準備が整った、という知らせを受けて、人間の少女の姿をした女神は、「そうですか」、と淡々と返事をした。
「おや、もっと飛び上がって喜ぶかと思ったが」
「嬉しいですよ」
「それよりも、悲しみが上回っている? それとも不安?」
「…………」
少女は、返事をしなかった。男は僅かに目を細め、苦笑を作る。
「……とにかく。ヘパイストスは、全ての聖闘士の肉体を作り終えた。あとは彼らの魂をその肉体に定着させて、私が地上に連れて行くだけ」
「ありがとう、ヘルメス」
「なんて事ない事さ、妹よ」
ヘルメスと呼ばれた男は、やけに人間くさい仕草で肩を竦めた。
「ただ、今までやった事ない事だから、ちょっとばかり不手際があっても勘弁して欲しいかな」
「彼らに何事もなければね」
フ、と、少女は初めて僅かに微笑む。ヘルメスはもう一度肩を竦めた。
「アテナ、今度は勝てそうかい?」
「さあ……どうでしょうね」
「何だい何だい、自信なさげだね? 常勝の女神アテナともあろうものがさ!」
「もう戦争はありませんからね」
少し冷たい風が、木々の間をすり抜ける。灰褐色の艶やかな髮が、揺れた。
「皮肉なものだ……と、言いたいのでしょう?」
女神は、言葉通りの表情で苦笑する。戦争が終わって初めて、常勝の女神は、勝利を確信できなくなった。“審判”──裁判は争いの一種とも言えるが、あくまで“審判”であって、“戦争”ではない。
「愛と芸術による裁判、か。ハーデスもよく考えたものだ」
「しかし、確かに平等で平和的です。これ以上なく」
「確かに平等で平和的だ。でも最も理不尽で理屈がないのも、愛と芸術だ。そして君が一番不得手なのもね、知恵と戦争の女神?」
感じるままの愛に知恵は要らないし、芸術は戦争のように勝ち負けで優劣が決まるものではない。様々な浮き名を流し、芸術面でも評価の高いヘルメスは、余裕綽々に言った。
「……失礼ですね。私は技芸の女神でもありますよ」
「どっちかっていうと工芸だろ。芸術じゃなくて職人芸の方だ」
体操は完璧でも舞踏が出来ない、機織りは見事だが服飾は不得手、楽器づくりは上手くとも演奏は下手、誰よりも整った容姿は周りを魅了するが、惑わすような色気はない。それが女神アテナ、君である、とヘルメスはきっぱりと言った。
女神は僅かに眉を寄せ、少し不貞腐れたような表情になる。
「ここまで散々に言われた事もないわ」
「でも、本当の事だろう」
何一つ言い返せないので、少女の姿の女神は黙った。
「今回の審判は、“彼女”が裁判官といっていいだろう。そして陪審員は“彼ら”──聖闘士。被告人である君に出来るのは、いかに彼らの同意を得るか、……いや、愛を得るかということ」
「彼らに愛される、と言いきる事は、確かに出来ません。だから私は、今まで通りにするだけです」
「今まで通り?」
「私は、全ての聖闘士を、等しく愛しています」
「そうだろうね、彼らは全員等しく君の息子だ。つまり、88の聖闘士全てが同じものだった。だから今までは上手く行っていたし、君のやり方は正しかった」
「……何が、言いたいのです」
女神の表情が、若干険しいものとなる。しかしヘルメスは、にやにやと笑いながら続けた。
「蘇ってくる彼らは、もう君の息子ではない。完全に」
「…………」
「“彼ら”は、もう“彼”ではない。ひとりひとり全く違う、別の人間だ。女神、君はそれを認めなくてはならない」
女神は、黙って聞いている。
「だから彼らが感じる事は、正真正銘、彼ら自身が個別に感じたことになる。何の陰謀も策略もない、理屈のない、あるがままの、単なる生理的な好き嫌いだ。そのうち何人が君の味方になるかな? ……どれだけの、“人間”が」
──君に、愛を示すかな?
