心に我儘なき時は愛敬失わず
(八)
紅梅は土埃で汚れた袴を脱いで浴衣姿に戻り、弦一郎は甚平に着替えさせられ、いかにも今から縁日に行く、という、涼しげな風情の幼い男女が出来上がった。
弦一郎の甚兵は、綿麻の黒地に雨縞柄。紅梅は白地に赤の金魚が泳ぐ柄に、赤い縮緬の兵児帯を派手に結ばれ、歩く度にふわふわ揺れている。その様は、柄と相まって、本人が金魚のようだった。
「かわいい、かわいい」
そう連呼する、こちらも浴衣姿の祖父母に、玄関前でバシャバシャと写真を撮られてから、連れ立って神社に向かう。
子供よりはしゃいでいる祖母の佐和子が、右手で紅梅と、左手で弦一郎と手を繋いで歩くのを、後ろからご満悦な表情で弦右衛門が見守っていた。
神社は古いがあまり大きい所ではなく、主催も地域のものだ。盆踊りの櫓は建てられているが、あくまで縁日であって、なんたらの神様を祀るどうこう、といった祭りではない。
そのため来ている顔ぶれも弦一郎と同じ学校の者が多く、小学校低学年くらいの者には、弦一郎たちのように保護者が付き添っていた。
そんなに広くない敷地であることもあり、不審者対策も兼ね、神社の周囲にある石柵に添って囲うように保護者たちが談笑し、敷地内の露天や広場で、子供たちが買い食いをしたり、駆けまわったりして遊んでいる。
「あらぁ、真田さん、こんばんは」
「いやいや、これはこれは──」
地元では誰よりも顔が売れており、元警察官で現代の剣豪とも呼ばれる弦右衛門は、防犯や治安の面でかなり頼りにされている。そしてその妻である佐和子も、その奥様として、コミュニティの中心的な存在だ。
こんなイベントに顔を出せばそれは顕著で、老夫婦へ、ぞろぞろと保護者たちが集まってくる。
弦一郎はそんな祖父母を誇らしく思いつつ、「二人で遊んできなさい」という言葉とともに渡された小遣いを受け取った。
言われた通り二人は連れ立って、的屋の間をあちらこちらと歩き始める。
紅梅があんず飴に興味を示したので、一本買った。京都にはないらしい。
弦一郎はフランクフルトをかじりながら、何かおもしろそうなものはないかとうろついていたのだが、その時ふと、一点を見つめて足を止めた。
紅梅が弦一郎の視線を追うと、その先に居たのは、水色地に白や紺、差し色に黄色の入った朝顔の柄の浴衣に、蛍光っぽいピンクの兵児帯という、涼しげかつ華やかな浴衣を着た、おそらく二人と同年代だろう子供だった。
顔には戦隊物のお面をつけており、ゴムひもが食い込む髪は、緩いウェーブのかかった黒髪。
弦一郎は、睨んでいるといっていいほどに目を眇め、じい、とその朝顔の浴衣の少女を見る。するとその視線に気づいたのか、少女がこちらを向き、お面を上にずり上げた。
「──真田?」
お面の下の顔は、相当な美少女だった。
長い睫毛に縁取られた目は外国人モデルもかくやというほどぱっちりとしており、ちょこんとかわいらしい鼻は、シンメトリーの位置ど真ん中に鎮座している。桃色のふっくらした唇と、幼いがゆえに丸い、そして繊細な顎のラインもまた見事で、まるで夢の国の佳人のようである。
「……ねえ、もしかしてここ、真田の学区?」
「そうだが……。なぜおまえはそんな格好を……」
「うちのお母さんの趣味だよ。放っといてくれ」
げんなりと顔を歪め、美少女、もとい幸村精市は吐き捨てるように言った。
精市は弦一郎と学校は違うが、同じテニススクールに通う、同い年の、れっきとした男子である。
しかし彼の母親は、元々の乙女趣味と、女の子が欲しかったという希望を、まだ幼いがゆえに女子にしか見えない美形の息子にぶつける癖があるらしい──ということを、以前家に遊びに行った時、スカート姿の精市の写真を見て混乱を起こした弦一郎は知っている。
ふと見回すと、精市が着ているものよりもシックだが、おそろいといえるような朝顔の浴衣を着た美人が、同じ主婦仲間であろう母親連中と談笑していた。
「家から遠い神社なら、まあいいかなと思ったんだけど……。お面も被ったし……」
