心に孝行ある時は忠節厚し
(十一)
弦一郎の身体は、どこもかしこも、傷だらけだった。
きちんと手当はしてあるようだったが、どれもこれも、小さな怪我ではない。
大きな絆創膏がそこかしこに貼られ、膝や肘にテープで留められたガーゼには、血が滲んでいる。また、指の何本かが、曲がらないように添え木とともに包帯で固定されていた。折ったか、ひびが入ったか。どちらにしろ、骨に異常をきたした故の手当がしてある。
「………………こうめ?」
寝起きのような、掠れ切った声だった。
ゆるゆると上げられた顔にも貼られた多くの絆創膏やガーゼに、紅梅が息を呑む。目の周りには、濃い青痣。だが紅梅が想像していたような、涙による腫れは見られない。むしろ、隈のせいか落ち窪んでいるようにすら見える。
「なんで……? 弦ちゃん、なんでそない傷だらけなん?」
「無茶な練習ばっかりするからだよ」
呆然と言った紅梅の問いに答えたのは、戸口に立ったまま、中に入って来ようとはしない精市であった。
「大会の前から、細かい怪我は沢山してたけど」
あの日の試合の時も、弦一郎は、絆創膏とテーピングにまみれた姿でコートに立っていた。痛々しい有り様ではあったが、どれも擦り傷や切り傷、肉刺が潰れたものなどばかりであったので、この時まではまだ、周りの者も、“激しい練習の結果”としか思っていなかった、と精市は淡々と言う。
「でも俺に負けてからは、怪我するために練習してるんじゃないかっていう感じで」
「黙れ」
少年のものとは思えない、獣の唸り声のような低い声で、弦一郎が言った。
しかし精市は弦一郎を無視して、更に続ける。
「とうとう指にヒビが入って、コーチから練習禁止を言い渡されたんだ。まあその手じゃラケットも竹刀も握れないから、禁止も何もないけど」
「黙れ」
「なのに、ろくに病院にも行ってない」
「黙れ!」
物凄い大声で、弦一郎が怒鳴った。びりっと周りが痺れたような感覚は現実だったようで、カタン、と何かが傾くか落ちた音が、確かにした。
側にいた紅梅の耳にも、きぃんと嫌な反響音が響いている。
「何だよ。俺は梅ちゃんに説明しただけだろ」
「黙れ。出て行け」
「はいはい、わかったよ」
精市は無表情に近い顰め面のまま肩を竦め、小さく息をつくと、戸口から出ていき、姿が見えなくなる。あまりにもあっさり引き下がった精市に、紅梅はおろおろと戸口と弦一郎を見比べた。
しかしやはり、どうしても弦一郎のほうが心配だったため、紅梅は精市の行方を把握するのは諦め、弦一郎の側にしゃがんだ。
泣いているのではないか、と、紅梅は心配して、彼を探しにきた。
自分とは比べ物にならないほど、手紙を書く余裕もないほど、ショックを受けているのだろう彼。厳しい剣の稽古でも、テニスの練習でも、絶対に泣いたりしない弦一郎であるが、そんな彼でも、いまは泣いてもおかしくない──、いや、泣くべき時だ。
なのに、彼はただ傷だらけの身体で落ち窪んだ目を俯かせるばかりで、涙の一滴も流していない。それは、わんわん泣いているよりもずっとよろしくない、危なっかしいことであると、紅梅は感覚で確信していた。
紅梅は、絶対に彼より先に泣かないようにと、きゅっと唇を噛みしめた。
「弦ちゃん」
名前を呼んでも、反応はない。血の滲んだガーゼが貼られた膝に突っ伏すようにしている弦一郎に、紅梅は、もう少し近寄った。
「弦ちゃん、……よぉお気張りやしたなぁ?*とても頑張りましたね」
紅梅は、一生懸命、言葉を選んだ。
その甲斐あってか、弦一郎がぴくりと身じろぎし、少し顔を上げて、ぼんやりした目で、しかし紅梅に視線を向ける。
その反応に少しほっとして、紅梅は、続けた。なるべく、出来うる限り、やさしい、柔らかい声を心がけて。これ以上、彼が少しも傷つかないように。