にこにこと朗らかな笑みで、ヘルメスは心底意地悪そうに言った。
「神にさえなったかつての誰かは、愛は平等だと言ったようだがね。──何が平等。愛ほど不平等で、理不尽なものはない」
「何を──」
「等しく愛している? そんな一山いくらの愛、誰が欲しがる?」
「何を。私は彼らをこの上なく……」
「今までは、それで良かっただろうがね。何しろ彼らは今まで、
何(・)人(・)居(・)よ(・)う(・)と(・)結(・)局(・)は(・)“彼(・)”一(・)人(・)だった。だから君が彼らを等しく愛している、というのは本当なのだろう。結局は“彼”一人を愛しているだけなのだからね」
だが今度からはそうではない、とヘルメスは忠告した。
「誰もが、誰よりも愛される事にこそ歓びを感じるものだ。お前を一番愛している、お前以外はどうでも良いのだと、そう求められる事に飢えている。一人一人が、それぞれにそれぞれの自我をもっているから。そう、神も人間も、その点では同じだね」
一人一人違うものを分け隔てなく等しく扱う事は、ある意味では本当に美しい事なのだろう。しかしそこに、一人一人への個別の想いは存在するのだろうか?
「多数がたった一人をこの上なく愛する事はできても、一人が多数を“最大級に”、そして“等しく”愛する事なんて不可能なのさ」
淀みなく、歌うように、ヘルメスは言った。
「愛は何よりも不平等で、理不尽だ。だからこそ、この審判はこの上なく平等といえる」
ヘルメスは、目を細めた。
「そう、つまりこの審判は────」
──愛された者の、勝ちとなる。
「誰よりも愛され、尊ばれ、謳われた者こそが、この審判の勝者。何よりも不平等で理不尽な“愛”をもってして、何よりも平等で公平な審判が成り立つ」
「…………」
「さあ、“戦争”の女神・アテナ。聖戦の後、君に味方はどれだけ居るのかな? ……君は、君の息子で無くなった彼らに──」
ヘルメスは、車椅子の上に座る少年を見た。癖の強い茶色の髮が、俯いた顔を隠している。
「──彼に、愛される自信がある?」
女神は、……いや少女は、無言だった。初冬の風が、彼女の長い髮を揺らしている。車椅子の押し手を握る細い指が震えているのは、冬の風の冷たさだけが原因だろうか。
「そう──その少年も」
少女の肩が、初めて、びくりと震えた。
汗の浮かんだ掌で握り締めたのは、車椅子の押し手。
「天馬ペガサス── 代々のアテナのお気に入りも、今回で終わりかもしれないな」
「私は」
少女の声は凛として、しかしか弱く震えている。それはまるで、初々しい初恋の告白をするかのように。そして、身を呈して子を守る無力な母のように。
「私は、……全ての聖闘士を、等しく愛しています」
「だから、それは──」
「わかっています。しかしだからこそ、──彼らが“ひとりひとり”となった今、私はそれを喜ばしく思っているのです」
「へえ?」
ヘルメスは、目を細めた。
「……その結果、君が必要とされなくなっても?」
「ええ」
冷たい風が、灰褐色の髮を揺らす。
女神が、振り向いた。少年に背を向けた彼女の灰色の目が、高貴な輝きを宿している。グラウコーピス、輝く瞳を持った者。
「私が本来何の為に生まれたのか、貴方も知っているでしょう、ヘルメス」
「……ああ、知っている」
ゼウスの頭をプロメテウスが割り、そこから産まれた女神。乳を飲む事も、母の腕に抱かれる事もなく、生まれながらにして甲冑を身に纏い、そして処女の誓いによって、これから先、添い遂げる伴侶を持つ事もない戦争の女神。
「私はその宿命を果たすだけです。ただそれを行なうのが、私自身ではないだけ」
「彼らはもう、君の息子ではないのに?」
「言ったでしょう? 私は今でも、彼らを“等しく”愛していると」
女神がきっぱり言いきると、ヘルメスは、怪訝に表情を歪めた。やけにいちいち人間くさい神である。
「それはつまり、彼らの一人一人の個性を、これからも認めないという事?」
「何とでも言うとよろしい」
一刀両断、ぴしりと女神は言いきり、右手に黄金の杖を握ると、大地に突き立てた。勝利の女神ニケ、その化身たる杖。
「母と子の間の事に関して、他人にどうこう言われる筋合いはありませんよ、ヘルメス」
「しかしね」
「お黙りなさい」
母というには厳しすぎる、大軍勢の総統たる風情で、女神は言った。
「私は、彼らを信じています」
戦争の女神、アテナ。
