心に我儘なき時は愛敬失わず
(十一)
公演は紅梅の祖母がメインだが、その前に、長くて十五分くらいの短めの演目が、前座のような扱いでいくつか設けられていた。
弦一郎はその間、必死で眠気と戦った。
最初は物珍しさから何とか見ていられたのだが、台詞もなく、独特の歌い方のため歌詞も聞き取れず、聞き取れたところで古語である。意味などわからない。その上、演出も衣装も振り付けも地味なものが多く、雅楽や地唄特有のメロディが、どうしても眠気を誘ってくるのである。
しかしその前座のあと、メインの演目が始まる前の休憩時間、弦一郎は気合で眠気を吹き飛ばし、もう一度席についた。ちなみに、隣の席に座っている紅梅は、さすがのもので、全く眠そうな気配が見当たらない。
そして、眠気の合間にチラリと盗み見た、舞台を凝視する紅梅の横顔は、舞っている時の、あの能面のような無表情だった。
──そしてついに、メインである、紅梅の祖母、重要無形文化財保持者、上杉紅椿の舞台が始まる。
演目は、『京鹿子娘道成寺』。
日本舞踊界最高の演目、女形舞踊の集大成、などの称号を与えられ、大元は能だが、主に歌舞伎で最も有名な演目のひとつである。
これを上演できることは、舞踊家にとって最高の栄誉、とされている。
物語は、道成寺を舞台とした『安珍・清姫伝説』、思いを寄せた僧・安珍に裏切られた清姫が激怒のあまり蛇に変化し、道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺す話の後日譚にあたる。
白拍子を名乗る清姫の化身が、その美しさでもって再度道成寺に入り込み、様々な舞を舞って隙を縫い、大蛇となって恨みの鐘に取り憑くという、捉えようによっては怪獣ものかパニック映画のような話である。
更に、ほとんど常に桜の花びらを散らす豪華で華やかな舞台装置といい、ドラマティックな演出はビジュアル的に非常に見応えがある。──が、清姫役の舞手の技量が、この演目を単なる派手なだけの演目にしない。──いや、してはいけないし、してしまうようでは、この演目を舞うことは許されない。
なぜならこの舞台において、このストーリーはほとんどオマケのようなもの、あくまでモチーフ、舞踊を展開するための設定でしかないからだ。
つまりこの演目の目的は、ストーリー展開を見せることではなく、演者の踊りそのものを魅せることにある。
ドラマティックなストーリーにあえて頼らない演出だからこそ、その舞には華麗さ、品格の高さ、そして一時間近くをほとんど一人で踊りきる高度な技術と、相当の体力が必要となる。
この演目が主に歌舞伎で発達したのは、歌舞伎役者、つまり訓練を積んだ男性でないと“保たない”から、という理由が大きい。
しかし、現役の芸姑にして京舞の重要無形文化財保持者、人間国宝である上杉紅椿は、女性の身でもって、それを完全に舞いきる。七十歳を超えた今でもって、なお。
そして彼女のその舞は、まさに“天衣無縫”と呼ばれる。
──と、外国人の客が多いせいもあるだろう、各国語同時通訳でもってアナウンスされた説明を、弦一郎は眠気を断ち切り、なんとか理解した。
各国語でのアナウンスが終わり、ホールが暗くなる。チョン、チョンと、高く澄んだ拍子木の音とともに、幕が開く。
「──聞いたか、聞いたか」
「──聞いたぞ、聞いたぞ」
歌舞伎ならば、大勢の所化、いわゆる“聞いたか坊主”が出てきてこの台詞を言うが、人間国宝・紅椿がひとりで踊りきるというこの舞台では、シテ方、音楽を担当する歌い手の台詞となっていた。
下手に現れた後見が、寺の入口を表す小さな木戸を舞台に据える。上手からは義太夫連中の乗った山台が引き出され、第一段の道行が始まった。
そして設置された花道から、紅梅の祖母、紅椿が演じる白拍子──清姫の化身である花子が登場する。
その姿が目に入った瞬間、弦一郎は眠気が吹っ飛び、目を見開いた。
紅梅の祖母は、七十歳を超えている、と解説で確かに聞いた。祖父からも、自分より年上のお方である、と言っていたのを確かに聞いた。
