心に我儘なき時は愛敬失わず
(十三)
「ま、あの子が手紙書けへんかったら、約束もなんもあらへんけどな」

 そんなことはない、と言い返そうとした弦一郎だったが、にまにまと笑う老女に完全に気圧され、ぐっと押し黙る。
 そして、こう言われると、急に不安になってきた。
 そういえば、紅梅はもう一度ここに来たいとも、名残惜しいとも、一度も言ってはいない。勢いで突っ走ってしまったが、もしや完全に自分の一人よがりだったのではないだろうか──

「おばあはん!」

 ──とその時、悶々としはじめた弦一郎の憂いを吹き飛ばすようにして、部屋の扉が、バーンと勢い良く開いた。
「おばあはん、弦ちゃんにお手紙書いてもよろしおすか!?」
 転がり込むようにして部屋に入ってきた紅梅は、そう声を張り上げた。

 いきなりの登場とその発言に、弦一郎はこれ以上なく目をまん丸くし、そして紅梅の祖母たる老女は、閉じた扇で額を押さえ、天を仰ぐようなポーズをとった。
「おかあはんにはわからんようにしまっさかい、なあ! おばあはん!」
「この子は……ほんま……」
 草履を脱ぎ捨てて畳に上がった紅梅は、豪華な衣装に縋りつくようにして、ぴょんぴょん跳ねた。老女は頭痛を堪えるような表情で、うんざりと呻いている。

「なあて! ……あっ」
 荷物や花の死角になっていた、というのもあるだろう。しかしおそらく興奮していたせいで周りが見えていなかったらしい紅梅は、すぐ横に座っていた弦一郎に気づいて、ぽかんと口を開けたまま固まった。

「……弦ちゃん、おったん」
「何をいきなりしおらしゅうなっとるのや」
 きまり悪そうにもじもじしはじめた紅梅の後ろ頭を、畳まれた扇が、パシーンと威勢よく叩く。
「この子は、ほんま、あほの子やな!」
「あいた、いた、いたい」
 今度は区切った言葉に合わせながら、その扇の先で、紅梅の額をコンコンと突く。紅梅は目をぎゅっと閉じ、突かれる度に上半身をぐらぐらさせて耐えていた。

「おなごのほうから行ってどないするのや、あほ。黙って追いかけさせえ」
「えええ?」
「真田のぼんごとき、手玉にとれんで女がすたるわ!」
「──ええええ?」
 最初のえええは紅梅だが、二度目は弦一郎である。何かひどいことを言われた気がしたが、よくはわからず、弦一郎は、突っつかれている紅梅を前に、ただおたおたとした。

「……佐和子はんやな」
 じろりと見下ろす視線とともに祖母に言われ、紅梅はぎくりと体をこわばらせた。
「正直に言うてみ」
「……もう会われへんかもしらんからやなあ、て言うたら、うちからお手紙出したらええよ、て言わはったん」
「ええい」
 すっかり真田の嫁やな、油断も隙も、と、老女は面白くなさそうにぶつぶつ言っている。
 しかし弦一郎は、じわじわと緩みそうになる口元を、必死に引き締めた。

「弦ちゃん」
 紅梅が、弦一郎を見た。きらきらと光を反射しながら、弦一郎をまっすぐに見る、あの目。

「うち、お手紙書いてもええ?」
「──ああ」
 勝った、と思った。

 おおきに、とにこにこしている紅梅に、老女はぞんざいに懐紙を押し付ける。なにこれ、と懐紙に書かれた字を確認している紅梅を見もせず、老女は言った。
「──そろそろお帰りやす」
「はい」
 胸を張って立ち上がり、「ありがとうございました」と言ってした立礼は、今まで一番堂々とできたような気がした。

「弦ちゃん、またなあ」
「……ん。また」
 満面の笑みで手を振る紅梅に、弦一郎は振り返り、──あまり笑いすぎないようにして、頷く。
 草履を履いて、ノブを捻る。振り返って、もう一度礼をした。

「弦一郎はん」
 重く染み渡る声で呼ばれ、弦一郎は、はっと頭を上げる。
「約束破らはったら」
 閉まりかけた扉の向こうで、白塗りの、能面のような顔が笑っている。

「──祟りますえ」

 バタン、と、異界の扉が閉まった。






 小走りに通路を逆戻りし、ロビーに戻ってきた弦一郎を出迎えたのは、やたらいい笑顔のままの兄と、ほっとした顔の祖母と、憔悴したような風情の祖父であった。

「まあ、まあ、弦一郎。本当に行ったんですか」
「行きました」
「どうでしたか」
「ありがとうございます、おばあさま!」
 きり、とした顔ではきはきと言ってのけた孫に、佐和子はきょとんと目を丸くしたものの、やがて優しく微笑んだ。
「そう。良かったわね、弦一郎」
「はい」
「なんだかわからないが、よかったな、弦一郎」
「はい! 兄さんも、ありがとうございます!」
 弦一郎が再度礼を言うと、いやいやいいんだ、お前がしたいようにできたのなら何よりだ、と、信一郎はぐりぐりと弟の頭を撫でた。
「で、何してきたんだ」
「秘密です!」
「そうかあー……秘密かー……」
 嬉しそうだがやや寂しげな兄を、弦一郎は、目的達成の興奮のままに無視した。佐和子が、にこにこと微笑んでいる。

