心に邪見なき時は人を育てる
(一)
「精市くんが、ここにいるって教えてくれてね」
一頻り泣き、疲れ果てたのか揃ってぐずぐずと鼻を鳴らすばかりになった弦一郎と紅梅に、信一郎は言った。
精市に連れられて駆けつけた信一郎は、言い合う弦一郎と紅梅に、咄嗟に間に入ろうかともしたが、その言い合いの内容に、しばらく精市と二人で納屋の外に立っていた。──のだが、それは言わずにおいた。
そしてとうとう弟が泣きそうになったので信一郎はこうして納屋の中に入ったが、精市は入ってこなかった。小走りに駆けて行く足音がしたので、おそらく母屋に戻ったのだろう。
肩にしがみついたままの弟は、返事をしない。
いついかなる時も切れの良い返事をする弟のその態度に信一郎は苦笑し、しかしその頭を柔らかくぽんぽんと叩くように撫でた。
「よっこいしょ、……おぉ、重っ」
我ながらおっさんくさいなあ、という掛け声で弦一郎を抱き上げた信一郎は、弟の存外な重さに、若干よろけた。
こんなに重かったか、と、信一郎は体勢を整える。抱き上げると更に縋るようにしがみついてきた弟を下ろす選択肢は、なかった。兄として。
「……ごめん紅梅ちゃん、君も抱っこするのは無理、かも」
「へぇ」
正直に情けないことを申告した信一郎を見上げ、すん、と鼻を鳴らした紅梅は、小さな、少し掠れた声で言った。
「大事おへん。信兄はんは、弦ちゃんのお兄はんやもん」
やけに聞き分けの良い紅梅に、信一郎はどうにも胸が詰まる思いがして、歪んだ苦笑を浮かべた。弦一郎といい、この子たちはどうして、こう、良い子すぎるほど良い子なのだろうか。……周りの環境と大人のせいだ。わかっている。
そして、そういう子だと誰よりも知っていたはずなのに、なぜ自分は今の今までそれを放っておいてしまったのだろうかと、信一郎は忸怩たる思いを抱えた。
「行こうか」
どうにもたまらなくなった信一郎は、苦肉の策で、いささか無理をして、片手で弦一郎を抱える。
そうしてもう一方の空いた手で紅梅と手を繋ぐと、ゆっくりと母屋に戻った。
信一郎と弦一郎には、十一の歳の差がある。
少し珍しい、大きな歳の差の兄弟だ。
真田の血筋は、病への抗体も含めて強靭な身体能力に恵まれている者がとても多く、とにかく頑丈で殆ど風邪もひかないのに対し、信一郎は幼い頃は軽い喘息持ちで、今でもほとんど毎年風邪をひき、熱までは出さずとも、鼻をずるずるいわせている。
実のところ、それは一般の基準からするとごく普通の程度であるのだが、鉄人揃いの真田家では、“病弱”と扱われるに余りあることだった。
祖母の佐和子が普通より身体の弱い人だったので、その血が出たのだろうと言われ、信一郎は、割とちやほやと育てられた。
礼儀作法や精神的な躾は頑として厳しかったものの、お家芸である剣道も、父が教えるのを楽しみにしていたテニスも強要されることなく、布団の中でも読める本を、好きなだけ買ってもらった。
そうして育てられた信一郎が十一歳の時、弟が生まれた。
弟は顔つきも身体能力も、そして性格もまさに真田家といった子で、弦一郎、と名付けられた。
このことに、信一郎は、少しだけむっとした。
長男である自分を差し置いて、真田家の男子の字である『弦』に、次男でありながら『一郎』とつけられた弟。
だが些細な嫉妬心は、すぐにどうでもよくなった。
なぜなら、『一郎』は長子という意味でなく、ただひとりの、とか、一番の、一本気の──というような意味合いで用いている、ということが、小学校で自分の名前の由来を調べる宿題で、あっさり知れたからだ。
そして、長男に『弦』の字が充てられなかったのは、祖父が婿養子である父・信太郎を慮ってのことだった。
一人娘でありながらその苛烈な性格ゆえに結婚できるかどうか、と諏訪子を大いに心配していた祖父母は、婿に来てくれた父にそれはもう感謝していて、待望の長男に、真田の字ではなく彼の名前から取った字を充てることを強く提案したのだ。
ちなみに、信一郎の妻になった由利はこの話を聞いて、息子に『佐助』と名づけることを提案した、という経緯がある。
そういうわけで、信一郎は、弟のことをあまり気にしなくなった。
単純に、あまりに歳が離れすぎていたので、まず関心自体が薄かった、というのも大いにある。