しかし、決して遠くないはずの座席から見るそのひとは、とてもそんな年齢には見えない。──いや、どう見ても、うら若い女にしか見えなかった。
シテ方が、鐘に対する恨みを語り、それに合わせて白拍子、清姫の化身が舞う。
昨日解説を受けたばかりの、常に膝を曲げた動き。常にゆるゆると動く所作。紅梅の動きに昨日は感心したが、比べ物にもならない、いやもうこれは全く別物である。
──お舞がえろぅ上手どすえ、てお国が言うた、ていうことやて言うてた
紅梅の言葉を思い出す。
なるほど、これが“えろぅ上手”なら、紅梅はたしかに下手くそなのだろう。
花道での所作を終えた白拍子が、舞台に来て、閉められている木戸のそばに立つ。
(なんだ、あれ)
弦一郎は、ぞわぞわと背中を這い登る怖気を、肩を回してやり過ごす。下手をしたら、漏らしでもしそうなほどの怖気だった。
昨日の紅梅を、まるでオルゴールの人形のようだと思った。そして、人形のように踊ることこそが、彼女たちの舞の至高なのだろう、と勝手に理解していた。
しかし今、最高峰なのだという舞を見て、それがとんだ勘違いだったということに気づく。
(なんだ、あれは)
白拍子が、ゆるゆると動く。
手ぬぐいが広げられ、真っ白に塗り込められた、正真正銘能面のような顔が半分隠されると、切れ長の目だけが、きろり、と動いた。それだけで、彼女がただの白拍子ではないことがわかる。時に神の化身とも言われる、蛇。獲物を狙ってうねる大蛇。
白塗りの化粧、豪華な着物、高く結い上げられた髪。
ゆるやかなのに、絶対に目で追い切ることの出来ない動き。
ああ、あれは、人形などではない。
──あれは、人間などでは、ない。
約一時間、結局、弦一郎は一度も眠くなることなどなかった。
むしろ意識はぎらぎらと覚醒し、軽い興奮状態にある。心臓は常時より早く大きく鼓動し、少ない瞬きで少し目が痛いが、それもまた興奮状態に拍車をかけている。
それは他の観客も同じだったようで、盛大な拍手の嵐が巻き起こり、血が巡った体が更にびりびりと痺れた。
そして公演が終わり、解説用の展示品、記念のお土産品の販売カウンターなどが並ぶ受付ロビーにて、弦一郎の予想外のことが起こる。
「じゃあ、ここで待っていてくださいね」
「うむ」
佐和子が、楽屋に挨拶に行くというのである。──紅梅を連れて。
しかも、紅梅はそのまま戻ってこない。そのまま京都に帰ってしまうというのだ。
「弦ちゃん、あの、」
紅梅は何か言いたそうに弦一郎を振り返ったが、佐和子にやんわり手を引かれ、奥に連れて行かれてしまう。角を曲がって見えなくなるまで、何度もこちらを振り返っていた。
しかし、孫である紅梅を既に見送りがてら連れて行くのは当然として、なぜ祖母だけなのか。
素直にそれを口に出せば、弦右衛門はとても困ったような、もっと言えばばつが悪そうな顔で顔を逸らし、理由は言わず、ただ「だめ」と言った。
結局、楽屋に行ったのは佐和子と紅梅だけで、ロビーには男三人、つまり真田家だけが残された。
非常に納得がいかない弦一郎は割にしつこくどうしてですかと祖父に詰め寄ったが、祖父は珍しくのらりくらりと躱すだけで、相手にしてくれない。
ついには、「ちょっと向こうに行ってくる」と言い、さっさとどこかに逃げてしまった。
──困った。
弦一郎は顔を顰め、辺りを見回す。
紅梅たちは、今日、いやもう一時間、長くても二時間そこらで帰ってしまうようだ。その前に、弦一郎は彼女の祖母に会い、手紙を出しても良いという許可を取り付けなければならない。
何故ここまで必死になっているのか弦一郎自身よくわかっていないのだが、非日常的極まる舞台を見たことによる高揚感、そしてそれがもたらす根拠のない無敵感が、元々エネルギーの有り余った少年を、我武者羅に突き動かしていた。
しかし、辺りを見回しても、特に糸口になりそうなものはなにも見当たらないし、いい考えも思いつかない。もう、三十分は経っているのに!
