心に堪忍ある時は事を調う
(十一)
「げ、ちゃん」

 呆然と固まっている弦一郎の視線を追った精市は、その先に立っている人物を見て、そんな声を上げた。
「誰だ? 知り合いか?」
「真田のね。ほらほら、暗くなりそうだし、行こう」
 やたら急かす精市にきょとんとしながらも、国光は頷いた。そして、棒立ちのまま、フェンスの向こうの着物の少女を見つめている弦一郎を、ちらりと見る。

 国光は一度口を開き、しかし結局何の音も発さぬまま、踵を返して、精市の後を追って、コートを後にした。






 紅梅を連れてきたのはもちろん弦右衛門であり、駐車場に留めてある真田家のファミリーワゴン車を運転していたのは、信一郎。後部座席に、由利が座っている。

「準優勝おめでとう、弦一郎」

 と兄に言われても、弦一郎は、返事をしないどころか、眉を顰めて俯く。
 コートを出るときも、車に乗り込むときも、弦一郎はほとんど喋らず、俯き加減で、誰とも目を合わせなかった。
 せっかくちゃんが来とるのに何じゃその態度は、と弦右衛門にスパンと頭を叩かれても、弦一郎の様子は変わらない。

 運転手要員である信一郎はともかく、その妻の由利が同乗していたのは、紅梅の歓迎と、弦一郎の準優勝祝い、そして育児と家事をこなし、更には師範として道場で剣をふるう彼女をねぎらうという様々な理由で、何か美味しいものを食べに行こう、という思いつきからだった。

「父さんと母さんと、佐助は留守番。たまにはね」
 ハンドルを握りながら、信一郎は穏やかに言った。
 助手席には、弦右衛門。後部座席には、空っぽのチャイルドシートと由利、弦一郎と紅梅が、やや詰め気味に座っていた。
「お祖父様おすすめの料亭だそうですよ。本当は、何が食べたいか聞いたほうがいいかとも思ったんですが……」
「いぃえぇ、大事おへん。楽しみどす」
 少し済まなさそうな由利に、紅梅は穏やかに返事をした。その後、二人を中心とした、和やかな会話が続く。
 だがその時も、その後も、弦一郎は一切会話に加わることはなく、ただ、目が眩む様な、赤紫の強い夕日に染まる町並みを見つめていた。



 弦右衛門が知人に紹介されて選んだというそこは、細い青竹に囲まれた、風情ある割烹料亭だった。相模湾で捕れた魚介類を中心にした、気取り過ぎない隠れ家的な店だ。
 主人自らの作品であるという、なかなか見事な水墨画が飾られた座敷に通され、席につく。

「こら、弦一郎! いいかげんにしろ!」
 女将が来て挨拶をした時も、険しい顔でむっつりと黙りこくっている弦一郎に、とうとう弦右衛門の叱咤が飛ぶ。
「……申し訳ありません」
 そう言いつつも、弦一郎はますます眉を顰める。だがなにか切羽詰まって揺らぐようなその表情は、彼の態度が単なる不機嫌によるものではないことを悟らせるもので、弦右衛門は片眉を上げ、それ以上声を上げることはなかった。
 信一郎は首を傾げ、由利は少し心配そうな顔で、弦一郎を見ている。その視線と、シンと静まり返ってしまった部屋に耐え切れず、「用足しに行ってまいります」と、弦一郎は立ち上がった。

「おい、弦一郎!」
「爺ちゃん」
 部屋を出ていこうとする弦一郎を引き留めようとした弦右衛門を、信一郎が更に引き止める。なんじゃい、と弦右衛門が振り返れば、信一郎の視線の先には、部屋を出る弦一郎の背中を、じっと見つめる紅梅がいた。
 そして弦一郎の足音が遠ざかり、聞こえなくなるころ。紅梅が、すっと立ち上がる。
「うち、お庭見とおす」
 そう言うと、まるで霞が流れていくような動きで、紅梅は部屋を出て行った。



 竹と砂利の庭が自慢でございます──、と、最初の挨拶で、女将が教えてくれた。
 紅梅はそのとおりに廊下を歩き、庭が見れるよう設えられたそこへ向かう。すると予想通り、便所には行かず、膝を抱えて座っている弦一郎がいた。