だが弦一郎が赤ん坊から幼児になり、祖父から剣道を、父からテニスをさせられるようになってから、信一郎は弟に注目せざるを得なくなる。
祖父と父が弦一郎に抱く期待は、傍から見て、相当なものだった。
どこの世界に、やっとよちよち歩いているような年齢の幼児を朝の四時に叩き起こし、正座で瞑想させ、また日が暮れるまでボールを打たせる祖父や父がいるものか。
剣よりペン、テニスコートよりも海で遊ぶほうが好きだった信一郎は、本心、真田家の鉄血教育を課せられることがなくて良かったと普段から思っていたので、弟に課せられた凄まじい稽古量を間近で見て、正直な所、おおいに引(・)い(・)た(・)。
はしゃぐ父と祖父に母も呆れていたが、こちらも現役陸上自衛隊隊員、そして祖父に負けず劣らずの鉄人である。稽古の内容自体には、問題無いと思っているらしい。恐ろしいことである。
最後の砦は祖母であったが、標準より身体の弱い彼女は、自分の血が信一郎に出たと思っている弱みがある。
それでももはや人外魔境の域である鉄人一族のやり方を見かね、ごくたまに口を出すこともあるのだが、「佐和子は心配症だな!」と弦右衛門にガハハと笑われてお終いだ。手がつけられない。
祖父と父が要求したことを、弦一郎が素直に聞き入れ、しかもことごとく上手くこなしてしまうのも、彼らを調子づかせた、と信一郎は思っている。
気付けば弦一郎は、小学校に上る前から毎朝きっちり四時に起床し、朝稽古をこなし、庭でテニスの練習をし、道場で今度は門下生たちに混じってまた剣道の稽古をして、読み書き計算を習い、今度はテニススクールに行くという、ストイック過ぎる生活を、文句の一つも言わずに送るようになってしまっていた。
たまにテレビを見ているかと思いきや、全て祖父が好きな時代劇。
言葉遣いにもおおいに影響が出てしまい、まるで戦国武将のような話し方をするため、クラスメートにからかわれて喧嘩になり、一時期は孤立していた。
──のちに、この言葉遣いのおかげで、信一郎は命拾いをすることにもなったのだが。
とにかく、今までは赤ん坊過ぎて人格の有無もよくわからなかった弟ではあるが、そんな様になっているのを見て、信一郎はさすがに心配になった。
ほとんど恐る恐る話しかけ、「何が好きか」とか「どういう遊びが好きか」など、一般的な子供──例えばこの年頃だった頃の己に聞けばすぐに答えが返ってくるようなことを聞いてみる。
すると、質問の意味自体がわからない、といったような顔で首を傾げられ、おまけに「稽古がございますので」と、しっかりした、そして古めかしい敬語で言われ、信一郎は眩暈がした。
以降、要するに“見ていられなく”なり、信一郎は、弟を何かと構うようになった。
兄の自分が、病弱──だと思われて、祖父と父の期待を裏切った分がこの弟に降りかかり、遊び盛りの時間をすべて潰してしまっている、という罪悪感も大いにあった。
まず、祖父の時代劇趣味の影響である「父上」「母上」に倣う「兄上」ではなく、一般的な「兄さん」という呼び方を提案してみた。
映画や海に連れて行ってみたり、縁日で取ってきた金魚に名前をつけさせてみたりと、信一郎は、この、一度決めればどこまでも頑固なくせに、本質がどうにも素直すぎる弟の自主性とか自由意志とかいうものを、どうにかして伸ばさせようとしてみた。
とはいえ、稽古をさぼらせて遊びに連れて行っても弦一郎は困惑するばかりでちっとも楽しそうな顔をしないし、金魚には「金魚丸」という名前がつけられる始末。
更に、信一郎がそれになんとも言えない顔をすると、弦一郎は「申し訳ありません」と、本当に心底申し訳なさそうに謝るのだ。
違う、兄さんはそういうつもりで言ったんじゃないぞ弦一郎、というようなことを、信一郎は何度言ったかわからない。しかも、弦一郎は更にそれに首を傾げていて、ちっとも本意が伝わっていないようだった。
だから小学二年生の時、よりにもよって人間国宝の上杉紅椿に会いたいと突然言い出した弟に、信一郎は驚いた。そして“怒られてもいいから”とそれを成そうとする様に、喝采を上げ、快哉を叫びたい気持ちになった。
その衝動を何とか堪え、では手を貸してやろうと言えば、見たことがないような、キラキラした目を向けられる。
──ああ、弟に頼られるって良いなあ。
と、信一郎は、しみじみと思った。
こんなに可愛い弟に、なぜ自分は今まで無関心でいられたのだろうか。オムツ替えでも何でもやっておけばよかった、と信一郎は後悔した。
