心に堪忍ある時は事を調う
(六)
「兄さん、十五分!」
席を立ってロビーに出るなり、それだけ告げて紅梅の腕を引っ張っていってしまった弟を、信一郎は呆然と見遣った。
一瞬焦ったが、遠くへ行くどころか、ロビーに飾ってある大きめのオブジェの台の陰に行ったことはすぐわかったので、信一郎は苦笑し、大人たちの話を少なくとも十五分の長さにするため、まずは母に話を振った。
紅梅の細い手首を掴んでオブジェの裏にやってきた弦一郎は、ぱっと手を離したかと思うと、
「ん」
とだけ言って、紅梅に拳を突き出す。
紅梅はすぐに察して、そっと両手を出し、弦一郎が拳の中に握りしめていた黒い守り袋を、受け止めるようにして、何やら厳かに引き取った。
弦一郎のテニスに一年間付き合ったお守りを少し眺めた紅梅は、やがて振り袖の袂を探ると、真新しい黒の守り袋をそっと取り出して、弦一郎の手のひらに、丁寧に置いた。
そして例年のように、そのまま弦一郎にお守りを握らせると、目を閉じて、「ご利益、ありますように」と呟く。去年は色々あって為せなかった儀式を行うことが出来て、弦一郎は満足した。
「……ぼろぼろやね」
紅梅が言ったとおり、古いほうの守り袋は角が擦り切れ、刺繍の色がややほつれ、白い飾り紐は薄汚れているし、随分よれている。
「だ、大事にしていなかったわけではないぞ。ただ、ラケットバッグに着けているから、試合にも練習にも持って行くことになるので、そのだな……」
弦一郎は、焦ったように言った。
自分のために誂えたような御利益を備えた守り袋に弦一郎はすっかり愛着があり、今ではこれが無いと落ち着かない。
ラケットバッグを買い替えた時にうっかりこれを付け替えるのを忘れ、それに気づいた時は、新品のラケットバッグでうきうきとしていた気持ちも薄れてしまい、注意力散漫になったばかりか、イージーミスを招いてしまったほどだ。
「だから、……これも、またぼろぼろになると思うが」
新しい守り袋を握りしめて、弦一郎は言った。
「……お前は、借り物ならば丁寧に扱うものだと言ったが、その」
「うん?」
紅梅が、首を傾げる。弦一郎は、あー、と一度呻いて言葉を選び、顔を上げた。
「だ、……大事なものほど、いつもそばに置きたくなる、というのもある。それで、その、しかたなく、ぼろぼろになる時も、ある、と……」
思うのだが、と自信なさげに続けた弦一郎に、紅梅はきょとんとした後、やがて、にっこりして頷いた。
「去年もぼろぼろやったもんなァ。……ちゃんと持ってくれとぉいう事やもん、うれしい」
「……うむ」
弦一郎は、唇を引き結んで頷く。
それから少し沈黙があり、ややして、弦一郎はぼそりと呟いた。
「……俺は、自分のものだと言われたほうが、大事にできるような気がするが」
「えっ?」
「いや! 借り物ほど丁寧に扱わねばというのが確かに道理なのだが、……あー」
だから俺は動きが荒いのだな、と、弦一郎は頭を掻きながら、反省するような声色で、きまり悪そうに言った。
「……そやね」
紅梅は、柔らかく微笑んだ。
「うちも、もし、……これはあんたのもんやて言われたら、一番だいじにするえ」
その笑みは相変わらず仏像のように美しかったが、同時に同じくらい現実味がなく、同意してもらったにもかかわらず、弦一郎はどこか納得行かないものを感じた。
「紅梅、その……」
「何(なん)?」
観音菩薩のような少女に、弦一郎は必死で言葉を選ぶ。
ここに来るまでにいろいろ考えていたはずなのだが、どうにもこうにも、思考がばらばらしてしまっている。それでもなんとか用意していた言葉をかき集め、弦一郎は言った。
「きょ、今日、紅椿殿が舞っておられたのが、座敷で舞うものなのだな?」
「そやね」
紅梅は、こくりと頷いた。
「なら、お前も、ああして舞うようになるのか? あれを真似して、名取になったのか?」
「……そやね」
今度は、微笑みだけだった。仏師が彫ったような笑み。
「お前はもう、あれと全く同じように舞えるのか? 全部?」
「……さすがにそれはあらへんなぁ。試験は一差しだけやし、全部いうたら──」
「なんだ、出来んのか」
弦一郎のその言葉に、紅梅はびっくりした顔をした。
そして、神仏なら絶対にしないだろうその表情──、狙っていた表情が引き出せたことに、弦一郎はにやりとしてみせる。
