心に我儘なき時は愛敬失わず
(九)
「お梅ちゃん、お願いがあるのだけれど……」
この縁日の主催のひとつが、この町内の奥様方で構成される婦人会で、弦一郎の祖母である佐和子は、その中でもリーダー格の一人だ。
そしてこの婦人会が担当するのがこの縁日での盆踊りであるらしいのだが、振付があまり浸透しておらず、更にそれが子供たちの羞恥心を誘ってしまったようで、参加者が大人ばかりになってしまい困っている、との事だった。
もちろん大人の参加も大歓迎なのだが、防犯上、大人の参加で子供たちから目が離れてしまうのがよろしくない、というのが一番の問題点のようだった。
「それで、あの櫓の上で、お手本として踊ってくれないかしら?」
佐和子は、敷地の真ん中に組まれた、紅白の櫓を指差した。和太鼓の演者と年配めの浴衣の婦人が立っているが、なるほど、周りにいるはずの参加者の数はあまり芳しくない。
「ね、今から振り付け教えるから」
小さな子供、しかも女の子が率先して踊っていれば、他の子供達も参加しやすいだろう、というのが、婦人会の奥様方が出した結論らしい。
「……他にいないんですか、おばあさま」
弦一郎は、怪訝な顔で進言した。
地元の子供達で溢れかえっているここで、わざわざ他所から来ている紅梅がやるのもおかしな気がしたというのもあるし、昼間、もう一差舞えと言われて俯いていた紅梅の姿を見ていたからかもしれない。
「それがね、京都からとってもかわいい舞妓ちゃんのタマゴの子を預かってるって、うっかり自慢してしまったのよね」
「おばあさま……」
てへ、とでもいうような表情で言う祖母に、弦一郎は肩を落とした。
「とっても日舞が上手なのよって言ったら、みなさん是非にっていう流れになってしまって。ね、紅梅ちゃん、おねがい! おばあさまを助けると思って!」
高眼の前にしゃがみ込み、手を合わせて言った佐和子に紅梅はきょとんとしていたが、やがておずおずと口を開いた。
「……へぇ、だいじおへん*はい、構いません(支障ありません)」
小さな口から漏れだした京ことばに、ご婦人方が小さくはしゃぐ。
「良かったわ、ありがとう!」
その言葉とともに、紅梅はあっという間に、攫われるようにしてご婦人方の集団に引きこまれてしまう。
間際に預けられた、紅梅の分のお菓子の袋を受け止めた弦一郎は、怒涛の展開にぽかんとしていたが、やがて小さくため息を吐いた。
「……真田のおばあさん、うちのお母さんとノリが似てるよ」
「そうか……」
横でなるべく目立たないように立っていた精市は、いつの間にか、また顔をお面で隠している。──何やら、危機感を感じたらしい。
そしてその対処は多分間違っていない、と、紅梅を囲み、振り付けを教えつつも、着ている浴衣や言葉遣い、日舞についてなど、次から次に質問攻めにしているご婦人方の群れを見て、二人は顔を見合わせた。
そして、約、十五分後。
小さな金魚のような浴衣姿の少女が、櫓の上に立っていた。
見本として踊るのはさすがに紅梅一人だけではなく、揃いの浴衣を着た婦人会の女性たちも数人いる。しかしやはり子供一人だけというのはかなり目立ち、それだけでも、人々の注目を集め始めていた。
さあ始めますよ、と、司会がマイクを通して宣言する。
その時、弦一郎は、紅梅の背筋がぴしりと伸びたのに気づく。しかしそれは緊張からというわけではない、ということにも。
その雰囲気は、まるで剣道の試合を始める構えの時にも似ていた。
──音楽が、鳴る。
「……なんだか、すごく上手くない?」
精市が言った言葉に、弦一郎は返事をしなかった。──が、全くの同意だった。
弦一郎の印象では、この盆踊りの振り付けは、少し難しい。よく見る、パンと手を叩いて前に伸ばすだけといったような単純なものではなく、団扇を使った数種の動きがあり、足取りもただ前に一歩ずつ進む、というものではなかった。この振付も、人が集まらない要因であろう。
しかし、後ろの婦人たちの振り付けがばっちりなのはもちろんだが、十分そこら前に初めて振り付けを覚えたはずの紅梅も、全く振り付けに危なげがない。
──どう下手なんだ? 振り付けを間違えた?
──それは大丈夫え
なるほど、あの言葉は本当だったようだ、と弦一郎は納得する。
だが「上手い」と評するポイントは、それだけではなかった。
(……何が、違う?)
