心に邪見なき時は人を育てる
(二)
 泣きすぎて、奥歯が浮ついたような感覚と、ぐわんぐわんと響く頭痛を感じながら、弦一郎は、冬の晴れた空をぼんやりと眺める。

 ──祖母は、もういない。

 考えればまた目の奥が熱くなってくるが、何とか、弦一郎はそのことを受け入れられそうな気がしてきている。
 納屋であれほど泣いて、もうこれ以上泣くまいと思っていたのに、そのあと棺に収められた祖母にまた泣いて。そして泣きながら、白木の棺の中、たくさんの花に囲まれた祖母の傍らに、準優勝の賞状を畳んで入れた。

「……今度は、勝ちます」

 見ていてください、と言った。
 それは、「さようなら」と言うよりもずっと、すとんと胸に落ちるような、しっくりくるような言葉であるように感じた。
 神様がいるのかどうかも、天国があるのかどうかも、わからない。根拠などない。だがそんなことはどうでもよく、ただ祖母に恥じないように、そして心配をかけないようにするのだと、それはきっと正しいことだと、弦一郎は学んだ。



 弦一郎は、真田家の墓に向かって、子供にしてはやたら堂の入った合掌を捧げている紅梅を見た。

 着ているものは、胸の下で切り替えのある、黒のワンピースに、黒いタイツ。細いストラップのついた、エナメルの黒い靴。
 女将の意向で、出来うる限り和服を纏うよう言いつけられているそうだが、さすがに、他所の家の葬式に子供が和喪服というのは差し出がましいということなのだろう。

 出会った時は弦一郎より頭半分小さく、ころころとした寸詰まりの市松人形のようだった彼女は、まだ幼さも色濃いものの手足がすらりと細く伸び、背は弦一郎と同じくらいある。
 衣装がかっちりとした喪服で、平均より首が長めなせいか、相変わらず人形っぽさはあるものの、とにかく、小さい、ではなく、華奢、というような印象。
 それは自分のクラスメイトなどと比べると、すっと大人っぽい、完成されたような雰囲気であることに、弦一郎は今更気付いた。

 少し長い祈りを終えた紅梅は、きょろ、とあたりを見回し、弦一郎の姿を見つけると、彼のいる方へまっすぐ小走りに駆けてきた。
 葬式の間中、彼女はずっとこうだ。話しかけずとも、触れずとも、ずっと弦一郎のそばにいる。

 しかしその距離は、べったりと近くはない。
 例えば二、三歩後ろとか、間に信一郎を挟むとか、そんな距離だ。今も、弦一郎のいる方に駆けては来るが、隣には来ない。少し離れたところから、ちらりと弦一郎を見て、目が合うと、一瞬上目遣いのようになり、戻す。
 つかず離れずのその距離が、視線が、機嫌を伺うような、どこかびくついているがゆえのものだということに、弦一郎はその時気付く。

 そして気付いた途端、弦一郎は、未だかつてない罪悪感に見舞われた。

 佐和子が病気になってから、紅梅は前よりもずっと多く手紙を寄越してきた。
 心配、労い、励ましの言葉。時折、決して押し付けがましくない程度の、ささやかな提案。
 彼女のしたためる言葉の全ては、常に、弦一郎のためだけに書かれたものだった。他の誰の目に触れることもない、二人の間だけで行き交う手紙。

 ── 私はなんにもできませんが、本当に、応援しています。
 ── きっと、絶対、大丈夫ですから、がんばってください。
 ── 弦ちゃんなら、きっと……


 彼女の手紙があったから、弦一郎は何の根拠もなくても、何の成果が得られずとも、ぼろぼろになっても、コートに立ち続けることが出来た。
 彼女の言葉を思い出す度に、あなたは間違っていない、私も同じようにしています、と肯定されているような気がして、弦一郎は、救われた気持ちになった。

 そして、いま、この時も。
 何とか泣き止んだものの、どうやって祖母を見送ればいいのかわからず呆けている弦一郎に、賞状を棺に入れてはどうかと言ったのも、「天国で見ててくれはるえ」と言ったのも、紅梅だった。
 火葬場で骨になった祖母にショックを受けてまた泣き、とうとう脱水症状を起こしかけてふらつき、ベンチでスポーツドリンクを飲む弦一郎の隣にずっといたのも、紅梅