人間国宝に何を“お願い”したのか聞いても「秘密です」と言って教えてもらえなかったのは少し寂しかったが、この弟が自分だけの“秘密”を作ったということに、兄はとりあえず満足した。
そして今、信一郎の息子として産まれた佐助と弦一郎もまた、信一郎と弦一郎と同じように、十ほど離れている。
最初弦一郎に興味を持たず、ろくに世話も焼かなかった信一郎と違い、弦一郎は率先して佐助を構い、面倒を見、年長者だからという責任感までも見せた。
自分の弟はなんと責任感の強い良い子なのだろうかと、信一郎はいたく感動した。
そして信一郎は、弟の赤ん坊時代を見過ごしてしまった後悔から学習し、我が子の面倒は出来るだけ見ようと決めた。
赤ん坊をやたらと構う夫と小さな義弟に、母である由利は、苦笑しつつも嬉しいようだった。
そうして、長らく真田家最年少だった弦一郎は、自主的かつ躊躇うことなく“兄分”の立場に立ち、円満に家族間の関係が完成された。
家族の誰もが、疑いもせず、そう思っていたのだ。
「ほら、顔拭いて」
弔問客が多すぎて、人を通していない部屋は、各々の個室くらいしかない。
二人を自分の部屋に連れてきた信一郎は、泣きはらした小さな顔を、濡らしたタオルで拭いてやった。
さすが女の子というところだろうか、紅梅はここに来るまでに自前のハンカチで既にあらかた涙を拭いており、そこまで手がかからなかった。
しかし弦一郎の顔は本当に久々に泣いたのもあって涙と鼻水でひどいことになっており、信一郎はそんな弟の顔を、なるべく丁寧に拭いてやった。いつもなら絶対に自分でやりますと言うだろう弦一郎は、黙って顔を拭かれている。
単に疲れ果てて呆けているのか、一時的に幼児がえりして甘えているのかはわからなかったが、後者のほうが後々ストレスがないような気がしたので、そうであるといい、と信一郎は何となく思った。
下の子が生まれると、いくら聞き分けの良い子でも、家庭内での立場の変換に戸惑って、幼児がえりすることがあるという。
弦一郎はもう小学四年生だが、まだ小学四年生でもあるのだ。赤ん坊に本気で張り合うことはないにしても、十年も側にあった家族の注目が突然現れた赤ん坊に移ってしまえば、寂しく思っても、全くおかしくはない。
しかもそれが、唯一甘えらしい甘えを見せることができていた祖母がいなくなってしまう恐怖の渦中であれば、なおさら不安に違いない。
だが祖父も、両親も、そして兄夫婦も、「弦一郎なら大丈夫」と、自然に思ってしまっていた。
あれほど厳しい稽古を一日も休まずこなし続け、学校の勉強もさぼらず、生まれてきた赤ん坊にも、誰に言われずとも兄分として責任感をもって接する彼に、家族全員が自然に甘えてしまったのだ。
──本当は、誰よりも甘えさせてやらなければならなかったというのに。
そして信一郎も、あれほど弟の危うさを心配していたはずだというのに、たかだか一度わがままを言ったくらいで、「子供らしくなった」「我慢できなければ自分から言ってくる」と、すっかり安心してしまっていた。
今ではそれを、信一郎はとても後悔している。
紅梅が叫んだ、「テニスも剣道もできなくなったらどうするのか」という言葉には、頭をがつんと殴られたような気がした。
祖父と父に半ば強制的に始めさせられたこれらだが、弦一郎には才能も実力もあり、今では弦一郎自身にとってかけがえの無いものだということくらいは、信一郎も重々わかっている。
だがやたらに頑丈な真田の血筋と、病院に行きたがらない弦一郎に、安易にその怪我を放っておいてしまっていた。
学生の身で子供が出来て結婚し、司法試験を控えて家に養われている身ではあまり発言権もないが、一度この事について家族にきちんと進言しよう、と、信一郎はこの時心に決めた。
「……弦ちゃん、だいじない*大丈夫??」
冷やしたタオルのおかげか、目の腫れが少し引いた紅梅が、ごく小さい声で尋ねる。
納屋からここまで来る間も、タオルや飲み物を用意している間も、弦一郎は喪服のジャケットの裾をずっと掴んでいた。
そしてこの少女は、後ろに一歩下がったところから、ずっと弦一郎を見ていた。
先ほどまで泣いて喚いて弦一郎をあほ呼ばわりしていたが、やはり弦一郎が心配であるらしい。うちの弟は果報者だなあ、と、信一郎は、じんと胸打たれた。