後ろの婦人たちの動きと比べ、紅梅の動きが違うことは、一目瞭然。しかし不思議なことに、どこがどう違うのか、具体的にわからない。
弦一郎は、紅梅の舞を見た時、上手いのか下手なのかもわからなかった。
だが今、他のものと並んで同じ踊りをしているところを見て、おそらく普通よりは上手いのだろう、ということを理解した。しかしやはり、どこがどう違うのかはよくわからない。
「まあ、まあ、やっぱり上手ねえ」
櫓の上で踊る紅梅を見て、佐和子がにこにことそう言った。
「おばあさま、……紅梅は、上手いんですか?」
弦一郎は振り返り、思い切って質問してみた。
今はしていないが、この祖母も昔は日舞をやっていたので、本当に手放しで褒めているだけではなかろう、と思ったのだ。
「あらあ、もちろんよ。ほら、お膝を見てごらんなさい」
言われ、弦一郎、そして精市は、踊る紅梅たちの膝に注目した。
「……膝、曲げていますか?」
浴衣が脚の形をわかりづらくさせていて気づかなかったが、紅梅は膝を軽く曲げた、いわゆる中腰の状態で踊っているが、婦人がたは普通に膝を伸ばして立った状態で踊っている。
弦一郎が言うと、そうよ、と佐和子は頷いた。
「お膝を曲げて、内股。これが日舞の基本の格好。でもこれ、とても大変なのよ。やってごらん」
精市と二人で言われたとおりにしてみたが、なるほど、つらい。
だが、しゃがみかけて止まったような、空気椅子の格好をした精市が、いや練習すれば出来そうだよ、と勝気に言う。
なぜならその姿勢は、テニスでラケットを持って構えるときの姿勢と似ているからだ。
足を肩幅以上に開き、つま先も外に向けてしっかりと腰を据えるテニスの構えとは真逆に、殆ど足を開いてはいけないことと、内股を保たなければいけないことがネックではあるが、出来ない姿勢ではない。──と精市が言うと、しかし、佐和子はふふんと鼻を鳴らして笑った。
「膝を曲げると、上半身が前に倒れて、おしりを突き出すような格好になるでしょう?」
その通りだったので、弦一郎と精市は頷いた。
「でも、日舞はそれをしちゃいけないの。屈んじゃいけないどころか、そのまま後ろに体を逸らす振付だってよくあるわ。もちろん、お膝はずっと同じ角度で曲げておくのよ。プルプル震えたり、がに股になって踏ん張ったり、手でバランスをとったりしてもだめ」
「うわ!」
実践を試みた精市が、後ろにひっくり返りそうになる。
「無理だよ、これ!」
「ほほほ」
体勢を整えながら叫んだ精市に、佐和子が笑う。
「やってみるとよくわかるけれど、日舞は膝や腰にとても負担がかかるの。私も腰を痛めそうになってしまって、それでやめてしまったけれどね」
弦一郎は、思わず、櫓の上の紅梅をもう一度見た。
本当に、紅梅は膝を曲げたまま──そして上半身を前に倒すことなく踊っている。
そして弦一郎は、言われるまで、そのことに全く気づかなかったのだ。実際やってみれば、こんなにも無理のある格好だったというのに。
どうも、日舞というものは、それなりのボディバランスの良さがないと“上手”になれないものであるようだ。
そう理解した弦一郎がいま思い浮かべているのは、動きにくい格好でも一度も転ばず縦横無尽に走り、無理のある体勢でも必ずラケットにボールを当てていた紅梅の姿であった。
「あとは、そうね。お梅ちゃん、全然止まってないでしょう」
「止まってない?」
膝の時は割とすぐ気づいたが、今度の言葉の意味はよくわからず、弦一郎は目を眇める。そんな風に見ても、何が変わるわけではないのだが。
「本当だ。他の人は、ピタッ、て止まるのに」
そして弦一郎が首を傾げていると、精市がそう指摘した。
例えば盆踊り定番の、手を突き出す動き。婦人がたは突き出した手をピタッと空中で止めて──リズムを取ってから戻すのだが、紅梅はそうではないのだと。
「そう、よく気付きましたね。あれは日舞、というよりはあの子の流派の特徴なのだけど」
いわゆる“ダンス”では、ピタリと動きを止めるという動作が、「キレを出す」という目的の上で、とても重要である。
しかし紅梅の動きはそれとは真逆で、常にゆるゆると動いている。そして注目すれば、それは明らかに意図的なものだった。時々止まることもあるのだが、その間に、実は反対の手や、足、首などが動いていたりする。
「ああして常に動いているから、瞬きする間にもう姿が変わってしまうの。……なんだか、ずっと見てしまうでしょう?」
