「何でお前が、そんなことわかるんだ!」
立ち上がった弦一郎は、頭ごなし、まさにその通りに、しゃがんだ
紅梅に怒鳴り散らした。
「側にいたわけでもないくせに、──何も知らないくせに!」
もはや、恫喝と言っていいほどの大声。更には、敵でも見るような眼光。
弦一郎からそんなものを向けられて、
紅梅はくしゃりと表情を歪める。
いつもの弦一郎の手紙は、試合や大会の予定、どんな試合内容で、どんな結果だったか、必ず報告してくれる。試合がなかった時は、どんな練習をしているのかということも。
だから
紅梅は京都にいても、彼の様子を逐一把握することができ、まるですぐ側に弦一郎がいるような気になることが出来た。
だが弦一郎はいま、「側にいたわけでもないくせに」と言った。
側にいたわけではない。それは確かに事実だった。そして長らく弦一郎から手紙を貰えなかったことで、
紅梅は、彼の周囲のことを把握できていない。
──だけれども。
「う……」
その教育ゆえ、相手の言葉を否定しない癖がついているはずの
紅梅の中に今、どうしようもなく、反発する心が、それは違うと主張する熱が芽生えていた。
「そやけど、……うち」
泣くまいと必死に我慢をしていた
紅梅の目から、とうとう、大粒の涙が零れ落ちる。
それでもまだ涙を食い止めようとしているのか、
紅梅は歯を食いしばり、ぎゅっと目を瞑る。しかしそうすることで、余計にぼろぼろと涙が滴ってゆく。
「うちかて、うち」
ひっく、と堪えきれずに一度しゃくりあげ、
紅梅はそれでも顔を上げた。涙を湛えた黒い目が、まっすぐに弦一郎を見る。
「うちかて、……弦ちゃんのこと、好いとぉもん」
絞り出すような声は、もう、悲痛ですらあった。
「……負けても、弦ちゃんのこと、好いとぉもん。佐和子お祖母様かて、そやもん」
そう言った途端、とうとう、
紅梅の表情が完全に崩れた。うぇえ、という泣き声が、暗い納屋に吸い込まれていく。
「なんでそないなこと言うの。うち、側におらんでも、知っとぉよ? 弦ちゃんがお気張りやしたん、知っとぉよ……?」
「……頑張ったところで、負けたら、意味が無いだろうが!」
弦一郎のその声で、びりっ、と、納屋の空気が震える。
今までで、一番大きな声であった。
いつもの手紙のやり取りで、弦一郎は、
紅梅の気遣いや労い、心配する言葉を、撥ね付けたことはない。
手紙というスローなツールである故の、数日のスパン、タイムラグ。そして
紅梅の使う柔らかい言葉につられるようにして、弦一郎もまた、普段使わない、なるべく丁寧な言葉を文字にしてきた。
だが本来、弦一郎は普段、何事にも険しく厳しく、苛烈でさえある心持ちで物事に挑み、他人に厳しく、己自身にはもっと厳しい性格だ。
面と向かって「大変でしょう」と言われたら、即座に「そんなことはない」「甘く見るな」などと反応してしまう、そんな性格。
初めて、弦一郎からことごとくの否定と反発、しかも睨みつけられながらの大声でそれをされた
紅梅は、体を大きくびくつかせ、「ひぐっ」と、まるで殴られたかのような声を出した。
痛々しいまでのそんな反応に、そうさせた当人であるはずの弦一郎が、一瞬怯む。
だが図らずも、その怯んだ隙を突くようにして、
紅梅がざっと勢い良く立ち上がり、大きな声を出した。
「意味ないとか、言うなぁ!」
そう叫んだ
紅梅は、まっすぐ、弦一郎を見ていた。いや、睨んでいた。
いつもは自然に下がり気味ですらある眉尻を釣り上げ、涙の溢れる目でぎろりと睨んでくる
紅梅に、弦一郎がたじろぐ。
「何が意味あらへんのや、この、あほ!」
「なっ、」
手紙でのやりとりしかないとはいえ、一度として弦一郎をけなす言葉を発したことのない
紅梅の罵倒に、弦一郎は怒りよりもショックを受けた。
しかも、立ち上がり、にじり寄って睨みつけてくる
紅梅は、前に会った時よりも背が伸びている。あろうことか、弦一郎と同じくらいはある。もしかしたら、ほんの僅かにでも高いかもしれない。
そんな
紅梅に真正面から涙目で睨みつけられ罵倒され、弦一郎は完全に引け腰になっていた。
