心に孝行ある時は忠節厚し
(三)
弦ちゃんへ

佐和子おばあさまのこと、とても心配です。
突然でとてもびっくりしましたが、弦ちゃんたちはもっとびっくりしたと思います。なんにもできませんが、天神はんに、たくさんお願いしておきます。どうか、早く良くなりますように。

 …………

佐和子おばあさまの病気のことだけ、おばあはんに伝えました。
おばあはんといっしょに、お手紙とお花を送りました。

 …………

病は気からといいますので、佐和子おばあさまの元気が出るように、きれいなものをさしあげたり、うれしかったり、楽しかったりするお話をしてさしあげると、とてもいいと思います。
突然たおれたのなら、突然なおっても、おかしくないと思います。

 …………

弦ちゃんも、かぜを引かないように、くれぐれも気をつけてください。

紅梅より。



 弦一郎の祖母、佐和子が倒れたのは、春も終わりかけ、夏の気配がする頃であった。

 元々佐和子はさほど身体が丈夫な方ではなく、子供が一人娘のみというのも、それが理由だ。
 しかし病気やけがにさえ気をつけていれば健康を維持できていたし、ここ数年は風邪すらひいていなかったので、家族一同、少々油断をしていたところはあるだろう。
 由利という嫁が来て一番喜んでいたのは佐和子であったし、張り切りすぎた、と最初は本人も周りも笑っていたのだが、なかなか戻らない体調は違う不調を呼び込み、さらには水面下で病気が発症していたことがわかり、ついに入院を余儀なくされた。

 自分自身を含め、身体の丈夫さに恵まれた家族を持つ弦一郎にとって、祖母の入院はとても衝撃的な出来事だった。



「弦一郎、あなた、大会が近いのではないの」
 相変わらずテニスの練習を切り上げて病室にやってくる孫に、佐和子は苦笑して言った。
「おばあさまのほうが大事です」
「あら、まあ」
 頑なに言う弦一郎に、佐和子は「嬉しいことですけど、ねえ」と弦一郎の頭を撫でる。
 その手は、倒れる前より一回り細くなったように感じられた。

「それより、手紙を持って来ました」
 話題を誤魔化すように、弦一郎はそっと封筒を出す。
 すると、祖母は今までの苦笑を吹き飛ばすような表情で、嬉しそうにそれを受け取ったので、弦一郎もつられて微笑んだ。

 弦一郎は学校が終わったあと、すぐにテニススクールに通って、時間ぎりぎりまで練習する。
 しかし祖母が入院してからというもの、テニスも剣道も早めに練習を切り上げ、祖母の見舞いのために病院へ足を運ぶようになった。
 その手にあるのは、家や図書館から持ってきた、祖母が好きな浮世絵の画集であったり、精市から分けてもらった花であったり、また紅梅から届いた、佐和子宛の手紙であったりした。

 佐和子が倒れてから、紅梅は弦一郎への手紙の中に、佐和子宛の手紙も入れるようになった。入院中の身を慮って返信を求めない手紙は、手紙というより見舞状に近い。

「まあ、すてき。いい香りねえ」
 今回の手紙の間に挟まっていたのは、友禅柄の美麗な千代紙で折られた鶴。
 平べったく畳まれた翼を両手の指でつまんで開くと、弦一郎の鼻にも、ふわりと香りが漂ってきた。香を焚き染めた折り鶴である。

 紅梅の手紙には、こういった風に、手紙以外の小さな贈り物がよく入っていた。
 それらはどれも子供らしく素朴で、封筒に入るだけの小さなものだったが、どれも手間と真心がこもっていて、佐和子は、それをとても喜んだ。
 折り紙は定番だったが、季節の花の花びらを伸したものが手紙と一緒に出てきて、ベッドの上にはらはらと散ったこともある。
 だから病室のベッドサイドの机の上には、小さな硝子の小皿に入れられた花びらや、僅かな香りを放つ折り紙がささやかに並べられた。そして花びらが茶色くなる前、折り紙の香りが無くなってしまう前に、必ず次のものが届けられる。

 紅梅からの手紙を渡す度にこのように喜ぶ祖母の様子、そして手紙を渡すという名目で堂々と見舞いに来れることを、弦一郎もありがたく思っていた。

「今年も来て下さるのねえ。良かったわ」
 紅梅からの手紙をにこにこと読んでいた佐和子は、頷きながら言った。
「お舞台が観れないのが、本当に残念だけれど……。おばあさまの代わりに、見てきてちょうだい。ね、弦一郎」
「……はい」
 あんなに楽しみにしている毎年の舞の舞台も、佐和子は今年見ることができない。弦一郎は、重々しく頷いた。
「それと、おちゃんが来たら、おばあさまのところばかり来ずに、ちゃんと相手をしてあげるのですよ」
「……はい」
「あなたねえ」
 あまり芳しくない反応の弦一郎に、はあ、と、佐和子は今度こそ重いため息をついた。

 体育会系、をもはや通り越して軍隊式とも言えるような教育を受けているからか、元々の性格もあるのか、弦一郎は自分の中での優先順位をきっぱりとつけてしまう所がある。

 弦一郎の中で、同時に二つ以上のものが並び立つことはない。
 いざという時にどちらを優先するのかがはっきりと決まっていて、そしてそれが覆ることも、ほぼ無い。
 下位のもののことを確かに大事に思っていても、それより上位のもののためには、顰めっ面をしつつも、下位のものをざっくりと切り捨てることを躊躇わない。
 だからこそ、心の底からテニスが上手くなりたいと願い、いつもは血反吐を吐くような練習をしているというのに、弦一郎はテニスを放り出して、こうして病院にやって来る。
 そして、紅梅が神奈川に来ても、弦一郎はきっぱり紅梅を放って、佐和子の元へ駆けつけるだろう。

