心に我儘なき時は愛敬失わず
(四)
「てにす?」
 こてん、と、紅梅は首を傾げた。

「弦一郎、お前が学校上る前に使ってた、柔らかいボールのやつあるだろ。あれ取ってこい」
「はあ」
 紅梅の服装の問題は片付いていないのだが、信一郎は「いいから、いいから」と弦一郎を緩やかに追い立てた。
 弦一郎は黙ってそれに従い、庭の手入れ道具など、比較的よく使うものが仕舞ってある物置の隅から、今使っているものより小さい19インチのラケットと、三種類あるキッズ用ボールのうち、一番初心者用の赤色ボール──普通の黄色のボールより75%減圧したものを取り出した。

 本当は、テニスというスポーツ自体知らない様子の紅梅には、更に柔らかいスポンジボールのほうがいいのかもしれない。
 しかしそんなものを使っていたのは弦一郎が物心つくかつかないかの頃なので、どこに置いてあるのかわからなかった。
 ちなみに現在弦一郎は、キッズボールのうち最も圧の高い25%減圧の緑ボール──本来ならば五、六年生からが適正のものを使っている。
 子供の腕力に合わせた圧力のボールを使うことで、成長の妨げや怪我などを防ぐために存在するロープレッシャーボールであるが、弦一郎の腕力には、このボールがちょうどよかったのである。

 靴を持って玄関から上がり、現在自分が使っているラケットを部屋から持ちだして、縁側へ戻る。すると、単衣の上から袴をつけた紅梅が、古ぼけたキャンパス地の運動靴に足袋を履いた足を突っ込んでいた。
「何でもとっておくのも、たまには役に立つもんだ」
 袴は信一郎が小さい頃剣道をやっていた時のもので、運動靴は学校で弦一郎が履いている体育館用のものだ。洗って、縁側に干していたのを持ってきたようである。
 靴は紅梅には少し大きかったが、靴下より厚手の足袋を履いているのと、紐をきつく締めたことで、割と調度良く収まったようだ。

 準備ができると、信一郎が庭の木を使い、ゴムひもを張ってネットがわりのものを作り、地面にだいたい4/1コートくらいの囲いをひいてくれた。

「──で、ボールが自分のコートで跳ねたら打ち返す。ノーバウンドでもいいんだけど、難しいから今回は考えなくていい。わかった?」
「へぇ……」
 よくわかっていないことが丸わかりの仕草で、紅梅はとりあえず頷いた。
「サーブ、弦一郎からな。最初だから軽ーく打ってやれ」
「はい」
 弦一郎は、ポン、と赤いボールを一度地面で跳ねさせてから、最近ほとんどやらない下手打ちで、ごく軽いサーブを打つ。
 するとぎこちないが、その分慎重な様子で、紅梅がぽこんとボールを打ち返した。
「上手い、上手い」
 縁側に座った信一郎が、感心したような声を出した。

 確かに、テニスのテの字も知らない状態、しかも着物に袴という格好でちゃんと相手のコートの中にボールを返せるというのは、なかなか大したものである。
 テニススクールに入ったばかりの子供は、まず空振りするか、当たっても力加減がわからずにネットまでボールが飛ばなかったり、はたまたホームランを打ってしまったりというのが普通の光景だ。
 しかし、紅梅は、弦一郎がかなり緩く打っているとはいえ、怖がることなくボールの軌道を見て、身軽に走り、力加減を見極めて打ち返してくる。
 自己申告に嘘はなく、袴に足を取られることもない。

 どうやら紅梅は、見た目に反して、動体視力を含め、非常に器用で軽やかな運動神経の持ち主のようだった。この様子なら、体育5、というのも本当だろう。
(これなら……)
 ぽこん、と軽い音を立てて、紅梅が真正面、これ以上なく打ちやすい場所にボールを返してきた。弦一郎は、グリップをギュッと握りしめる。

 ──ドッ!

 気持ちがいいほどのフォロースルー。
 弦一郎が打ったスマッシュは、真っ直ぐな赤い軌跡を描いて、紅梅のコートのライン際に突き刺さった。

「あっ」
 あまり跳ねないロープレッシャーボールが、分厚い雨戸にぶつかって、ころころと庭に転がってゆく。走り出しかけて固まったような体勢の紅梅は、転がるボールを見てから、ぱっと弦一郎を振り返った。
「堪忍え*ごめんなさい
「……ん?」
 聞き慣れない言葉だったが、わずかの時間差で、謝られた、ということを理解し、弦一郎は首をひねる。謝られるようなことは何もないはずだ。