 徹頭徹尾、誰よりも弦一郎の側にいたのは、紅梅だった。

 そんな彼女に、自分はなんと言っただろうか。
 弦一郎は、実際に胸に痛みを感じるほどに反省した。

 確かに、紅梅は京都に住んでいて、常に弦一郎の側にはいない。
 だが弦一郎が何をしているのか、どういう気持ちなのか、一番知っているのは、紅梅だ。
 単に弦一郎が、彼女への手紙にしか自分の心情を綴らなかった、というだけのことではある。
 だが実際、自分が不利益を被っても弦一郎のために全力を尽くし、弦一郎に「がんばれ」と言ってくれたのは、弦一郎のやることをはっきりと応援してくれたのは、彼女だけだったというのに。



紅梅

 少し離れたところに立っている彼女に、弦一郎は、自分から近寄って声をかけた。
 ほっとしたような顔をされる。その反応で、弦一郎もほっとした。

「もう少しかかるから、向こうでジュースでも飲んでいなさい」
 二人纏まっている子供に、近くにいた母、諏訪子がそう声をかけてきて、弦一郎の手の中に小銭を落とした。
 続いて、「できればスポーツドリンクにしなさい」と言われ、更に隣にいた父、信太郎に「ちゃんと座って飲みなさい」と言われる。泣きすぎて脱水症状でふらつくという状態に陥った子供を、真田家一同、先程から妙にちやほや労っていた。
 この鉄人一族は普段常軌を逸したレベルで厳しいが、下手に頑丈な分、本気でダウンした時は必要以上に心配し、過保護になるのだ。この、鬼子母神の如き母でさえ。
 そして今回、佐和子の闘病と死を経て、おそらくその傾向はまた強くなる。

 弦一郎は紅梅とともに、寺の外観を損なわないようという配慮だろうか、少し裏手にある自動販売機のところまで歩いて行った。
 言いつけ通り、弦一郎は青と白のパッケージデザインのスポーツドリンクのペットボトルを選ぶ。端の塗装が少し禿げたベンチに二人並んで腰掛け、ボトルのキャップを開け、ごくごく飲んだ。
 火葬場でも弦一郎は丸々一本同じものを飲んでいるのだが、まだ水分が足りないらしい。紅梅も喉が渇いていたようで、一気に三分の一くらいを飲み干していた。
 火照った顔に、目に、冬の冷たい空気が心地良い。

 ふと、見上げる。遠い空。

 ふー、というひと息が、偶然シンクロする。
 ちらっと弦一郎が紅梅を見ると、紅梅もちらっと弦一郎を見ていた。

「……すまん」

 目が合ったのをきっかけに、弦一郎はきちんと紅梅に向き直り、謝った。
 自分が悪いと認めれば、潔い。それは弦一郎の、はっきりとした長所である。

 弦一郎の真摯な謝罪に、紅梅はハッとしたような顔をし、次いで、ふるふると慌てたように首を振った。
「ううん」
「いや、……すまん」
「ううん」
 二度目の同じ返事に、頭を下げるとまでは行かずとも俯いていた弦一郎は、そっと顔を上げ、紅梅を見る。
 彼女は、ほんの僅か困ったような、気まずさのあるような顔で、しかしにっこりと微笑んでいた。

「うちも、きついこと言うてごめんな?」

 その言葉に、弦一郎は、呆然とした。
 ショックを受けた、という方が正しいかもしれない。

 病院に行くように念を押してきたり、棺に賞状を入れてはどうかと提案してくれたり、横にずっとついていてくれたりといったことで、彼女が自分に愛想を尽かしたわけではない、ということはわかっていた。
 しかし、これほど簡単に許されるとも思っていなかった。

 あれほどの暴言を吐いた自分に対し、簡単に許しすぎではないだろうか。
 いや、許すだけでなく、彼女はいま、自分にも落ち度があったと謝りさえした。
 弦一郎が考えるに、彼女に非はまったくない。何も悪くない。何ひとつ、一欠片でさえ、──これっぽっちも。

 例えば、もし自分なら、多分、もっと根に持つ。と、弦一郎は思う。
 最終的に許すにしても、しばらくぶすくれて返事をしない、くらいはする。あとは、説教じみた愚痴と文句を垂れるとか。
 弦一郎はそのあたり、自分の事をよくわかっていた。そしてそうすることを、当然のことだと思っていた。

