病室に戻った佐和子はしばらく興奮のままに礼と感想をまくし立てていたが、「病人は大人しゅうし」という紅椿のぴしゃりとした一言で、漸くベッドにしっかり背を預けた。
「アレ、
紅梅かいな」
ベッドのサイドボードに並ぶ折り紙たちを指して問われ、佐和子は笑顔で頷いた。
「ええ、いつも良くしてくれて」
「ほォか。ほな、アテからはこれや」
そう言って紅椿女史が袂から取り出したのは、白に金の刺繍が施された、病気平癒守。
眩しい白と、少し赤の混ざった温かみのある金色は、どこかあの神楽舞を彷彿とさせる神々しさがある。
佐和子の手にお守りを握らせるその仕草が、去年、
紅梅が黒いお守りを握らせてきた仕草と同じで、弦一郎は小さくはっとした。
「
紅梅と御百度踏んできましたよってな」
「まあ……!」
佐和子は声を上げ、白く輝くお守りを握りしめた。
「紅椿さんが? まああ、なんて恐れ多い……」
「ほほほ。効きそやろ」
震えてさえいるのではないか、というような佐和子に、紅椿は口元を黒骨の扇で隠し、高く笑った。
先程から、この老女は、見舞いにありがちな、気遣わしげなというか、腫れ物にさわるような態度を一切取らない。
そのあまりに堂々とした態度に、手術を控えた鬱鬱とした気持ちとはち切れそうな緊張感を抱えていた真田家は、目を白黒させる。
しかしあっけらかんとして何の心配もなさげなその空気と、何より佐和子本人のとても嬉しそうで溌溂とした様子に、家族皆の胸のもやも、何だかすっと消えていくような気がした。
「ええ、貴女にここまでして頂いたら、うまくいかないはずがないでしょうねえ」
満面の笑みで、しかもさらりとそう言った祖母に、弦一郎は目を見開く。
その言葉は、弦一郎が、そして家族の全員が聞きたかった言葉だった。いや、聞きたかったのだということに、いま、はっと気がついた。
一番大変なのは本人だとわかってはいるが、大事な家族のひとりが大変な試練を控えていることに、皆胸が張り裂けそうなほどの心配を抱えているのだ。
だからこそ弦一郎も、テニスを放り出しても佐和子の元に訪れ、なんとかして彼女の元気を引き出そうとした。大事な祖母のため、同時に、自分の心を鎮めるために。
そして今、その両方が一気に叶ったことに、弦一郎は抱えていたどうしようもなく重たいものが、すとんと落ちて消えたような心地だった。
──うまくいかないはずがない。
一番聞きたかった言葉がいま、一番大事な人の口から、はっきりと発された。
そしてその心強い言葉に、まず弦右衛門が、次に信一郎と由利が、そうだその通りだ、と口々に言う。彼らもまた、この言葉をずっと待っていたのだ。
「それにしても急で、驚きました」
「決まったんが、結構ぎりぎりやったさかいな」
「そうなのですか」
「
紅梅が言い出したんは、割と前やったんやけども」
話に上ったその名前に、弦一郎は、ばっと顔を上げた。しかしその反応に誰も気付くことなく、話は続く。
「見舞い自体には来るつもりやったけど、お百度踏も言うたんも、ほんまに舞うたらどや言うたんも、あの子なん」
紅椿は、なんでもないように話した。
「まあ、そのせいで、毎年真田に遊びに行っとるんが紅葉にばれてなあ。もう、修羅場や」
けらけら笑いながら言う紅椿だが、佐和子と信一郎、由利はぽかんと口を開け、弦右衛門は若干青ざめ、弦一郎は硬直している。
紅葉というのは、
紅梅が「おかあはん」と呼ぶ、置屋『花さと』の女将の名である。弦右衛門を出禁にし、真田家一同を毛虫のように嫌っている張本人だ。
弦一郎は直接知らないが、それはそれは恐ろしいひとであるらしい。
紅梅は何かと「おかあはんが知ったら」「おかあはんには言わんで」など、手紙の中でも直接会った時でもよく口にするし、紅椿とてこの女将の決めたことには逆らえないところがあり、更に弦右衛門などは、場に名が上っただけで肩を竦ませる始末である。
芸姑を経て女将になった女性ならば、一定以上の容姿の持ち主のはずだ。