「弦ちゃんも、佐和子お祖母様も、もの凄ぉ、お気張りやした」
「──違う」
そう言った弦一郎の声は、はっきりと、震えていた。
「違う。俺は、負けたんだ」
弦一郎は膝から完全に顔を上げ、真正面から紅梅を見て、言った。
その距離はごく近く、紅梅は弦一郎の青痣の黒さや、顰められた眉間の皺の深さ、口元のわなわなとした震えや、頬や鼻の頭にある赤い擦り傷の生々しさがよく分かった。
「絶対に、──絶対に勝つと言ったのに、俺は負けた!」
身を切るような、悲痛な叫びであった。
「……準優勝やった?」
この状況で、佐和子が亡くなったことではなく、試合に負けたことについてを、いきなり尋常でない様子で訴えはじめた弦一郎に、紅梅も、疑問を抱いていないわけではない。
まず紅梅は京都に住んでいて、しかも近況報告の手紙を寄越されなくなって暫く経つ。彼を取り巻く環境や話の流れがわからないし、怪我との関わりもわからない。わからないことだらけだ。
だが紅梅は自分が抱く疑問をぶつけず、急かさず、ただ弦一郎の言葉を待ち、口を開きやすいように、ささやかに、やんわりと促すだけに留めた。
彼女のこういった“返し”は、手紙でも変わらない特色だ。自分のことを書くよりも弦一郎のことを聞いたり、弦一郎が寄越した手紙の内容についてのコメントを記すほうが多い。
純粋に、彼女の性格がそうさせている、というのもある。だが、実はこの特徴、完全に紅梅の生まれ持ってのもの、というわけではない。
舞妓や芸妓は、サービス業。しかも、接客というよりは接待業である。白塗りの化粧と日本髪、豪華なだらり帯の着物を纏い、特有の花街言葉で話すことでその特別な世界観を維持しつつ、客をもてなし、話術でもって、良い気分で過ごしてもらわなければならない職業。
しかも口コミと紹介で成り立つ一見さんお断りの業界ゆえ、そのひとりの印象は、花街全体、ひいては日本を代表する観光産業、京都という街全体のイメージをもたやすく左右してしまうこともあり、常に気が抜けない。
京都の人間は元々、曖昧で柔らかい言葉で本心をはぐらかすことに長けている、といわれている。京都が日本の政治的な首都でなく文化的な代表都市となり、イメージを何よりも大事にするようになってから、特に花街において、その空気は色濃い。
そして、その花街で生まれ育ち、小学生ながら将来舞妓、芸妓になる身として既に座敷に顔を出している紅梅は、要するに“下手なことを言わない”よう、徹底的に躾けられていた。
まずは、自分の意見は極力口にしないこと。
相手の言うことを、否定しないこと。
しかしそのまま肯定するのではなく、柔らかい言葉で言い換えること。
紅椿や姉芸妓たちは、“意識してできるように”とこの話術を教えているのだが、物心つくかつかないかの頃からそれを躾けられては、もはや紅梅は意識すらせず、自然に、そうして人の話を聞く癖がついていた。
ただ、紅梅にとって弦一郎は、客や稽古の相手ではない。彼に向ける言葉は、間違いなく、全て紅梅の本心であった。
心配と、労い、励ましの言葉。時折、決して押し付けがましくない程度の、ささやかな提案。そのすべては、紅梅が毎度一生懸命言葉を選び、姐芸妓や祖母から学んだ、耳に心地好い“口の効き方”に従って構成したものである。その結晶が、毎度の手紙だ。
弦一郎が紅梅に対する手紙でのみ、普段口に出さない心の奥底の柔らかい所を表現するように、紅梅もまた、彼への手紙でのみ、単なる上辺だけの接待話術や稽古では口にしない、心からの言葉を多く認めているのだ。
とはいっても、紅梅も、弦一郎も、そんなことはお互い全く分かっていないのであるが。