「そうか……。おまえも大変だな……」
精市の母親の強引さは弦一郎も知っているし、もし自分なら、精市のように女装に違和感の無い容姿だったとしても嫌だと思っている弦一郎は、心から精市に同情した。
「……弦ちゃん、ともだち?」
弦一郎の陰から、ひょこんと紅梅が顔を出した。おかっぱの毛先が揺れる。
「ああ、こいつは同じテニススクールの──」
「ちょっ、真田!!」
「いッ、て!」
普通に紹介しようとした弦一郎は、がっと肩を掴まれて引っ張られ、痛みに声を上げた。可憐極まる容姿の精市だが、その力は男子そのもの、いやそれ以上なのである。
「痛い! 何をする」
「なんで女の子なんか連れてるんだよ!」
ひそひそ声で怒鳴るという器用な声色で、精市は言った。
「なんでと言われても……。おじいさまの知り合いの子供で、いまうちに遊びに来て」
「そんなことはどうだっていい!」
聞いてきたくせに、と弦一郎はむっとしたが、精市の形相が必死すぎたため、おとなしく口を噤む。
「真田、俺が男だって絶対言うなよ」
「は? なぜ?」
「男のくせにこんな格好してるなんて、女の子にだけは知られたくないだろ!」
わかれよ! と、いっそ悲痛なまでの声を出し、掴んだ肩を更に揺らしてくる精市に、弦一郎はとりあえず「……わかった」と頷いた。
この容姿で、更にこういう格好をさせられることもある精市は、その反動か、男か女かということにこだわるところがある。
弦一郎としてもその気持はわからなくもないし、可愛らしい女児用浴衣を着て必死の形相で肩を揺らしてくる精市には、どうしても同情を覚えざるをえない。
──この幸村精市こそが、弦一郎が一度も勝てず、打倒の目標としている人物であっても、である。
「じゃあどうするんだ。女子として紹介すればいいのか」
「……ここは、しかたないな……」
精市がふうと息をつくと、二人は紅梅に振り向いた。
いきなり二人に背を向けられて放って置かれた紅梅は、小首を傾げ、少し不安そうな顔で、頭の上に疑問符をたくさん飛ばしている。
「あー……、紅梅、こいつは……」
弦一郎は、ちらり、と精市を見た。天使のようなと名高い精市の笑顔が、今は若干固い。
「幸村せ……、せい……えー」
弦一郎の眉間に、深い皺が寄る。うー、えー、と必死に脳を回転させながら、弦一郎はぼそぼそと言った。
「せ……、せいこ、ちゃん? ……だ」
「はじめましてせいこです!」
弦一郎の口調は未だかつてなくぐにゃぐにゃしており、精市は高い声が更にひっくり返って、笛のような音になっていた。
精市なので、せい子。
安直な偽名であるが、そのまま漢字にすると精子となり、女名にしたはずがえげつないまでに男性的な名前になったことに、小学二年生の彼らは気づいていない。
別にわざわざ偽名を名乗らずとも、幸村と苗字を名乗ればよいだけである、ということについても。
そしてそれは紅梅も同じで、紹介に対して特に際立ったリアクションも見せず、愛想よく微笑んだ。
「ほな、せぇちゃんでええ? うち、紅梅」
弦一郎と初対面だった時より、紅梅の態度は随分気安い。一日半もこちらで過ごして慣れたのか、祭りの雰囲気に浮かれているのか。それとも精市に対し、女子同士、と思っているからだろうか。
おそらく、どれもだろう。
「そ、そっかー……。えっと、じゃあ、梅ちゃん、でいいかな」
「ええよー」
全く何も疑っていない様子の紅梅にほっとしたのか、若干顔をひきつらせていた精市の肩から、やっと力が抜けた。
その後、嬉々とした精市の母親に写真を撮られ、三人は「一緒に遊ぶ」ということになった。
写真を撮られている時の精市はだいぶ遠い目をしていたが、この格好では下手に誰かに声を掛けたくないし、ひとりでうろつくのも退屈だということで、開き直ることにしたようだった。
「幸村! 勝負だ!」
「ふふ。受けて立つよ」
落ち着いてしまえば、あとはいつも通りである。つまり弦一郎が勝負をふっかけ、精市がそれを受けるという流れ。
