心に我儘なき時は愛敬失わず
(十二)
 通路の奥は、段ボール箱やおそらく衣装や小道具の入った葛籠、分解された大道具、また独特の雰囲気の人々で溢れていた。

 殆どの人が和服で、弦一郎よりは年長だが、少年少女の姿も少しある。
 弦一郎はなるべく壁際の荷物の影を縫うようにして移動したが、少年ながら着物に慣れており、和礼装に違和感のない弦一郎の姿は、うまい具合にこの場所に溶け込んでいるようだった。
 ロビーより狭い通路ではもちろん見つからないわけはなく、時折見られるが、なんでもないように振舞われるし、時に微笑まれすらする。

 そして目当ての場所は、全く苦労せず見つけることが出来た。
 なぜなら、通路の壁に添って、絢爛豪華な紅白台の花輪がいくつも立てかけられており、それを辿ればいいだけだったからだ。

 花輪が作る花道の奥、その扉はあった。
 さすがに有名人の控え室だけあって、人が多く詰めかけている。多くは花束を持っており、明らかにプロ仕様の大きなカメラを担いだ者や、必死に何らかのメモを取っている者、また扇を持って嬉しそうにはしゃいでいる者もいた。
 彼らが壁を作っているせいで、弦一郎は扉に近づくことができない。どうしたものかと角から様子をうかがっていると、ふいに、彼らが揃ってぞろぞろとこちらに向かってきた。

 弦一郎はサッと荷物の影に隠れ、談笑しながら引き返す人々をやり過ごす。彼らが通りすぎてからもう一度覗きこむと、もうそこには誰もいなかった。
 小走りに扉に近づき、ゴクリと固唾を呑んでから、扉を二度叩く。しばらくしても返事がないので、今度は強めにもう一度。

「………………誰や」

 魔女の声だ、と、弦一郎は直感的に思った。
 これは、紅梅が真田家にやってきた時、玄関先で聞いたあの声だ。決して音量は大きくないのにはっとする、響くというよりは染み渡るような、侵食してくるような声色。

「弦一郎といいます」
 息を思い切り吸い込んで、弦一郎は名乗った。出来うる限りはっきりと、堂々と。怖気など、全く見せないように。
「……入り」
 許可が出たので、ノブを回し、扉を開ける。
 途端、更にむせ返るような、攻撃的なまでの花の香が、弦一郎を襲った。

「弦の字、いうことは」
 足元から、首の後から、肌に染み込み、侵食してくるような魔性の声。
 舞台の最初で受けたものと同じ、ぞわりと登ってくる震えを感じながら、弦一郎は、後ずさりそうになるのを、必死で堪えた。
「……真田のぼんかえ*真田家の息子(坊ちゃん)か

 ──大妖怪である。

 壁が見えなくなるほどの、切花の山。
 控え室は靴を脱ぐ所以外、一段上がって畳になっている。しかし弦一郎は一歩も動くことが出来ず、灰色の絨毯の上で、金縛りにあったように突っ立った。
 そしてその畳の上に、先ほど、妄執のあまり呪詛とともに壮絶に焼け死んだ大蛇の化身、清姫がそこにいた。

 鬘は取っているものの、衣装はそのままで、白塗りの化粧は一部の隙もない。
 これが、現役の芸姑にして、京舞の重要無形文化財保持者。男の歌舞伎役者とてようよう演じ切らぬ道成寺を、たったひとりで舞い尽くした舞踊家、重要無形文化財保持者、人間国宝・上杉 紅椿、そのひとである。

「……はい。真田、弦一郎です」
 扉が、自重でバタンと閉まった音。退路を断った弦一郎は、密室でかのひとと二人きりになり、緊張で変な汗をかきながら、それでもなんとか名乗り上げた。
「ははあ、また見事に真田の顔や。こら厳つうなるえ」
 弦一郎を上から下まで舐めるように眺めると、そう言う。蛇の舌で顎の下を舐められたような気がして、弦一郎は、ぞぞ、と肌を泡立てた。

「なんの用や」
「お願いがあって、きました」
「ふん」
 恐ろしい大蛇は鼻で笑うと、帯に挟んだ黒骨の扇を抜いて、顎を逸らして弦一郎を見下ろした。
 まさに蛇に睨まれた蛙の気分を味わいながらも、続きを話せと言われていることを察し、弦一郎は口を開く。
紅梅に、手紙を出させてください」

