心に我儘なき時は愛敬失わず
(三)
「では、おじいさまは仕事に行ってくるからの。ふたりとも、仲良くするんじゃぞ」

 警察官だった弦右衛門は三年前に警部階級で定年を迎えたが、その後も警察のお家芸の一つである剣道の教官として、度々顔を出している。
「はい、おじいさま」
「へぇ、おじいさま」
 小さな二人が東西それぞれのイントネーションで素直に返事をすると、弦右衛門はウムウムと満足気に頷いて、竹刀袋を担ぎ、意気揚々と出かけていった。
 そしてそんな夫を見送った佐和子は、さて、と割烹着を整える。

「じゃあ、おばあさまは今のうちに洗濯物を干しましょうかね。弦一郎、お梅ちゃんと遊んであげなさい」
「えっ」
 佐和子はそう言い残すと、ベテラン主婦のてきぱきとした足取りで、縁側に置いてあった洗濯籠を抱え、あっという間にいなくなった。
 ぽかんとした弦一郎が横を見ると、同じくぽかんとした感じの表情が、目線よりわずかに下に見える。

 この時、弦一郎は、途方に暮れた。

 弦一郎は就学前、幼稚園の類に通わなかった。その代わりではないが、四歳の時から真田家の人間として当然のこととして剣道の稽古を付けられ、更に翌年には、父親が昔やっていたテニスを始めた。
 そして、小学校に上る前から毎朝きっちり四時に起床し、朝稽古をこなし、朝飯を食べ、庭でテニスの練習をし、帰ってきたら昼飯を食べ、道場で今度は門下生たちに混じってまた剣道の稽古をして、読み書き計算を習い、少しだけテレビを──しかも主に祖父が好きな時代劇を──観て、晩飯を食べて風呂に入って寝るという生活を、弦一郎は、文句の一つも言わずに送ってきた。
 小学校に上がっても早朝稽古の習慣は変わらず、テニスは庭での自主練習をそのままに、更にテニススクール通いが加えられ、だれるどころかなお熱心に全てをこなしている。

 剣道では祖父が、テニスに関しては父がそんな弦一郎の様子を喜ばぬはずがなく、次はあれだ、それならこれだ、と、次から次へと弦一郎に課題を与えた。
 しかも弦一郎がそれをまた黙々とやるものだから、父と祖父は更に調子に乗り、祖母と母は呆れ、兄と弦一郎には少し距離がある。

 そんなわけで、弦一郎は、「遊ぶ」ということにいささか疎い子供だった。
 季節の遊びや家族旅行先でのレジャーといったものがないわけではないのだが、しかしそれだけに、遊ぶということは、弦一郎にとって日常のことではなかったのだ。若干八歳、一般的に遊ぶのが仕事といわれる年齢であるのに、である。
 だが、それが真田家であった。

「遊ぶ……」
 小学生である。さすがの弦一郎も、全く遊んだことがないわけではない。学校の昼休みにはクラスメイトと走り回ったり、ボールを投げたりしている。
 しかしその仲間は同じ男子か、男子顔負けの活発な女子のみであったし、後に引きずることがないので黙認されているとはいえ、勝負に熱くなるあまり、十回のうち六回は、半ば喧嘩に近い有様になる。
 しかし、ガラスケースに入った日本人形のような風体の紅梅は、とてもそういうタイプには見えない。それ以前に、辛うじて振袖ではないものの、その格好からしてまず走り回るのには適していないだろう。

「いつも、何をしてる?」
 何も思いつかなかった弦一郎は、素直に本人に聞いた。紅梅は少し考えてから、

「……お稽古」

 と言った。
 “お稽古”の内容はきっと全く違うものだろうが、どうもある意味弦一郎と同類のようではあるらしい。それに弦一郎は何かホッとしたような感じを受けたが、状況が変わるわけではない。
 どうしたものか、と二人で並んで突っ立っていると、背の高い人物が、家の奥からぬっと現れた。

「ばあちゃん、俺の昼飯は?」

 Tシャツに綿のパンツというラフな格好で縁側から顔を出したのは、真田家の長男、弦一郎の兄、信一郎である。
 彼は、勉強に根を詰めているという理由で、切りの良い時に一人で食事を摂ることを許されていた。
「冷蔵庫にラップしてありますよ」
 佐和子の声が、角向こうにある干し場から響く。信一郎もまたそれに返事をし、居間に引っ込もうとした──が、庭の一角に立っている小さな二人に気付き、足を止めた。

「弦一郎、その子、学校の友達か?」
「ちがいます」
 おじいさまとおばあさまのお客様のところの子です、と弦一郎がはきはき説明すると、紅梅が一歩進み出た。
「こんにちは。紅梅どす」
 深々と頭を下げる。先ほどは座礼であったが、立礼もきちんと美しく、弦一郎はひっそり再度感心した。しかし、ちらりと見上げた兄の表情は、あまり芳しくない。

 困惑したような、気に食わない様な、苛つくような──どこか悲しそうにも見えるその表情は、兄が弦一郎に対してよくする表情だった。
 そしてそれは決まって、弦一郎が祖父らになにか教えを受けている時、それを実践している時など。

 弦一郎は、次男だ。しかし、弦一郎という名前をつけられている。
 その理由がこの兄にあることを、弦一郎は、はっきり言われずとも、ぼんやり察し始めていた。

 弦一郎を含めた他の家族がめったに風邪もひかないのに対し、十一歳離れたこの兄は、幼い頃は喘息持ちで、今でもほとんど毎年風邪をひいたりしており、身体があまり丈夫ではない。
 そのせいもあってかあまり剣道が好きでなく、テニスにもさほど興味が持てずに終わり、現在は時折、運動不足解消程度にこなすのみだ。
 だがその代わりによく本を読み勉強が得意で、今目指しているのも弁護士、在籍する大学は、小学生の弦一郎でも名前を知っている、有名大学の法学部である。
 そのため彼を褒め称えこそすれ咎める者は一切居ないが、道場の跡継ぎであるはずの長男がそんな性格であることを、祖父は少しだけ残念に思う時があるようだった。