「弦ちゃん」

 紅梅は静かに声をかけ、拳一個分くらいの間を空けて、弦一郎の横に、弦一郎と同じように、膝を抱える格好でしゃがむ。
 弦一郎は、ちらっと紅梅を見て、しかし長くは見ず、また庭に視線を戻した。しかしその目が庭を見ているのではないのは、すぐわかる。
 しばらく無言のまま、紅梅はそんな弦一郎を見続ける。しかしふと、言った。

「負けたん?」

 弦一郎の肩が、ぴくりと動く。
 次いで、ゆっくりと首を動かし、紅梅を見た。
 相変わらず弦一郎の眉はこれ以上なく顰められているが、眉尻は吊り上がっているどころか情けなく下がり、口はへの字だ。怒っているとか苛ついているというよりは、途方に暮れて、どうしたらいいのかわからない、そんな表情であるように、紅梅には思えた。

「……いつから、見ていた?」

 ぼそり、と、暗い声で、弦一郎は尋ねた。
 紅梅がフェンスに立っているのに気付いたのは精市と国光の試合が中断されたあの時が初めてで、いつから見られていたのか、彼女がいつからあそこにいたのか、さっぱりわからなかった。
「うぅん、……弦ちゃんが、めがねかけた、茶色の髪の毛のお人と打ちおうとるところ。すぐ終わってもうたよって、勝ったんか負けたんかわからんやったん」
 それを聞いて、弦一郎は、はぁ……、と、重々しい息を吐き、自分の膝に突っ伏すような格好になった。
 あの無様な試合をすべて見られたわけではないが、しかし、負けたところはしっかり見られていたとわかり、弦一郎は、鉛を飲んだような気分になる。

「そのあと、……あれ、もしかして、せぇちゃん?」
「……ああ」
 さよかぁ、と、紅梅は頷いた。
「めがねのお人は? 優勝したお人?」
 精市を女子だと思っていることと、弦一郎に勝ったのならそうなのでは、という発想で、紅梅はそう尋ねた。しかし、弦一郎は、返事をしない。
「さよかぁ」
 肯定と取ったのか、それともただの相槌なのか。紅梅は穏やかにそう言い、また少しだけ黙る。
 沈みかけ、燃えるような色から、夜の混ざった紫色になった空。そこから吹き降りる風が竹を揺らし、笹の葉の、さらさらという涼しげな音が、空気を心地よく震わせる。

「次は勝てそぉ?」

 今までと全く同じ、おっとり、静かな声で発されたその言葉に、弦一郎は、思わず顔を上げる。顰めた眉は上がり、険しかった目は、丸く見開かれていた。

「………………つぎ」
「うん?」
 呆けたような様子の弦一郎が漏らした声に、紅梅は、出会った時から変わらない、菩薩像に似た微笑みを浮かべたまま、首を傾げた。
 一年経って少しほっそりした頬が、しゃがんだ膝にくっつけられている。

「負けてもうたら、次は勝たな」

 きちんと目が合ったからか、紅梅はその体勢のまま、にこっとして、そう言った。
「次……、とは、」
「へぇ? なんや、弦ちゃんが言うたんえ? 最初会うた時に」
 覚えてへんの? と、紅梅は少しきょとんとした顔で、明るく、そして穏やかに続けた。

「あかんとこは、十倍百倍練習せえて。どこがあかんのかわからんかったら、全部練習したらええて。そない言われて、うち、へたくそやったけど、名取になったんえ?」

 そしてその言葉に、弦一郎は、無理やり飲み込んだ鉛のような気持ちが、すうっと霧散して消えていくような心地を味わった。先ほどまで、立ち上がる気力もなかったというのに。

