心に我儘なき時は愛敬失わず
(七)
──ポォン。
「さんじゅう、さん! ……あっ」
紅梅の打ったボールが、あらぬ方向へ飛んでいく。
無理な体勢で力いっぱい打ったせいで、ボールは樹の幹に思い切りぶつかって、縁側の下、真っ暗な床下へ転がっていってしまった。
「か、堪忍……」
「いい、よくやる」
おろおろとする紅梅に、弦一郎は気にするなと首を振った。実際、弦一郎も庭での練習中、何度も床下をボール倉庫にしている。
二人して床下を覗きこんで目を凝らしたが、かなり勢い良く転がっていったらしく、赤いボールは見当たらない。これは年末の大掃除の大浚いでないと無理だと判断した弦一郎は、クモの巣だらけの床下を見限って腰を上げた。
「新しいのを取ってこよう」
納屋は様々ながらくたや道具がひしめきあっていて、もう弦一郎が使わなくなって久しい赤色ボールをもう一つ探すのは、少し骨であるように思えた。
昨日と同じように靴と袴、そして弦一郎のラケットを借りた姿の紅梅は、弦一郎の指示に従って邪魔な道具を退かすのを手伝いながら、ふと、弦一郎に話しかけた。
「……なあ、弦ちゃん」
「何だ」
「剣道、いくつから始めたん」
「四歳」
「テニスは?」
「五歳」
「ほぉかァ*そっかぁ」
縦に裂けて割れた竹刀の束が倒れてこないように押さえながら、ボールを探す。どうしてこんなものを取っておいてあるのだろうか。
ひとまずなくしたボールがあった所を探し終えた弦一郎は、振り返って紅梅を見た。
入り口を背に立つ紅梅の表情は、よく見えない。また俯いていることだけはわかった。
「うちなァ、お舞、二つの時からやっとるんえ。よォ覚えてへんけど」
それはそうだろう、と弦一郎は思った。弦一郎とて、二歳の頃のことなど全く覚えていない。
「そやけど、うち、えっらいへたくそでなあ。いっつも怒られるんえ」
「……おばあさまは、上手だと言っておられたが」
「佐和子おばあさまは、……優しおすよって」
「ああ……」
紅梅が苦笑して言葉を濁すと、弦一郎も似た表情を返す。
佐和子は、孫のやることなら何でも褒めるのだ。機嫌のいい時には返事をしただけで褒められるし、そのうち生きているだけで褒められるのではないかという勢いである。
「……正直言って」
弦一郎は、ボールを探すのを止め、しかししゃがんだまま言った。
「さっきお前が踊っているのを見たが、俺にはあれが上手いのか下手なのかもわからなかった」
弦一郎が生まれて初めて見た日本舞踊は、なんだかとても不思議なものだった。
動き自体はゆっくりで、童謡にあわせたお遊戯のようではあるが、その表情は全くの無表情。上手下手の評価を下す以前に、何がどうなっていたら上手くて、どれがどうなってしまうと下手なのか、基準がさっぱりわからない──というのが、弦一郎の素直な感想であった。
先程は、あまりに祖母がにこにこしているので、否定的にも聞こえる言葉を言うのを躊躇い、ただぼんやりとした生返事をすることしか出来なかったが。
だから紅梅に「へたくそである」と申告を受けた時、まず弦一郎が思ったのは、あれは下手だったのか、ということであった。
「どう下手なんだ? 振り付けを間違えるとか?」
「それは大丈夫え」
「じゃあ何がまずいんだ」
「わからん」
きっぱりと言われ、弦一郎は呆気にとられた。下手だと断言するくせに、何が下手なのかはわからない、と紅梅は言ったのだ。
「何だ、それは」
「おばあはんは、何がまずいんかわからんからまずいんやて言わはるん」
「……そうか」
紅梅の言うことは全体的によくわからなかったが、“何がまずいのかわからないからまずい”ということには、テニスや剣道をする上でも似たような部分があるので、弦一郎は頷いた。
「弦ちゃんはすごい」
「……何が」
「剣道もテニスもえらい上手や」
紅梅は、やや早口で、熱っぽく言った。
「あない怒られても、ちいとも泣けへんし」
おそらく、剣道の稽古のことを言っているのだろう。
祖父から怒号が飛ぶ度、また誰かが竹刀で小突かれたり叩かれたりする度に、紅梅は肩を跳ね上がらせていた。
とはいっても、紅梅でなくても、見学者があの稽古風景に縮み上がって泣きが入る事は珍しくないのだが。
しかし、それこそ四つの頃からあの稽古を受けている弦一郎としては、あれで泣いて帰るようならそもそもここに来るべきでない──と思っているものの、こうして真正面から改めて褒められると何やら非常にむず痒く、思わず顔を逸らした。
「……俺だって」
目を逸らしつつ、ぼそり、と弦一郎は言った。
「最初から上手な訳じゃなかったし、どうして負けたのか、わからない時がある」
いま弦一郎の脳裏に浮かぶのは、同じテニススクールに通う少年の姿である。
緑のボールを打ち、年上の少年たちを負かすこともある弦一郎が何度やっても勝てず、そしてなぜこれほどまでに勝てないのか全くわからない、同い年のはずの少年。