 ──言った。

 まず第一の目的を達成したことに、弦一郎はぎゅっと拳を握る。
「手紙?」
紅梅は、またここに来るのが難しいと言われました。だから、手紙を出させてください」
「ふうん」
 おざなりな相槌とともに、黒骨の扇で、ぱたぱたと顔を仰ぐ。いつ扇が開かれたのか、弦一郎には全くわからなかった。
 想像以上に人間離れしている様に存分に怯みつつも、弦一郎はなんとか俯くのを堪え、まっすぐに相手を見た。

 舞台にいる時は若い女にしか見えなかったが、こうして鬘を取った所を間近で見ると、白塗りの顔にはいくつも皺があり、確かに老人といわれる域の年齢であることがわかる。
 しかし、単に老人と表現するには、彼女はあまりに美しすぎた。かといって溌溂とみずみずしいというわけでもないところが、本当にとらえどころがなく、とにかく何かを超越している。
 はっきりわかるのは、ただ女性であるということだけ、というような老女であった。

「それで、アテ*にわざわざ聞きに来やったんか」
「よくわかりませんが、“真田から手紙を出すのはよくない”と言われました。でも、ええと、……あなたがいいと言うならいい、と」
 何と呼べばいいかわからず、曖昧な二人称を使いながら、弦一郎は言った。
「真田からはよォない……な。まあ、そやろなあ」
「何が良くないのですか?」
「よォないんは、あんたはんのおじいはんや」
 ぱたぱた、と扇が風を起こす。

「弦右衛門は、出禁食ろとるさかいな」
「できん?」
「金輪際うちの敷居を跨がせん、ゆうことや」
「ど、どうしてですか」
「そら、悪いことしはったからや」
「おじいさまが!? 何をしたんですか!」
 必死の形相の弦一郎が、一歩踏み出す。老女は扇で顔の下半分を覆うと、なにか思案するように、切れ長の目を横に流すと、やがて言った。

「泥棒や」

 がん、と、弦一郎は頭を殴られたようなショックを受けた。

「ど……どろぼう……」
 弦一郎は、祖父を尊敬している。
 留守がちな両親に代わり、弦一郎に剣を教え、地元の人々、警察時代の縁者、道場の門下生たちからも頼られ、尊敬され、愛されている祖父。その祖父が、よりにもよって泥棒とは。

 普段なら、弦右衛門が泥棒をしたことがあるなどと聞いても、弦一郎は絶対に信じなかっただろう。
 だが、手紙を出してはいけないこと、そして楽屋に入れないことについて、尽く言葉を濁されはぐらかされた弦一郎は、それを信じるどころか、むしろ納得してしまっていた。そして、その納得ゆえのショックであった。

「うちのおたなにとっても、だいじなもんやったさかいなあ」
 ショックを受けて固まっている少年を前に、紅椿は、重々しく話しだした。
「あん時、あんたはんのおじいはんは警察に入らはってまだそない経っとおへんかったし、泥棒したいうたら、おおごとや」
 弦一郎は、もはや青い顔で頷いた。
「こん時はアテが立て替えさせて貰いましたよって、表沙汰にはなっとらんけども」
「そうなのですか」
「根っこは悪いおひとやあらへんよって。泥棒したんも、理由あってのことやろと思てなあ」
「……ありがとうございます」
 本気で感謝を覚え、弦一郎は深々と頭を下げた。先程まで大蛇だの大妖怪だのと思っていた老女が、まるで女神様のように思えてきた。
 そしてなるほど、こういう事情なら彼女に対して祖父母が頭が上がらないのは当然だし、こちら側からアプローチをとれないのも当然のことだ、とも、改めて納得した。

「ぼんも、おじいはんを責めたらあきまへんえ。もう終わったことや。ぼんにとっては、立派なおじいはんなのやろ?」
「はい。自慢の祖父です」
「うん、うん」
 頭を下げたままの弦一郎にかけられる声が、染み渡るようにやさしく聞こえた。
「そやからアテはもう気にしとおへんのやけど、店の方はそうもいかんよってなあ」
「……はい」
「まあ、ええわ」
 パチン、と音がしたので、弦一郎は頭を上げる。
 閉じられた扇が、弦一郎に向けられていた。

「おいない*こちらへいらっしゃい

 黒骨の扇がちょいちょいと動き、弦一郎を招く。
 弦一郎はおっかなびっくり草履を脱ぎ、爪先を出口に向けて揃えると、一段上の畳に上がった。そして招かれるまま、空いていた座布団に座る。
 近くに寄ると、むせ返るような花の香の中、鬢付け油と、白粉のにおいがした。備え付けの大きな鏡の下部分にくっついた机に、見慣れない化粧道具が散らばっている。