 そして、紅梅の穏やかで明るい声を反芻しながら、おっとりと微笑む表情、まっすぐ自分を見る黒い目をきちんと見て息をする。青竹の香りの清涼な空気が、胸いっぱいになるのを感じて、心地が良かった。
 紅梅の着物の色柄は、水瓶に映りこんだ青空の色を表現して生み出されたといわれる、涼し気な瓶覗色の流水柄で、やさしい緑の細竹の庭によく似合う。
 一年前までは眉の辺りで一文字にぱつんと切っていた前髪はなく、広めの額は丸出しになっている。日本髪を結う機会が増えたがゆえに伸ばした前髪は、真ん中でふたつに分けられ、顎のラインより長く、紅梅の輪郭をよりほっそりと見せていた。後ろは、硝子だろうか、動くと音が鳴りそうな、様々な色付きの透明な飾りがついた髪ゴムを使い、高めのポニーテール。
 だが髪型が変わっても、真っ直ぐな黒髪は相変わらずつやつやと見事だ。

 弦一郎もそう言われることが多いが、改めて見ると、彼女もまた、年齢よりは大人っぽく見える、と感じた。
 ──いや、大人っぽく見えるというよりは、年齢不詳に見える、という方が正しいだろうか。実際よりいくつか上だと言われても納得するが、もう少し幼いと言われても、特に誰も驚かない感じがする。

 そんな、一年ぶりの紅梅の姿を無言のまま確認し尽くすころには、ずっしり重い何かは、明らかに薄れて軽くなっていた。

「なんで負けたんか、わかるん?」
「…………わからん」
「さよかぁ。ほな、仰山練習せなあかんなぁ」
「……うむ」

 弦一郎は、こくりと頷いた。
 国光との試合の後、誰かが言うことにきちんと頷いたのは、これが初めてだった。
「そや。準優勝」
 弦一郎は、少しぎくりとする。しかし紅梅はなお一層微笑んで、続けた。

「おめでとうさん。こんどは優勝、お気張りやす」

 その言葉は、弦一郎の胸に重くのしかかっていた何かの代わりに、すうっと、何の抵抗もなく滑りこんできた。
 しかもそれはとても心地よく、気恥ずかしく、どこかくすぐったくもあった。そのくすぐったさに、弦一郎は、まだ少し歪だが、しかし素直に笑みを浮かべる。

「……ああ、ありがとう」



 戻ってきた二人、いや、弦一郎を見て、弦右衛門たちは、くるりと目を丸くした。
 なぜなら、どんよりとしたものを重苦しく背負い、見たこともないほど憔悴していた弦一郎の機嫌が、まるで憑き物が落ちたかのように、けろりと直っていたからだ。
 紅梅は出ていく前から穏やかだったが、こちらもまた、明らかにご機嫌ににこにこしている。

 どういうやりとりがあったのかはわからぬが、紅梅が弦一郎の機嫌を直した、ということは明らかだ。出て行く前は世界の終わりのような顔をしていたくせに、今は時々笑顔さえ浮かべて料理をつつき、紅梅と朗らかに話している。

 我が孫、弟ながら、なんてちょろい奴なのだ、と弦右衛門と信一郎は呆れた。
 しかし肉体的にも精神的にもかなり打たれ強い弦一郎があれほど落ち込んだ様子は、家族の彼らもめったに見たことのないものだったので、こうして呆気無く立ち直ってくれたことには、大いにほっとした。
 そして、たかだか数分間で弦一郎の背負った澱みをすっかり打ち払った紅梅に、感心するやら、感謝するやら。
 どうやらこの少女は、うちの次男坊の機嫌を直す天才であるらしい。と、弦右衛門と信一郎は、揃って苦笑しながら、そっと目を合わせて頷きあった。



 美味しい料理と上々のサービスを堪能し終わったあとは、「由利さんの労いでもあるのだから、ちょっと二人でゆっくりしてこい」と弦右衛門がほとんど命令のように言ったため、まだ新婚の粋なのに仕事と子育てに追われる若夫婦は、帰宅せず、久々のデートを楽しむことになった。
 二人共照れくさそうだが、嬉しそうだ。

 そして二人に見送られ、代行サービスの運転手による運転で、帰路をゆく。
 来た時と同様に助手席に座った弦右衛門が振り向くと、後部座席に座った弦一郎と紅梅が、寄り掛かり合うような格好で、ぐっすり眠っていた。
 弦一郎は大会、紅梅は過密なスケジュールでこなした稽古と新幹線の旅路で、疲れていたのだろう。二人共寝息は深く、ちょっとやそっとでは起きそうにない。

 一年ぶりに会ったとは思えないそのあどけない様子に弦右衛門は目を細め、孫達をゆっくり眠らせてやろうと、静かに前を向いた。






 翌日、いつもどおり朝四時に目を覚ました弦一郎は、いつもどおり剣道着に着替え、庭で素振りをした。そして流れる汗を、裏手、洗濯物を干す場所にある水道に向かう。

 ──バシッ!

