心に物なき時は心広く体泰なり
(二)
「──弦ちゃん!」
真田家の門から見える角から出てくるなり、ぶんぶんと大きく手を振ってきた紅梅に、弦一郎も手を振り返す。
今にも走り寄ってきそうな彼女を、もう一方の手を繋いだ佐和子が、苦笑しながら引き止めているようだ。
公演がある会場が比較的県境に近いとはいえ、新幹線を降り、去年のようにわざわざ神奈川の真田の家まで紅梅を送り届けてから再度東京方面に戻るのは手間──、ということで、東京駅まで迎えに出たのである。
紅梅を預けた紅椿は、そのままタクシーで会場へ向かった、とのことだ。
「お出迎えありがとう、弦一郎」
道着姿のまま、わざわざ門の前に出てきて待っていた弦一郎に、佐和子が微笑む。
「弦ちゃん、背ぇ伸びた?」
伏せた手のひらを自分の頭の辺りに持ってきて、紅梅が、弦一郎との身長差を測る。弦一郎は相変わらず、クラスで後ろから数えたほうが早い背丈だ。
同じく成長期の子供、紅梅も背は伸びているのだろう。しかしその背丈は、一年前に会った時と同じく、弦一郎よりも頭半分程低かった。
「お前は……髪が伸びたな」
顎より少し長いくらいのところで切りそろえられ、いかにも日本人形のようだった髪は、高い所でポニーテールにされ、縮緬のリボンが結ばれている。
「うちも背ぇは伸びたんえ?」
「はい、はい。おしゃべりはおうちの中でしなさいね」
佐和子は二人の背をそれぞれ片手ずつで押し、門の中へ促す。はぁいと元気よく返事をした二人は、双方草履であるにもかかわらず、転がるようにして真田家の敷地へ駆け込んでいった。
挨拶をしに家に上がり、昼食を摂ったあと。
紅梅はやはり和服しか持ってきていなかったが──曰く、“おかあはん”に見つかるととてもうるさいらしい──その代わり、真夏であることを理由に、吸水性のある肌襦袢と、涼し気な、風通しのよさそうな浴衣を着て、どうにか手に入れたらしい、汚れてもいい袴に着替えた。
運動靴は持ってきた、と胸を張る紅梅に、何を言わずともテニスをしようという空気になっているのをお互いに察し、庭に出る。去年よりは広く地面に枠線を引き、庭の木を使ってゴムひもを張った。
「ほら」
弦一郎が、ずいと紅梅の目の前に突き出したのは、去年も使った古いラケット。しかしグリップは真新しいテープが巻かれ、ガットも見るからにピンと張っている。
「ちゃんと使えるようにしておいた」
突き出されたラケットを、紅梅はぽかんとした顔で受け取った。
そして、弦一郎の顔とラケットを一往復たっぷり見比べ、
「──おおきに、弦ちゃん!」
ぱぁっ、と、破顔する。
その表情に、弦一郎は口元を引き結びつつ、大仰にうむと頷いた。
日舞のあの無理のある姿勢をピタリとキープする身体能力はなかなか侮れないようで、ろくに練習などしていないだろうに、去年教えたダブルのフォアストロークを、紅梅はすぐに再現してみせた。
加えて、シングルフォア、バックハンドを教えると、去年より複雑なラリーがこなせるようになる。“テニスのような遊び”だったものが、“テニスをして遊んでいる”くらいになっている、とは、兄の信一郎のコメントである。
「……えらい仲がいいのう?」
会うのは二回目、しかも一年ぶりだというのに、と、弦右衛門は首をひねった。
彼の孫と小さな客人は、薄暗くなるまでボールを打ち合い、今は書道の道具を広げ、一本の筆を交互に手渡し、ああだこうだと言いながら、半紙に字を書いている。
「馬が合ったんじゃありませんか」
ほほほ、と佐和子がにこにこ笑う。
紅梅と弦一郎が手紙のやり取りをしていることについては、結局、彼らの祖母たちしか知らない、“秘密”になっていた。
佐和子は約束通り誰にもこのことを言わず、封筒や便箋の提供をしたり、手紙の書き方や、紅梅のいる花街の知識などを細々と教えてくれたりする、弦一郎の一番の協力者であった。
紅梅の祖母は、どちらかというと、我関せず、という感じのようだが。
だが事情を知らない他の家族の目には、このふたりが一緒に過ごす様は、ひどく珍しく映った。
然もありなん、一番懐いている祖父ですら時に手を焼く頑固さを持ち、育ちの古風さからくる、年齢──いや時代に見合わない態度や言葉遣いをからかってくる学校の同級生とは散々喧嘩を繰り返し、一時は担任からの呼び出しが絶えなかった弦一郎である。
基本的に目上の者の言うことは聞くので、大方の教師受けはいい。