 さて、こちらの二人はこうして全面的に味方であるが、祖父は。──と弦一郎が目線をやると、弦右衛門は、困惑した顔で弦一郎を見ていた。
「……弦一郎」
「はい」
「ええと……、紅椿殿は、なんとおっしゃっておられたかな」
「……よいのです、おじいさま」
 真剣な、少年らしくなく、悲壮なまでの表情で言った弦一郎に、祖父の顔が引きつる。
「もう気にしていないとおっしゃっておいででした」
「そ……そうか」
「そのかわり、弦一郎は約束をいたしました」
「何を」
「不義理だけはしないと!」
 きりりとした宣言に弦右衛門は盛大に引きつり、次に両手で顔を覆った。佐和子が、果てしなく生ぬるい目でそれを見ている。
「今度不義理をしたら、縁切りで指切りで金切りだと!」
「ああああああ」
 呻く弦右衛門の肩を、佐和子がポンと叩く。信一郎は祖父の様子が大層面白いらしく、吹き出しそうになるのを堪えているようだった。

「弦一郎は、かならず約束を守ります! ご安心ください!」
 弦右衛門は、もはや無言であった。ぶはあ、と、信一郎がとうとう盛大に吹き出す。
「しかし、だめと言われたことをやりました。もうしわけありません」
「ああ……」
「なんでもします。素振りですか。何本ですか」
「ああ……」
 返事になっていない声で悶える弦右衛門に、弦一郎は「どうしたのですかおじいさま!」と張り付き、「もういい」と言えば、「なぜですかおじいさま!」と縋った。信一郎は既に腹を抱えて爆笑しており、佐和子は半笑いである。とりあえず、助ける気はないらしい。

 その後、しつこい孫に弦右衛門は正座三十分の罰則を言いつけたが、無論、憔悴していたのは弦一郎ではなく、祖父の方であった。






 ──それから約、一週間と少し。蝉の大合唱にも飽き果てて、もう少しで夏休みが開ける頃。

「弦一郎、お手紙ですよ」
 祖母がわざわざ寄ってきて、ひそひそ声で手渡してくれた封筒を、弦一郎は頬を紅潮させて受け取った。白い縦長の封筒に、この家の住所と、「真田弦一郎様」という宛名が踊っている。
 弦一郎が書いたものが“へたくそ”と言われたのが納得できる程度には、随分綺麗な字であった。

「ありがとうございます、おばあさま」
「ふふふ」
 顔を近づけて、内緒話をするように会話する。
「本当は、だめですからねえ」
「秘密です」
「秘密ねえ。ふふふふ」
 祖母は、にこにこしている。

 ここで手紙を開けようかどうしようか迷い、弦一郎は、笑顔のまま自分を見ている祖母に言った。
「おばあさま、誰にも言わないでくださいね」
「あら、いけないの」
「いけません。秘密です」
「どうして?」
「どうしたって秘密です!」
 追求をはぐらかした弦一郎は、「言いませんよ、誰にも」と後からかぶさってくる優しい声を聞きつつ、廊下を走った。
 どうして秘密にしたいのか、弦一郎にも、実のところよくわかってはいない。



 自分の部屋に帰って、なるべく丁寧に封筒を開ける。
 紫色の裏地が使われた白い封筒から、折りたたまれた、薄桃色の便箋が出てきた。
 弦一郎はそれを何度か読むと、元通りに畳み、封筒に戻す。

 そしてその封筒を、祖母が用意してくれた、和紙の貼られた箱に仕舞った。その箱の中には、ラムネの瓶から取り出したビー玉も入れられている。

 手紙と一緒に入っていた、「こちらに送ってください」という注釈とともに、京都の住所が書かれた紙を、机の前に丁寧に貼ると、弦一郎は立ち上がった。紅梅の手紙の最後に、「佐和子おばあさまに、よろしくおつたえください」という一文が添えられていたからだ。
 不義理をしてはならない。

 先ほど別れたばかりだが、祖母に言葉を伝えるため、そして封筒と便箋を頂戴しに、弦一郎は部屋を出る。
 さてどういった返事を書こうか、と、弦一郎は生まれて初めて書く手紙について考えた。

 ──ああ、そうだ。まず、書道を習い始めることなど。
- 心に我儘なき時は愛敬失わず -
(むやみに我を張らない素直な者は、人から愛され敬われる)

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BY 餡子郎
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