「……兄さん」
「ん? 何だ?」
弦一郎から目を離さないようにしつつ、適当に展示品などを見ていた信一郎は、ジャケットの裾を引いて声をかけてきた弟に振り向いた。
「なぜ俺達は、楽屋に行ってはいけないのですか?」
「……なぜだろうな?」
誤魔化されている感じはしない。
本当に知らないようだ、と判断した弦一郎は、少し考えてから、もう一度兄を見上げた。
「俺、紅梅のおばあさんに会いたいのです」
はきはき、きっぱりと述べた弟を、信一郎はきょとんとした、いや、驚いた顔で見下ろした。
「紅梅ちゃんのおばあさん……。人間国宝・上杉紅椿に?」
「はい」
兄が腰を屈め、ひそひそ声の音量で返してきたので、弦一郎も同じ音量で返事をする。
「なぜ? そんなに舞台に感動したのか?」
「それは、ありますけど。でも、そうではなくて……」
珍しく言葉を濁した弦一郎に、信一郎は驚きの表情をさらに大きくした。
「一体どうした」
「……その」
「うん」
顔を上げて、完全にしゃがんで近くなった兄の顔を、まっすぐに見る。
「お願いしたいことが、あるのです」
きり、と、表情を引き締めた小さな弟から、兄もまた、目を逸らさない。
「それは、どうしてもしなければならない事か?」
「はい」
「爺ちゃんと婆ちゃんから、行ってはいけないと言われているのに?」
「はい」
「怒られるぞ」
「はい! 怒られます!」
きゅっと眉尻を跳ねあげて、元気よく、まるで新兵のような凛々しさで弦一郎が返事をすると、信一郎はますます目を丸くし、そして一拍の後、破顔した。
「兄さん?」
下を向いて肩を震わせ、大きく笑いたいのを堪えているような兄に、今度は弦一郎がきょとんとした顔になる。俯いた信一郎からは、クックッ、と、喉が鳴るような笑い声が漏れていた。
「よし、よし、よし。いいぞ弦一郎」
一頻り笑ったらしい兄は、やがて顔を上げると、満面の笑みで、弟の頭をぐりぐりと撫で回した。
一応怒られるようなことを言ったはずなのだが、なぜか褒めるようなことをする兄に、弦一郎は疑問符を幾つか飛ばす。しかし、力になってもらえるに越したことはない。
「よし、弦一郎。兄さんが手を貸してやろう」
「ほんとうですか!」
「うん、うん」
弦一郎の頬も紅潮しているが、信一郎はそれ以上のいい笑顔である。ここまで煌めく笑顔の兄を、弦一郎は久しぶりに見た。
味方をしてもらえた、それだけでも嬉しかったが、あの複雑でどこか気まずい表情を何かと向けてくる兄が、こうして満面の笑みでもって協力してくれたことが、弦一郎はことのほか嬉しく、そして心強かった。
「こっちだ」
危なげなく人々の間を歩いて行く信一郎を、弦一郎はなるべくこっそり、人目につかないように気をつけながら小走りに追う。
来た時はあれだけ目立っていたはずの弦一郎だが、あの舞台を見た後の人々は、その余韻や展示物に夢中で、足元を忍者よろしくうろちょろする小さな少年には、見向きもしない。まるで魔法がかかっているようである。
信一郎は、楽屋までの道のりをだいたい知っているようだった。
背が平均より高いため、この人の多さでも紅梅たちが消えた方向を確認することができていたし、前にコンサートで来たことがある、と言ってすいすい歩いて行く兄は、この上なく頼もしい。
あそこの通路の奥だな、と兄が示す奥まった通路には、簡易礼装にもなる無地の着物を着た、若い女性が立っていた。そのまっすぐな立ち姿から、催側の人間であろうことがわかる。
「ここにいろ。合図をしたら、あのお姉さんの後ろから行くんだ。こっそりな」
ブロンズのオブジェの陰、通路の状態がよく見える位置に弦一郎を待機させた信一郎は、そう言って、通路からやや外れた方向に消えていった。弦一郎は頷き、息を殺して合図を待つ。
やがて、きゃっ、わあ、という小さな声が聞こえ、辺りの人々の注目がそちらに集まった。
弦一郎も思わずそちらを向いたが、その軌道上、ちょいちょいと小さく指を動かしてこちらを見ている兄に気付く。通路の女性は、騒ぎの方を見るどころか、四、五歩そちらに歩み寄りさえしていた。
機を見た弦一郎は、なるべく静かに駆け出した。幸い、敷き詰められた絨毯が、足音を完全に消してくれている。
兄が何をしたのかはわからないが、きっとあの素晴らしい頭脳でもって、自分が考えもつかないことをしたに違いない。
いつか兄が困ったときは全力で味方をして差し上げなければ、と弦一郎は心に固く誓いつつ、一度も振り返らず、一目散に通路を駆け抜けた。