「そうだな、名取は免許皆伝というのとは程遠いと言っていたものな」
「……どういう意味やの」
紅梅の目が、能面のように細まる。
佐々部らに喧嘩をふっかけられた時、「怒った」と言ってしたその顔である。仏の顔を怒らせた弦一郎は、どきどきしながら、しかし勇気をもって続けた。
「俺は日舞のことはよくわからんが、紅椿殿の舞がものすごいことはわかる。日本一、国宝とされるだけのものだということはわかる」
「……それで?」
弦一郎は、すぅっと息を吸い込んで、出来る限りきっぱりと言った。
「たかだか一差しそれらしく舞える程度で、今から紅椿を名乗る時の心配なぞ、おこがましいのではないか」
心臓が、どきどきしている。
今まで弦一郎は、紅梅とは、穏やかなやりとりしかしたことはない。手紙の時も、直に会った時も、いつもおっとりと、自分の気を荒立てない柔らかい言葉を向けてくれる紅梅に、弦一郎も自然とそうしてきた。
しかし今、弦一郎は、わざと紅梅の気を逆立てるようなことを言っている。それは挑発であり、品のない言い方をすれば、喧嘩を売った、というような態度だった。
「……言うやないの」
紅梅は相変わらず能面のような顔をして言った。
しかしその目は、さきほど紅椿の舞台を観ていた時と同じ、獄炎の中から睨みつけるような、烈しく生々しい眼差しだ。
あのとき、天衣無縫の舞を忘れて見入ったその目に、弦一郎は再度見入り、背筋がぞくりとするのを感じた。
だが、概ね、期待通りである。
紅梅はおっとりしていてやさしい少女だが、──同時に、かなりの、もしかしたら弦一郎と同じレベルの負けず嫌いであるということを、弦一郎は、テニスで喧嘩を売られた時の彼女の対応と昨夜のじゃれあいで、かなり確信していた。
弦一郎のように真正面から行かないだけで、彼女もまた、売られた喧嘩はかならず買う質。そしてそういう人間は、優しく慰められたりするよりも、そんなことも出来ないのかと発破をかけられたほうが、やる気の炎が燃え上がるものだということを、弦一郎は身を持って知っている。
「……それに、お前が紅椿として不足なく舞えるようになれば、……お前がお前の舞いたいように舞っても、誰も文句を言えなくなるのではないか」
紅椿の名を背負い、伝統を受け継ぐことは、確かに大事なことだ。
しかし、それは、誰にでもできることではない。紅椿と同じく最年少名取として認められ、この歳で、一差しだけとはいえ、その舞を完璧にトレースできるような人材など、少なくとも三十年に一人程度しかいないのだ。
その稀有な人材が、伝統を背負った上でなにか変わったことをしたところで、誰が咎めるものか。──咎められるものか。紅椿の舞は、彼女にしか舞えないのに!
「今は、耐え忍び、……力をつけるべき時ではないのか」
弦一郎とて、神の子を打倒することを目標に掲げているが、本当に目指しているのはその先である。幸村に勝つことは、その通過点でしかない、と、未だその勝利の端すら掴めぬながらも、弦一郎は恥ずかしげもなく真正面から宣言し、限界のない努力を続けている。
だからこそ、弦一郎は、紅梅に、小さく縮こまってほしくはなかった。百年単位での伝統や、紅椿の名がどれだけ重いかは想像しかできないが、その重みで潰れてしまって欲しくなかった。
──今は、背負うだけで精一杯でも。
「その年で名取になれるお前なら、いつか、……紅椿の名を踏み台にするくらいのことを、やってやれるのではないのか」
紅梅が、その垂れ目が垂れ目でなくなるくらい、大きく目を見開いた。
それはそうだろう、なにせ、全ての舞手が目標にし、まさに天の上の存在だとしている紅椿を踏み台にしてみせろと、弦一郎はそう言ったのだ。
だが、──言霊。
どんなに無茶なことも、勇気と決意をもって真っ向から宣言すれば力を持つのだということを、弦一郎は知っている。
そのための努力、それさえ惜しまなければ願いは叶うのだと、弦一郎は祖母が亡くなった今でも、変わらずそう信じていた。
言い切った、と、ひと仕事終えたという顔をしている弦一郎に、紅梅はただただ目を見開いている。
しかしやがて、泣き笑いのようにくしゃりと表情を歪めたかと思うと、すぐ俯いてしまった。初めて見るその表情に、今度は弦一郎が目を丸くする。