しかし弦一郎は、そういう又聞きのイメージのせいで、女将、とか、紅葉どの、おかあはん、と聞くと、浮世絵の妖怪絵で見る、振り乱したざんばら髪の間から血走った目を覗かせ、出刃包丁を持った鬼婆の姿を思い浮かべてしまうまでになっている。
「えらい怒られて、お稽古みっつも増やされて、ほほほ」
笑い事ではない、と、弦一郎は今にも叫びそうになった。実際、笑っているのは紅椿だけであるが。
「そやけどあの子も引下がらんでなあ。なんぼでもお稽古するからて見得切って、よりにもよってお舞台前日、今日のアテのスケジュール調整せえて言うて」
「まあ……」
「あんまりうるさいし、とうとう紅葉が折れたんどす。見ものやったわあ」
しかし、やると決まれば、天下の
上杉紅椿をカセットテープで舞わせるなど言語道断、いっそ最高の地方衆を呼ばねば、と、女将はぎりぎりになってその手腕を発揮し、紅椿と、そのバックミュージックを担当する地方衆を手配したのだという。
「じゃあ、お
梅ちゃんは……」
「今頃、新しいお稽古漬けやろなあ。もう夏休みもなんもあらへんわ」
元々
紅梅には夏休みらしい夏休みなどなく、学校の代わりに稽古が増えるだけである、というのは弦一郎も手紙のやり取りの中で知っている。
だからこそ、真田家で過ごす短い間だけが、誰にも咎められることなく跳んだり跳ねたり、好きに遊べる唯一の休みなのだ、ということも。
「そやから、急なことやけど、あの子は今年来られへんのどす」
「まあ……残念ねえ……」
そう言って、ちらり、と佐和子は弦一郎を見る。
心配そうな、そして申し訳無さそうな目であった。
「弦一郎……」
「残念、です」
弦一郎は、少し俯く。
──しかしすぐに、顔を上げた。その表情は、きりりとした笑み。
「でも、おばあさまが元気になって良かったです」
その声には僅かな淀みも躊躇いもなく、竹を割ったようにきっぱりとして、みずみずしいほどに爽やかだった。
無理を言って、秘密の手紙をやり取りする相手と会える、一年に一度しか無い日。
それが前日になって無くなってしまったというのに何を気にした様子もない孫に、佐和子は丸く目を見開く。きょとん、としたその表情は、毒気を抜かれたようだった。
そしてそんな祖母の表情に、弦一郎は満足し、そしてぼろが出ないよう、緊張感を高める。──表には、一切出さずに。
「ありがとうございました。
紅梅にも、お礼を言っておいてください」
「……へェ」
よろしおすえ、と言った紅椿の口元は、黒骨の扇で隠されている。しかしその切れ長の目はどこか面白そうに、僅かに持ち上がっているように思われた。
信一郎と由利にあとを任せ、紅椿の見送りをするため、弦右衛門と弦一郎は病室を出た。
弦右衛門は何度も何度も紅椿に頭を下げ、感謝の言葉を述べていたが、やがて痺れを切らせた紅椿に扇の先で頭を小突かれ、タクシーを呼びに飛び出していった。
「そら、あんたはんにも。
紅梅からどすえ」
成り行きで待合ベンチで二人きりになった時、弦一郎の膝の上に、白い封筒がふわりと置かれる。見慣れたそれは、
紅梅がいつも使うもので、表にも、「真田弦一郎様」と宛名が踊っていた。
弦一郎は、思わず紅椿を見上げる。
白塗りの顔は、いつの間にかまた扇で半分隠されていた。下から見上げているので僅かに目しか見えないが、端に紅が挿された切れ長の目がきろりと動いて促したので、弦一郎は手紙にそっと手をかける。
いつもは部屋でペーパーナイフを使って開けるものを、手で、なるべく丁寧に破いて封を開けた。
弦ちゃんへ
こんにちは。
今年、私はそちらへ行けなくなりました。突然でごめんなさい。
理由は、真田のおうちに遊びに行っていることが、おかあはんにわかってしもたからです。罰として、今年はおばあはんに付いて行くのを禁止されました。最後までおねがいしたけれど、だめでした。
とても残念です。ごめんなさい。でも、手紙のことは言っていませんので、これからも手紙を送ってもいいですか?