 頭に冷たい水をかぶった後、弦一郎は、自分の両頬を、思い切り引っ叩く。
 強い衝撃、次にじんじんと熱い痺れが、頬に広がってゆく。しかし、気合は入れなおせた。

 次いで道場に向かい、誰もいないその場所の真中で座禅を汲んで、目を閉じる。
 竹刀を握らされてからずっと弦右衛門に命じられている、瞑想鍛錬。
 他の武道や流派、もしくは禅道の多くでは無心や滅私の意識を鍛え、集中力を養うために行うそれだが、真田の剣の場合はそうではないのだと、弦一郎は教わった。
 しかしならばどういうことをせねばならないのかはよくわかっておらず、いつもただ時間が過ぎてしまうだけというのが、ほとんどだった。

 だが、今。

(考えなくては)
 弦一郎は、目を閉じた真っ暗な視界で、あらゆるものを周りに並べるイメージをした。
 剣、書、そしてテニス。これまでの勝利、そして敗北、その原因。その時の状況、見えたもの、感じたもの、におい、味。己の心に刻まれた記憶を、思いつく限り、ひたすらに列挙してゆく。

(幸村精市)

 今まで、ただの一度も勝利できたことのない、神の子。
 弦一郎の世界で、出会った頃の精市から、今現在の精市、あらゆる彼がラケットを振るい、ボールを打ちはじめた。
 彼のテニスを、ひたすらに反芻する。歯を食いしばって彼を見上げ、いつかあそこから引きずり下ろしてやると目に焼き付けてきた神の子のテニスを、もう一度見直す。
 あまりの圧倒、あまりに重ねられる敗北に、もう見たくないと目を覆いたくなる心を押さえつけ、弦一郎は、己が負けたその姿を、真正面からじっと見つめ続ける。

 はぁ、と、思わず息が漏れた。ただ座禅を組んで記憶を反芻し、その分析を行っているだけだというのに、ひどい疲労感が弦一郎を襲う。
 それは、今まで行ってきた、ただ無音の中で時間がすぎるのを感じるだけの瞑想とは、もはや別物だった。そしてもしかして、これこそが、祖父が命じたものだったのだろうか、と弦一郎は思う。おそらく、それは間違っていないだろう。
 一度深呼吸をして、弦一郎は、再度自分の中にあるものと向き合う。

(……手塚、国光)

 次に、昨日、弦一郎が絶望を覚えた、彼のテニス。
 実際打ち合ったあの時は、あまりに圧倒的なそれに慌てふためき、ただ球を打ち返すことだけに必死になっていた。その様は、頭の悪い獰猛なだけの獣が、銃を持った狩人にあしらわれているようだ。
 その無様な己の姿を、弦一郎は、真正面から、真向から見つめる。みぞおちのあたりがぎりぎりと痛み、情けないそのざまに感じる羞恥で、こめかみが焼けるように熱い。

 だが拷問に耐えるようにそれを堪え、じっと見つめてなるべく冷静に分析すれば、国光のテニスの要は、精密というのも足りないような超絶技巧であることを確信することができた。
 もはや何をどうしてそうなったのか、理解どころか想像もつかぬ緻密なコントロールは、機械のようというよりは、己の眼と手だけでミクロ単位の技も可能にする、職人のようなそれに近い。
 そしてそんな技工を、弦一郎と同い年の彼が成し得ているという驚愕。
 手塚国光は、おそらく弦一郎と同レベルでの、反復練習を苦にしないすさまじい努力家であろう。しかし同時に、精市と同じくらいの、天に、テニスに愛されたような才能の持ち主だ。
 努力する天才、その脅威にまた、弦一郎の足元に、絶望の淵が現れる。しかし歯を食いしばり、脚を踏ん張って、弦一郎はその真っ暗な穴に落ちるのを防いだ。

