心に我儘なき時は愛敬失わず
(五)
「じゃあ──やるか」
 取り残された弦一郎は、戸惑いつつも、赤いボールを拾い、紅梅がコートの中に戻ったのを確認してから、もう一度ライン際に下がる。ついいつもの高いサーブのフォームをとりかけ、ラケットを下げ、下手で打った。

 ──ポォン。

 もはや意味が無いほどに緩いロブ。
 てん、と跳ねたボールを、紅梅が打ち返す。

 ──ポォン。
 ──ポォン。

「あっ」
 紅梅が三度目に打ち返したボールが、ゴムひもを越えず、それどころか真横に飛んでいった。
「堪忍え」
「いや……」
 たたた、と、紅梅が小走りにボールを追いかけていく。
 その後ろ姿に、これは本当に楽しいのだろうか、と、弦一郎はもやもやしたものを抱えた。
 勝ちも負けもなく、ラリー練習ですらない、ただ緩く打ち続けるだけ、これが「遊び」というものなのだろうか。

「──弦ちゃん」

 ハッとして振り返ると、赤いボールを持った紅梅が、コート枠の中を走り回ったせいか僅かに息を上げながら、まっすぐ弦一郎を見ていた。
 あの、恐れ気なく、遠慮もなくまっすぐ自分を見る、透き通った、真っ黒い目。
 夏の木漏れ日が、一点きらりと反射して光っている。

「あ……、ああ、なんだ?」
 慣れない呼び名と真っ直ぐな目に少しだけ狼狽しつつも返事をすると、紅梅は言った。
「弦ちゃんは、どないしてボールまっすぐ打てるのん?」
「……は?」
「うち、さっきまっすぐな、弦ちゃんとこ打ったつもりやったけど、横にとんでったん」
 ぽーんて、と、紅梅はボールを持った手で空中に弧を描いた。
「さっきのはえらい外れたけど、なんかなあ、思たとこに飛べへん。そやけど弦ちゃんはちゃんとねろたとこに打てとおやろ。なんで?」

 今までの「時々喋る日本人形」という印象をぶち壊して話しかけてくる紅梅に気圧され、少し仰け反る弦一郎であったが、質問の意図を理解し、体勢を整えた。
「……それは、お前のラケットの面が、ボールに対してまっすぐ当たっていないからだ」
「なんでまっすぐ当たらへんの?」
「フォームがきちんとしてないからだ」
「フォーム、てなに?」
「ボールを打つときの体勢のこと」
「うん?」
 紅梅が首を傾げるので、弦一郎はうーんと小さく唸りながら、首の後を掻いた。
 しかし少し考えてから、ボールを貸せと手を出し、紅梅から赤いボールを受け取る。

「あの壁の、シミのところ、わかるか」
「へぇ」
「あそこに当てる」
 真田家の敷地を囲う、瓦屋根の飾りのついた塀。弦一郎の背中側に位置するその壁に、二人は向き直った。
「ラケットを見てろ」
「ん」
 紅梅が頷き、弦一郎の手元をじっと見た。弦一郎は赤いボールを手元の範囲で軽く放り、ぽん、と打つ。まっすぐ飛んだボールは、予告通りの場所に当たって跳ね返り、紅梅の足元にころころと転がって戻ってきた。

「……すごい、ほんまに当たった」
「まあ……」
 フルコートならともかく、約4/1コート、しかもそれより狭い距離の壁打ちである。弦一郎にとっては当たり前の事だったが、紅梅には驚くべきことだったらしい。
 紅梅は、目を丸くして、弦一郎のラケットとボール、当たった壁を見比べていた。

「ラケット、見たか?」
「ん、まっすぐやった」
 紅梅が頷く。
 飛んできたボールに対し、弦一郎のラケットは確かにまっすぐ、垂直だった。

「きちんと構えて、正しくラケットを持って打てば、だいたい狙った通りに飛ぶ。……真っ直ぐな壁にボールを投げた時と、坂道にボールを投げた時では、跳ね返る方向が違うだろう? 壁がラケットだ。わざとラケットを傾けてボールを飛ばす方向を変えたりもするが、最初はまっすぐ当てることだけ考えろ」
 父やコーチに言われた言葉を思い出しながら弦一郎が説明すれば、なるほど、というように、紅梅は真剣な表情で頷いた。

「やってみろ」
 赤いボールを渡すと、紅梅は肩幅くらいに足を開き、少し膝を曲げる。
 それに気づいた弦一郎は、少し感心した。
 テニスの基本の構えだが、弦一郎はただ打ってみろと言っただけで、そのやり方は教えていない。見ていろ、と言ったらきちんと見て更に再現してみせた覚えの良さは、教える側として、なかなかに快いものだった。

 しかしさすがに、一回目ですぐ的に当たるほど調子よくはいかない。
 何度か繰り返して近づいてはきたものの、ど真ん中には当たらないのだ。
 何故か、と弦一郎も紅梅のフォームをチェックしてみると、フォームは大分良くなっていたが、肝心のラケットが手の中で回ってしまっていたのが原因とわかった。
 そのため、ラケットを地面に垂直に立て、グリップの握り方を教える。
「包丁の持ち方とおんなしやね?」
 弦一郎が教えた基本のコンチネンタルグリップには、そんなコメントが返ってきた。真田家で包丁を握るのは佐和子だけなので弦一郎はなんとも言えなかったが、今度祖母が料理をしている手元を見てみよう、と思った。