だが紅梅からの手紙を穏やかな気持ちで読むことができるように、紅梅がそうして発した言葉は、弦一郎の耳にも、いくらか柔らかく届いたようだった。
「……そう、だ。負けたから」
そう言った弦一郎の肩から、少しだけ、力が抜けたように見えた。
「……なんで、そない勝ちたかったん?」
紅梅がそっと尋ねると、弦一郎はしばらく黙してから、ぼそりぼそりと話しだした。
テニスの勝ち星で願掛けをしていたことは、紅梅も、手紙で知っている。
だがここまで切羽詰まったものだとは知らず、紅梅は神妙な表情で、黙って弦一郎の話を聞いた。
百度勝ったが祖母の容態は良くならず、ならば二百勝だと決めて、更なる練習をこなし、片っ端から試合をこなしたこと。
そしてあの大会の決勝、精市との試合が、ちょうど二百回めの試合であったこと。
「……それなのに、俺は、負けたんだ」
食いしばった歯の間から絞り出すような声で言い、包帯だらけの手で拳を作ろうとする弦一郎に、紅梅ははらはらした。
「俺が負けた後、お祖母様は、容態が、かわって」
「弦ちゃん」
「そのまま」
「弦ちゃん、それは、ちがう」
弦一郎の話をずっと黙って聞いていた紅梅であったが、この時ばかりは、何度も強く首を振りながら、必死に否定した。
「ちゃうえ? 弦ちゃん、それは、関係ない」
「関係なくても!」
弦一郎は、引き攣れるような声で叫んだ。
弦一郎とて、わかっている。
願掛けはあくまで願掛けであり、現実的な根拠など、何もない事を。
祖母の容態は一進一退で、毎日何らかの報告があり、弦一郎の連勝と祖母の回復は、単なる偶然でしかないことを。
「俺は、勝つと言ったのに、負けたんだ」
まじない、呪術、気休め、願掛け。自分のやっているのはそういうことであると、質の悪い信仰に嵌り込むような精神状態と同じようなものであると理解していても、そうせずにはいられなかったし、効果があるのだと思いたかった。
それ以外に、できることなどなにもなかった。
ただ、祖母に、勝つ姿を見せ続けることしかできない。それなのに、自分は負けた。
試合の後、佐和子の容態がどんどん悪くなっていくのが、弦一郎には耐えられなかった。
だが祖父や両親はその祖母のこと、祖母がいないことで滞る家のことや仕事のことにかかりきりで、兄夫婦は司法予備試験と、佐助のことで手一杯だ。
そんな中、自分の馬鹿な願掛けのことなど、──自分が抱える気持ちを、言い出すことなどできなかった。
だがら弦一郎は、テニスに、剣に、それをぶつけた。自分を罰するようにして。
「お祖母様に、……合わせる顔がない」
だから怪我をしても、病院に行かなかった。
祖母が、もしかしたら自分のせいで死の際で苦しんでいるかもしれない病院になど、恐ろしくて、とても行けなかったのだ。
「俺は、なにも、できなかった。それどころか、」
「弦ちゃん」
紅梅は初めて、そして彼女にしてはとても珍しく、弦一郎の言葉を遮った。
そして包帯が巻かれた弦一郎の手に、自分の手をそっと重ねた。その仕草はとても恐る恐るといった様相で、弦一郎にとっても、まるで羽毛が乗ったような感触しか感じられないほどだった。
「違うえ? 弦ちゃん」
「俺は、何も出来なかった、役立たずだ」
「ちがう」
紅梅は、もう一度、ふるふると首を振った。
その評定は必死だが、弦一郎が彼女の顔を見ることはない。
「佐和子お祖母様は、弦ちゃんがなんもしてくれへんかったとか、絶対、思うてへんよ?」
弦一郎は、黙っている。
しかし紅梅は、それでも、懸命に言い募った。
「勝っても負けても、佐和子お祖母様は、弦ちゃんのこと大好きやもん」
その言葉に、弦一郎が、ぎり、と、歯を鳴らす。
そして次の瞬間、弦一郎は、自分の手にそっと沿わせるように置かれた紅梅の手を振り払っていた。