私はお見舞いに行けませんが、おばあはんとお姐はんらが、病院に行けるように、おかあはんが手配してくれました。
みいんな、すごいお人ばっかりどすえ。三味線のお人と、小鼓のお人は、私のお師匠はんです。笛のお人は、今度のお家元の……
…………
佐和子お祖母様が、お舞台が観れないことをとても残念がっていらっしゃるということなので、きっと喜んでくださると思います。
手術が成功するように、神楽を舞うてくれはると聞いています。おばあはんのお舞も、お姐はんらの演奏もとてもすごいので、絶対に良くなります。
…………
…………
約束していたお守りを同封します。
直接渡したかったけれど、おばあはんに渡して貰うんやったら、ご利やくも薄くならへんと思います。去年のお守りは、おばあはんにあずけてください。
紅椿にお使い頼むて、ものすごいことどすえ。ちょっと、怖いぐらい。
本当に急で、ごめんなさい。
でも、大会が近いと聞いています。会えなかったけれど、そのぶん、テニスの練習をたくさんしてください。
きっと、絶対、大丈夫ですから、がんばってください。
私はなんにもできませんが、本当に、応援しています。
佐和子おばあさまに、よろしくお伝え下さい。
また、お手紙を書きます。
紅梅より。
いつもの、ほんのり薄紅色がかった白い便箋に書かれた文章には、手紙では使わないように心がけているという京ことばが、頻繁に登場していた。
ところどころの文章も、思ったままの単語を繋げた感じで、いつもの流れるような調子はあまりない。そんな文面から、この手紙を急いで書いたことがよくわかる。
そして、住所や切手、消印のない封筒と、その話し口調の文章が、
紅梅からの直接のものだという感を強めている気もして、弦一郎は数度手紙を読み返す。
便箋を抜いてもまだ膨らみのある封筒を逆さにすると、真新しい、黒い守り袋が、弦一郎の手にぽとりと落ちた。
しばらく手紙とお守りを見つめていた弦一郎だったが、やがて背負っていたテニスバッグを前に抱えると、括りつけていたお守りを丁寧に外す。
去年のお守りは、一年間、散々試合と練習に付き合っただけあって、所々ほつれている。おそらくは、汗や埃も吸っているだろう。
「……あの」
弦一郎が恐る恐るといった様相で差し出したお守りを、紅椿は指先で摘み上げるようにして受け取った。「まったく、このアテを使い走りに」と扇の向こうで呟いた声は恐ろしく意地が悪かったが、その目は狐のように笑っていた。
「それにしても、あんたはん、あないな顔もしよるんやねえ」
もっと猪かと思うとった、と、守袋を目の前に指先でぶら下げながら、紅椿は言った。その言葉に、弦一郎はぴくりと肩を震わせる。
黒い帽子に陰ったその表情は、先ほど佐和子に見せた爽やかさなど微塵もなかった。思い切り顰めた眉、強張った頬。噛み締めた唇を、更に強く噛み締める。
── 本当は。
本当は、どうして来れないのか、と叫びたかった。
しかしせっかく元気になった祖母に余計な心配など一欠片とてかけたくないし、そうなってしまえば、何もかもが無駄になる。
だから弦一郎は、笑った。
生まれて初めての作り笑いでもって、なんでもないように振舞った。
そして、そもそも、弦一郎は散々思っていたはずなのだ。
「なぜ今来るのだ」と、理不尽に思っていたはずだった。
自分で約束したことであり、確かに大事な約束であるけれど、
紅梅を優先順位の一番下にしていた。元々
紅梅がこちらに来ても、彼女を放って、祖母の所へ行くつもりだった。
だから己には、機嫌を悪くする資格など無い。
弦一郎は、ここしばらく抱えていた鬱屈とはまた違う、息苦しくなるほどにもやもやとした気持ちを押し込めるように、帽子を深くかぶり直した。
大会が近いのに殆どまともに練習できていないことを言いたくなかったので、弦一郎は、
紅梅への手紙にそのことを書いていない。
それなのに「大会が近いと聞いている」ということは、おそらく祖母との手紙のやり取りで、知ったのだろう。弦一郎が、テニスの練習を放り出していることを。
そして、彼女は、「会えなかった分、テニスの練習をたくさんしてください」と続けている。「きっと、絶対、大丈夫だから」と。