 そしてその「包丁の持ち方」にしてから、なんとかボールが三、四回に一回程度、的に当たるようになってきた。
「ほら、フォームができてれば、狙ったところに打てるだろう」
「ん!」
 紅梅は、強く頷いた。頬はりんごのように赤くなっており、唇は引き結ばれている。そして、目は興奮しているのがありありと分かるほどきらきらしていた。
「ボールが来るところに走って、構えをとって、きちんとしたフォームで打つ。お前、走ってきて、ろくに体勢も整えないでほとんどむりやり打ってただろう」
「へぇ」
 それでもとりあえずラケットに当てていたのはなかなかすごいが、それだけに、フォームができていればかなり良くなるだろう、と弦一郎は判断した。

「グリップテープ、ぼろぼろだな……。仕方ない、フォアで打てるところに打つから、なるべくラケットを回さないように気をつけろ」
「フォア?」
「あー……、ラケットを持ってるほうに飛んでくるボールを打つこと。おまえ、右利きか」
「へぇ」
「では右側に打つ。今のフォームを崩さないように打て」
 弦一郎のその言葉にこくりと頷いて、紅梅はグリップを何度か握り直しながら、自分のコートに戻っていった。

「ええよー」
 軽く膝を曲げ、足は肩幅。ちゃんと構えをとった紅梅を確認すると、弦一郎は紅梅の利き手、右側にボールを打った。

 ──ポォン。

 タ、と紅梅が僅かに走る。
 赤いボールが土の上で跳ねた時には、既に紅梅はラケットを構えていた。そして、先程壁の前で作ったフォームが、なんとか再現される。

 ──ポォン。

 少し力み過ぎたのか、やや大きくボールが弧を描いて打ち返された。
 勝負、試合ならば、どうしようもなく緩いロブ。しかしそれは、弦一郎が非常に打ちやすい球でもあった。

 ──ポォン。

 結局、五往復したところでまた紅梅のラケットが回ってしまい、ボールが横に飛んで、ラリーは途切れた。
「堪忍、もいっかい!」
「ああ」
 すぐさま紅梅が赤いボールを追いかけ、もう一度。

 だんだんと、ラリーの回数が増えてゆく。時折改善できそうな所を弦一郎が指摘すると、紅梅は次にはきちんと直し、ボールを打った。

 飛んできた球を見極め、力を加減して、狙って打つ。それはいつもの勝負、勝つためのテニスでもやってきたことだ。
 しかし、相手の弱いところ、最も打ちにくかろうところを刺しえぐるようにして打つのではなく、相手がちゃんと返せるように気を使って打ち、更に悪いところを指摘し、直させるという行為は、勝ちにこだわる時と同じくらい神経を使い、しかし正反対に穏やかで、弦一郎は拍子抜けした。

 ──ポォン。

「あー、堪忍……」
 また、ボールが横に飛んだ。
 往復十回を超える辺りから、どうしてもこうなってしまう。
 然もあらん、古い小さなラケットのガットやグリップの状態の悪さは、今どうしようもない。
 紅梅もそれを視野に入れて──そもそもこれが初めて持つラケットだからして──打っているのだが、擦り切れたグリップテープでもラケットをホールド出来るだけの握力や、やや緩んだガットで思うところに打ち返すだけの勘は、どうしても一朝一夕では養えない。

「あ」
 再度ボールを追いかけようとした紅梅を制し、弦一郎が走った。
 紅梅の運動神経がいいとはいえ、Tシャツ短パンの動きやすい服装、また紅梅よりも更に段違いの運動神経と身体能力を持つ弦一郎は、紅梅より随分早くボールに追いつく。

 そして戻ってきた弦一郎は、自分のコートではなく、所在無さげにコートを出ている紅梅に近づくと、ずいと手を出した。

「……おい、ラケットを貸せ」
 ぶっきらぼうな言い方だが、紅梅は素直に、古ぼけたラケットを差し出す。
 弦一郎はそれを受け取ってグリップを握り、ガットを指で弾いて状態を見ると、先ほどの壁の的に向かってボールを打つ。ボールは的のど真ん中より、僅かにずれたところに当たって、跳ね返った。
「こっちを握ってみろ」
 今度は、弦一郎のラケットを紅梅に握らせる。
 紅梅はおっかなびっくりした様子で、先ほどよりもやや大きいラケットを、教えられたとおりに丁寧に握った。
 更にボールを打たせると、一度練習したせいか、ラケットの状態がいいせいか、数回で的に当たるようになった。

「持ちにくくないか? 重さは?」
「ううん、さっきより滑らへんし、重さも、大丈夫。たぶん」
 弦一郎のラケットは、23インチ。フェイスが広い分当たりやすくてボールも飛ぶものの、シャフトが長いので少し重いのだが、どうやら大丈夫なようだ。
「じゃあ、お前、それで打て」
「えっ、ええの?」
「そのほうが上手く打てる」
 その代わり弦一郎は古いラケットを使わなければならないが、当然、技術でカバーできる自信はある。

