心に孝行ある時は忠節厚し
(九)
 ──0−15
 ──0−30
 ──0−40

「ゲーム! 2−5!」
 あっという間の7ゲーム目。
 弦一郎は、とうとう追い詰められた。
 いや、追い詰められてなお、弦一郎は微塵の揺らぎもなく、渾身のショットを放つ。その体力とメンタルの強靭さを、コーチらも観客も、もはや畏怖すら抱いて見つめていた。

 しかしその全てを、精市は難無く返してしまう。
 その呆気なさは、ジュニアのレベルであり得ないこの怒涛のラリーを、味気ないルーティンワークのように見せてしまうほどだった。
 そして、精市にとって、それは間違いなくルーティンワークでしかなかったのである。

「真田、……君は、強くなった」
 ベースラインまで下がった精市は、ポン、と一度ボールを跳ねさせて、ひとり呟く。
「パワー、スピード、コントロール、……そしてメンタル。全てにおいて、君は飛躍的に強くなった。……でも、それだけだ」
 ポン、と、黄色いボールが跳ねる。
「君のその一打ずつだけを切り取って見れば、確かに完璧だ」

 ──だが、試合全体のゲームメイクは、非常に脆い。

 最初の2ゲームで、いや、今までの弦一郎の試合を見て、精市はそれを見抜いていた。最初の2ゲームは、それを確認しただけだ。

 弦一郎は、凄まじい集中力の持ち主である。
 前々からそれはわかっていたが、今の弦一郎のそれは、もはや常軌を逸した、異常なレベルだ。
 テニスというのは、ミスをするのが前提のスポーツだ。だがしかし、弦一郎は、その一打一打ずつに命でもかかっているかのような集中力でもって挑み、殆どミスをしていない。
 これは、プロでもようようあり得ないことである。
 常に生死がかかっているかのような集中力を、自分の意志だけで何十分も保ち続けられる人間が、どれほどいるだろうか。

 だがその弊害というべきか、弦一郎のその集中力は、一打一打に限られている、ということに、精市は気づいていた。
 つまり、渾身の一打を打つことに全てを集中するあまり、試合全体にまで意識が行き渡っていないのだ。いや、その集中力ゆえに、以前よりもかなり見えていないだろう。
 それはまるで、ひと噛みで命を奪える力を持つ猛獣が、木陰の罠にあっさりとかかってしまうように。

 大抵の選手は、弦一郎のその重い一打の威力に圧されてしまう。
 頭の悪い獣とわかっていても、一撃で命を奪える爪や牙を持ち、目にも留まらぬ速さで襲い掛かってくる獣に、冷静に対処できる者はそういない。
 ──だが、精市は、違った。

「君が何を考えてるのか知らないけど、真田。……これは、テニスだ」
 ポン、と、跳ねさせたボールを、精市が握る。
 無駄な力など何もない、絶妙な、必要な分だけの力加減。

「……気に入らないな」

 精市の目の奥の温度が、すっと下がる。
 動きまわって上がっているはずの体温、しかし精市の吐く息は白く変わることなく、凍えた空気をさらに固く凍らせたような錯覚すら覚えさせた。
「これは、テニスだよ、真田」
 何時頃からか、弦一郎は、勝ち星にのみこだわるようになった。
 相手が誰であろうと関係ない。ただただ勝つことのみに徹するその有様は、精市のテニスに対する姿勢とも似ている。
(いや、違う)
 眉を顰め、精市は、ネットの向こうに立つ弦一郎を見る。

 精市は、見抜いていた。
 ──弦一郎が、ただテニスの高みに至るために勝とうとしているのではないことを。

「……これはテニスだ、真田」

 そして彼は、幸村精市だ。
 天才、鬼才と言っても生温い、テニスの神の申し子、──『神の子』幸村精市。

 精市のあまりの強さ、あまりの才能は、凡人たちに「この先に行っても意味は無い」と思わせる。
 そして精市は、己の前から逃げ出す者たちを、軽蔑するでもなく、笑うでもなく、残念そうにするでもなく、ただ可憐に微笑み、「じゃあ次の人、やろうか」と言う。