「紅梅?」
「今は、……我慢、な」
「……うむ」
「今はそないして、いつか、“紅椿”以上の舞手に、なる……」
俯いたまま呟く紅梅に、弦一郎は頷く。
紅梅は、顔を上げた。
「……それ、ちゃうお人にもう言われとおすのやけど」
「ぐっ」
散々考えてひねり出した渾身の発破を挫かれ、弦一郎はガンと衝撃を受けて呻いた。
紅梅は、苦笑している。
「そやけど、……そん時は、簡単に言わはるわァ思てな、素直に聞けんかったんやけど」
「う、……む」
「弦ちゃんにまで言われてもうたらなあ」
紅梅は、笑った。
「弦ちゃんに言われてもうたら、……そないするしかあらへんわなァ」
そう言った紅梅の表情は、笑顔。
弦一郎は、どきりとした。彼女がこうして笑っていて、自分のかけた発破にも真正面から応えてくれたというのに、なぜだか、彼女が更に遠くに行ってしまったような気がして。
自分は何か、取り返しの付かないようなことを口にしてしまったのだろうか。そんな思いが、弦一郎の首筋に、じわりと焦燥の冷や汗を浮かせる。
「紅梅、」
「弦ちゃん」
弦一郎の呼びかけを、紅梅は、凛とした、鈴のような声で遮った。
まっすぐに弦一郎を見、青竹のようにすっと立つ紅梅は、観音菩薩のように美しく、そして同じくらい遠い存在に感じられる。
「……うちが、紅椿んなって、……誰にも文句言わせんくらいに舞えるよぉなって、うちが……」
紅梅は、少し震えた声で言った。
「うちが、うちのお舞舞えるよぉなったら、弦ちゃん、観てくれはる?」
「もちろんだ!」
弦一郎は、できうる限り即答した。
そしてそのとおり、電光石火の承諾に、紅梅が目を細めて微笑む。
「ほな、がんばる」
その表情は、やはり彼女をどこか遠い存在に感じさせる。
弦一郎は、ざわざわと逆立つ項の感触に急かされて、つい、追いすがるように言った。
「あー……、そ、それにだな、実は、……紅椿殿の舞は、物凄いことはよく分かるのだが、その」
「うん?」
「……ものすごすぎて、少々恐ろしくてな。どこが良いのかはよくわからん」
「ぷぁっ、は!!」
弦一郎がぼそぼそと言うと、紅梅は勢い良く顎を逸らして、少しひっくり返った音で笑った。
「弦ちゃん、凄い事言わはるなぁ!」
「む、だがな、こう……、凄すぎて人間ではないようで……大妖怪のような感じがしてだな」
「妖怪!」
ぷひゃあ、と、紅梅はあの珍妙な声を上げて、今までで最大の大笑いをした。馬鹿笑い、と表現しても良いレベルのそれに、周囲の人々ですら、何事かとちらちらと目線を寄越してくる。
「だからその、お前の舞がどんなものかはわからんが、できればあれより恐ろしくない感じだと……」
「うん、うん、……ふくくくくくく」
「べ、紅椿殿には言うなよ」
「ひぁー」
「言うなよ!?」
あの老女から見下された時の、まさに大蛇に睨まれたカエルのような気分を思い出し、弦一郎はやや青くなって、必死に言い募った。
紅梅は目の端に薄っすらと涙まで浮かべて笑い続けていたが、弦一郎があまりに必死だったからか、笑い続けながらも、「言わん、言わん」と、とりあえず約束してくれた。
「……弦ちゃんは、凄いなァ」
やがて笑いを収めると、紅梅は、しみじみした感じで言った。
「やっぱり、格好ええなァ、弦ちゃんは」
最初に会った時に言われたのと、同じ言葉。
その時は大変むず痒いものを覚えたものだが、いま、いかにも深く実感している、というような声で告げられたそれに、弦一郎はどきりとして、頬を赤らめる。
「弦ちゃんは……」
「ん、む?」
「弦ちゃんは、……自分のテニス、出来てはる?」
あの、菩薩のような微笑みをまっすぐに向けられて問われ、弦一郎は背筋を伸ばした。
「……そうだな。まだそれ自体どういうものなのかわからんところがあるので、探しながらだが、俺のやりたいようにやっている」
「さよかァ」
紅梅は、にっこりした。
「そら、よろしおした。……ほんまに」
その笑みは、今まで感じていた遠さが嘘のように、とても近い。
彼女の温もりさえわかるようなその笑みに、弦一郎はどぎまぎする。遠くなったり近くなったり、おっとりしているのに時々苛烈だったり、人のようでないほど美しいと思いきや身なりを乱して床を転げまわったりと、彼女はつくづく掴み所がない、と弦一郎は思う。