 そら早くコートに戻れ、と弦一郎はその古ぼけたラケットで示したが、紅梅は示した先を見ず、弦一郎の目を真っ直ぐ見たままだった。
 指示に従わない紅梅に、何だ、と弦一郎が訝しげに眉をひそめる。
 しかし──、

「おおきに、弦ちゃん」

 弦一郎の険しい表情とは正反対に、紅梅は笑った。──嬉しそうに。

 おおきに、という言葉は聞き慣れないが、西の言葉でありがとう、という意味だということは知っている。しかし、脳が語彙と意識を繋げるよりも早く、ぱっと笑ったその表情で、弦一郎は、礼を言われたことを理解した。

 そして、謝られた時もあっけにとられたが、礼を言われた今は、驚いた、という感覚のほうが、ぴったりだった。
 試合の後、スポーツマンシップに則って──という名目で、ありがとうございました、と言い合い握手をすることは、儀礼として何度もしてきた。
 しかしその時見るのは、言葉とは裏腹に悔しそうだったり、泣きそうだったり、もしくは弦一郎に勝って得意げな相手の顔。

 テニスをして、笑顔で礼を言われたのは、初めてだった。

「ええよー」
 はっと気づくと、紅梅は既に自分のコートに戻り、弦一郎のラケットを構えていた。
 夏の風に揺れるのは、テニスをするには向かない着物の袖。土埃で少し汚れた袴、木漏れ日に光る黒髪。そして、笑顔。

「……いくぞ」
 赤いボールを、軽く放る。
 物心つく前、初めて握ったラケットで、もう一度、弦一郎はボールを打った。
 ──初めてテニスをする彼女が、打ち返せるように。



 ──ポォン。

「二十!」
 打ち返す数を数え始めたのは、何回目からだったか。
 ラケットに問題がなくなったこともあり、紅梅はだんだんフォームのコツを掴んでいき、あっちこっちに飛んでいたボールは、ほとんどゴムひもを越えて弦一郎の側に来るようになった。
 更には、弦一郎が率先してボールを拾いに行くようになったので、紅梅が「堪忍え」と言うのも、いつの間にかなくなっていた。

「あっ」
 弦一郎は、思わず声を上げた。
 さすがに何百回も同じコースを打って手元が狂ったのか、ただでさえ使いにくい古いラケットが久々の酷使にさらに悲鳴を上げたのか、弦一郎の打ったボールが、狙いの反対側に飛んでいく。
 しまった、という思いとともに、ボールのコースを確かめる。しかしそこには、既に赤い袖が翻っていた。

 ──ポォン!

 弦一郎は、目を見開いた。
 紅梅が、教えていないはずのバックハンドで、反対側に飛んだボールを打ち返したのである。しかしやはり見よう見まね、無茶な体勢で打ったせいで、ボールはあらぬ方向に飛んでいく。

「……すまん」
 紅梅がミスした時に「堪忍え」と言っていたからではなく、ただ自分のミスショットでラリーは途切れ、塀にぶつかったボールがころころと侘しく転がっていることに対し、弦一郎は自然に、謝罪の言葉を口にしていた。

「二十二回!」
 しかし紅梅は、そう言って笑っただけだった。「新記録!」と叫んだ紅梅に、弦一郎もつい笑みが溢れる。
「……今の、よく打ち返せたな!」
「ふぇへ」
 賞賛の言葉を口にすれば、ふにゃっと、照れくさそうに笑う。
 思わず漏れた、というようなその声は少し変てこで可笑しく、ガラス箱に入った日本人形、という紅梅の第一印象は、もうすっかり消えてなくなっていた。

 弦一郎が打ったボールが飛んだのは、ラインの外、試合ならば完全にアウトコース。
 だが今は、そういうことは関係ないのだ。楽しそうに笑う紅梅を見て、弦一郎は、それをなんとなく理解した。



「まあまあ、いつまでやってるんです」
 八月、夏の陽が沈むのが遅いとはいえ、そろそろ夕方。
 打ち合い始めた時は洗濯物を干していたはずが、既に乾いたものを取り込んでいる祖母の佐和子が声をかけ、“遊び”の時間は終わった。

 汗だくだった紅梅はすぐに風呂に入れられ、脱いだ着物を畳んでいた佐和子が「これで走り回ったんですか」と若干顔を青くしつつ、袴を提供した信一郎を見た。無論、信一郎は知らぬ顔である。

 紅梅が風呂から上がったあと、弦一郎も湯船に入って汗を流す。
 弦右衛門が帰ってきたら、夕食。
 弦一郎はたくさん食べることを褒められ、紅梅は食べ方が綺麗なのを褒められた。

 疲れていたのか、そのあとは二人共、あっという間に寝入ってしまった。
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このお話から分岐したパラレルルート、【if】もしも真田弦一郎が国語辞典を引いていたらもあります。これだと、本編でもだもだするところをあと八話で完結のスピードスター展開となります。
BY 餡子郎
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