心に物なき時は心広く体泰なり
(三)
翌日。
弦一郎が日課である朝四時起きの朝稽古をこなしている間、紅梅は佐和子と同じ時間に起きて、去年と同じく、朝食の支度を手伝った。
まだ小学三年生であるが、見習い修行の一環として料亭に出入りしているという紅梅は、去年より、そして料理オンチ揃いの真田家の面々より、はるかに有能な助手であった、と佐和子のコメントが発せられた。
朝食を食べたら、またテニスをして、疲れたら家に上がって、縁側で二人並んで冷やした西瓜を食べる。
その後は佐和子が育てている家庭菜園の畑でトマトなどの収穫を手伝い、弦一郎の剣の稽古を紅梅が見学し、昼食を摂り、またテニス。
夏休みとはいえ、大人たちにとっては平日ど真ん中だ。
よって、弦一郎と紅梅は、ほとんど二人っきりで過ごすこととなる。
しかし二人が退屈することはなく、むしろ時間が過ぎるのが、かなり早く感じられるほどであった。
そして、大学に顔を出していた信一郎が、夏の遅い陽がやっと暮れ始める頃に帰ってくると、待ちわびていた手持ち花火をする。
しかしそれでも物足りない元気いっぱいの子供二人は、家に上がると、また新しい遊びを探し始めるのだった。
── 金毘羅船々 追風に帆かけて しゅらしゅしゅしゅ
── まわれば 四国は 讃州 那珂の郡
── 象頭山 金毘羅大権現
三味線の音を伴奏にして、聞き覚えのあるようなないようなリズムのよい唄が、子供の高い声で歌われている。
公務員の特権として、いつも通り定時に帰宅した真田 信太郎──信一郎と弦一郎の父は、その声につられて、鞄も置かぬまま居間に顔を出す。
すると、黄色いテニスボールを挟んでそれぞれ斜に構えて座り、歌に合わせて交互にボールに手を出す長男と次男、そして三味線を持って二人の間に座る、京都からの客人である少女がいた。
「何をしているんだ?」
「あ!」
声をかけた拍子に、なにか手順を間違えたのか、掌を畳についた弦一郎が声を上げる。
ボールを持った手を引いている信一郎と、「信兄はんの勝ちー」とにこにこしている紅梅を前に、弦一郎が振り返った。
「父上、急に話しかけるから!」
「うん? ……何かわからんが、すまん」
のほほんと謝罪すると、僅かにむくれた顔の次男は毒気を抜かれたのか、きちんと父のほうを向いて姿勢を正す。
「……いえ。おかえりなさいませ」
「おかえりやすー」
小さい二人が頭を下げてそう言うのは、父の目にはなんとも可愛らしく映る。
微笑んで「ただいま」と返事をしつつ、信太郎は二人のそばに腰を下ろした。
「おかえり、父さん」
「ただいま。……で、何をしてたんだ?」
「お座敷遊びだよ」
ビシリと正座している小さい二人とは逆に悠々と胡座をかいている長男に問えば、そんな返事が返ってきた。
「こんぴらふねふね、っていう……」
「ああ、これが。聞いたことはあるが、どんな遊びなのかよく知らないな」
どういうのなんだ? と父が興味を示すと、大小の子供たちが口々に答える。
対戦する二人は向かい合って座り、お互いの手が届く中間地点間に、片手で掴める程度のもの──今はテニスボール──を置く。そして『金毘羅船々』の唄と三味線に合わせ、交互にボールに手の平を載せては引っ込める、これが基本である。
そしてボールの上に手を載せるとき、ボールを掴んで取っても良い。取ったときは次に戻す。中央にボールがあるときは出した手は開いておかねばならず、相手がボールをとっていて中央に無いときは、握った拳を出さなければならない。
交互に取ったり取られたり、取ると見せかけて取らなかったり、連続して取ったかと思ったら次は取らなかったりなどのフェイントを繰り返し、掌の出し方を間違えた方の負けである。