「手紙、な。……ま、話しつけたってもよろしおすえ」
「本当ですか!」
「ただし」
 ぎろ、と動いた黒目に睨まれて、弦一郎はびくっと肩を跳ねさせた。

「不義理だけは許しまへん」
「ふぎり?」
「して貰たもんはちゃーんと返す、いうこと」
 今度は弦一郎の目の前で、ゆっくり扇を開くと、顔の下半分を隠す。
 舞台でそうであったように、目以外のところが隠されると、なおさらその眼力が力を増した。しかも、至近距離で見下されて、である。

「弦右衛門はんは、それを守らんと泥棒しはったから出禁食ろたんえ。あんたはんもおんなし事しやったら、今度こそ絶縁や」
「しません!」
「ほォ」
「絶対にしま、……いたしません!」
 反り返るほどにビシッと背を伸ばし、弦一郎は声を張り上げる。
 目しか見えない白塗りが、にた、と笑った気がした。
「誓って、ほんまどすな?」
「はい!」
 弦一郎が道場で出すような声で返事をすると、彼女はどこからか懐紙と筆ペンを出し、化粧道具が散らばる机に置いた。

「住所と名前、書き」
 言われるまま、筆ペンのキャップを取り、真田家の住所と、自分の名前を縦書で書く。
 できました、と弦一郎が懐紙を差し出すと、扇を持っていない方の手で受け取られた。その手は細く皺だらけで確かに老人のものだったが、しかし爪は美しく整えられて磨かれていて、格式高い女性らしい手であった。
「はっ。へったくそな字やなァ」
「ぐ」
 嘲笑としか言いようのない様で言われ、弦一郎は唸った。出来うる限り丁寧に書いたつもりだったので、なおさらショックである。

「これを、あの子に渡したげましょ」
 懐紙をひらりと宙に舞わせるようにして畳むと、彼女はそう言った。
「もしあの子から手紙が来やったら、返事を書いてもよろしおす。あんたはんのおじいはんとおばあはんやったら店の住所も知っとおやろけど、あんたはんからは、あかん」
「……はい」
 真田からアプローチをかけるのがなぜいけないのか重々納得した弦一郎は、渋々頷いた。
「あの子があんたはんに手紙を出すていうんやったら、やりとりしてもかまへん住所、用意したげましょ」
「はい」
「ほな、約束や」
 すい、と、枯れ枝のような小指が差し出された。

 弦一郎がおそるおそる自分の小指を絡めると、ぎゅっ! と、想像だにしない強い力で絡め返される。
 思わず声を上げそうになった弦一郎だったが、なんとか堪える。扇の向こうの目が、やはり笑っているような気がした。──獲物を捉えた、蛇のような笑い方で。

「指切り、金切り、高野の表で血吐いて、来年腐って又腐れ」
「えっ」
「指切り、拳万、嘘ついたら針千本、飲ォ──ますゥ──」
 指切った、と歌う言葉が終わると同時に、指も離される。

 京都いちの名妓の唄は、さすがに迫力があった。まるで、本当に強いまじないの効果があるのではと本気で疑うような、霊力を感じるまでの見事な声である。

「……かねきり?」
 やや呆然としつつ、聞き慣れない、そして何やら物騒な前半の歌詞についてひとつ尋ねる。
「去勢や」
「きょせい?」
「ちんちん切るぞォ」
 地を這うような低い声で言われ、弦一郎は、びゃっ、と、尻尾を踏まれた小動物のような声を上げて、反射的に脚を固く閉じた。
 青くなればいいのか赤くなればいいのかわからなくなっている少年を前に、大蛇にもなる老女は、扇の向こうで、今度こそはっきりと嘲笑う。

「約束破らはったら、指切って、金切って、血吐いて腐れ果ててるとこ拳骨で万回殴って、さらに針千本飲ますぞ、いうことどす」
 ほほほほ、と笑う白塗りの老女は恐ろしい大妖怪にしか見えず、弦一郎はだらだら汗をかいた。先ほど、まるで女神のようだと思ったのがはるか昔のこと、あるいは夢だったかのようである。

 ──もしかして、化かされたのだろうか、と疑う程度には。
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『おいない』…本文注釈通り、「こちらへいらっしゃい」という意味だが、目上から目下へ、という関係性でのみ発生する京ことば。子供や後輩に対する優しい呼びかけにもなりますし、「ちょっとこっちに来い!」という命令にも変化します。
BY 餡子郎
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