 師範と主は別であるので、剣道をしない者が、剣道道場を持つ家の跡取りになれない、ということは別にない。
 しかし剣道一筋に生きてきた祖父は、次男に“弦”の字を与え、弦一郎と名付けた。

 物心つき、学校に通い、そういうことをはっきり言われずとも理解し始めてから、弦一郎は最近、この兄が自分に抱いているのだろう複雑な気持ちを、ぼんやりと考えはじめていた。
 そして兄のこの表情こそが、自分に抱いている感情の現れではないか、ということについても。

 しかし、己に向かってこの表情が向けられるのはいつものことであり理解もできるが、客人の、しかも初めて会った紅梅に対して向けられたのは、想定外の事だった。
 しかも兄の今の眼差しは、いつも己に向けるものよりも数段硬く、冷たい。

「兄さん」
「ん? ああ」
 思わず声を出すと、兄の雰囲気がふっと和らぐ。
「ごめん、あんまりちゃんとした挨拶だったんで、驚いた。俺は弦一郎の兄で、信一郎。よろしく」
「へぇ、よろしゅうおたのもうします」
 挨拶を返されたことで、紅梅が、深く下げた頭を上げた。
 微笑んで返事をしたその態度には兄の視線を気にした様子はなく、弦一郎は一人ホッとした。

 兄は、決して意地の悪い人間ではない。
 幼いがゆえ、時に愚直とすら言える性格の弦一郎でもたやすくその複雑な心境が察せるような立場でありながら、彼が弦一郎に向けるのは、逆に言えば、このささやかな視線だけなのだ。

 真田家のお家芸とも言える強靭な身体能力に恵まれなかった代わりに、兄には弁護士を目指せるまでの素晴らしい頭脳がある。
 そして弦一郎の学校の勉強を気を悪くするでもなく気軽に見てくれ、また稽古ばかりの弦一郎に、まだ小さいのだからと、海や映画など、両親や祖父が教えない遊びに連れて行ってくれたりもする。
 自分を差し置いて弦一郎と名付けられた弟に対し、こうして快く接してくれる兄が、弦一郎は好きだったし、とても尊敬している。──申し訳ないような気持ちと併せて。

「で、二人して突っ立って、どうした」
「遊べと言われました」
 ──と言って紅梅をちらりと見、弦一郎は気まずげに黙する。そんな弟の様子に、信一郎は苦笑を浮かべ、首の後を掻いた。
「相変わらず、お前は遊ぶのが下手だね」
「すみません」
 別に謝るようなことじゃないだろ、と信一郎は更に苦笑したが、弦一郎は俯く。

 祖父や父が与えてくる課題、つまり剣道やテニスは全力で応えれば達成できることがほとんどなのだが、兄が「やってみろ」と言うものを、弦一郎は上手くこなせることがあまりない。
 それは例えば、今やっている映画の中で何が観たいか選べとか、何色が好きかとか、縁日で取ってきた金魚に名前をつけろ、とかである。
 ちなみに、散々悩んだ挙句、金魚に「金魚丸」という名前をつけたら、兄はなんとも言えない顔をした。

「何でもいいだろ、鬼ごっこでも、かくれんぼでも」
「この格好では走れないでしょう」
「ああ、そうか──」
「走れるえ*走れますよ
 納得した信一郎の声を、鈴を転がすような声が遮った。
「うち、走れる」
 日本人形のような童女は、もう一度言った。笑っていない。

「学校も、この格好で行っとおす*学校にも、この格好で行っています
「ええ? でも、転んだりしたら汚れるだろ」
 紅梅が着ている着物は、七五三などで着るものほど仰々しくはないが、そのへんのデパートで投げ売りされている化繊の浴衣とは比べ物にならない染物である。
「そやから、汚さんように走るんどす*ですから、汚さないように走るのです。うち、体育は5やもん」
 少し、胸を張って言ったような気がした。

 しかし、本当ならすごいことである。
 弦一郎は剣道の稽古の時に袴を穿くが、これとて、足捌きに慣れないうちは歩くのもなかなか難しい。
 弦一郎は四つの時から慣らしている上、私服でも着物を着せられる機会がしばしばあるので堂に入ったものだが、普段普通に洋服での生活をしている門下生、特に入ったばかりの者は、磨き上げられた道場の床の上、袴に足を取られてすっ転ぶ様は珍しくない。
 袴を履いていてもそうなのだから、単衣で走り回れてしかも転ばないというのは、相当な体捌きができるということだ。

「でも君、女の子だろ」
「……はしたない言うて、叱られるん……」
 しょんぼりと言った紅梅に、そうだろうなあ、と信一郎は頷いた。

 時代劇などで、袴を穿いていない着流しの浪人が思い切り走るシーンなどがよく出てくるが、その際、褌の前垂れや太ももの内側などが大いに露出する。
 つまり、走れたとしても、見目のいいものではないのだ。男の弦一郎ですら浴衣で走ったら叱られるのに、女の紅梅など論外の行為である。

「でも、走れるんだよな?」
 しゃがんで目線を合わせた信一郎に問われ、紅梅は、こくりと頷いた。
 おかっぱの黒髪が、さらりと流れる。

「そうか。じゃあ、テニスやるか?」
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BY 餡子郎
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