心に我儘なき時は愛敬失わず
(二)
 弦一郎は、真田家の次男として生まれた。
 真田家で最も年少の彼は現在、満八歳、小学二年生である。



 夏休みも後半になった、その日。
 朝飯が済んでから、庭の塀を相手にテニスボールを打っていた弦一郎は、昼の稽古の時間が迫っているのに気付き、自分の部屋に戻ろうとしているところだった。

 真田家は、そこそこ有名な剣術道場をやっている。
 血筋を辿れば、御家人として、神奈川奉行所預かりの与力を任されていたのが始まりと伝えられている。
 元々さほどの石高の家ではなかったようで、歴史書でその名を見る事はごく少ない。しかし先祖代々の土地を今でもそれなりに所持しているので、家系図はまったくの嘘ではないのだろう。

 一八七六年、明治九年に廃刀令が発された直後、武士の時代が終わりを告げてから立ち上げた真田剣術道場が全国的に有名になったのはやや皮肉な話であるが、今では現当主、弦一郎の祖父・弦右衛門が警察官、その一人娘──弦一郎の母が自衛官であったりなど、歴代肉体派公務員となる者が多いことから、地元では大層信用と信頼の置ける小さな地主殿、というのが、現在の真田家である。

 そんな古い家ではあるが、代々あまり兄弟が多くない家系であるからだろうか、親戚は意外に少なく、弦一郎には、おじ、おば、いとこなどとの交流もほぼなかった。
 その代わり、警察や自衛隊、そして道場関係者など、上下関係が厳しく仲間意識の強い職に属する家族の知人が、度々訪れる。
 だが、そのように総じて気が良くも厳つい人々ばかりの来訪者の中、その訪問者はひときわ異彩を放っていた。

「ごめんやす」

 聞き慣れない言葉であると同時に、じんわり染みてくるような声であった。
 よく通る、という意味では、稽古の時に響き渡る溌剌と威勢のいい声もそうであるのだが、決して音量は大きくないのにはっとする声色をどうやって出しているものか、弦一郎には見当もつかず、魔法の呪文でも聞いたような気分になった。

 そしてそれを発したのも、どこか魔女のような雰囲気のひとだった。
 濃い色の着物を着ていて、おそらく年配の女性だということがわかる。それだけでも、真田家にやってくる客人のタイプではなかった。

 弦一郎はその正体不明の客人が気になり、そっと縁側から覗いてみる。
 しかし大合唱する蝉の声がうるさかったせいか、真夏の強い日差しが作る濃い陰のせいか、それとも単に距離が遠いせいか、その顔をあまり鮮明に認識出来ない。
 対応しているのは、祖父の弦右衛門と、祖母の佐和子の二人だった。二人共大げさなほどに訪問を喜んでいるようで、二人の声ばかりが大きく聞こえる。

 祖父母はお茶の一杯ぐらい飲んで行けと薦めているようだったが、客人は辞退し、風呂敷包みと、高級そうな土産物の紙袋を、佐和子に手渡した。
 そして踵を返した客人は、濡れた刃のような後ろ姿を一度も振り返させることなく、門外に消えたのだった。







「こんにちは」

 ラケットを仕舞い、剣道の道着と袴を着て祖父を呼びに来た弦一郎は、ぎょっとして肩を跳ねさせた。
 聞き慣れない抑揚のイントネーションで、鈴を転がすような、と表現するにふさわしい幼い声が、座った祖父母の陰から聞こえたからだ。

 そこにいたのは、一人の童女だった。

 驚きのあまり挨拶を返す気も回らず思わずじっと見ると、童女も興味深そうな様子でじっと見返してきた。この反応からして、人見知りの気はあまり無さそうである。

(──座敷わらしかと思った)

 弦一郎がそう思うのも、無理はない。
 振袖ではないものの、鮮やかな朱赤の着物を着たおかっぱ頭の童女は、祖母の部屋にある、ガラスの箱に入った日本人形そっくりだった。

紅梅こうめどす」

 挨拶しなさい、と祖父母に促されて弦一郎が座ると、童女は正座をしたまま、ちょこんと指をついて深々と頭を下げた。切りそろえられたやわらかい黒髪が、するん、と流れる。
 小さな子どもとしては馬鹿丁寧すぎる挨拶だが、同じ作法を習っている弦一郎はそれに感心こそすれ、おかしいとは思わない。
 童女の印象が、正体不明の座敷わらしから、礼儀正しそうな子、というものに変わった。

「真田 弦一郎です」

 負けじとできるだけ張りのある声で名乗り、弦一郎も同じようにして頭を下げる。
 赤い着物の童女と、白い道着と藍の袴の男児が和室で小さな頭を下げ合うのは、どこか芝居めいていた。
 まあ小さいお見合いみたい、と佐和子がころころ笑っていたが、オミアイたるものがどういうものなのか弦一郎にはわからず、きっと大人の使う言葉なのだろう、とだけ思った。

 紅梅は弦一郎と同学年だそうだが、その背は弦一郎より頭半分くらい低く、全体的に小さめの印象だった。
 弦一郎のクラスメイトには日常的に和服を着る子など当然居ないし、きちんと三指ついて頭を下げられるような子もいない。
 だから、魔女のような客人とともに突然家にやってきた、赤い和服を着たおかっぱ頭の童女は、なんだかまるで現実感のない存在だった。「こちら今日からうちの座敷わらしになる子で」などとファンタジーな紹介をされたほうが、いっそしっくり来る気がするほどだ。
 だが当然そんなことはなく、先ほどの魔女のような客人は紅梅の祖母であり、弦右衛門と佐和子が結婚するときに大層世話になった人物で、京都で芸妓をやっているらしい。
 彼女は日本舞踊においては一角の人物で、こちらで開催される公演で舞を披露するために上京してきた。
 その際、どうせなら顔を見せに来てくれと二人が請い、更に孫娘を連れてきてはどうか、と提案したのだという。
 公演の打ち合わせやリハーサルが終わるのが、明日。明後日が公演日なので、紅梅は真田家に二泊したあと東京で舞台を見て、そのまま京都に帰る、という予定だ。