強い強いと言われ、実際に幾度となく試合に勝っている弦一郎であるが、決して飛び抜けた才能を持って生まれたというわけではない。
ゼロ位置のスタートラインでは、弦一郎は、確かに人より多少上手くやれるくらいの才能はある。
しかしそれはテニスに限ったことではなく、それは剣道でも、勉強でも、どの分野でも、だいたいは同じようなものだ。何をやらせてもだいたいやや上手くやれるが、きらりと光るだけのものはない。弦一郎は元々、そういう、器用貧乏とさえ言えるスペックの持ち主なのだ。
そのことを、“彼”のテニスに出会ってから、絶望に近い衝撃とともに深く思い知った弦一郎は、悩んだ。
自分には、突出した武器がない。
そして今は真田家の血がなし得る身体能力と器用さで勝ててはいるが、何をどうやって今の試合に勝ったのか、弦一郎は、自分でうまく説明することが出来ない。
今はいい。だがこのままでは、なぜ勝てたのかわからないままでは、きっとそのうち、何で負けたのかわからないまま負け続けるようになってしまう。
そういう、確信を伴った危機感が、弦一郎にはあった。
「……でも、絶対に勝つ」
ぎゅ、と、弦一郎は、古いラケットを握りしめる。
「負けた原因がわからないなら、全部練習する。どんなボールも打てるように、たくさん練習するんだ。とにかく、たくさんだ」
弦一郎が自分に出した答えは、これといったものがないならば、全てを限界まで鍛え上げれば良いという、真田家のお家芸である根性論そのものであった。
そして弦一郎には、それをなし得るだけの能力がある。過酷な練習でも故障をしないタフな身体能力と、時に頑固すぎるほどの強靭な精神力。
弦一郎には、きらりと光る、突出した才能はない。
だが、どこまでも努力する才能は、誰にも負けないものを持っていた。
「おまえの師匠は、おばあさんだけか。他に教えてくれる人はいないのか」
関東の言葉だから、という理由だけではない、とてもはきはきとした弦一郎の質問に、紅梅は少し目を白黒させながら、「おらへん」と首を横に振る。
「そうか。しかしテニスも、コーチによってアドバイスが違うことがあるぞ。他の人にも見てもらって、悪いところがないか聞いてみたらどうだ」
「……かんがえたこと、なかった……」
紅梅は目も口もまん丸くして、弦一郎を見ている。上を向いた顔、瞳に、逆光の光が少しだけ反射して、キラキラと光っていた。
「考えろ。それで、考えついたことは全部やるんだ。もしそれで悪いところがなおらなくても、他のところは良くなるかもしれない」
「…………うん」
「テニスだって、最初はおまえ、変なところにばっかり飛んでたのに、フォームを直して、たくさん打ったらラリーが続いただう。三十三回も」
「うん……」
熱弁する弦一郎を前に、紅梅は瞬きもせず、ぽかんとしている。
「とにかく、たくさん練習しろ。たくさん練習さえすれば、絶対にうまくなる。才能なんかどうでもいい。今の十倍、足りないなら百倍練習しろ。限界なんかないんだ」
「──弦ちゃん、すごい」
弦一郎のラケットを握りしめた小さな両手が、ぶるっと震えた。
「弦ちゃん、すごぉい!」
それは、紅梅に会ってから、一番大きな声だった。
その音量、そして薄暗い納屋の中、戸口からの光をきらきら反射して輝く目に、紅潮した満面の笑みに弦一郎は面食らって目を見開き、少し上体を仰け反らせた。
「すごいなァ、弦ちゃん、すごいなァ。そやさかい、そない上手なんやなァ」
「え」
「かっこ、いい!」
全開の笑顔であった。
弦一郎はといえば、ここまで手放しかつ力いっぱいの称賛、しかも同い年の女の子からのそれに、みるみる顔を赤くした。しかしそれは恥ずかしさより、困惑のほうが大きい。
「な、何だ、いきなり」
「そやかて、そやけど、すごいもん。かっこええもん」
弦一郎は気恥ずかしさのあまり思いっきり顔を逸らしたものの、紅梅に悪気など一切なく、百パーセント好意で言っていることは明らかだったため冷たくあしらうことも出来ず、ただ困惑した。
「い、いいから。もういいから、黙れ」
「なんで?」
「いいから!」
「あらあら、何騒いでるんです」
ひょっこり姿を表した祖母に、弦一郎は口から心臓が出るかと思うほど驚いた。
真田家で唯一格闘技の経験のないおっとりとした祖母だが、こうして時々、気配を感じさせずに現れることがある。
「納屋で遊んではいけませんよ」
「遊んでおりません、おばあさま。ボールをなくしたので、新しいものを探していたのです」
きりっと佇まいを整えて、弦一郎は答えた。
「あら、そうですか。でも、もう終わりになさいね」
「どうしてですか」
まだ結果に満足していなかった二人は、少し不満気に身を乗り出した。しかし佐和子は、にっこりと微笑みながら言う。
「神社で縁日がありますよ。一緒に行きましょう」
弦一郎と紅梅は、顔を見合わせた。