心に我儘なき時は愛敬失わず
(十)
二十分も踊り続けた頃、紅梅の振りも目に見えて疲れてきたため、ご苦労様、と御役御免が言い渡された。
紅梅の働きはなかなかの成果を発揮し、子供の参加、特に女の子の参加が目に見えて多くなっている。弦一郎と精市の声援も注目を集めていたので、そのせいもあるかも知れない。
ちなみに、二人も盆踊りに参加し、試しに忠実に紅梅の真似をして踊ってみたがやはり付け焼刃では難しく、それぞれ一回ずつ後ろにひっくり返るに終わった。
婦人会の奥様方も結果に満足したようで、櫓を降りようとしている紅梅に、次々に賞賛の言葉と礼を言っているのが見えた。
「こ、」
「梅ちゃん、上手だったね!」
小走りに戻ってくる紅梅に声をかけようとした弦一郎だったが、それは精市に遮られた。
「真似してみたけど、全然できなかった! 舞妓さんになるんだよね? すごいなあ」
先程までの穏やかな様子と打って変わって、やや興奮してまくし立てる精市に、紅梅も面食らったらしい。彼女が目を白黒させていると、佐和子が、日舞の舞い方で踊っている紅梅の真似をしようとしたが二人共できなかった、ということを説明する。
弦一郎よりも何度も紅梅の真似をしようとしてはひっくり返り、とうとう達成できなかった精市は、紅梅の技術にいたく感心したらしい。
──しかし、それは弦一郎とて同じことである。
「……へぇ、おおきに」
はにかんだ顔で精市にそう返した紅梅を見て、弦一郎は口を噤む。
そうさせたのは、射的の時にも感じた、あの、もやもやとした気持ちだった。
その後すぐ、反対側で見物していたという弦右衛門が飛んできて、絶えず紅梅を褒め、おかっぱ頭が千切れるのではないかという勢いで、紅梅の頭を撫でまくった。
元々、紅梅を構いたいものの、女の子らしい女の子の扱いにいまいちぎこちなかったのが、多少のビールの力で、本来の豪快さに拍車がかかったらしい。
弦一郎はそんな祖父からなんとか紅梅を救出し、瓶ラムネを開けて貰った。
婦人会の奥様方は、紅梅への礼品として大きなお菓子の袋と、弦一郎と精市にも、ラムネを進呈してくれたのだ。
「おお、いつの間にやら両手に花だの、弦一郎!」
という祖父の言葉に引きつりつつ、弦一郎は再度すかさず顔をお面で隠した精市とともに、目を回してふらふらしている紅梅を引っ張り、敷地際の仕切り石に腰掛ける。
そのまま、三人でなんのかんのと話しながら、瓶のくびれ部分でカラカラと音を立てるビー玉を取れるの取れないのとやっていると、精市の母親が「もうすぐ帰りますよ」と呼びに来る。
精市は住んでいるところが少し遠いので、バスか電車を使わねばならないからだ。
四苦八苦して取ったビー玉を握りしめ、石からぴょんと降りた精市は、くるりと紅梅に振り返った。
「梅ちゃん、京都から来てるんだよね? いつまでこっちにいるの?」
「明日、帰るえ」
そっかあ、と朗らかに言った精市だが、その時弦一郎は、がんとショックを受けていた。
──そうだ。紅梅は、明日の公演の後、京都に帰ってしまうのだ。
「今度はいつ来るの?」
「んー……」
紅梅は、困った顔で首を傾げた。
彼女は、弦一郎の親戚でもなんでもない。盆や正月の季節の催しも真田家に来る理由にならないだろうし、今回真田家に滞在したのも、紅梅の祖母がたまたま東京の公演に出演するからである。
来年も同じ公演があったとしても紅梅の祖母が出るのかはわからないし、それに紅梅がついてくるのかも、そしてまた隣県の神奈川にわざわざ預けられるかどうかもわからない。
「じゃあね。真田は、スクールで、また」
「ああ、またな」
「へぇ、さいなら、せぇちゃん」
揃いの浴衣を着た母親の所へ走っていく精市を、二人で見送る。
そして間もなく提灯の明かりが消え始め、弦一郎と紅梅も帰ることになった。
昼間は全力でテニスをし、縁日では急に大役を任されて、疲れていたのだろう。歩きながらうとうとし始めた紅梅を、弦右衛門が軽々と抱き上げる。
大柄な弦右衛門に猫の子よろしく持ち上げられ、その高さに最初はおたおたしていた紅梅だが、その大柄さが生み出す絶大な安定感に眠気が煽られたのだろう、大きな肩の上に頭を乗せて、すっかり寝入っている。
その気持ちは、弦一郎もよく知っていた。
「……おばあさま。紅梅はもう、ここには来ないのですか?」
手を繋いだ孫が、いつもらしからぬひそひそとした声で発した問いかけに、佐和子は目を丸くした。
「んん……、どうかしら」
今回いらっしゃったのも、ほんとうに偶然だから……と、佐和子は困った顔で首をひねる。
それがいつもの軽い苦笑でなく、ううん、と唸りつつの本気の困り顔だったので、弦一郎はがっかりした。
シンと静かな夜道を、黙って歩く。沈黙の中、弦一郎は、祖母の手をぎゅっと握り直す。
