心に邪見なき時は人を育てる
(四)
 その後、色とりどりの料理がひとつずつ運ばれてきて、その都度太郎は紅梅に対し、それらの美しい食べ方、そして同時に美味しい食べ方もレクチャーしながら、食事を楽しんだ。

「そういえば、お。前に贈った本は、もう読んでしまったかな」

 皿に盛りつける、というよりは、飾った、と表現するほうがふさわしい繊細なデザートをどう食べるか苦戦している紅梅を脇目に、紅椿は太郎にそう話しかけた。

 本、とは、英語で書かれた絵本各種のことである。
 太郎は紅椿から、紅梅に英語を教えることを頼まれていた。
 引き受けてくれれば、度々座敷に応じたり、舞台で良い席を確保してやるのもやぶさかではない──というのに釣られたわけではないが、太郎は紅梅の教師役を引き受けた。

 よって、紅梅と座敷で会う時は英語で話すし、こうして、なるべく挿絵が美しく、また使われる言葉も詩的な絵本や児童文学の本を、太郎は彼女に何度か贈っている。それは教科書でもあるが、純粋な手土産でもあり、紅梅はそれをとても喜んだ。

 そして教師役を引き受けてから、紅梅は太郎を「たろせんせ」と呼ぶようになったのである。

「へぇ、二回ずつくらい。日本語にして写したんもあるえ」
「早いな。──では新しいものを贈ろう」
 太郎が感心して言うと、紅梅は「わぁ、おおきに」とにっこりして、またデザートと格闘し始めた。

 紅椿、そして徹底して俗文化や海外の文化を紅梅から取り払うことに熱心な女将が、紅梅に英語を習わせるのには、理由がある。

 日本が誇る最大の観光名所である京都は、外国人の訪れが非常に多い。
 その際、ホスト側が英語ができたほうが何かと便利であるのは当たり前だが、特に芸妓、舞妓にその必要性が高い、ということが、最近特に問題になってきているのだ。

 なぜなら、彼女らを“珍しい売春婦”として認識してやってきている外国人が、何かと多いからである。

 彼女らは、絶対に、芸は売っても春は売らぬ。
 しかし、嘆かわしいことに、日本と中国の違いもよくよくわかっていないような外国人観光客は珍しくなく、そしてそういった手合は、大抵、“花魁”と彼女らを間違えている。いや、違いがあるということすら知らない。

 実際、しびれを切らした外国人観光客が芸妓や舞妓に乱暴する、という事例もある。
 座敷や公共の場で彼女らを売春婦扱いすれば非難轟々、出入り禁止は免れないが、往来の路地でいきなり袖を引かれては、そんなことも言っていられない。
 女性であり、しかも約二十キロ前後にもなる衣装をつけた彼女らが、成人男性、しかも大抵日本人より体格のいい外国人に抗うのは、非常に難しい。
 彼女らが狭い通路の町家風景が連なる区域から出ないのは、景観保持という文化的な理由とともに、常に人の目がある場所から出ないため、という、身を守るための理由も大きいのである。

 舞妓や芸妓が往来で歩いていれば必ず目を輝かせて見られ、話しかけられるのはよくあることだし基本的には歓迎されているが、その動機が非常に不純かつ下品に的外れたものであることもある、ということだ。
 そしてそれを彼女らがぴしゃりと断り、また正しい文化を説明するにあたって、英語ができなくては、まさに“話にならない”。

 空気を読む、とか、言葉の裏を察する、という日本独特のやり方は、欧米人にはまるで通用しないのだ。
 ならばお高くとまっている場合ではなく、身を守るため、そして誇り高き京都の正しい文化を知ってもらうためという必要に駆られ、英語を学ぶ京都人は増えてきている。

 そして紅梅も、どうせなら幼いうちから、ということなのだった。

 単にまだ幼いせいもあるが、紅梅はなかなか聡明で、覚えが早かった。
 また人付き合いと接待の心得を持つことが基本中の基本である世界にいるために、会話、という行為に照れや恐れがない、というのも大きい。
 すっかりネイティブとはいかないものの、紅梅はあっという間に日常会話程度はこなせるようになり、今では外国人の客が来ると、プチ通訳のようなことをして重宝されているらしい。