動物は、動くものを追って見る習性があり、それは人間も例外ではない。よって一度でも瞬きをすると追えない動きが出てくると、気になっていつまでも見てしまう、という効果も狙っている。
「リズムを取ったり、メリハリをきかすことが出来ないから、音楽と合わせるのも難しいの。でも一番難しいのは、一回でも止まってしまうと台無しなところね」
「一回でも……?」
弦一郎が怪訝な顔をすると、佐和子は頷いた。
「ずっと動いているとその凄さは分かりにくいのだけど、もし途中で止まってしまうと、とても目立つのよ。そうね、オルゴールのゼンマイで動く、からくり人形を見たことがあるかしら? 宝石箱や、小物入れなんかの……」
尋ねられ、精市と弦一郎は頷いた。
「あれは音楽を鳴らすためにずっとゼンマイが動くから、人形も常に動くことになるのだけれど……。それが途中でぶつぶつ止まってしまうと、どう思う?」
「故障した?」
「そう、とっても不恰好に見えるの。だから一度も止まってはいけないのよ」
とはいっても、それができる舞手はそういないし、そうできるように皆毎日お稽古するんだけどね、と佐和子は言った。
そうして色々と解説してもらってから見ると、確かに、紅梅は、その解説通りに踊っていることがわかる。そしてそれが、いかにすごいことなのかということも。
「でもねえ……、うーん、今はちょっとまずいかしら」
「どうしてですか」
紅梅がいかに難しいことをやってのけているかを理解したのもあるが、祖母が子供を褒めないということが珍しく、弦一郎は目を見開いて尋ねる。
「上手なんだけど……、もうちょっと笑顔が欲しいかしらねえ……?」
苦笑する佐和子の言うとおり、紅梅は完全に無表情だった。
先ほどオルゴールの人形の例えを聞いたせいか、本当に人形のように見える。まるで、櫓が大きなオルゴール箱のようだ。
「あそこのお舞は無表情でやるものだから、間違ってはいないんだけど……」
お祭りにはちょっとねえ、と更に苦笑する佐和子には、弦一郎と精市も、まあ納得できる。
櫓の上の少女が何やら上手に踊っていることには多くの人が気付いているようで、注目を集めるという目的は、確かに達成できている。
しかしその無表情さは、お世辞にも自分も参加しようという気にさせるものではなく、櫓の周りの輪はまるで広がっていなかった。
「お梅ちゃん、笑ってー!」
佐和子が何度か呼びかけたが、紅梅のいる場所は離れている上に高く、更に和太鼓と音楽、また人々の喧騒で、あまり大きくない声はまるで届かない。
「だめねえ、聞こえてないみたい。……弦一郎、お願い」
「俺が?」
「あなた、声が大きいでしょう。きっと聞こえるわ、弦一郎の声なら」
にっこり、と微笑んで、佐和子は弦一郎の背を押した。
櫓の上には、能面のような顔をして、ひとりで、淡々と踊る紅梅がいる。
弦一郎は仁王立ちになると、すう、と、思い切り息を吸い込んだ。
「──紅梅!」
精市が、思わず耳を押さえたほどの大声。
周りの人々が、思わず振り返る。そしてそれは、紅梅も例外ではなかった。
「紅梅!」
もう一度、呼ぶ。踊りを止め、びっくりした顔で辺りを見回していた紅梅は、二度目の声で弦一郎が居る場所を見つけたようで、まっすぐにそちらを見た。そして、目があったことを確認した弦一郎は、さらに叫ぶ。
「笑え!」
「真田が一番仏頂面じゃん」
耳を押さえながら、精市が突っ込みを入れる。
確かに、大声を出すために力んでいるせいか、祖母からの頼まれごとを律儀に達成しようとしている責任感からか、──それとも何か他の気持ちがあるのか、弦一郎の表情は何かに挑むかのように険しい。
「笑えー!」
「笑ってー!」
今度は、精市も加勢する。弦一郎はやはりしかめっ面だが、精市は得意の、非の付け所のない笑顔だ。
弦一郎の視力でもってすれば、きょとん、とした顔でこちらを見る紅梅がよく見えた。また、笑え笑えと二人がしつこく叫ぶうちに、ふにゃりとはにかむその表情も。
一度少しだけ俯いた紅梅は、ぱっと顔を上げる。その顔は、はっきりと笑顔だった。
「あ、笑った」
「よし」
紅梅は体勢を整えると、曲の節目を捉え、もう一度踊り出した。──今度は、笑顔で。
弦一郎には、日舞の良し悪しはわからない。詳しく説明されて、理屈でもって、すごいのだと理解するのがやっとだ。
しかし、団扇を持って、笑いながら踊る紅梅は、昼間、座敷で扇を持って舞っていた姿より、そして人形のように無表情な姿よりも、ずっと好ましく写った。