(俺は、準優勝だ)

 神奈川県内、ジュニアテニス二位。それが今の、弦一郎の肩書で、実力だ。
 神奈川はテニスに力を入れていることで有名な県で、テニススクールやストリートコートの数も多く、中学校・高校にテニスコートがあるのは全く珍しくなく、神奈川出身のプロテニスプレーヤーも多い。神奈川といえばテニス強豪、というイメージが真っ先に上がるのは、普通のことだ。
 その神奈川内で二位ということは、かなりの実力者であるということ。それはもはや常識であり、単なる事実として、誰も疑ってはいない。──弦一郎本人も、そう思ってきた。

 だが、弦一郎は、手塚国光に敗北した。

 手塚国光は、隣県・東京都の一位だという。
 日本には、四十七の都道府県がある。そして日本のジュニアテニスは、全国規模で一位を決める大会が存在していない。それなのに、日本のどこかに、弦一郎より、精市より、そして国光よりも強いジュニア選手がいないなどと、どうして断言できるだろうか。

 更には海を超え、世界。
 日本はテニスを最大の人気スポーツとしており、第二の国技と言うことすらある。
 だがここ数年、プロの世界での日本人ランキング上位者が少なくなっているために、「日本はもうテニス後進国」と評する声もあるのも事実だ。そしてこれをチャンスだとして、選手を育成し、世界ランキングを制しようと力を入れる国も多くなっている。

 国光は、ドイツのテニスアカデミーに短期留学していた、と聞いた。
 それがあの強さの理由なのかはわからないが、少なくとも、彼は弦一郎よりも広い世界を体験しているのは確かだ。

 そこまで考えて、弦一郎は、自分とて、精市がいなかったら、今これほどの実力を持てていたかどうかは怪しい、と、ふと思った。
 弦一郎は、精市や国光ほどの、生まれ持ったテニスの才能はない。どの分野でも、最初はある程度標準より上手くやれるが、きらりと光るものはない器用貧乏。
 そんな自分がここまで来れたのは、神の子という点の上の存在に常に追いつこうと、がむしゃらにやってきたからだ。

 ──井の中の蛙。

 まさにそれ。驕っていた、と、弦一郎は認め、改めて猛省した。
 そして同時に空の広さを知り、また、その広さに絶望せず、まっすぐに見上げた。

 弦一郎には、テニスにおける、特別な才能はない。
 だが神に愛された者達との格差に絶望せず、岩にかじりついてでも上を目指し続ける精神力、またその努力をなし得る、真田家の遺伝子が作った強靭な肉体がある。
 足りないところは、練習すればよい。足りなければ十倍百倍、いくらでも、できるまで、勝てるまで。自分にはそれができるのだ、と、弦一郎は己を鼓舞した。

「必ず、勝つ。幸村にも、手塚にも」

 言霊。心の底から誓う言葉を声に出すことで現実に影響を与え、そのとおりの結果を現す力があるとする、日本独特の考え方。

「……次は、負けん」

 弦一郎は、血を吐くような、魂を削って差し出すような気持ちで、その言葉を口にした。
 空は高く、世界は広く、そして自分はとてもちっぽけな存在だと知った。──それでも。

 ──器の大きい人にならなければね

 亡き祖母の優しい声が、すうっと優しく柔らかく、ずたずたになった心に落ちてくる。
 そうだ、今は耐え、堪え忍ぶとき。ひたすらに練習を積み重ね、己を厳しく見つめ、必要な物を調える時だ。何が必要なのかわからなければ、手当たりしだいに、全て鍛えれば良いだけのこと。
 そうしてこの絶望の淵から這い上がり、未だ見えぬ頂点を目指すのだと、弦一郎は、しっかりと床を踏みしめて立ち上がった。
- 心に堪忍ある時は事を調う -
(堪え忍べば、物事を調えることができる)

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BY 餡子郎
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