 しかも、紅梅の英語はまだ拙く、しかし京ことばのおっとりしたリズムをそのままに、また詩的な絵本や児童文学、最近ではシェイクスピアで語彙を培ったものだ。
 豪華な人形のような格好をした紅梅がそんな言葉を話す様は、おとぎの国の住人そのもののように感じられるらしく、老若男女問わず、非常に受けが良いようである。

「──ほほ。そやし、たろはんの手が空いたんどしたら、この子んこともよう頼めますなあ」

 そう言ってコーヒーを飲んだ紅椿は、もはやどうやったのかわからぬほど綺麗にデザート を食べ終えていた。さすがである。
 そして、口では“この子んことも”と言ってはいるが、つまり、これからはこうしていきなり呼びつけられることが遠慮なく増えるということなのだろうな、と太郎は正しく察した。

「ええ、どうぞ、ご随意に」
 だが決して悪い気はしないので、太郎は女王に対する騎士のような仕草で、紅椿に礼をした。そして、隣の小さな少女に目を向ける。

「……そうだな。お、時間もできたことだし、今度の本は今度は郵送でなく、直接持って行こう」
「ほんまどすか?」

 紅梅は、ぱっと微笑んだ。
 和食なら決してそんなへまをすることはないが、全く使い慣れないデザートフォークを四苦八苦して使ったせいで、小さな口の端に、溶けたチョコレートがついている。
 太郎は苦笑し、ナプキンを手に取ると、紅梅の口を拭いてやった。紅梅は恥ずかしそうだったが、おとなしく口を拭かれている。



 ──そして、「よう頼めますなあ」という紅椿の言葉は、早速実行された。

 ディナーの後、紅椿は何やら会わなければいけない人物がいるらしい。
「連れて行けんよって、一晩端っこに置いといとくれやす」
 と、初めて紅梅を連れてきた時と同じことをにっこり言い置いて、紅椿は、いつの間にか現れた“御付き”に囲まれ、いつの間にか留めてあった車に乗り込み、さっさと姿を消してしまった。

 この間、太郎は口を挟む隙どころか返事さえできなかったのであるが、特に問題はない。榊太郎は、子供一人預けられたくらいで動揺するような器の持ち主ではなかった。
 紅梅の方も、「いつもこないや」と言い、いつの間にか手にしていた小さいキャリーカートを持って、平然としている。

 いつもこうなら、なおさら問題はない、と頷いた太郎は、片手に紅梅のキャリー、そしてもう片手で小さな手を握り、自分の車まで歩き出した。



 つい先日新しく購入した、十八階建てのマンション。念のため、太郎は一階ロビーに詰めている警備主任に、紅梅を紹介した。
 警備主任は人のよい五十代の男性で、穏やかに挨拶してくれる。

 完全オートロックではあるが、人の目による警備もあるこのマンションを、太郎は気に入っている。
 何気ない、余計な他意のない人の繋がりに飢えているのだという事を、太郎は京都に通うようになってから、だんだんと自覚した。
 孤高の人と見られがちでそれも仕方のない生き方をしてきたが、太郎は本来、人と関わるのが好きなのだ。
 海外を飛び回る今までの生活の目的は、主に各国のお偉方と会うことではあった。しかし本当は、気の向くままに歩き、適当に入った店のカウンターで隣り合った人々と話したりするほうが、よほど興味深く、そして楽しいことであるように感じられた。

 だから本来はそのあたりの住宅街の一軒家でも買って、和やかなご近所付き合いを楽しもうかとも思ったのだが、“あの”世界から引退したとはいえ、榊の名を持つ以上、無関係ではいられない。
 そのため妥協して選んだのが、このマンションの最上階であった。
 ちなみに、最上階に部屋番号はひとつしか割り振られていない。

