしか見えないが。
「ではラケットは仕舞うぞ? いいな?」
「ナイナイすうの?」
「そう、無い無い。ナイナイしていいな?」
「いーよ!」
そう言って刀をブンブン振り回しはじめた佐助に頷いて、弦一郎は、押入れにある引き出しにラケットを仕舞った。
刀に夢中になっている間にさっと片付けてしまってもいいのだが、それをやると後で「ないー!」と泣き喚く、ということがあるし、何より躾の一環として、ちゃんと説明して話をつけてから、というやりとりを挟むことにしている。
とはいっても、相手は幼児なので、すっかり忘れたり、もしくは忘れたことにして、やっぱり「ないー!」が始まる、ということもザラなのだが、弦一郎は毎度根気強くこれを繰り返しているのだった。
こうして、弦一郎が、小学六年生の少年にしては非常に根気強く幼児の相手をしてくれるので、義姉の由利は時々、少しの間ではあるが、師範の仕事に復帰し始めている。
今この時も、道場で久々に竹刀を振り回しているはずだ。剣道一筋の彼女にとって、道場に出向くのは家事と育児の格好の息抜きとなるようで、それを可能にしてくれる弦一郎に、多大な感謝を示している。
だが、弦一郎は礼を言われる度に、
「いいえ、俺は普段、自分のことばかりさせて頂いていますので」
と、返している。
自分の時間など殆どない
紅梅の境遇を知っているからこその台詞であるが、そうでなくても、とても小学六年生とは思えない振る舞いである。
その様子に、兄の信一郎などはまた心配になってきたのか、「友達と遊んできてもいいんだぞ」などと言い出すが、「佐助にちゃんとお父さんと呼ばれるようになってから言ってください」と返せば、ぐうの音も出ない。
やっと司法修習生になった大事な時期であるがゆえに、可愛い盛りの息子とあまり触れ合えない信一郎は血の涙を流す勢いだが、司法修習期間さえ終われば弁護士会へ登録することができ、晴れて正式な弁護士の身分を名乗れる。
予備試験を受けることで、最短ストレートで司法試験に合格した実績もあり、実習先からはこのままうちの事務所に就職しては、という話も出ているので、一刻も早く妻と息子を自分で養いたい若い父親は今、死ぬ気で実務家法曹としての実務を学んでいるのだった。
「げんい、ろー!」
「うん?」
一人遊びに飽きたのか、文机に向かっていた弦一郎の背中に、体温の高い、小さい体が体当たりをかましてくる。
弦一郎はまたペンを置いて振り返ると、口を尖らせてうーうーと意味不明な喃語を喋っている佐助を抱き上げて、胡座をかいた脚の中に座らせた。構ってもらえたことが嬉しいのか、きゃー! と佐助が笑う。
「なにー?」
「手紙だ」
「えあん」
「て、が、み」
「え、あ、い!」
母音は合っているからいいか、と、弦一郎はそれ以上訂正するのをやめた。
縦書の便箋は、既に三枚書き上がっており、四枚目に突入しているところである。
去年会ってから、
紅梅からの手紙は、少し様相が変わったように思う。
ただ弦一郎の書いた手紙にコメントするばかりの内容から、自分がしていることについて、つまり詳しい近況やら、時折は愚痴のようなものも混ざるようになった。
弦一郎のことを気にかけるばかりでなくなった手紙を、しかし弦一郎は、妙に浮かれた気持ちで読んでいる。以前はただ穏やかで、気持ちが落ち着くようなものだった
紅梅からの手紙は、穏やかながらも心を暖かく躍らせる、楽しいものになっていた。
喜んだり、がっかりしたり、愚痴や、ちょっとした気に入らないこと。綺麗なものや楽しかったこと、初めて見たもの、体験したこと。たくさんの愉快なことの合間に、時に真剣な内容、いま一人で考えていることなど。
そんな文面から、あの、
紅梅の、ころころと変わる表情や仕草を思い浮かべることが出来た。
そして彼女の手紙に応えるようにして、弦一郎の手紙も、前よりも明らかに、そして自然に、長いものになっている。便箋の五枚六枚はもうざらである。
「あー、あー!」
「何だ、お前も
紅梅に手紙を書くか」
「お?」
「
こ、う、め、」
「あー!」
「お前、
紅梅の事は覚えているのか?」
「なにー?」
多分覚えていないのだろうなあ、と弦一郎は思った。前会った時、佐助はほとんど歩けてもいなかった。
ふと思いついて、弦一郎は文机の奥から硯を出して、ボトルから、手早く、少しだけ墨汁を垂らした。
なにか面白そうなことをしているように見えるのか、佐助の目がきらんと輝く。途端、机の上のものを手当たり次第に掴もうと、ばたばたと暴れだした。
「あー!」
「そうだ、お前も
紅梅に手紙を書け」
小さな怪獣の動きを抑えながら、弦一郎は、もみじのような小さな手に、筆で墨を塗った。くすぐったいのか、珍しい遊びが気に入ったのか、佐助がきゃっきゃと楽しそうに笑う。
「そら、ここに、ぺたん」
「たん!」
新しい便箋のど真ん中を、佐助が勢い良くぶっ叩いた。
いちいち仕草が荒いというか、力一杯というか、やんちゃが過ぎるのは、幼児だからだろうか、男の子だからだろうか。それとも我が家の血筋であろうか──、と、弦一郎は最近佐助に対してとみに感じ始めた、同族嫌悪にも似た反省を伴いつつ思う。
弦一郎が小さな手を上から軽く押し、離させると、縦書の便箋のど真ん中に、元気な黒い紅葉が一枚、くっきりと残る。
「よし」
弦一郎は、満足気に頷いた。
紅梅の手紙には、佐助は元気か、大きくなったか、とよく書かれているので、これを同封すれば、少しは喜んでくれるだろう。なかなか気の利いたものが出来た、と弦一郎は満足感に浸り、そしてその隙に、顔を輝かせた小さな怪獣が、まだ真っ黒な手をまた振り上げた。
「たーん! たーん! たーん!」
「こら、もういい!」
「いやー!」
勢い余って机にも手形を押されないうちに、弦一郎は甥っ子の手を捕まえて、もう片方の手で身体を抱え上げた。
見下ろした机の上、ど真ん中に綺麗に手形が押されていた便箋には、同じ模様が無数に刻まれていた。
まあ元気なことは伝わりそうだから良いか、と、弦一郎は黒い紅葉柄の便箋が飛ばないように文鎮で押さえ、まだ暴れている甥っ子の手を洗うために部屋を出た。