心に孝行ある時は忠節厚し
(十)
 弦一郎の祖母、真田 佐和子が亡くなったのは、年が明けて然程も経たない頃。
 享年六十五歳であった。



 葬儀には、多くの弔問客が訪れた。
 剣術道場主として多くの入門者を持ち、近隣の人々との付き合いも多く、また自衛官・警察官という、縦横以外にも繋がりが強い職業に就いている真田家である。
 しかも、真田家に出入りしていた者の多くは佐和子に茶や手料理を振る舞われたり、稽古で怪我をした時の手当などで世話になっていることが殆どだ。
 柔らかな人柄の持ち主だった上、社交的でもあった故人を慕い、その死を悼む喪服の人々で、真田家の敷地はいつになくごった返していた。

 やってきた人々がまず目にするのは、喪主である弦右衛門の、憔悴した姿である。
 愛妻家として有名で、いつも元気すぎるほど元気で豪快な弦右衛門のそんな姿は、皆の悲しみを一層深めることとなった。

 そして、ひっきりなしにやってくる弔問客に頭を下げ続けていた弦右衛門は、ふと前が開けたような気配を感じ、視線を上げる。
 不思議と開けられた道の先に立っていたのは、小学生くらいの少女を連れた、和装の喪服姿の老女であった。

「ああ……」
 その瞬間、弦右衛門が、よろりと一歩踏み出す。
 何か一つ支えを失ったような、もしくは待っていた何かが現れたような、そんな様子だった。
 側にいた諏訪子が、そんな父をそっと支えるような仕草を見せる。

「この度は……」
 そう言って、紅椿は頭を下げた。さすがのもので、見事な礼である。一歩後ろについて着ている紅梅も、紅椿ほどではないにしろ、子どもとしては非常にきっちりした礼をしていた。
「……ほんに、ご無念なことどすな」
「来て下さったんですか」
 震える声で言った弦右衛門に、紅椿は、もちろん、といった風に頷く。
 弦右衛門は一度ぎゅっと目を瞑って何かを堪えるような仕草を見せてから、「本当に、ありがとうございます」と重々しく言った。

「ああ、おちゃんも。来てくれたのかい」
「へぇ……」
 数秒黙っていた弦右衛門は、一度息を吐くと、紅椿の横にちょこんと立って、困ったような、所在ないような、悲しげな顔をしている紅梅に目を向けた。
「おちゃんも、うちの佐和子に良くしてくれて、ありがとうなあ」
 微笑んではいるが、どうしようもなく悲しげな風情の弦右衛門が言うと、紅梅は、ふるふると首を振った。黒いリボンで結われた髪が、揺れる。

 そんな紅梅の前に、目線を合わせるために、諏訪子がしゃがんだ。
 いつも厳しい表情ばかりの彼女もまた、この上なくやさしく、そして弦右衛門と同じように、悲しみに満ちた表情をしている。
「……紅梅ちゃん、たくさんお手紙をくれたり、紅椿さんを寄越してくれたでしょう? そのおかげでうちのおばあさまはとても元気が出て、手術が成功したの。本当にありがとうね」
「ああ、そうだ。手術が成功していなかったら、もっと、早く……」
 弦右衛門が、言葉を詰まらせる。
 その雰囲気につられてしまったのか、紅梅は、表情をくしゃりとさせた。

「うちやのぉて、……うちより」
 今にも泣きそうな声で、紅梅は言った。
「うちより、弦ちゃん、……弦ちゃんが」
「……そうね。弦一郎も、とても頑張ってくれたわ」
 厳しすぎるほど厳しく息子らを育てる諏訪子であるが、祖母を常に心配して率先して見舞いに行き、その大変な中で産まれた佐助にも、兄分の家族としてちゃんと振る舞うことを忘れなかった弦一郎のことを、非常に誇らしく思っている。
 まだ小学四年生の弦一郎と紅梅が、こんなにも人を思いやった行動が取れるということに、弦右衛門や諏訪子だけでなく、皆が救われていたのだ。

 きゅっと唇を噛み締めて俯いた紅梅の小さな頭を、諏訪子は、やさしく撫でた。



 精市は、挨拶を繰り返す祖母と母らと離れ、真田家の小さな家庭菜園を眺めていた。

 真田家の庭は味も素っ気もない、だだっ広いだけの土庭だが、台所に近いところにある一角が耕されて土が盛られ、基本的に食べられるものばかりが植えてある。

 佐和子の畑である。
 精市の祖母も植物を育てるのが好きで、そのことで話が合い、きっかけとなった孫の精市と弦一郎とは関係なく、友人関係を結んでいたのだ。
 元々、精市の祖母は薔薇などを始めとした見目の良い花を中心に庭を作っていたが、佐和子と友人となったことで、苺などをささやかに育て始めてもいる。
 そしてそんな祖母の影響で植物が好きな精市は、弦一郎の家に遊びに来ると、必ずこの畑の様子を見に来た。幸村家の花々も繊細に整えられて見事なものだが、市場で売っている野菜顔負けの実をつける真田家の逞しい野菜も、精市は好きだった。