 ──だが真田弦一郎、彼に関して、神の子はそれを許さない。

 精市と弦一郎のふたりを繋ぐのは、常にテニスだ。
 その上での幼馴染であり、ライバルであり、時に悪友であり、戦友で、そうそう覆らない尊敬や敬意を向け合いつつも、生理的にいけ好かない同族嫌悪も抱く犬猿の仲でもある。

 相手が神の子であろうと何だろうと、常にテニスの高みへ挑み続ける彼を誰よりも認めているからこそ、精市は、今の弦一郎が心底気に食わない。
 これ以上その姿を晒すのならば、心底軽蔑するし、指をさして大笑いしてやるし、──そして何よりも残念でならない。
 神の子・幸村精市は、そう思っているのだ。

「他のことを持ちだしてコートに立つなんて」
 ふわり、と、黄色いボールが天に投げられる。
 羽毛のように軽やかに浮いたそれを、精市は、叩き落とした。
「……ふざけるなよ!」

 ──ダァアン!

「……ラ、0−15!」
 精市の放ったサーブは、弦一郎の頬を掠め、まっすぐにサービスコートに突き刺さる。
 弦一郎は、コートに突っ立ったまま、呆然とした。
 頬に残るのは、信じられないことに、テニスボールのフェルトの感触。湯気が出るほど温まった身体に、ひやりと冷えた汗が流れるのを感じる。

 どうして反応できなかったのか、なぜ自分は今棒立ちなのか、全くわからない。
 手当たり次第、本能のままに襲いかかった獲物。それから放たれた銃弾に、わけも分からず戸惑う獣のように、弦一郎は立ち竦んだ。

「……ふざけるな、だと」
 しかしすぐさま、弦一郎は、唸った。
 ラケットを持つ手が、ぶるぶると震える。しかしそれは凍えでも、恐怖でもない。
「誰が、ふざけていると、……俺は」
 グリップが、みしみしと悲鳴を上げている。
 そして弦一郎は、観客の声が響く野外コートで、ベースラインまで下がった精市の呟きを聞き取れているという異常さに気づいていない。

 精市が再度ベースラインまで下がり、ボールを跳ねさせている。
(見ろ)
 弦一郎は、コートを踏みしめた。グリップを握り、歯を食いしばり、射殺すような目で精市を、ボールを見る。
「見ろ、しっかり見ろ、勝て、打て、勝て、絶対に」
 呪文とも呻きともつかぬ呟きが、弦一郎を追い込んでゆく。

 ──ポォオ──────ォオン。

 弦一郎の視界の中で、黄色いボールが、緩慢に、スロー・モーションで跳ねる。
「見ろ、勝て、勝つ、勝つ、絶対に、絶対に絶対に、絶対に絶対に絶対に」

 他のことはどうだっていい。他のことは、余計なことは、
 ──ああそうだ、幸村の言うとおり、他の、勝つ以外のことはもうなにも──

 観客の声が消え、凍える空気が意味を成さなくなる。
 身体の重みがなくなり、汗が引き、全てのものが、身体の機能が、

 ──ダァン!



 ──限界を、超えた。



(──見えた!)
 そう考えたのが先か、体が動いたのが先か、弦一郎にもわからなかった。

 ──パァン!

 観客が、どよめく。
 目にも留まらぬ、という動きで移動した弦一郎が、精市のサーブを打ち返したからである。しかもそれは、散々精市にしてやられた、ライジングショット。
「15−15!」
 審判のコールが、響く。

「……なんだい、それ」
 サーブの位置につけ、という審判の指示を右から左に聞き流しながら、精市は、目を見開き、弦一郎を見つめた。

 先程まで乱れた息を吐いていた弦一郎はいま、規則正しく呼吸をし、それを白く変えている。全身から立ち上る白いものは、気化した汗だろうか。
 いや、それにしては、弦一郎は不思議なほど汗をかいていない。先程まで、滴るようだったのが、嘘だったかのように。

「なんだい、それ……」
 先程まで、喉笛を狙う獣さながらに、ぎらぎらとこちらを睨んでいた弦一郎の目は、澄んでいる。
 湖面のようなその目に熱はなく、冷たさもない。

「……ふざけるなよ、真田!」
 そんな弦一郎を見て、精市は、ぎしりと歯を食いしばった。

 ──気に入らない。さっきまでとは、比べ物にならないほど!

 ──パァン!
 ──パァン!
 ──パァン!

