翌日、あっという間に公演の日である。
今年は代理ではなく、本来の招待者である父、信太郎が車を運転し、会場へ向かった。日舞や歌舞伎は彼の趣味ではないが、職業柄、そして性格柄知識が深い信太郎は、
上杉紅椿の名とその肩書は知っていて、それなりに楽しみにしているようだった。
演目は、変化物の、『六歌仙』。
変化物とは、ひとりの舞手が、違った役柄をそれぞれ扮装をかえて舞い分ける演目のことだ。
通常、変化物は、小説の短篇集のように、一貫性のないいくつかの短い演目を寄せ集めたもの、という雰囲気が普通だ。しかし『六歌仙』は、その題名の通り六つの場面と役柄が、はっきりとしたストーリーで繋がっている。
『六歌仙』は、平安朝の六人の歌人をそれぞれの主人公とし、日本三大美人にして歌人の一人・小野小町を巡り、他の五人が思いを唄い、しかしどの恋も成就しない、というものだ。
およそ一時間、今回の舞台も、それはそれはものすごい出来であった。
前回の道明寺のような派手な演出がないのにもかかわらず、眠くなるどころか、目が乾いて痛いぐらいだ。
上杉紅椿は、『天衣無縫』と称されている、と改めて聞いて、弦一郎は非常に納得した。
天衣無縫の語源は、天の人の衣服には縫い目がない、という中国の故事にある。転じて、技巧の痕跡が見あたらず、自然で、天真爛漫にして完全無欠であることを指す。
つまり人間技ではないと思えるほど完璧である、ということならば、これほどあの老女の舞にふさわしい言葉も無いだろう、と弦一郎は考える。
上杉紅椿は人間国宝の肩書きを持つ舞踊家であるが、現役の芸姑でもある。
京舞、女舞を基本とする芸姑が男を演じるのはなかなかに珍しく、そこも見どころであった。男だの女だの、全く気にならなくなる、という点で。
そしてその様は、確かに天衣無縫に他ならなかった。
六人の歌人を見事に演じきった人間国宝を観客たちは絶賛したが、本人の大妖怪っぷりをとくと知っている弦一郎としては、よくも見事に“化けて”いらっしゃったことで、とでも言いたいところである。──おそらく、称賛にしかならないが。
「弦ちゃん」
客席からぞろぞろと観客が捌けて、弦一郎たちもロビーに出た時。すぐ後ろからかけられた声に、弦一郎は振り向いた。
「何だ?」
「ちょお
*ちょっと、こっち来て」
ちらりと大人たちの様子を伺うと、先ほどの舞台について熱心に話をしているようで、子供二人については、さほど大きく気を払っていない。
紅梅もまたそんな大人たちの様子を伺うような動きを見せつつ、ロビーに展示されたブロンズのオブジェ──去年、弦一郎が身を隠したオブジェの辺りまで、弦一郎を連れてきた。
いなくなった、と言われない程度。大人たちの目の届く範囲だが、話し声は聞こえない、くらいの距離である。
「手ぇ、出して」
首を傾げつつも、言われた通りに手を出す。
すると
紅梅は拳のままだった弦一郎の手を広げると、その手の中に何か小さいものを入れ、また握らせた。感触としては、滑らかだが少しざらついていて、平べったいもの。
だが弦一郎は、手の中の得体の知れないものの感触が、すぐに気にならなくなった。それを握った弦一郎の手を、今度は
紅梅が、両手で包むようにして握ったからだ。
紅梅はそのまま目を閉じて、「ご利益、ありますように」と呟き、手を離した。
「……何、だ?」
「それ、あげる」
いきなり手を握られた弦一郎はびっくりしたが、顔を上げた
紅梅の、まるで邪気のないにこにことした笑顔に毒気を抜かれ、とりあえず、手を開き、握らされたものを見た。
そこにあったのは、黒い、小さな布袋。──お守りだった。
左右にそれぞれ、梅花と松の図柄。その下に、的に向かって弓を引く、烏帽子を被った、諸肌脱ぎの平安的な貴人の姿が、金色をベースにした刺繍で描かれている。
そしてその中央には、同じく金色で『技芸上達守』という文字が刺繍され、上部分には、真っ白な飾り紐がついていた。
「なんかな、ひとりで買うてひとりで渡したほうがええて聞いたん」
このロビーの騒がしさなら普通に話しても聞こえないだろうが、
紅梅はわざわざ声を潜めて、こっそりとそう告げた。
なるほど、だからわざわざ大人たちから離れたらしい。