「おじいさま、芸妓とはなんですか」
「ううん」
 弦一郎が質問すると、弦右衛門は少し視線を漂わせてから、舞を舞ったりする女性のことだ、と言った。
「まあ、明後日になればわかる。儂らも席を頂いたからな。楽しみだのう」
 祖父母は二人してにこにこと機嫌良さそうで、よくわからないが、明後日外出するということは理解し、弦一郎は頷いた。
「おちゃん、短い間だけど、弦一郎と仲良くしてあげてね。そうね、良かったら、弦ちゃんって呼んで」
 佐和子がにこにこと発した言葉に、弦一郎は戸惑った。
 真田家の家事を取り仕切り、しかし家族の中で最も温和でほわほわとしているこの祖母は時折突拍子もない事を言い出すが、弦一郎を「弦ちゃん」などと呼ぶ提案をしたことなどないし、誰もそう呼んでいない。
 しかし、紅梅は僅かに首を傾げて弦一郎を見ると、

「へぇ* はい。弦ちゃん」

 と、あっさり呼んだ。

 弦一郎、という名に対し、その呼び方自体は安直なものであろう。
 しかし生まれつき身体が大きい方な上に比較的発育が早く、身長もクラスで一番高く、極めつけに、顔つきも幼いながら祖父や母によく似て、良く言えば凛々しく、悪く言えば険しく、道場見学に来た未就学児に顔が怖いと泣かれたことすらある──さすがにこの時は、弦一郎のほうが泣きそうであった──弦一郎は、生まれてこの方、そんな風に可愛らしく呼ばれたことなどない。
 そのため、“弦ちゃん”などと呼ばれると、正直いって、むずむずと尻の座りの悪い思いをした。

「では弦一郎、昼の稽古に行くぞ」
「はい」
 なぜかでれっとした顔の弦右衛門が声をかけたので、袴を踏まないように立ち上がる。
「おちゃんも、見に来るかい。わかるかな、剣道。チャンチャンバラバラ、ヤッ、とう」
 弦右衛門が、軽いジェスチャーも加え、少し戯けたように言った。
 滅多に接さない小さな女の子相手だからか、体育会系の中の体育会系、男所帯の当主の声は、割とあからさまに優しい。
 祖母と並んでまだちょこんと座ったままの紅梅を立って見下ろすと、なおさらちんまりと小さく感じた。
「時代劇のんどすか」
「そうそう。見るかね」
「見とおす*見たいです
 ぱっ、と紅梅が笑って返事をすると、興味を持たれたのに気を良くしたのか、そうかそうか、と弦右衛門も破顔した。



 いつもどおりに脇目もふらず稽古に励んだ弦一郎は、いつもどおりだったからこそ、周りの者がちらちらと多くよそ見をしていることに気づく。
 見学者や指導者が座る、道場の端のスペース。そこにちんまりと座る童女は、床の間に飾られた日本人形そのものだった。
 本格的で厳しいことで有名な真田道場は、女性がいないこともないが多くはないし、いたとしても中学生以上である。
 だから小さな紅梅の姿は、なかなかに皆の目を引いているようだった。

 掛け声、叱咤、激励、またその返事。何にしても、道場内で発される声はびりびりと肌が痺れるほど大きいし、竹刀がぶつかり合う音も苛烈である。
 日本人形のような童女は、大きな音がするたびに目を丸くし、背筋をビンッと伸ばしていた。
 しかし、猫を驚かした時とどこか似たその反応は、恐怖で縮こまるというよりは、単にびっくりしているだけのようだ。時間が経つごとに慣れたのか、まじまじと剣士達を見るようになった。
 にこにこと横に座った佐和子が、剣士達を時々示しながら何か説明しているのを、頻繁に小さく頷いて、熱心に聞いている。
 稽古の見学だけで怖気づいて泣く子供もいるので、そこそこ度胸もあるようだ。

 そして、紅梅は始終佐和子に構われながら、特に弦一郎をちらちらと見てきた。
 何がそんなに気になるのかはわからなかったが、弦一郎も紅梅のことはなんだか珍しかったし、もしかしたら向こうも自分に対してそうなのかもしれない、とも思った。

 弦一郎も一度ちらりと見ると、一文字に切りそろえられた前髪の下の黒い目と、ぱちりと視線が合う。逸らさずにじっと見返してきた目線に毒気はないので、悪気あって見ているのではないらしい。

 なにか感じたわけではない。ただ、不快ではなかった。
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紅梅が返事をする時に言う「へぇ」は、「ふーん」「へー」のような感嘆の意味ではなく、古めの京ことばで「はい」「わかりました」という意味です。ニュアンスもきちんとしたもので、舞妓や芸姑さんの間では、「はい」よりも「へぇ」で返事をします。

作中の京ことばで、ニュアンスが伝わりにくそうなものは『 * こんな感じです 』のマークをつけ、マウスポインタを当てると標準語の訳文が出るようになっています。
BY 餡子郎
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