心に孝行ある時は忠節厚し
(六)
 この日以降、佐和子は“元気に手術に備える”という状態になった。
 いよいよできることが何もなくなった弦一郎は、見舞いの回数をやや減らし、テニスの練習をし始めることにした。紅梅の言うとおり、大会も近い。



 この頃、弦一郎は、『言霊』という概念を祖父から学んだ。
 良いことであれ悪いことであれ、言葉には、声に出すことで現実に影響を与え、そのとおりの結果を現す力があるとする、日本独特の考え方。
 なんでもないときに聞いていたなら、単なる知識として理解しただけだっただろう。
 しかし弦一郎は、自身の経験をもってして、理解するだけでなく実感し、納得した。

 祖母は、紅椿の舞の力で、心から「うまくいかないはずがない」と言った。
 そしてその言葉は彼女本人だけでなく、弦一郎や弦右衛門、家族一同の心も同じ方向へ導いたのだ。手術を明後日に控えた今、手術の成功を信じていない家族は一人もいない。
 信仰というほど大げさではないが、言葉には確かに何らかの力がある、と、弦一郎は思い知ったのである。

 だが「心から言う」ということがいかに難しいか、ということも、弦一郎はつくづく感じた。絶対にそうなるのだという強い意志なくしては、言葉に力は宿らない。まさに、口先だけ、になってしまう。
 力ある言葉を口にするためには、心を強く持たなければならない。そのことを実感とともに学んだ弦一郎は、この機会をもって、自然に気概を改めた。

 それを弦右衛門は成長であると褒め、精進すべし、と命じた。
 弦一郎は、そのとおりにした。今まではただなんとなくじっと座り込む忍耐力を着けるだけだった“坐禅”が、本来どういうものなのかも、わかってきた。

 目を閉じて、微動だにせず、ひたすらに集中する。
 心を静め、高め、迷いを断ち切り研ぎ澄ます。
 その結果口にする言葉には確かに力が宿っていて、例えば試合前にこれをするとしないでは、格段に試合内容に差異が見られた。

 今までは、とにかく練習し、体を作り、技術を習得することが強さへの道だと思っていた。
 それも、確かに事実ではあるのだろう。
 しかし心の持ちよう、精神的な要素が、時に肉体や技術を凌駕させ、限界を超える力をもたらすという事実を信じた途端、弦一郎は、今までよりもあきらかに上達のスピードが早くなった。
 傍から見ても、そして弦一郎自身も、開眼した、と言えるほどの変わり様であった。

 そのさまを見た祖父は、「落ち着いたら、居合の修行も始めようか」と言い、弦一郎は、久々に心からの笑顔で「はい」と返事をした。






 そして、来る日。
 祖母・佐和子の手術は無事に成功し、あとは経過を見る、ということになった。

 真田家一同、お祭り騒ぎのようにして、これを喜んだ。
 手術の成功は完治を意味するものではなく、佐和子は体に付けられた色々なチューブをしばらく取り外せない。しかし、どんどん悪くなっていく症状を止めることはできた。
 そして何より、ベッドの上から家族に向けた佐和子の表情は、確かに笑みであった。
「さすが、紅椿殿の百度参りのお守りだな」
 眠ってしまった祖母の枕元、寝ていても目に入るようにとベッドの柵に括ってぶら下げた白いお守りを見て、うっすら涙ぐんだ弦右衛門が言った。



「……お祖父様。百度参り、とは何ですか?」
 弦一郎は、寝ている祖母の邪魔にならないよう、病室を出てから祖父に尋ねた。
 いま思い出したが、そういえば、このお守りを渡す時、そのようなことを言っていた気がする、と弦一郎が首を傾げると、弦右衛門は頷いた。
「ああ。百度参りというのは、その名の通り、一つの神社や寺に百回お参りして、一つのことをお願いすることだ。裸足でやるというのが正式とも聞く」

 百日間をかけて一度ずつ参拝するやり方が原点であるが、多くは社寺の入口から拝殿・本堂まで行って参拝し、また社寺の入口まで戻るということを百度繰り返す、という方法がポピュラーである。
 これを「お百度を踏む」と表現し、紅椿がしたのはこちらだ。

 お百度を踏みに来た人のために、百度石という折り返し地点の目印を置いていたり、回数を数えるためのこよりや小石、数珠などを使うのが名物になっている寺社もある。
 百日間をかけて行うのではなく、一日に百度、というと、時間短縮の手抜きをしたようにも感じられるが、大きな寺社ともなれば、百度往復すると合計で数キロを歩くことになる場合もある。
 長い階段を含む寺社ともなれば、修行の域に入る場合すらあるかもしれない。