「北野の天神はんで貰てきたん」
「天神?」
「ええとな、菅原道真いう昔のお人」
「ああ、勉強の……」
兄が大学受験をする際、菅原道真の学業守は散々お目にかかったので、弦一郎もよく知っていた。ならば、刺繍されている貴人はその菅原道真公か、と弦一郎が尋ねれば、
紅梅は頷いた。
「お勉強の神様で有名やけど、北野の天神はんは、武芸と、スポーツと、あと書道とかの芸事やるんにもえらいご利益あらはるんやて。これは、それ用のお守り」
「へえ……」
弦一郎は、僅かに目を丸くする。
武芸、スポーツ、書道。──剣道とテニス、そして最近書道を始めた弦一郎には、ぴったりのご利益だ。
「弦ちゃん、ぴったりどすやろ」
今まさに思っていたことを言われ、お守りをしげしげと眺めながら、弦一郎は頷く。
「そやけど、お色が黒しか無うてな。他のお守りは赤とか青とか、紫とか、派手やったんやけど、そのお守りだけ黒どしたん」
「いや、黒が好きだから、これでいい。……ありがとう」
黒は、弦一郎が一番好きな色だ。
最初はぼんやりとただ好きで、何かと黒を選ぶだけだったが、祖父から「何色にも染まらない色」と聞いてから、なお好きになった。未熟さを誤魔化すことができない、全てを奪う力を持った、厳しい色。
そう思うと、この小さな布袋が、まるで自分のために誂えた特別なもののように思えてきて、弦一郎はじわじわと湧き上がる嬉しさを、緩む口元を引き締めて噛み殺した。
「ほんま? 良ォおしたわぁ」
満更でない反応の弦一郎にほっとした様子で、
紅梅が大きく微笑む。
「そしたら来年もそれ持ってくるさかい、古ぅなったんと交換しよ。うち、古いの持って帰って、天神はんに返してくるよって」
「えっ?」
お守りは、通常、一年ほど経ったら購入した神社に返し、焚き上げなどして貰うのが望ましい。
厳密な決まりではなく、あくまで気持ちの問題ではあるが、持ち主の代わりに吸い込んで溜まった厄が限界になるのが約一年、と言われているからだ。
兄の受験用に買ったお守りも、約一年後、合格後に返上して焚き上げてもらった。
だが、弦一郎が声を上げたのは、そこではない。
「──来年?」
ぽかん、と呆気にとられたように弦一郎が言うと、
紅梅は、うふふ、と悪戯っぽく、そして笑みを堪え切れない様子で、笑った。
「あんな、去年も今年もお客はんの入りがよろしおしたさかい、これから毎年、この公演しはるんやて」
「毎年?」
まだ目を丸くしたままの弦一郎に、うんっ、と、
紅梅は力強く頷く。
「毎年。──そんで、うちも毎年来てもええて」
紅梅は、満面の笑みで笑っている。
「本当か?」
「うん」
「来年も、来るのか」
「うん」
びっくりさそぉ思てな、と、
紅梅は歯を見せて笑った。
「そやから、また来年、テニスしてくれはる?」
急な血の巡りが起こすぴりぴりとした感触を感じながら、弦一郎は、背筋を伸ばした。
「ああ、──また、来年」
そのすぐ後、二人は大人たちに呼び寄せられた。
そして
紅梅は佐和子に連れられて、楽屋へ。人混みで遮られて見えなくなるその時まで、
紅梅は赤い袖を翻し、弦一郎に手を振っていた。
「……おばあさま、知っていたのですか」
帰り道、祖母と二人で後部座席に座った弦一郎は、こっそりと聞いてみた。
紅梅が来年、そしてその次の年もこちらに来るとはいえ、神奈川の真田の家に滞在することは、本来しなくてもいいことである。そしてそれはもちろん、
紅梅らの一存で決められる事ではない。
「ええ、びっくりさせようかと思って」
うふふ、と笑って
紅梅と同じ事を言った祖母に、弦一郎は「ありがとうございます」と、やはり小さく、しかし笑顔で礼を言った。
帰宅後、弦一郎はすぐに一人で部屋に駆け込み、ラケットバッグの紐の付け根の金具に、黒いお守りを括りつけた。
黒いラケットバッグに黒いお守りはよく馴染み、むしろひっそりと目立たないくらいだ。
しかし時折、金の錦の刺繍がちらりと光り、その存在を主張している。
弦一郎はその様子にいたく満足し、しばらく小さな輝きを眺めた。
- 心に物なき時は心広く体泰なり -
(腹に一物抱えていなければ、心は広く、身体も泰かである)
終