心に孝行ある時は忠節厚し
(八)
「真田、君、最近──どうしたんだい」
「何のことだ」
コイントスの前、穏やかに話しかけてきた精市に、弦一郎は低い声で言い返した。
いつもと変わらず、優雅とすら言えるほどの精市と比べると、弦一郎のその様は、手負いの獣がぐるると唸る様である。噛み締めた歯の間から漏れた息が、白く変わった。
「何って──」
精市は何か言いかけたが、いや、と小さく首を振り、ラケットを回した。
「Which?」
「Smooth」
カラン、と音を立てて倒れたラケットのグリップエンドを見た弦一郎は、すぐさま「サーブ」と答えると、さっさとベースラインまで下がる。
「……潰す……」
ポン、と、ボールをベースラインの際で跳ねさせて、弦一郎は呟く。
跳ねさせたボールを一度握り、目を閉じて、微動だにせず、ひたすらに集中する。心を静め、高め、迷いを断ち切り研ぎ澄ます。
“心から言う”というのは、難しい。
だがそうして声にした言葉には、現実に影響を与え、そのとおりの結果を現す力がある。絶対的な意志を込めて口に出せば、時に肉体や技術を凌駕し、限界を超える力をもたらすのだと、弦一郎は知っている。
そして、そうして掴んだ勝利こそが、祈りを届けてくれるのだと、弦一郎は信じていた。精市に勝てば、きっかり二百勝目のこの勝利を手にすれば、きっと願いが叶うのだと。
弦一郎は、一度目を閉じる。
そして、つい先日届いた手紙、薄紅色の便箋に書かれた文章を思い出した。あなたは間違っていない、私も同じようにしています、と肯定してくれる、綺麗な手紙。
──弦ちゃんなら、きっと……
「……勝つ!」
魂の底から叫ぶと同時に、弦一郎は、渾身のサーブを放った。
強くなった、と、精市は、弦一郎を素直に評価した。
精市から見ても常軌を逸した、鬼気迫るまでの練習量。
元々弦一郎は強くなることに貪欲だが、しかしいま、真に弦一郎を駆り立てるのは、おそらくもっと違う理由だと、精市は見抜いていた。
弦一郎と精市は、最も親しい友人でありながら、単なる“仲良し”と表現するような仲ではない。
ふたりを繋ぐのは常にテニスであり、その上での幼馴染であり、ライバルであり、時に悪友であり、戦友で、そうそう覆らないような尊敬をお互いに抱いていながら、生理的にいけ好かない同族嫌悪も抱く犬猿の仲でもある。
だからこそ、精市は、今の弦一郎の有り様を正しく、誰よりも客観的に把握し、更にそれを心の底から気に食わない、と思っていた。
──ドッ!!
「15−0!」
いきなり決まるサービスエース。
審判のコールが響くと同時に、観客席から、歓声というよりはどよめきのような反応が上がった。
小学生トーナメント、しかも四年生であるというのに、弦一郎のサーブは、パワー、スピード、コントロール、全てにおいて凄まじい威力を持っていた。
サービスコート、ネットに近いサイドライン際ぎりぎりに、くっきりとしたボールの跡が残っている。
「……ふぅん」
しかし精市は、焦げ目のようにも見えるボールの跡をちらりと見やると、すっと目を細める。その目つきは鋭く、そして、温度が感じられない深さを持っていた。
弦一郎がもう一度構え、そして何かまた呟くと、ボールを高く上げる。
そして繰り出される、まさに目にも留まらぬ、凄まじい速さのフォロースルー。
──パァン!!
その後は、弦一郎優勢のまま、試合が進んだ。
今まで百九十九人を圧倒してきた、年齢に見合わぬパワーと技術による、喉笛に噛み付くような勢いの弦一郎のショット。
時折弦一郎がジャストミートより僅かにずれたショットを打つと、精市はすかさずそれを拾う。だがそれ以外のショットは、殆どが難なく決まり、ポイントになってゆく。
1ゲーム目が終わり、チェンジコート。精市のサービスゲームとなっても、それは同じだった。
「2−0!」
3ゲーム目。再び、弦一郎のサービスゲーム。
──パァン!!