 あそこは胡瓜、あっちはトマト。そう教えてくれたのは、佐和子だった。
 精市は、ぼんやりとしながら、真冬でどこにも実をつけていない畑を見る。
 佐和子が入院してからというもの、道場の門下生の中でも家庭菜園をしている者たちが親切で面倒を見ているため荒れてはいないが、畑はどこか寂しげに感じられた。

「あの、……弦一郎くんの、おともだちどすか」
「えっ?」

 突然聞こえた女の子の声に、精市はしゃがんだまま、思わず振り返った。
 聞き覚えのある声ではなかったが、その音源が、精市に向かって発されたということがあきらかな距離だったからだ。
 そしてその距離感は間違っておらず、すぐ後ろ、二歩ほど離れた所に立っていたのは、いかにも子供用の喪服である黒いワンピースを着た、真っ黒な髪の女の子だった。

「……あっ、せぇちゃん?」
「え? ……ああ!」
 顔と声だけではピンと来なかったが、その呼び方と独特のイントネーションで、精市は、彼女が誰なのかを思い出した。
 たった一度、偶然縁日で一緒に遊んだ、京都から来た、舞妓のタマゴ。

「もしかして、えーと」
紅梅どす」
「そうだ、ちゃん! 久し振りだね」
「へぇ」
 紅梅は、こくりと頷いた。

 約二年半ぶりに会った彼女は、その間に、随分背が伸びたらしい。
 こうして近くに立つと、精市よりもあきらかに高かった。おそらく弦一郎と同じくらい、もしかしたらほんの少し高いかもしれないくらいである。

「俺のこと、よく覚えてたね」
「そら、せぇちゃん、えらい綺麗な子やし」
 紅梅は、さらりと言った。
「堪忍え。後ろ姿でズボンやったから、男ん子やと思て」
「えっ、あ、うん……」
 そう言われ、自分が彼女の中で“せい子ちゃん”である、ということも思い出し、精市は、ぎくりと身を強ばらせた。
 そして紅梅の言うとおり、男子用の半ズボンの喪服を着ているのに、「もしかして、男の子だったのか」というリアクションどころか、「綺麗な子」などと言われてしまっては、もはや立場がない。
 もちろん立場とは、男としての立場である。結局精市は、自分の正しい性別を紅梅にはっきり申告することなく、ただ曖昧な相槌を打つことしか出来なかった。

「……せぇちゃん、弦ちゃんどこおるか知らん?」
「弦ちゃ……、ああ、真田」
 あまりに聞き慣れない呼び名に一瞬誰のことかわからなかったが、精市は「いや」と首を振った。
「俺は三十分くらい前に来たけど、まだ見てないな」
「ほォか……」
 しゅん、と、紅梅は肩を落とした。
「せぇちゃんやったら、知っとぉか思たんやけど……」
「ええ? あいつの行きそうな所なんて、あんまり思いつかないなあ」
 精市が言うと、紅梅は顔を上げた。その目は、丸く見開かれている。
「……せぇちゃん、弦ちゃんと仲ええんとちゃうの?」
「俺が?」
「そやかて、弦ちゃん、せぇちゃんのことよぉ話すし……」
 紅梅がそう言うと、精市は、「ええ、そうなの? あいつ他に友達いないのか」とさらりとひどいことを言い放ち、うーん、と唸りながら、緩いウェーブのかかった長めの髪を掻き上げた。
 何気ない仕草であるが、本人が絶世の美形であるだけに、やけに絵になる。

「まあテニスではいつも一緒だし、仲がいいか悪いかっていったら、いいのかもしれないけど。……でも、今は、特にね。ちょっと」
「なに?」
 紅梅が不思議そうに首を傾げたので、精市は、困ったように肩をすくめた。



「多分、真田の敷地内にはいるよ。門におばさんがいるから」

 とりあえず、一緒に弦一郎を探す、ということにした二人は、大人たちの間を縫うようにして、彼がいそうな所を転々とした。

「この間の大会で、俺、優勝したんだ」
「へえ。おめでとうさんどす」
 紅梅は、驚きとともに、ワントーン高い声で言った。
 だが当の精市は、嬉しそうでも得意そうでもなく、先ほど見せた、困ったような顔をしている。