 弦一郎のスタイルが変わったことには、精市だけでなく、観客らも気づいていた。
 先程まで、弦一郎の戦い方には、まさに獣のような獰猛さと、そして一打一打に命を削るかのような鬼気が込められていた。しかしそれは同時に、ワンショットに極限の集中力を込めるがゆえに、試合全体の運びが単調になりがちなプレイスタイルでもある。
 だが今の弦一郎は、今まで見せたことのない種類のショットを多彩かつ的確に使い、精市の球を巧みに返している。
 低く滑るスライス、高く跳ねてリズムを狂わせるスピン、大きく跳ねて左にキックするアメリカンツイスト。
 更には手首を体の外側へ返し、左利きであるかのようなリバースショットまで。

 それはまるで、「こう来たらこう返しましょう」と書いてあるテニスの教本通りのような、ボタンひとつで簡単に技が出るテレビゲームのような、そんな有様だった。

「──Deuce!」

 初めてのデュース。
 ここで精市が2ポイント先取すれば、精市の勝ち。弦一郎が2ポイント先取すれば、更にゲームが続き、逆転のチャンスが出てくる。

「Advantage、真田!」
「Deuce!」
「Advantage、幸村!」
「Advantage、真田!」
「Deuce!」
「Advantage、幸村!」
「Deuce!」

 どちらかがアドバンテージを取ったと思いきや、すぐさまデュースに逆戻り。
 凄まじい競り合いを、観客が、固唾を呑んで見つめている。

 先ほどとは打って変わって、緩急自在、多彩な技の数々。しかしどこか機械のような反応でもってボールを返してくる弦一郎に、精市は、ますます目を眇めた。

 弦一郎の今のプレイは、その身体から立ち上る“なにか”によるものだ。
 その正体が何なのかまではさすがに精市もわからないが、弦一郎が普段使わない、こんなにも多彩な技を次々に繰り出していては、いくらかなりの体力があろうとも、そのうち必ず限界が来るだろう。
 だからこのままデュースとアドバンテージを繰り返して持久戦に持ち込めば、間違いなく精市は勝てる。

 しかし精市は、今の弦一郎が、心底気に食わなかった。
 完膚なきまでに叩き潰さねば、気が済まないほどに。

 ──パァン!

(……いける!)
 そして弦一郎は、どこか遠く、研ぎ澄まされているようでぼんやりした意識の中、希望を見出す。
 このまま競り合っていけば、体力勝負となる。精市のスタミナは未だよく読めない所があるが、弦一郎は、先ほどまでの疲労が嘘だったかのように身が軽い。
 こうして己の奥から何かが噴出し始めてから、何故か身体は勝手に動き、何も考える必要がない。体の疲れも、不思議と感じない。

 解き放たれた気分だった。──負ける気がしない。
 一打一打に命を賭けた、ぎりぎりの焦燥感も、今はない。

(いのち)

 ──何の? 誰の? 何のための?
 ──自分は、何のためにここにいるのだったか?

 ──パァン!

「……ずいぶん調子が良さそうだね」
 球を打つのに思考が必要なくなった弦一郎がぼんやりと考えに耽っていると、ネットの向こうから、声がした。

 ──ああ、あれは、誰だ。
 ──対戦相手、テニスの。そう、でも、なんでもいい。勝てさえすれば、

 弦一郎の意識が、極限の中、再度ぼんやりと霧散しかける。
 しかしそれは、叶わなかった。

 弦一郎は、目の前のに、目を見開く。

 ボールを迎え撃たんと構えたその姿から、何かが立ち上っている。
 気化した汗でもない、吐いた息でもない、うっすらと金色に輝いても見えるそれは、弦一郎が纏うそれと同じもの。
 そして弦一郎は、その姿を見た瞬間、絶望とともに思い出した。

 あれは、幸村だ。

 “テニスの練習”を必要としない、どんなボールも見えて、返せて、当たり前の、テニスの神の申し子、『神の子』、──幸村精市!

「なるほど。……こんなものか」

 冷たい声がした。

 ──パァン!

「──Game set! Won by 幸村精市!」

 瞬間、弦一郎の視界が、暗闇に染まる。
 それ以降のことは、よく覚えていない。
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「神の子コエエエエエエ」と思って頂ければ、本望。初無我でした。
BY 餡子郎
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