また、どよめきが上がる。
しかしそれは、またサーブが決まったからではない。サービスコートに突き刺さり、跳ねたボールが、精市によって打ち返されたからだ。
しかもそれは、ボールが跳ねて上がり切らないすぐの所を叩く、ライジングショット。ワンバウンドしたボールが落ち切らない早い打点で打つため、あまり力を入れずともボール自身の持つスピードを乗せて返せるカウンター技であり、また、相手のリズムを崩し、構える余裕を与えないという利点を持つ、基本にして効果的なショットだ。
特に、サーブのためにベースラインまで下がっている弦一郎は、普通よりも素早く反応し、走り、ボールに追いつかなくてはならなくなる。
「……シィッ!」
食いしばった歯の隙間から漏れた息が、鋭い音を立てる。
やや体勢を崩しつつも、弦一郎は、精市のライジングに喰らいつくようにしてボールに追いつき、思い切り打ち返した。その反応速度とパワーは、まさに野生の獣じみている。
握りしめられたグリップが、ギチッ、と軋むような音を上げる。
──パァン!!
──パァン!!
──パァン!!
破裂音にも似たインパクト音は、普通、小学生の大会で聞くことのない音だ。
だがしかし、弦一郎も精市も、観客の耳をつんざくような音を響かせて、ボールを打ち合っている。
相手を木っ端微塵に打ち砕かんという勢いのスマッシュと、隙を縫うような鋭いライジングの応酬。まるで大砲とライフルの撃ち合いのようにも感じられる激しいラリーを、観衆が、固唾を飲んで見守る。
「……真田。君は、強くなった」
再度、力いっぱい返ってきた弦一郎のショットを再度難なく返した精市は、ぼそりと呟く。
反応速度、パワー、コントロール、スピード。あらゆる面において、確かに、弦一郎は桁違いに強くなった。
「だけど、……それだけだ」
いかにもまたライジングを打つかのようなフォーム、しかしコンマ数秒前、精市は一歩大きく踏み出し、ボールがコートに付く前に、ラケットを当てた。
──トン、
「0−15!」
華麗なまでのボレーは、見事ネット際に落ち、審判のコールが響く。
「──2−4!」
その後、弦一郎は変わらず、怒涛の攻めを見せた。
しかし精市もまた、その全てを尽く返し、あっという間に4ゲームを取る。
デュースになることもなく、ここまで軽快にポイントを取られてしまえば、最初の2ゲームが様子見であったことは、誰の目にも明らかである。
しかも、今終わった6ゲーム目に至っては、弦一郎は1ポイントも取ることが出来なかった。
「く……!」
渾身のショットの何もかもが無力化された弦一郎は、歯を食いしばり、荒い息をつきながら、サーブを打つために位置についた。
──どこに打っても、返されるような気がする。
(……弱気になるな!)
目の前がどろりと溶けて暗くなるような感覚を、弦一郎は気合で吹き飛ばす。
「潰す……、潰せ、勝て、潰せ、勝つ、絶対に、絶対に絶対に絶対に」
ぶつぶつと呟くごとに、白い息が弦一郎の口から漏れ、冷たい空気に溶けて消える。
帽子の鍔で陰った目は、赤く染まって見えるほどにぎらぎらとして、常軌を逸した鬼気に満ちていた。
だがその甲斐あってか、弦一郎の仕草に迷いが消える。放り投げられた黄色いボールは、そのまま天に昇って行くのではないかと思うほどにまっすぐだった。
「──ハァッ!!」
──パァアン!
6ゲームをこなし、逆転されてしまってなお、弦一郎の放ったサーブは、スピード、パワー、コントロール、そしてメンタル、全てにおいて完璧だった。
──完璧な、はずだった。
──パァン!
弦一郎は、目を見開く。コーナーぎりぎりに叩き込んだボールが、いつのまにか移動していた精市によって、返されたからだ。しかも、またも見事なライジングで。
「く……!」
呆けている暇はない。
返されたボールに喰らいつかんと、弦一郎は走った。
走っただけでは間に合わない。跳んだ。
腕を伸ばした。
肩が、腕が、肉が、骨が、軋む。
ラケットの先が、何とかボールに触れた。
しかし無理な体勢が祟り、弦一郎はそのままスライディングの要領で倒れる。
傾いた視界に見えたのは、高く弓なりに上がったロブ。
間抜けなまでの、絶好のチャンスボールだ。そして、その先にいる、ネット越しの精市。
ぞっ、と、背骨の髄に氷柱でも突っ込まれたかのような怖気が、弦一郎の背を支配した。
しかし、その恐怖を押し退けて弦一郎が立ち上がる前に、容赦なく、精市が跳ぶ。
──パァアン!
天から叩き落とすかのようなスマッシュが、弦一郎のコートのど真ん中に突き刺さった。