しかし喧嘩になるとその体格と運動神経で絶対に負けない上、正論すぎる正論しか言わないため、嫌われてはいないが敬遠され、もうほとんど畏れられているような状態だ。しかしある場面では非常に頼られることもあるので、いわば、孤高の番長のような扱いである。
本人もクラスメイトとはどうしても反りが合わないところがあるらしく、しかし精市を筆頭とするテニススクール生や、同じ厳しい稽古をこなす道場の同門生とは仲よくやっているので、何も気にしていないようだが。
そのような、小学三年生にして硬派道を突っ走っている末っ子が、今時珍しいほどの、いかにも可憐な“女の子”を体現したような少女と仲良く過ごしているというのを、真田家一同、甚だ意外に感じていたのである。
「女の子らしい女の子だから、じゃないですか?」
「うん?」
妻がこそこそと声を潜めて言った言葉に、弦右衛門が耳を傾ける。
「母親の諏訪子が“アレ”ですし、テニススクールにいる女の子も、まあどちらかというと格好良くて、勇ましい感じが多いでしょう」
「テニスなんて、いいとこのお嬢さんもよく習うんじゃないのか」
弦右衛門は、テニスには詳しくない。
プロともなればかなり厳しいスポーツである、というくらいの知識はあるのだが、避暑地のテニスコートなどで、裕福な人々が優雅に球を打ち合うようなイメージが先行しているようだ。
「弦一郎が行っているところは、将来的にプロを目指す子を受け入れているような本格的なところだから、あなたが言うような子はほとんどいないと思いますよ」
「ほう」
「ましてや道場に来てる女の子なんて、大概が諏訪子に憧れて来ているような類ですし」
弦右衛門と佐和子の一人娘にして信一郎と弦一郎の母・諏訪子は、現在剣道七段、更に陸上自衛隊に入隊し、教官を務めた女傑である。信一郎と弦一郎を産んだ時も、最低限の育児休暇で、すぐに現場へ戻っていった。
苛烈かつ竹を割ったような鉄火肌で、長身、かなり凛々しい男顔という容姿。若い頃から女天狗だの女武者だのと呼ばれ、同性から相当もて、今も変わらずもてている。真田家において、バレンタインのチョコレートの獲得数トップは、毎年だんとつでこの母だ。
だから、真田剣術道場に入門する者の動機は、範士称号を持ち、居合道の世界でも有名な弦右衛門に憧れて、というのが殆どであるが、女性の場合は、諏訪子を目指して門を叩く者が多いのだ。
そのような、女傑の星である諏訪子は、母としても相当に厳しい。
道理に見合わぬことをすれば裏拳での鉄拳制裁を用い、雷のような怒号を脳天に落とし、精進せよと素振り千本の罰則を課す。
現代に降臨した鬼子母神、いやいっそ母というよりは二人目の父親のような存在、真田家のフルメタル・ジャケット、それが真田諏訪子であった。
ちなみに、平手ではなく裏拳での制裁を用いる理由は、「有事の際、掌の痺れで装備を取り落とす等をしないため」という、教官時代に培った、非常に最前線的なものである。
「母親はああだし、テニススクールでもそういう系統の子ばかり見てるから、紅梅ちゃんのようないかにも女の子らしい子は、もういっそカルチャーショックに近かったんじゃないかしら」
「……ああ、わかる、それはわかるぞ。儂の母や叔母や姉たちも相当あれで……」
わかるぞ弦一郎、と軽く目頭を押さえる夫に、佐和子は苦笑した。
「何度も聞きましたよ、それは。私は女ですから、ああいう女性には憧れますけれど」
「そういうものだろうか。儂は、やはり女ならお前のようなのがいいよ」
「あら、ありがとうございます」
皺の刻まれた頬が僅かに染まる様が美しく、弦右衛門はでれっとした。佐和子は、炊事洗濯など完璧な良妻賢母であり、弦右衛門も相当な愛妻家として有名である。
「弦一郎自身、かなり母親似ですけど、人は自分と真逆なところがある人を気に入るといいますし」
それに、いかにも女の子らしくありながら、紅梅は弦一郎のやることに尻込みするどころか、積極的に興味を示す。
テニスはもちろんのこと、剣の稽古、書道。自分の好きなことに興味を持ってくれる者を嫌いになるというのは、あまりないだろう。しかも興味を持つだけでなく何かと感心し、褒め称え、質問し、さらにそれが、割りに可愛い女の子ならば。
「岡惚れにならんといいが」
協力して道具を片付けながら、お互いの書いた字を交換している小さな二人に和みつつも、弦右衛門は気遣わしげなため息を吐いた。
・『藩士』…武道における称号の最高位。「剣道範士」「柔術藩士」といった言い方をする。