「で、真田は準優勝」
「えっ」
「つまり、決勝で俺が真田に勝って、真田が俺に負けたんだ」
 精市が肩を竦めて言うと、今度は、紅梅が困惑顔になる。
「それ以来、あいつ、ひどくてさ。とても声をかけられるような状態じゃない。まあ俺に限ったことじゃないけど、俺とは特別話したくないんじゃないかな」
 だが精市は、構わず続ける。──聞いてもらいたい気分だったのだ。

「……その大会て、去年の末の……?」
「何だ、知ってた?」
「大会があったことは、知っとおすけど……」
 だが精市が優勝したことも、弦一郎が準優勝であったことも、紅梅は今初めて知った。

 ──弦一郎が、手紙を寄越さなくなったからだ。

 手紙で、弦一郎は、試合や大会の予定を殆ど教えてくれるし、その結果も、時にどんな試合内容だったかまで、必ず報告してくる。試合がなかった時は、どんな練習をしているのかということも。
 だから紅梅は京都にいても、彼の様子を逐一把握することができ、まるですぐ側に弦一郎がいるような気になることが出来た。
 だがあの大会が終わっても、弦一郎はその報告の手紙を寄越しては来なかった。痺れを切らし、紅梅が、どうでしたか、と手紙を出しても、その返事は返ってこない。

 そんな矢先の、佐和子の訃報である。

 弦一郎の手紙には、佐和子の病状についても、いつも詳しく書いてある。
 だから長らく佐和子の情報も得られていなかった紅梅にとって、葬式に行く、と祖母に言われた時のショックは、相当のものだった。

 そしてそのショックとともに、彼女は察したのだ。
 だから彼は、弦一郎は、手紙を寄越さなかったのではないかと。
 自分とは比べ物にならないほど、手紙を書く余裕もないほど、ショックを受けているのではないかと。
 厳しい剣の稽古でも、テニスの練習でも、弦一郎は絶対に泣いたりしない。しかし、──もしかしたら。いや、そうでないはずがない。
 心配でならなくなった紅梅は、弦右衛門たちへの挨拶もそこそこに、こうして弦一郎を探しに、真田の敷地を歩きまわり始めたのだ。

ちゃんこそ、真田と仲いいんじゃないの?」
 精市の知る限り、あの真田弦一郎を“弦ちゃん”などと呼ぶのは、この少女だけだ。
 学校が違うので断言はできないが、テニススクールでの人との付き合い方の様子からして、おそらく間違いない、と精市は思っている。遠い京都に住んでいるはずのこの女の子は、弦一郎にとって、きっと、どういう形かで近しい存在なのだと。

 だがその当人はといえば、すぐに反応できず、むしろ気まずげに俯いている。
 精市のようにいつでも会える距離にいるわけでもなく、弦一郎から手紙を貰うことがなければ、彼の状況をひとつも知ることができない。そして、もう二ヶ月ほどもその手紙を貰えなかった自分は、弦一郎にとって本当に“仲が良い”存在なのだろうか。
 佐和子の死で一際ナーバスになっている紅梅は、そんな風に、すっかり悲観的な思考に因われてしまっていた。

「……俺も、心配じゃないわけじゃないよ」
 精市は、ぼそりと言った。
 それは先ほどまでの淡々とした調子ではなく、仄暗く、小さく、そして同様と、もしかすると恐怖があるのかと思うような震えが混じった声だった。

「いつもの、……いつもの真田だったら、俺だって」
 弦一郎と精市は、幼馴染であり、ライバルであり、時に悪友であり、戦友だ。
 そうそう覆らないような尊敬や敬意を向け合いつつも、しかし同時に、ごく根本的な所で、どうしても相容れない──、もっと手近な表現をすれば、生理的にいけすかないところがある相手同士。
 だから、細々と積もり積もった不満がお互いに爆発すると、見るも無残、惨憺たる有様の喧嘩に発展することもある。

 そして何より、二人を繋ぐのは、テニスという腐れ縁だ。

 だからこそ精市は、あの大会で、弦一郎にテニスでもって、全力で接した。
 よくわからない、何か気に入らないことをしでかしている弦一郎を、テニスでもって完全に叩きのめすことで、精市は彼の目を覚まさせてやろうとした。
 “いつもの弦一郎”ならば、それでいいはずだった。それが、弦一郎と精市の、いつものあり方だった。

 そうして精市はいつもの調子で弦一郎にテニスで容赦なく対峙したわけだが、その結果、弦一郎は、今までにない状態に陥ってしまった。

 これがまず、精市にとって予想外過ぎた。
 真田弦一郎という少年は、いつだってタフで、頑固で、何をどうしても立ち上がっては真正面から向かってくる、そんな少年だった。
 そんな彼だからこそ、そういう奴だとわかっているからこそ、精市は微塵の容赦もなく彼を叩きのめしたし、弦一郎の攻撃も、全て正面から受け止めた。