「そうねえ。お手紙でも書ければ、いいかもしれないけれど……」
「手紙」
弦一郎が、顔を上げた。
──手紙。
県外に親戚も友達もおらず、純和風の家風であるがゆえにクリスマスとも縁遠い弦一郎は、手紙など、ろくに書いたことはない。
しかしその存在を認識した途端、それはとてもいい考えであるような気がした。
「でも、真田から花さとさんに何かするのはねえ……」
ううん、と、佐和子はさらに悩ましげに唸る。
言っている意味はよくわからなかったが、いい考えだと思った手紙も出してはいけない可能性がある、ということを理解した弦一郎は、祖母の手をしっかり握り、身を乗り出した。
「手紙を出してはいけないのですか?」
「どうかしらねえ……」
ひどく歯切れの悪い祖母に弦一郎は眉尻を下げたが、いくらかの沈黙の後、きり、と顔を上げて、言った。
「では、紅梅のおばあさんに聞いてみてもいいですか」
「ええ!?」
今度こそ本気で驚いたらしく、佐和子はひっくり返った声を上げる。しかし、弦一郎は更に畳み掛けた。
「明日、公演を見に行くのでしょう。その時に手紙を出していいか聞いてみて、いいとおっしゃったら、手紙を出してもいいですか」
「ええと、ええ、まあ、そうねえ。椿さんがお口添えしてくださるなら、まあ……」
子供のことだし、なんとかなるかしら……とぶつぶつ言っている祖母を尻目に、もう言質をとった気の弦一郎は、さっさと明日することを頭の中でまとめはじめた。
「もう。“弦ちゃん”が本当になってしまったわ……」
真田の人間はどうしてこう、一度決めたらどこまでも突き進むというか、真っ向勝負というか、無駄に行動力があるというか……と佐和子は小声でぶつぶつ言い、もう機嫌を良くして前を見て歩いている孫に、ふう、と短くも重たい溜息をつく。
しかしその孫の視線がただ前を見ているのではなく、少し上、──弦右衛門の高い肩に顔を乗せて寝ている紅梅を見ているということに気付くと、もはや苦笑しか浮かんで来なかった。
翌日、朝から風呂に入れられた二人は、揃って最上級のよそ行きを着せられた。
紅梅は鮮やかな赤い振袖、弦一郎は黒の羽織と、仙台平の縞柄の袴。化粧こそしていないものの、ほとんど七五三並みの装いである。
公演に行くのは、祖父と祖母、そして兄の信一郎。本当は父が行く予定だったのだが、急に仕事が入ってしまったため、ピンチヒッターとして兄が選ばれた。
信一郎は日舞にあまり興味は無さそうだったが、頂いた席を空けさせることはできない、ということと、車の免許を持っているということで、袖を通したことが殆ど無いスーツを着込み、母を留守番にして、中古のファミリーワゴン車を発進させた。
いくらも車を走らせると、会場に着く。
朝に羽織袴を着せられた時は、なんと大仰な格好であろうかと気恥ずかしい思いをした弦一郎であるが、会場に続々と集まっている人々を見ていると、決して外した格好ではなかった、ということが理解できる。
しかしやはり子供自体が珍しく、しかも男女両名揃って和服、というのが目立つようだ。
しかも紅梅は日本人形そのものの容姿であるし、その横に並んだ弦一郎も、羽織袴姿に加え、元々、いかにも日本男子といった容姿である。
そんな彼らは、特に外国人などの目には、市松人形と五月人形が並んで歩いているように見えるらしい。
やけに微笑ましい目でよく見られる上に、時折声をかけられ、シャッターまで切られる始末である。
「紅梅ちゃんのおばあさんは、どれ?」
大きく豪華な入口前にて、出演者の名前が達筆な文字で書かれた出演者表を指差し、あまり紅梅のことを知らない信一郎が、紅梅に尋ねる。
「ええと、これ」
紅梅は、難解な漢字の群れに目を滑らせると、一番最後に書かれた文字を示した。
重要無形文化財保持者(人間国宝)
上杉 紅椿 演『京鹿子娘道成寺』
「じゅうよう、むけい? ぶんかざい……ほじしゃ。にんげんこくほう、……って、何だ?」
字面からしてなんだか凄そうな響きだが、具体的なことはわからず、弦一郎は首を傾げ、紅梅を見る。
「お舞がえろぅ上手どすえ、てお国が言うた、ていうことやて言うてた」
しかし紅梅もよくわかっていないらしい。弦一郎と同じように首を傾げ、ざっくりした説明を寄越したのみだった。
弦一郎は「ふぅん」と相槌を打ちつつ、今の、早口言葉みたいだな、と見当違いの感想を抱く。
「兄さん、人間国宝って何か知っていますか」
弦一郎は横に立っている兄のジャケットの裾を引っ張って尋ねたが、兄は答えない。怪訝に思って顔を見上げると、兄はぽかんと口を開け、演者表を見つめている。
「人間国宝……?」
呆気にとられたようにそう呟いた兄は、とうとう弦一郎の問いに答えてくれることはなかった。