 弦一郎は他人に厳しく、己自身にはもっと厳しい性格だ。
 だから、「大変だろう」「つらいだろう」とあくまで純粋に気遣われたとしても、「そんなことはない」と突っぱね、更なる鍛錬に精を出す。
 それは確かに称賛すべき行動であるが、周りに心配をかけるものでもあった。
 真田家一同は似たもの同士な所がある故にそれをよくわかっており、休むのも仕事のうちだ、と言い聞かせることで弦一郎を上手く誘導することに長けているのだが、同時に、根本的な解決にもなっていない。

 だが実は、弦一郎は唯一、紅梅との手紙においてのみ、異なる反応を示していた。

 というより、本人がそうしようとしてそうなったのではなく、“手紙”というコミュニケーション方法が、自然にそうさせたのだ。
 例えば、面と向かって「大変でしょう」と言われたら、弦一郎は即座に「そんなことはない」「甘く見るな」などと反応する。
 しかし紅梅とのやりとりは、手紙だ。つまり、数日のスパン、タイムラグがある。「大変でしょう」と手紙に書いてあったとしても、すぐに言い返すことはできない。
 その上、どこで誰が聞いているかもわからない直の会話と違い、手紙はお互いにしか内容が知られることがない。

 数日をかけて書かれ、届けられる手紙。
 その封を開け、畳まれた便箋を取りだし、己だけに向けられた言葉が丁寧に書かれた文字を、一人でゆっくりと読む。
 このスローペースなやり方は、弦一郎の心のどこかを満たし、張り詰めた空気や、余分な力を抜けさせた。
 気遣いや労い、心配する言葉。普段は突っぱねてしまうそれらを、便箋に書かれたものでのみ、弦一郎は素直に受け入れることができたのだ。

 最初はむっとして、紅梅からの言葉を否定する返事を書こうとしたこともある。
 しかし、自分に向けられた文章を時に繰り返しじっくりと読み、その返事を、時間をかけて言葉を選び、文章という具体的な形にする過程で、弦一郎は否定の返事を、自らぐしゃりと丸めて捨てた。

 将来舞妓・芸姑になるための教養を積んでいるため、古都の中でも最も伝統的な暮らしを送る紅梅の手紙は、優美な季節感に溢れ、また現代での暮らしでは触れられない事柄が細かく描かれ、拙い子供の手であっても──いやだからこそ珍しいともいえ、なかなかに読み応えがある。
 入院したことで、紅梅からの手紙を受け取った佐和子は、「弦一郎、あなた、いつもこんな風流な手紙をやり取りしてるの?」と驚いたほどだ。
 そして、そんな手紙の返事を書くために、弦一郎もまた、季節の移り変わりを示すものや、周囲のものごとに目を向ける癖が付きはじめていることに気付いた佐和子は、しきりに感心し、あなた達の文通をお膳立てして良かった、と喜んだ。

 そんなふうなので、普段、何事にも険しく厳しく、苛烈でさえある心持ちで物事に挑む弦一郎にとって、紅梅からの手紙を読み、その返事を書くためのひとりの時間は、ほとんど唯一、静かで、穏やかなひとときだった。

 互いの祖母たちしか知らない、秘密のやり取り。
 ふたりが年に数十通の手紙を途切れることなく送り合うようになって、もう二年になる。

 そして、佐和子が倒れてからというもの、紅梅は以前よりもマメに手紙を書き、佐和子への手紙を同封し、弦一郎に対しても、気遣う言葉を多くしたためてくる。
 まず佐和子の病状に関すること、見舞いのためにテニスをする時間が減っていること、そしてそれに関する弦一郎の心情への心配と、労い、励ましの言葉。時折、決して押し付けがましくない程度の、ささやかな提案。

 元々、紅梅の手紙は、自分のことを書くよりも弦一郎のことを聞いたり、弦一郎が寄越した手紙の内容についてのコメントのほうが多い。
 だが佐和子が倒れてからというもの、それはいっそう顕著になっていた。弦一郎はそのことを確かに嬉しく思っており、感謝を感じ、救われた気さえしている。

 そんな紅梅のことを、弦一郎は決して蔑ろにしたいと思ってはいない。
 むしろ自分にとって特別近しく密やかな存在として認識しているし、佐和子のことも含め、数々の気遣いや好意を向けてくれることに、常々深い感謝を抱いている。
 しかしやはり、弦一郎の中でのトップダウン方式の順序は、決して覆らないのだ。

 その様は潔くもあったが、幼いがゆえの余裕の無さと、また生来の不器用さの裏返しであることも明らかで、潔さが過ぎるあまりに、痛々しくもある。
 そして、傍から見れば非常に残酷に感じられるその決断力は、もしかすると組織の中では頼れるものとなるかもしれないが、同時に多くの個人的反感を買い、不要な敵を作ることも想像に難くない。

 おそらく、弦一郎の兄・信一郎も、そのことを強く心配している一人である、ということも、家族の精神面を常に把握する祖母は気付いていた。

「もっと、力を抜いて。──器の大きい人にならなければね」

 そう言って優しく頭を撫でてくる皺だらけの薄い手に、弦一郎はぐっと唇を噛み締めて俯いた。
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BY 餡子郎
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