だがそれは、不快だとか、イライラするとか、そういうことではない。
──ただ、どきどきするだけだ。
「うち、がんばるし、今はがまんするよって、……弦ちゃんも、約束して?」
「む?」
「いつか、……うちのお舞、観て。それまで、弦ちゃんは、自分のテニス、してな?」
「うむ!」
はっきりと頷いた弦一郎に、紅梅は、ぼろぼろのお守りを握ったままの手の小指を、そっと差し出した。
紅梅のその白い指に、弦一郎もまた、新しいお守りを握りしめた手の小指を絡める。
「──ゆーびきーり、げーんまーん……」
鈴の音のような声があの物騒な唄を歌うのを、弦一郎は聞き届け、指を切る。
「約束な?」
「うむ、男に二言はないぞ!」
そもそも、約束を破ったら、男ではなくなってしまう。
そういう約束の歌であると知っている弦一郎は、命を懸けた覚悟で頷いた。
「……お舞台、出る」
真田家一同に別れを告げ、ひとり控室に戻ってくるなりそう言った、ひどくむくれた顔の紅梅を、紅椿は、煙管の煙を細く吐き出しながら、半目で眺めた。
「まあ、あんたが嫌や言うたかて出させるけども。どういう風の吹き回しや」
「ううう」
しかめっ面で畳に上がった紅梅は、どしん、と音を立てて正座で座り込んだ。
「今は我慢しぃ言われた……」
「太郎はんが言うたんとおんなしやな」
「うん……」
「そやのに、なァんで素直に言うこと聞く気ンなったんや。太郎はんに言われた時はあないブスくれて、駄々こねて。アンタあれ太郎はんやからええけど、他のお客はんにやったら承知せんえ」
そうしてぴしゃりと説教を貰っても、紅梅は、無言だった。
完全にぶんむくれている紅梅を一瞥した紅椿は、煙管をカンと鳴らして灰皿に打ち付け、詰まった灰を落とす。
「……そやかて」
「あん?」
ぼそぼそと言う小娘に、老女は老いてなお美しい、細い顎を突き出した。
「そやかて綺麗て言いやるんやもん!」
殆ど叫ぶように言って、紅梅は畳に倒れた。それを紅椿は、自分の尻尾を追いかけて同じ所でぐるぐる走る犬を見るような目で見る。要するに、馬鹿だなこいつ、という目である。
「綺麗言われたんか」
「言われたァ……」
畳に突っ伏したまま発した声は、呻きに近かった。
「まんまと誑されよるわ。ちょろい子やなァ、情けな」
「そやかてしょうがあらへんもん!」
「へぇへぇそやそや、そやな」
きぃきぃ喚いている紅梅とは裏腹に、紅椿は死ぬほどどうでも良さそうな声で言って、煙管を片付け、白塗りの化粧を落とし始めた。
「あない言われたらやるしかあらへんやないの……あほっ……」
「へぇへぇそやそや」
「弦ちゃんのあほっ」
「へぇへぇそやそや」
「……おばあはんのあほっ」
「なんか言うたか」
「言うとおへん」
ぎろっと睨んできた紅椿の視線を、紅梅は小賢しく避けた。慣れた仕草である。
「あほぉ……」
紅梅はもう一度呟き、膝を抱え、ごろりと畳の上に転がった。
──今は、耐え忍び、……力をつけるべき時ではないのか
──いつか、……紅椿の名を踏み台にするくらいのことを、やってやれるのではないのか
紅椿が名取になったのは、紅梅と同じ、十二の年。
舞妓として店出ししたのが、十五。芸妓に衿替えしたのが、十八。
名妓と呼ばれだしたのが、二十二。その舞が評判を呼び、座敷舞だけでなく、各地方の舞台にも立ち始めたのが、二十八。
置屋『花さと』の芸妓・紅椿としてではなく、いち舞踊家、芸術家、上杉 紅椿として完全に世間に認められたのが、三十代も後半の頃。
そして、誰にも文句を言わせない、人間国宝、重要無形文化財の保持者としての認定を受けたのが、六十の年。
弦一郎は、そんなことまで知らないだろう。知っていたら、言っただろうか。“今は”、我慢だと。“いつか”と。残酷に、同時に希望豊かに。
そして紅梅は、彼に言われたからというだけで、そんな無責任な励ましで、とりあえずでも、その覚悟を決めた。紅梅の覚悟があろうとなかろうと、敷かれたレールは動きはしないが。
「……うち、いつンなったら、おばあはんに勝てる?」
紅梅は、泥のような声で呟く。
紅椿はもう一度煙管に煙草を詰め直し、悠々と火をつけてふかしてから、言った。
「百年早いわ、あほ」