「佐和子お祖母様がどれだけ弦ちゃんのこと好いとぉか、うち知っとぉもん! 弦ちゃんのことやったら何でも褒めはるし、お返事かていっつも、弦ちゃんのことばっかり、うぇ、ひっ」
嗚咽で言葉が途切れた
紅梅に、弦一郎の表情が、歪む。
産まれたばかりの佐助を見た佐和子は、嬉しそうだった。弦一郎が百連勝を告げた時など、比べ物にならないほど。
ただ健やかでいるだけで、その小さな指を握っただけで、祖母はなんとも言えない、見ている方が泣いてしまいそうな笑みを浮かべていた。
佐助は赤ん坊だから、と弦一郎は思っていた。
そして、佐助と違って自分はもう大きいのだから、佐助のように、ただ健やかでいるだけで誰かを笑顔にできるような存在ではないのだと。だからもっと勝って、喜ばせて、そうでなければいけないと思っていた。
だがあの佐和子が、たかだか十くらいも離れていない孫と曾孫を、そんなふうに分けて見るだろうか。あの、孫のやることなら何でも褒める祖母が。
機嫌のいい時には返事をしただけで褒め、そのうち、──生きているだけで褒めるのではないかという勢いだった祖母が、たかだか試合に負けたくらいで、
「そやのにそない怪我ばっかりして、心配してはったに決まっとぉやろ! あほ!」
わぁん、と、盛大に泣き喚いた
紅梅に、弦一郎は呆然と立ち尽くした。
弦一郎は、ふと、自分の手を見る。
今、ラケットを握ることも、竹刀を持つことも出来ない、正真正銘、何もできなくなった手。
添え木とともに包帯が巻かれた指にはひびが入り、包帯を解けば黒紫色に腫れ上がっている。それ以外にも、全身に、擦り傷、打ち身。テープで貼られたガーゼには血が滲み、絆創膏の数は数えるのも馬鹿らしい。
今ほどひどくはないが、似たような姿で病室にやってきて、勝ったと告げる自分に、チューブを体中に着けた祖母は、困ったような苦笑を浮かべていた。
「勝ったほうが、そら、かっこええかもしらんけど」
紅梅が、しゃくり上げながら、言う。
「怪我するほうが、いややぁ……」
ぐず、と、鼻を啜った音。
「なんっ、なんでっ、怪我するん? うち言うたに、体壊したらなんもならんて手紙で言うたに、……うち、おっ、お願いやて、言っ、言うたあああああああ」
わんわん泣きながら言う
紅梅に、弦一郎は、ばつの悪い顔で、俯いた。
佐和子の病が発覚する少し前頃、
紅梅は確かに、そのようなことを書いて寄越した。四年生になって始めての大きな大会で、決勝まで残ったことを伝えた返事だった。
「病院も行っ、行かっ、そないぼろぼろなって、なおっ、治らっ、治らんかったらっ」
ぽたぽたと、丸い染みが地面に増える。
「テニスも、剣道も、出来んようなったら、どないするん……!?」
後から後から溢れる涙を
紅梅は手の甲で拭うが、埃っぽい納屋のコンクリートの地面には、丸い雫の形が、どんどん増えていた。
「弦ちゃんのあほぉ! 負けたら次勝ったらええやろ!」
「つっ……、次なんか、なかった!」
弦一郎は、震える声で言い返した。
いつ容態が変わるかもしれない祖母に、“今回はだめでしたが、次は勝ちます”などと言えるものか。弦一郎は、唸るようにそう言った。
弦一郎は、自分の中での優先順位を、きっぱりとつけてしまう所がある。
同時に二つ以上のものが一位に並び立つことはなく、いざという時にどちらを優先するのかがはっきりと決まっている。下位のもののことを確かに大事に思っていても、それより上位のもののためには、下位のものをざっくりと切り捨てることを躊躇わない。
だから、祖母のことを第一に考えた弦一郎は、テニスの練習も、剣も、
紅梅のことも、──ひいては自分の事を全て犠牲にしてまでも、それを成そうとしたのだ。
たとえ、自分の身体がどうなっても、どうしても勝たねばならない、と。
「……そんなんで、佐和子お祖母様が喜ぶと思とるんか」
数秒の沈黙の後、妙にはっきりした、そしてやけに低い声で、
紅梅が言った。
俯いているが、下から睨め付けるようなその目に、弦一郎は、彼女が本気で怒っていることを知る。