 ──しかし。

「あの真田には、俺は、……何を言えばいいのか、分からないし」
 そう言った精市の声には、今度こそ間違いなく、動揺が滲んでいた。
 “いつものやり方”が弦一郎に通じなかった挙句に予想もつかない結果になってしまい、更に、彼の祖母である佐和子の訃報。
 弦一郎がどんなに祖母に懐いていたか、どんなに心配して、テニスを放り出してまで見舞いに行っていたか、弦一郎のいないテニスコートに何日も立っていた精市は知っている。
 だが精市には親しい家族が亡くなった経験もなく、まさにかける言葉が見つからない状態だ。

 二人を繋ぐのは、常に“テニス”。
 そしてそのテニスでやりあうことが出来ないとなれば、もう自分には何をすることも出来ないのだと、精市はいま実感している所だ。

「だからきっと、……君のほうが、つまり……」
 精市は、言葉を選んだ。
「きっと君なら、真田を上手く慰められるんじゃないかな」
「……そやろか」
 紅梅は苦笑を浮かべているが、精市は、きっとそうだ、と頷いた。

 自分が弦一郎に対してできることは、血みどろになるまで殴りあうか、同じようにテニスをするかということだけだ。
 “弦一郎を慰める”などということは、精市は想像もしたことがなかったし、今も自分がそんなことをできる気がしないし、さらに言えば、この期に及んで、未だ、しようとも思わない。
 薄情な対応であるのも承知だが、しかし、無理やり何か言ったところで上っ面だけの言葉になってしまうのがわかりきっているし、そうなれば、弦一郎をひどく怒らせるか、もしくは更にどうしようもない状態にしてしまうかのどちらかだろう。
 前者の結果ならともかく、後者の結果になってしまったら、いよいよ精市にはどうすることもできない。しかも、そうなる確率のほうが圧倒的に高い。
 そして多分、きっと、もし立場が逆でも、その時は弦一郎が今の自分と同じように思うのではないだろうか。

 だがそれが自分たちだ、とわかっている精市は、それを別に悔しいなどとは思わない。
 いま自分は何も出来ないが、人にはそれぞれ向き不向き、合った役割というものがあるのだと、彼は知っている。
 もしかしたら、もっと長く付き合っていけば、自分も、こういう時に弦一郎に何か気の利いたことが言えるようになっているかもしれない。
 だが、それは誰にもわからないことだ。当人であっても。



 そうしてかれこれ十五分ほど、二人は弦一郎がいそうなところをあらかた探したが、その姿は見つからなかった。
「あとは……、納屋、やろか」
「納屋?」
 弦一郎が心配なのか、もともと下がり気味の眉をもっと下げて言った紅梅に、精市は聞き返す。そして自分と違い、こうしていくらも心当たりがある彼女が弦一郎にとってどういう存在なのか、精市はもうだいたい確信し始めていた。

 じゃあ行ってみよう、と、やや早足で二人は納屋に向かう。
 いま、どこに行っても弔問客の姿がある真田の敷地であったが、古道具が仕舞ってある納屋しかない敷地の端に近づくに連れて、人気はどんどん少なくなった。納屋のすぐ前ともなれば、もはや本当に誰も居ない。

 紅梅の記憶にあるより少し立て付けの悪くなっている扉をがたがたと開けると、埃っぽいにおいが流れ出てきた。
 少し顔を顰めて半歩中に入ると、磨かれた黒い靴の先にコツンとぶつかるものがあり、紅梅はそれを拾い上げる。それは紅梅にとっても思い出深い、あの、赤いラインが入った、キッズ用のテニスラケットだった。
 紅梅が去年来なかったので、ここで二年近く放って置かれていたのだろうか。他のものと同じく埃っぽいが、ガットはまあまあきちんと張っている。
 僅かに差し込む光を頼りに目を凝らせば、割れて乾いた竹刀がそこらに散らばり、赤や緑のボールもいくつか転がっている。

「弦ちゃん……?」

 ラケットを両手で持って、もう一歩中に入る。
 使わなくなった家具か何かだろうか。布を被せた大きなものに隠れるような人影を見つけた紅梅は、丸く目を見開いた。

「弦ちゃん」

 しゃがみ込むというより蹲るようなその姿は、見ただけで身につまされるような痛々しさに満ちていた。
 紅梅は、なるべく静かに、そっと彼のそばに寄る。

 お悔みを、言おうとした。
 だが紅梅はそれよりも、近づいて分かった弦一郎のその姿に、悲鳴に近い声を上げた。

「──弦ちゃん! どないしたん、そのケガ!」
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BY 餡子郎
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