弦一郎が初めて我儘を言ったきっかけになった紅梅というこの女の子を、信一郎は最初、あまり良く思っていなかった。
いかにも祖父や祖母の好きそうな、まるで時代劇か日本昔噺から出てきたような、古めかしい、今時珍しい和服を着た、おかっぱ頭の女の子。
とうとう弟の交友関係にまでおせっかいを焼く気か、と、信一郎はうんざりした。
しかも、相手は女の子である。将来の結婚相手に、などと、祖父が時代錯誤かつ先走ったことを言い出してもおかしくない、と信一郎は心配したのだ。しかも弦一郎のことだ、そう言われれば諾々と従ってしまうかもしれない、と。
しかしその心配は、良い方に裏切られた。
紅梅はその生まれ育ち故にいかにも女の子らしくお淑やかでいながら、弦一郎の猛々しさを恐れないばかりか、進んで興味を示して話しかける、なかなか肝の据わった女の子だった。
二人はとても馬が合ったようで、三年生の時など、初対面から一年ぶりに会ったとは思えないほど仲良く遊んでいた。子供らしく笑い、次はあれ、次はこれ、と紅梅と並んで駆けずり回ってはしゃぐ弦一郎に、家族中が驚いたものだ。
そして、佐和子の手術前に紅梅が寄越した気遣いには、家族全員がいたく感動した。
科学的な根拠は、ないかもしれない。だが紅梅によって実現した紅椿の舞は確かに祖母を元気づけ、結果手術は成功した。
あの手術が病を治すものではなく、命を永らえさせるためのものだということを、弦一郎以外の家族は皆知っていた。
生まれてくる佐助に会うためだけに、家族全員ときちんとさようならをするために、真田家は、佐和子は、辛い延命手術を受けることを決めたのだ。
もしあの手術が成功していなければ、祖母は曾孫に会うことなく、もっと早く逝ってしまったであろう。
だから紅椿は、そして紅梅は真田家にとって確かに恩人であり、また彼女らにそうさせたのであろう弦一郎は、真田家最大の功労者でもあった。
「弦ちゃん、けが、痛ぅない?」
「……痛い」
「病院、行ってな?」
「……ん」
互いにまだ、うさぎのようにすんすんと小さく鼻を鳴らしながら話す二人を、信一郎は黙って見守る。
納屋の表に立っていた信一郎は、この少女が、悲痛なまでに泣きながら、何が何でも弦一郎が好きだと言ったのを聞いていた。
まだ幼い子供ゆえ、その気持ちは、どこまでも無垢で、一欠片の他意もないものなのだろう。ピュアすぎて、初恋といえるのかどうかも怪しい。
だがそれは、そのピュアさゆえに、祖母が弦一郎を愛していたのと同じ、無償の愛にほかならない。
片手で足りる回数しか会っていない相手なのにもかかわらず、紅梅は全ての不利益をひっ被ってまで、自分の祖母を神奈川に寄越した。
彼女も佐和子に懐いていたようなので、直接の想いもあるのかもしれないが、しかしやはり「弦ちゃんのお祖母様」だから、彼女はああまで全力を尽くしたのだ。
彼女の好意を弦一郎もなんとなくわかっているのか、紅梅に対し、他にはない甘えのようなものがある、と信一郎は感じた。
あの弦一郎が、彼女につられて泣いた。いつもなら、痛いか、辛いか、などと言っても絶対に肯定しない弦一郎がいま、素直に痛いと言ったのだ。
弦一郎と同じように、この少女もまた、周りの大人から特殊な教育を、尋常でない厳しさで躾けられていると聞いている。
だからもしかしたら、この二人の関係は、傷の舐め合いとか、そういうものに近いのかもしれない。
だがそれでも、この弟が歳相応の子供らしさや甘えを見せる相手は、貴重だ。いや、もしかしたら、今の時点では彼女しかいないかもしれない。そう思うと、彼女が遠い京都に住んでいるというのが、実にもどかしく感じられる。
それでもあわよくば、今この小さな二人の間にある気持ちが将来的に育っていけば、と、信一郎はつい夢想し、これでは祖父を咎められない、と一人自嘲した。
しかし残念ながら、彼女は舞妓になることが決まっており、京都の伝統ある置屋の家娘。そして真田家は、そこから出禁を食らっている身である。
だからこの二人を許嫁にどうこうということはあり得ない、と母に聞いた時は安心したものだが、勝手なことに、今となってはそれが惜しい気もする。
──もし、万がいち。
将来彼らの間に恋心が育ったとしても、遠距離恋愛であること以前に、とんだロミオとジュリエットになりかねないのだから。