「返されへんかった……」
 そう言って、紅梅が残念そうにボールを見るので、弦一郎はなんだか複雑な気持ちで声をかけた。
「……お前は、今日はじめてテニスをしたんだ。簡単に返されたら、俺のほうが困る」
「えっ、返したらあかんの?」
「えっ、いや、いけなくはないが」
「はい、タイムタイム」
 ゴムひも越しに噛み合わない会話をして首をひねりあう子供二人に、信一郎が割って入る。
「ええと、紅梅ちゃん。いま弦一郎は、君が打ち返せないように打ったんだ」
「そう。それで打ち返せなかったから、点が入って、お前の負け」
「あーうんまあそうなんだけども」
 信一郎の言葉に弦一郎が補足をしたが、信一郎は困ったような顔で二人を見た。紅梅は、目を丸くしている。

「……勝ちとか負けとか、あるんや……」

 呆然とした様子で呟かれた紅梅の言葉は、弦一郎にとって、非常に斬新なものだった。「そこからか」、というような意味合いで。

「そうだ。1ゲーム4ポイント先に取ったら勝ち、1セット6ゲーム先に取ったら──」
「弦一郎、こら弦一郎」
 説明を始めた弟の頭を掴むように撫で、信一郎が再度割って入る。
「──遊び! 遊びなんだから、そういうのはいいんだ」
「でもテニスは勝負です」
 きり、と表情を引き締め、弦一郎は反論した。
 テニススクールでも、弦一郎は年上の小学生らに勝ち続けることで実力を認められ、抜きん出た将来有望な選手という立場にある。そしてそれは、剣道でも同じだった。

 勝ち続けることが強さであり、そして多く勝つためには、なるべく早く相手を倒すことが必要になる。相手の隙を、弱みを、容赦なく叩き潰し、相手の心を折り、素早く勝つ。そして次の相手を倒しにかかるのだ。
 スクールに入り、同年代の子供達と並べられることで、弦一郎はそれにのめり込んだ。現在、ただ一人を除いて、弦一郎に勝てる同年代はいない。

「弦一郎、お前ね。今日初めてテニスの存在自体知った子に勝って、何か意味があるのか?」
「う……」
 しゃがみこみ、半目の視線を合わせて言ってきた兄に、弦一郎は詰まった。
「それに、じいちゃんとばあちゃんから、この子と遊んでやれって言われたんだろ? 勝負は遊びか?」
「違います」
 きり、と再度表情を引き締める。勝負は真剣なもので、決して遊びではないからだ。しかし、目の前の兄の顔がにこりと笑っていることに気付き、弦一郎はハッとした。
「そうだよな。よし遊べ」

 ──また言いくるめられた。

 豪快に笑いながら怒涛のうちに弦一郎を引きずっていく祖父や、おっとりと穏やかだが動かないときは梃子でも動かない祖母、テニス以外は割と放任的な父、根性論と義理人情を信条とし、悪いと思ったことには容赦なく鉄拳制裁を繰り出す母という家族構成であるが、この兄の理論武装にも、弦一郎はただ一度として勝てたことはない。

 真田家は武士の家系であり、その特色は分り易すぎるほど大いに血筋に現れているが、この兄に関しては、武将というよりも智将、といったほうがふさわしい。
 しかもそのやり方は、言い伏せるとか言い負かすとかの攻撃的なものではなく、言いくるめるとか、説き伏せるとか、搦手の類のやり方だった。
 根性論者の母はよく詭弁だと言って苦い顔をするが、さすが弁護士志望といったところだろう。
 中身や性格は思い切り母親似だと評判の弦一郎が、時に家族全員を論破することもあるこの兄に、勝てるわけがないのである。
 しかも弦一郎は、兄に対して、例の気まずい引け目もある。

 しかし、説き伏せられた所で、弦一郎はどうしていいかわからなかった。
 勝負ではなく、自主練というわけでもないテニスとは?

「そんなにくそ真面目に考えなくてもいい。楽しくテニスすればいいだけだ」
「楽しくテニス……」
 弟が困惑しているのがわかったのか、信一郎は何度目かの苦笑を浮かべ、放って置かれて所在無さげにしている紅梅に目を向けた。
紅梅ちゃん。さっきの、楽しかったかい?」
「……打って、打ち返すのん?」
「そう」
 信一郎が笑いかけると、紅梅はおずおずと言った。

「楽しおしたえ*楽しかったです

 弦一郎は、思わず、紅梅を見た。
 彼女の小さな手には、弦一郎が初めてテニスをした時に使っていた、古いラケットが握られている。ぼろぼろになっているが、グリップの赤いラインを気に入っていたことを、なんとなく思い出した。

「だ、そうだ、弦一郎。ただラリー何回続けられるか、とか、テニス始めた頃にお前もやっただろう」
「はあ」
 確かに、やったような気もする。──物心つくかつかないかの頃に。
「じゃあ、俺は昼飯食ってくるから。仲良くするんだぞ」
 ああ腹が減った、とぼやいた信一郎は、本当に腹が減っているのだろう、若干ふらつきながら、台所の方へ消えていった。
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BY 餡子郎
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