コツをつかめば簡単に見えるが、唄と三味線は次第にスピードが上がったり、長く続けば遅くなったりする仕様になっているので、リズムが狂ったのに釣られてしまうと、手元も狂う。
「割に反射神経が要るし、フェイントの駆け引きもあって、これがなかなか」
「ほほう。ちょっと父さんも混ぜてくれ」
やってみたい、と申し出た父に、信一郎が座布団の席を譲る。
もう一度ルールを確認してから、紅梅が糸を巻き直し、右手と膝だけで器用に三味線を抱えた。ぺんぺん、と軽く弾いたのを合図に、信太郎と弦一郎、父子の対決である。
── 金毘羅船々 追風に帆かけて しゅらしゅしゅしゅ
── まわれば 四国は 讃州 那珂の郡
── 象頭山 金毘羅大権現
とん、とん、とん、とん、と、二人が交互にボールに手を置く。
── 一度まわれば 金毘羅み山の 青葉のかげから きらららら
── 金の御幣の 光がちょいさしゃ 海山雲霧 晴れわたる
さっ、と信太郎がボールを取った。弦一郎が拳を置き、引っ込め、次に置かれたボールに、今度は手のひらを置く。
── 一度まわれば 金毘羅石段 桜の真盛り きらららら
── 振袖島田が さと上る 裾には降りくる 花の雲
── 一度まわれば 阿波の殿様 蜂須賀さまだよ しゅらしゅしゅしゅ
── 私ゃあなたの そばそばそばだよ ほんとに 金毘羅大権現
── 一度まわれば お宮は金毘羅 船神さまだよ きらららら
── 時化でも無事だよ 雪洞ゃ明るい 錨を下して 遊ばんせ
── 一度まわれば……
「あ!」
唄がかなりのスピードになった頃、弦一郎が声を上げた。黄色いボールの上に置かれた彼の手は、握られてしまっている。唄を止めた紅梅が、ぺんぺん、と三味線を鳴らした。
「おじさまの勝ちやなあ」
「くっ……」
いかにもボールを握るぞと曲げた指にまんまと騙された弦一郎は、悔しそうに唸り、膝の上で拳を握った。そんな弟の様子に、信一郎が苦笑する。
「容赦無いな、父さん」
「だって、手加減すると怒るだろう、弦一郎は」
はっはっは、と笑いながら、信太郎はゆったりと立ち上がった。
「うーん、もうすぐご飯かな」
「父上、もう一回!」
立ち上がった父に縋りつくように、弦一郎は言った。信太郎はそんな息子を見下ろし、目を細める。
「いやあ、お前は負けず嫌いだなあ」
「もう一回!」
「お母さんそっくりだね。ああ、かわいいかわいい」
「もう、一回!」
縋ってくる弦一郎を半ば引きずりつつも無視してただ頭を撫で回し、朗らかにややずれたことをのたまう信太郎を、紅梅と信一郎が見遣る。
この父は、和やかな性格と入婿であることからいまいち影が薄く、よって立場が弱いのかと思われがちだ。
しかしあの女天狗だの女武者だのと呼ばれる苛烈な嫁と結婚し、戦国武将の如き豪快な養父の家に入ってきてなおマイペースにおっとり過ごしているわけで、実のところ、相当肝が太い人物である。
それは、彼が真田家で唯一、──いや世界で唯一、あの真田諏訪子に対し、「僕の妻が一番きれいでかわいい」とのたまう愛妻家であり、その妻そっくりの次男を猫っかわいがりしていることからも、容易に読み取れるだろう。
それが彼が単なる物好きだからなのか、それとも妻を上回り御すだけの何かがあるからなのかは、誰にもわからない。
ちなみに、真田信太郎、彼の職業は、公務員。
神奈川が誇る防衛大学校卒、現在防衛庁に勤務する、キャリア組自衛官である。中学から大学までテニス部に所属し、インターハイにも出場。当時はそれなりに名の知れた選手であったという。
──弦一郎は、この父に勧められて、テニスを始めた。
「久々に弦一郎と遊んだなあ」
ははは、と朗らかに笑いながら、信太郎は息子を引きずって居間を出て行く。
空気を読んだ紅梅が、静かに三味線を片付け始めた。