 マンション、というもの自体が初めての紅梅は、そわそわとしながら、おそるおそる、太郎の住居に足を踏み入れた。

 その様子に、太郎は大昔、それこそ自分が紅梅くらいの年齢だった頃、拾ってきた子猫を自分の部屋に上げた時のことを思い出す。
 子猫は子猫故に警戒心が薄く、しかしその分好奇心旺盛、興味津々、そこらじゅうをふんふんと鼻を鳴らして嗅ぎまわっていた。やたらにそうっと、重大な任務でもこなしているかのような仕草が可笑しくて可愛かった。

 そして今、大人用のスリッパを持て余しながら、完全床暖房完備のフローリングを不思議そうに歩きまわっている紅梅は、その子猫を彷彿とさせた。
 太郎が給湯システムのボタンを押して流れた、「オ風呂ノ 準備ヲ イタシマス」という電子音声にビクーンと小さく跳ね、まん丸い目でこちらを振り返る仕草も、全くもって同じであった。

 だが、あの時あっという間に部屋をひっちゃかめっちゃかにした子猫と違い、紅梅は全く手のかからない子供で、太郎は拍子抜けした。

 風呂に入りなさいと言えば、素直に家の探検を中止して、バスルームに駆け込んでくれる。
 子供用の寝間着などないのでとりあえずバスローブを用意しておいたら、盛大に余った裾をずるずる引きずって歩いてきた。何やら欧米の映画にでも出てきそうな姿が愛らしく、それを微笑ましく思いながら、太郎は彼女と入れ替わりに風呂に入った。

 しかし太郎が風呂から上がってくると、ずるずるのバスローブはなんと器用におはしょりを作って綺麗に着付けられており、風呂あがりに飲んだ牛乳のコップも、洗って拭いて食器棚に戻されていた。
 ちなみに、紅梅の後に風呂に入った太郎は、彼女が自分の抜けた髪などをきちんと始末し、洗い場の水気をおおかた拭ってから上がってきたということにも気付いた。完璧すぎる。

 ここまでで太郎がやったことといえば、給湯システムのボタンを押したことのみである。

「たろせんせ、ドライヤー貸しとくれやす」
「ああ」
 あまりの手のかからなさに拍子抜けしていると、紅梅がはきはきと訪ねてきたので、紅梅の届かない戸棚に入れているドライヤーを取り出し、手渡す。
 だが太郎が使っているドライヤーは紅梅には大きすぎたようで、距離感が掴めず頭に二、三度ドライヤーの先端をぶつけて四苦八苦しているのを見て、太郎はそっとその手からドライヤーを取り上げた。

「ソファに座りなさい」

 仕事ができた太郎が優しく言うと、紅梅は少し恥ずかしそうな顔をして、大きなテレビの前にあるソファにちょこんと腰掛けた。



 ほとんど初めて触れた子供の髪はとても柔らかく、信じられないほど健やかだった。
 太郎もサロンでプロにケアさせているため普通よりはいい髪質を保っているだろうが、いい年の、毎日整髪料を使っている男の髪と、自然素材である椿油や鬢付け油などを使う程度の少女の髪は、比べるべくもなかった。
 ドライヤーは髪から十五、二十センチほど離し、ゆっくり焦らず乾かす──と、専属美容師から聞いたことを守りながら、太郎は慎重に長い髪を乾かした。
 あまりに少女の髪が美しいので、適当に乾かして荒れでも作ってしまったらと思うと、なかなかに冷や冷やした。
 ドライヤーを受け取った時はささやかな仕事ができたと思ったが、やってみると、責任重大な大仕事である。なんせ、髪は女の命とも言うし。

 乾かす間、テレビでも観ていなさいと言って紅梅にチャンネルを渡すと、紅梅は何度かぐるぐるとチャンネルを回してから、着ぐるみとカートゥン・キャラクターが交互に出てくる番組で止めた。
 太郎はこの時、自分の家でディズニー・チャンネルが試聴できるということを、初めて知った。確認もせずに一番チャンネル数の多いプランに適当に加入した上、テレビは決まったチャンネルしか、しかもあまり観ないので、知らなかったのである。