 だが悪態の一つもつくことなく、自分をあっさり許し、そのうえ気遣い、心配までした彼女を前に、弦一郎は今、何やらひどく恥ずかしい。

「どうもおへん?*大丈夫? しんどいんやったら……」
「いや、……大丈夫」
 紅梅と目を合わさず、いや合わせられずに俯いている弦一郎を、本当に心配そうに覗きこむ紅梅に、弦一郎はぼそぼそと返事をする。

「そぉ?」と小首を傾げる紅梅は、実にさっぱりとしていた。
 いつものように、眉尻がおっとりと下がっている。その顔を見る限り、実は腹の底にまだわだかまりをたぎらせている、などということは、まるでなさそうだった。

「……怒ってないのか?」
「なんで?」
「俺は、その、……ひどいことを言った」
「うちも言うた。あいこや」

 ──言っただろうか。

 弦一郎は、戸惑いつつ、記憶を掘り返した。
 何回かあほと言われたのは覚えているが、言われても仕方ないと思うので、それはいい。他に言われたことも、全て道理にかなったことだったように思う。

「弦ちゃん、……あのな」
 弦一郎が納得行かずにしかめっ面をしていると、紅梅が言った。

「あの、……また、お手紙出してもええ?」
「あ、も、もちろんだ」

 弦一郎は、慌てた様子で即答した。
 今まで、いつも、早くて三日、だいたいは一週間程度、どんなに遅れても十日以内には返していた手紙を、弦一郎はもう二ヶ月以上書いていない。改めてそのことを認識し、弦一郎はさっと青ざめた。
 その間に、二度、紅梅からは手紙が来た。返事がないことを心配する内容だったが、弦一郎はすべて無視していた。

「……返事を書かなくて、すまなかった」
「ううん。大変なときに急かしたみたいにして、ごめんな」
 紅梅は、また謝罪を謝罪で返し、ふるふると首を振った。今度はにこにこしている。
「また、前のように書く」
「えふっ」
 珍妙な笑い声。
 それが、彼女がほんとうに嬉しい時に出す笑い声だということを、弦一郎は知っている。遠い地に住み、一年に一度しか会えず、口も利けない間柄でも。

「うち、弦ちゃんのお手紙、いっつも楽しみにしとるん。うれしい。おおきに」

 ──こいつは、菩薩か何かなのだろうか。

 優しいとか、そういうレベルではない、と弦一郎はもはや感服した。
 ふと、すぐそこにある本堂に安置されていた、大きな仏像を思い出す。男か女かわからない、だが圧倒的なまでに柔和な姿。人々の悩み苦しみ、祈りや願い、心の中の声を察知するのに長け、衆生を救う聖観音。
 にこにこしている紅梅の後ろにも、柔らかく広がる後光が見える気がした。

「あっ、でも、手ぇ治ってから書いてな?」
「う……、……わかった」

 弦一郎は、渋々頷く。
 ここで我を張るほど、さすがに弦一郎も“あほ”ではない。

 ──不義理だけは許しまへん

 紅梅の祖母である紅椿の、恐ろしい蛇の大妖怪とも、天衣無縫の神の使いともつかぬ、染み入るような声が思い出される。

 ──負けても、弦ちゃんのこと、好いとぉもん。佐和子お祖母様かて、そやもん

 あの時、泣きながら、紅梅はそう言った。
 悲痛なその声は、彼女の祖母のように、妖しい霊力を感じるまでの、呪文のような声ではなかった。
 しかし間違いなく、彼女が心の底から、魂を震わせるようにして発されたその言葉は強い言霊になって、弦一郎の胸に、すとんと深く、そして心地良く突き刺さっている。

 亡き祖母が弦一郎を愛してくれたように、自分も弦一郎が好きだと言ってくれた。
 では自分も、祖母に恥じないように、心配をかけないようにするように、彼女にもそうしよう、と弦一郎は決めた。

 ──祟りますえ

 そうしないと、きっと、“罰”が当たるに違いない。
 ……例えば、去勢とか。
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『聖観音』…観音菩薩のこと。阿弥陀三尊の左脇侍像としての場合を「観音菩薩像」と呼び、独尊像として祀られる場合を「聖観音」と呼ぶ(絶対ではない)。ここでは登場する寺が祀っている仏が観音菩薩という設定なので『聖観音』としました。また、聖観音である場合、多面多臂などの超人間的な姿ではなく、人と同じ一面二臂の姿で表現されます。
BY 餡子郎
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