だが、紅椿に“見舞い”をしてくれるよう頼んだことや、罰として稽古事を増やされたこと、そのためにただでさえ少ない休みが台無しになってしまったことなどは、文句どころかその事自体、ひとつも書いていなかった。
あるのはいつも通り、ただただ弦一郎を案じ、気遣い、労い、心配する言葉、押し付けがましくないささやかな提案、そして励まし。
── 私はなんにもできませんが、本当に、応援しています。
手紙の最後に書かれたそのひとことに、弦一郎は眉間の皺を更に深くした。
確かに、祖母に直接元気を与えたのは、紅椿の舞だ。しかしそうさせたのは
紅梅で、その代償をかぶることになったのも
紅梅である。
一番何もできていないのは、彼女ではない。──自分だ。
「……電話は、できませんか」
数日間の長いスパンを必要とする、手紙というやり取りの穏やかさを、弦一郎は心地良く思っていた。しかし今、弦一郎は、たまらなくもどかしい気持ちを持て余している。
今すぐ、──今すぐ、直接伝えたい。
「
紅梅に、」
「あきまへん」
少年の焦燥に満ちた懇願を、老女はぴしゃりと跳ね除けた。
「芸姑は、特に仕込みと舞妓は、電話やらメールやらしたらあきまへん」
為来りや、と言う紅椿の言葉は、本当である。
古都の伝統、古き良き日本を体現する生きた文化として存在する彼女らは、そのまさに浮世離れした世界観を守るため、現代的なものを身につけたり使用したりしてはいけない、という自主的な習わしがある。
具体的には、携帯電話を持ってはいけない、チェーン店など、特にファストフード店に入ってはいけない、現代を思わせる電器店なども禁止、などが多い。
屋形によって方針や程度は違うが、紅椿と
紅梅が身を置く『花さと』は、殊の外伝統を重んじて厳しい。
舞妓・芸姑の“なり”をしていないプライベートなら自由にしてもよい、という屋形も割りとあるが、『花さと』では、オフもオンも関係なく、厳しい掟を課せられる。
携帯電話などももってのほかで、屋形に備え付けの電話であっても使えるのは家族との連絡のみ。経営の全てを担い、芸姑たちのスケジュールを管理する女将だけが、外部の客と仕事の話をするために、店の代表電話を使う。
このご時世、携帯電話も持たずにとも思うが、基本的に京都市内、しかも大概は自分の花街でのみ仕事をする上、茶屋や料亭などとも横の繋がりが強いため、連絡には困らないし、防犯上も特に問題がない。
狭い範囲の特殊な環境での商売だからこそ、こういった、昔ながらのアナログなやり方が成り立つのである。
そして特に連絡をとることを敬遠されているのが、家族ではない男性だ。
芸姑・舞妓が暮らす寮でもある置屋も、ごく近しい関係者以外は完全に男子禁制となっている。
「あんたはんはまだ子供かもしらんけど、よその男はんやからなァ」
パチンと閉じた黒骨の扇の先で、紅椿は弦一郎の帽子の鍔を掬い上げる。現れた表情は、眉が限界まで顰められ、口がへの字になった、非常に不服そうなものだった。
しかし反して、紅椿の表情は先ほどからにやにやと面白がっているようにさえ見える。
弦一郎はその表情にむっとして何か言おうとしたが、タクシーを手配して戻ってきた弦右衛門によって、それは断ち切られた。
紅椿が行ってしまったあと、弦一郎は祖父と兄、義姉とともに、病院の近くの定食屋で、早めの夕飯を食べた。
台所を一人で回していた佐和子が倒れてからというもの、米を炊くのも一苦労といういっそ稀有な人材揃いの真田家は、めっきり惣菜と外食産業の世話になっていて、それも真田家の雰囲気を疲れたものにさせている一因でもあった。
しかし、今日の出来事のおかげで、テーブル席はにわかに明るい。──弦一郎以外は。
真田家一同、この日の出来事にいたく感激し、感謝し、この時ばかりは真田家名義で、きちんとした礼状をすぐにしたためた。
「来年、
紅梅ちゃんがうちに来たら、うんと饗しましょう」
仕事から帰ってきて、今日起きた話を聞いた母の諏訪子は、珍しくも涙ぐみながらそう言った。
弦一郎は、「はい、母上」と、なるべく明るく受け答えた。
拳を、ぎゅっと握りしめながら。