 子供らしいチョイスに微笑ましい気持ちになるが、紅梅が珍しそうな様子で「どれがドナルド?」と聞いたので、太郎は愕然とした。

 言わずもがな、ミッキー・マウスは、世界で最も有名なキャラクターと言っても過言ではない。日本国内でも、その姿と名前を知らない者は、なかなかいないだろう。
 そのせいか、紅梅も、黒い耳のネズミが「ミッキー」であることは何とか知っていたが、ミニーの名前はうろ覚えな上、ミッキーとは恋人同士ではなく兄妹だと思っていたし、他のキャラクターに関しては「見たことがあるのもいるが、名前は知らない」という有り様だった。
 ディズニー・チャンネルで止めたのも、ディズニーが好きだからではなく、単に物珍しかったからのようだ。

 紅梅が俗世間と隔絶された環境で育っていることはわかっていたが、まさか、これほどとは──と太郎は驚きながら、あのアヒルがドナルドで……などと、ディズニー・キャラクターのレクチャーを始めた。
 榊太郎三十七歳、ディズニー・キャラクターの解説をするのは初めてだった。しかも太郎も詳しいわけではないので、名前がわからないキャラクターもいる。
 特にプリンセス・シリーズの姫、王子の名前がほとんど出てこなかった為、勤勉、かつ実は負けず嫌いな太郎は、ディズニー情報誌の購入を心に決めた。
 チップとデールはどちらが兄でどちらが弟なのか、という宿題も出たことであるし。

 紅梅が普通の子供ならば、太郎は来週にでもディズニーランドを貸しきってやるところだが、紅梅は京都から出られない。

「お
「……んんぅ」
 いつもしっかり躾けられた返事をする紅梅の、聞いたことのないような不明瞭な返事に、太郎は微笑ましげに笑った。
 あまりに優しいその表情を見る者は今誰も居ないが、もし見ていたなら、あの榊太郎がこんな表情をするのか、と誰もが驚愕しただろう。

 人に髪を乾かされると、どうにも眠くなるものだ。
 しかも今日は色々と疲れた紅梅は、髪が乾く頃には眠気と盛大に戦っていて、小さな頭がぐらぐらしていた。

 ほとんど寝ている紅梅を、太郎が両手で抱き上げる。
 その軽さに驚愕しつつも、赤子にするように背中をぽんぽんと叩いてやれば、紅梅は太郎の肩にしがみついて一度むずがるような声を上げたが、すぐに、すぅ、と深い寝息を立て始めた。

 ──懐かれている。

 という、自覚はある。
 実際に会うのもそう多くない自分に対し、この少女がここまで慕ってくれているのに理由があることを、太郎は知っていた。

 紅梅は、私服であるから、という理由のみで、公立の小学校に通っている。
 女将の方針で当然のように和服で登下校しており、紅梅が他に着たことがある洋服は体育着だけ、という徹底ぶりだ。
 普通の中流家庭の子供ばかりが通う公立小学校で、毎日和服を纏い、送り迎え付きで登校し、さらに、京都が誇る京舞人間国宝の孫、そして日本伝統文化を代表する舞妓の卵だということで、紅梅は、児童たちの間だけでなく、保護者たちもひっくるめて、かなり有名だそうだ。

 そういう背景なので、いじめられてはいない。
 むしろ親切、かつしばしば特例の融通を利かせて接してもらっているのだが、同級生からは「すごいね」という言葉で実質遠巻きにされ、友達らしい友達はいないらしい。
 家に呼ぶこともできなければ、稽古のために放課後遊ぶこともできないので、当然といえば当然の流れだ。

 姉芸妓や舞妓たち、京の町家に住まう人々にもそれなりに可愛がられているようだが、姐たちとはやはり先輩後輩という上下関係が固く存在するし、他は所詮他人、客にいたっては言わずもがなである。

 紅梅には、ドナルドがどんなキャラクターなのかを教えてくれるような存在は、一人もいないのだ。

 太郎はまだ使ったことのない客間のベッドに、小さい身体を横たえ、そっと布団を被せてやった。
 寝心地の良い布団の感触に更にリラックスしたのか、紅梅は無防備極まりない、赤子のような表情で一度へらっと笑うと、今度こそ熟睡し始める。

「おやすみ、お
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BY 餡子郎
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