いつも言い出すのは弦一郎だが精市も必ず受けて立つし、テニス以外の勝負は割と五分五分なので、弦一郎が勝った時は、精市も必ずリベンジを申し立てる。
まず輪投げで精市が勝ち、ヨーヨー釣りで弦一郎が勝ち、金魚すくいで精市が勝ち、ボールの的当てで弦一郎が勝ち──、そして三人はいま、射的の屋台の前に立っていた。
「はい、俺の勝ち」
「くそ!」
射的のコルク銃を担いで微笑んだ精市に、弦一郎は眉を顰めた。今までのゲームと違い、大差で負けたのが尚更悔しい。
そして、弦一郎は一番低い的の景品である駄菓子の詰め合わせの小袋を貰い、精市はそれより二回り大きな詰め合わせを受け取る。
この射的の景品にはゲーム機などの大層なものは用意されていなかったが、駄菓子や花火など、子供をがっかりさせない景品が揃っているようだ。
「うちも、やってええ?」
後ろからかけられた声に、弦一郎ははっとした。
実のところ、精市との勝負に夢中になって、紅梅はふたりの勝負を一歩後ろから見ているか、隣で一人黙々と遊んでいるかのどちらかで、殆ど放ったらかしであった。
「あ、ああ、もちろんだ」
ばつの悪さから慌てて台から退き、紅梅の分の料金を払う。
「やり方、わかるか?」
「たぶん……」
横についたハンドルを引きながら、おもちゃの銃口にコルクを詰め込んだ紅梅は、少し持て余し気味な動作で銃を構えると、狙いをつけて、引き金を引いた。
ぽこん、と音を立てて飛び出したコルクは、残念ながら的に届くこともなく、手前で失速して地面に落ちた。
「……むずかしおすな?」
「台に乗り出してみたらどうだ?」
確かに、平均より小さめの紅梅には、射的の台の高さは合っていない。
アドバイスに納得した紅梅は、準備のできたコルク銃を持ったまま上半身を台に載せるようにすると、もう一度狙いをつけた。
「うーん」
「距離は近くなったが、銃がめちゃくちゃブレてたな……」
またも外れた玉に、紅梅は首をひねり、弦一郎は顔を顰めて呻く。
台に乗り出したことで距離はだいぶ近くなったのだが、無理な体勢で銃を固定することが出来ず、ふらふらとぶれた上体から発された玉は的の間をすり抜け、棚の向こうへ消えていった。
「梅ちゃん、もうちょっと下がって、台に肘をついてごらん」
穏やかに微笑んでそう言った精市に、紅梅はきょとんと目を丸くしたが、言われたとおりに体を摺り下げると、フェルトの貼られた台に肘をついた。
「……こお?」
「そう、そう。ちょっと貸して」
紅梅の返事を聞くことなく、精市はひょいとコルク銃を取り上げると、ハンドルを引き、コルクをきゅっと深めに押し込めた。
「はい、持って。銃の後ろを肩に乗せて、狙いをつけて。一番下が当たりやすいよ」
「うん」
「狙ったら、撃って」
ぽこん! と、深く玉を押し込めたせいか大きめな音が上がり、勢い良く飛び出したコルクが、一番下の的を倒す。
「ほら、当たった」
的屋の親父が鳴らす、カランカラン、という鐘の音をバックに、精市が微笑む。
「おおきに、せぇちゃん」
「よかったね」
弦一郎と同じ景品の袋を受け取った紅梅は、精市に向き直り、笑ってみせた。精市も、もう引き攣っていない、天使の微笑みと評判の表情で、にっこりとしている。
本来精市は別け隔てなく人に接するタイプで、女の子とも自然に話せるため、普通にしていればかなりモテもするのである。──まあ、今に限っては、女の子だと思われているがゆえの態度であろうが。
その光景を脇で見ながら、弦一郎は、なにかもやもやとした気持ちを抱えていた。
それは勝負に負けた悔しさと同じようないらつきであり、しかしもっと複雑であるような、奇妙な心地だった。
「梅ちゃん、他にやりたいのある?」
精市も、今まで紅梅を放っていたことに気づいたのだろう、優しげな声色で尋ねた。
しかし紅梅がそれに答えることはなく、そのかわりに耳に届いたのは、佐和子ら婦人会の歴々が、子供たちを呼ぶ声だった。