紅梅が泣くのを見るのも初めてだが、少しでも怒るところを見るのも、これが初めてだった。
「自分のためにケガして、テニスも剣道も出来んようなった言うて、お祖母様が喜ぶとでも思とるんか!」
その言葉は、弦一郎を、完全に詰めた。
「病気ん人に怪我したん見せて、元気んなるわけあるかぁ! あほ!」
「う……」
ぐうの音も出ない。
そんな弦一郎に、激高して興奮状態の
紅梅は、しゃくりあげる痙攣の間でひゅっと息を吸い込むと、一際大きな声を出した。
「みんな、どんなんでも弦ちゃんのこと大好きやのに、なんでわからへんの!」
ぼろぼろと大粒の涙を零しながら、ひっくり返った、引き攣れるような声で叫んだ
紅梅は、そのまましゃがみ込み、黒いスカートに覆われた自分の膝小僧に突っ伏した。
「うちかて、好きで側におらんのとちゃうもんんんんん」
「ぐ……」
「弦ちゃんのあほおおおおおおおおお」
うわああああん、と、とうとう大きな泣き声を上げて蹲ってしまった
紅梅を前に、弦一郎はどうしていいかわからず、たじたじになった。
そして
紅梅のどうしようもない、赤ん坊のような全力の泣き声を聞かされたまま立ち尽くすしかない弦一郎の涙腺が、とうとう緩む。
「う……」
眼球の奥が熱くなったと思った時には、弦一郎の目から、大きな涙の粒が、一粒こぼれ落ちていた。
「ふ、ぐっ、う」
それでもまだ泣くまいとする弦一郎だったが、一度泣いてしまっては、もう、無駄な抵抗にしかならなかった。ぼろぼろと零れ落ちる涙が、立ち尽くす弦一郎の爪先の地面に、蹲る
紅梅の前に、次々に丸い染みを作る。
「……だって」
弦一郎は、言い訳をしない。
そう躾けられてきた。言い訳などしようものなら、「だって」などと言おうものなら、竹刀や鉄拳が飛んでくる。それはとても恥ずかしいことだと、徹底的に仕込まれてきた。
「だってっ……!」
だがもう、弦一郎は、限界だった。
祖父や両親も、兄夫婦も、色んな事、避けられない大事な事で手一杯であることを、弦一郎は知っている。
皆、弦一郎に構っていられるような状態ではないのだ。そんな中、自分が抱える気持ちを言い出すことなど、できなかった。
もう自分は真田家で一番小さい者ではない。だから役に立たなければならない、邪魔をしてはならない、我慢しなければならないと。
──だが弦一郎とて、まだ小学四年生なのだ。
「うぁ……」
「──弦一郎」
弦一郎がとうとう声を上げて泣きそうになった時、戸口から、静かな声がした。
びく、と肩を跳ねさせた弦一郎が顔を上げると、外からの逆光に縁取られた、背の高い影がそこに立っている。
紅梅もその存在に気付いたのか、大声を上げるのをやめ、しかし大きくしゃくり上げながら、戸口を見た。
「弦一郎」
兄の、信一郎だった。
「にい、さ、」
兄の姿を認めた途端、ぐっ、と、顔を顰めて唇を噛み、息を止めるかのようにして涙を堪えた弟に、信一郎は素早く駆け寄る。
そして、ちょうど弦一郎と
紅梅を二点にして、三角形になるような位置に、喪服が白く煤けるのも構わず、膝をついてしゃがみこんだ。
「ごめんな、弦一郎」
そう言った信一郎の顔も、今にも泣きそうに、くしゃりと歪んでいた。
だが弦一郎がそんな兄の表情を、長く見ることはなかった。信一郎が、弦一郎の頭を力強く引き寄せ、自分の肩口に押し付けたからだ。
「我慢しなくていい。泣いてもいいんだ」
「……う」
「ごめんな、弦一郎。辛かったな」
そう言う信一郎の声も、震え、限界まで潤んでいた。
「頑張った。お前は、凄く頑張った。……がんばったなぁ」
赤ん坊のように泣き喚く
紅梅に引き摺られるのを必死に堪えていた弦一郎は、“大人”であるはずの兄の涙声を聞いて、とうとう、涙腺が決壊した。
弦一郎の目から一気に溢れた涙が、信一郎の喪服の肩に染みて消える。
「うっ、く、あ、……ああああああああああ」
ひびが入り、力の入らない包帯まみれの無力な指で自分にしがみつき、形振り構わず哭きはじめた弟を、信一郎は、ぐっと強く抱きしめた。
- 心に孝行ある時は忠節厚し -
(孝行する心が、忠節厚い行動に繋がる)
終