 紅椿が参拝した北野天満宮は国宝でもあり、相当の敷地面積を持つ。
 そこでの百度参りは、決して手軽なものではないだろう、と弦右衛門は言った。

「要するに、願掛けじゃな」
「願掛け……」
「百度参りは神様に願う形だが、ようは気持ちの問題じゃ。神様に願うのでなくても、気持ちが籠もるのなら何でも良い。これを達成できたら叶う、とか、叶うまで髪を切らない、とか、聞いたことはないか?」
「ああ、……はい」
 やったことはないが、確かに、聞いたことはある。弦一郎は頷いた。

「決まっとるわけではないが、願い事の内容を誰にも言わずにやるとか、人目のない時間に参拝するとか、お百度を踏んだこと自体を誰にも言わんとか、とにかく一人でひっそりやると効果が高まる、ともよく言われとる」
 まあ、紅椿殿は堂々と「お百度を踏んできた」と仰っておられたが、と、弦右衛門は笑う。

 百度参り、願掛け。
 弦一郎はその概念を理解すると同時に、これは、最近覚えた、言霊的なやり方とは反対のやり方だな、と感じた。
 誰にも言わず、ひっそり、こつこつと、賽の河原の石を積むような行為でもって、気持ちを高める方法。

 はっきり言って、現実的な根拠など全くない方法だ。まじない、呪術の域である。
 だがしかし、それをする気持ちを、弦一郎は理解できた。

 なぜなら弦一郎は、心から叶えたい願いに対して何も出来ない時の、喉を掻き毟るようなやるせなさ、絶望に近い無力感、手当たり次第に叫び散らさずにはいられない不安感を、心の底からよく知っているからだ。

 弦一郎がテニスも剣道も何もかも放り出して、何度も何度も病室に通ったのと同じように、そのやり方は、無力な者の気休めでしかない場合もあるだろう。
 何も出来ないが、何かしていないと気が済まない者達にとっての、精一杯の行動。

 しかし実際、紅椿の百度参りは、祖母に多大な勇気を与えたという事実を、弦一郎はこの目で見た。
 祖母は、たいへんな紅椿ファンだ。そのひとが、自分のために裸足で数キロの距離を歩き、百度も自分のために祈り、更には自分のためだけに神楽を舞ってくれたということが、どれだけ嬉しかったか。そしてその嬉しさが、どれだけ力になったことか。

 弦一郎は、病室のドアを見つめた。
 祖母の手術は成功したが、完治まで油断はできない。むしろこれからが正念場なのだ、とも聞かされている。
 そしてそれを思うたび、追いやったはずの真っ暗な不安と焦燥感が、再びずっしりと降りてくる。──まるで、魔法の効果が切れたように。

 病室に通う度、弦一郎がテニスや剣道を放り出してここに来る度に、困ったような顔をする祖母を思い出す。
(お祖母様が、喜ぶことを)
 見舞いに来ることは、弦一郎にとっての気休めにはなっても、祖母の力にはならない。願いは、叶わない。だからといって、よく知らない神様に詣でてどうにかなるような気も、弦一郎は全くしなかった。
(俺が、一番、できることを)
 紅椿は、舞を。自分には、何が出来る?

 ──そのぶん、テニスの練習をたくさんしてください。

 その一文が脳裏に思い出された瞬間、弦一郎は、ぱっと光が瞬いたような気すらした。
 そしてそこから繋げるように、脳が、記憶を流し出す。何をしても弦一郎を褒める祖母が一番喜ぶのは、弦一郎がテニスで勝った時だった。
 だから、賞状やトロフィーを持って帰ると、弦一郎は、真っ先にそれを祖母に見せに行った。

 弦一郎は、思わず、右の拳を握りしめる。
 この右手は、ラケットを握る手。ボールを打つ手。勝利を掴む手。
 ──願いを、叶えることの出来る手。

 喉を掻き毟るようなやるせなさ、絶望に近い無力感、手当たり次第に叫び散らさずにはいられない不安感。その全てを、涙をこらえて受け止めて、弦一郎は、両の足で踏ん張った。
「……勝ちます」
 弦一郎は、心の底から、震える声で、言った。
「勝ちます。お祖母様、お祖母様が治るまで、俺は」
 目を閉じる。微動だにせず立ち、ひたすらに集中する。心を静め、高め、迷いを断ち切り研ぎ澄ます。その結果口にする言葉には、確かに力が宿るのだ。

「勝ちますから、治ってください……!」

 ──きっと、絶対、大丈夫ですから、がんばってください。

 それは、祈りであり、決意であった。
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BY 餡子郎
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