赤子を聖域という名の箱に閉じ込め、毒蛇をけしかける母。乳の代わりに血を浴びせ、揺りかごに寝かせず戦場に放り出し、遊ばせるのではなく戦争をさせて子を育てようとする──育ててきた、女。
「これが」
彼らを、己の息子たちを、等しく愛しているという女神は、言った。
「これが、──私の、愛です」
灰褐色の髮が揺れ、輝く瞳が閉じられる。
ヘルメスは値踏みするような、やはりどこか人間くさい表情でその様を見ると、不敵に笑った。
「そうか、君がそう言うなら、もう何も言うまいよ」
では仕事に戻ろう、とヘルメスは軽妙な仕草で踵を返し、飛ぶようにして消えた。白い羽根が一枚舞ったような残像が、一瞬だけ残る。
少女の姿をした女神は、身を反転させた。それは、車椅子の少年の方を向いているとも、そうでないともいえる、微妙な姿勢だった。
「……私は」
黄金の杖、勝利の女神ニケを握り締めたままの手が、車椅子の押し手を握る。杖を持ったまま不器用に握ったその様は、いびつで不自然で、どちらも上手く握りきれていない不完全なものだった。
「星矢……」
グラウコーピス、輝く瞳。高貴な輝きを宿す灰色の目。
女神の役目を持った少女の目から、涙がひと粒、ぽたりと落ちた。
「迎えに来た」
魔鈴が端的にそう言うと、鉄格子の中の人物は、にこりと笑みを浮かべた。
それはもう、そのまま切り取ったらさぞ高い値がつくだろう、見事な笑みだった。そして、それは例えでも何でもない。ただの事実である。
素早さ、機動力に長ける魔鈴であるが、それはあくまで肉体的な話だ。テレポートが使えない魔鈴は、各種交通機関を使って、対象を目的地まで移送した。
そして辿り着いた部屋で対象を一泊休ませてから、魔鈴は翌日部屋を尋ねた。ドアをノックすると、ピアノの音がぴたりと止む。部屋の中でピアノの椅子に座ったままの対象に、魔鈴は切り出した。
「城戸沙織、という人物を知っているかい」
「城戸光政氏のお嬢様ね」
対象──“彼女”は、さらりと言った。ただ一言発しただけでも、歌うようである。
世界最大のコングロマリット、グラード財団の総帥でもある城戸沙織は、有名だ。そして彼女自身が有名だからこそ、先代総帥・城戸光政の孫娘として名を出される事は最近少なくなりつつある。
「その城戸沙織から、頼みがある」
「いいわよ」
「……用件も聞かないうちに、即答していいのかい?」
「だって、光政氏から頼まれたんですもの。“沙織が困ったときは手を貸してやってくれ”って」
彼女は、やはりさらりと言った。彼女が“城戸光政の身内”として城戸沙織を評したのは、ただ単に、彼女が城戸光政と面識があるからであったらしい。
「私が彼女に手助けする機会があるなんてとても思えなかったけれど、縁ってわからないものね。あなたの口からそれを聞かされた事も含めてね、魔鈴」
「でも、あんたの顔の広さからいうと、あまり不思議な事でもないんじゃない」
「そうかしら」
微笑みを浮かべたまま、彼女は僅かに首を傾げた。計算され尽くした、これ以上のものはないという、彫刻のように完璧な仕草で。
「あんたには、元々礼を言いにくるつもりではあったんだけどね」
「星華さんは、無事記憶が戻ったの?」
「ああ、あんたのおかげだ。本当にありがとう」
「そう、良かったわ」
今すぐ季節が春になって、そこら中で花が咲くんじゃないか、と思うような微笑みを浮かべて、彼女は言った。
独自に星矢の姉・星華を探した魔鈴が辿り着いたのが、目の前にいるこの彼女だった。幼い頃に一人で失踪した星華に関する手がかりは少なく、途方に暮れた挙げ句に、殆ど噂に近いような評判を持つ彼女を、魔鈴が尋ねたのだ。
尋ねたと言っても、魔鈴は彼女に正規にアポイントメントを取れるような立場ではない為、彼女の部屋の窓から忍び込むという乱暴な方法をとったのだが、その時も、彼女は動じなかった。銀色の仮面を被った侵入者に向かって、「あら、どちら様? 玄関は一階よ」と予め決まっていた台詞だったかのように言う彼女には、さすがの魔鈴も呆気にとられた。
彼女は、いつ如何なる時もこんな感じだ。どんなことが起こっても、まるでそれがごく普通で、当然の成り行きであるかのような態度。それは毒気を抜き、肩の力を不思議に抜かせる効きめがあった。
とにかく、彼女のおかげで魔鈴は星華の居所を突き止めることが出来た。星華は事故のショックで記憶喪失に陥っており、彼女の力をもってしても記憶を完璧に取り戻す事は出来なかったが、彼女が手を尽くしてくれなかったら、あの土壇場で星華に記憶が戻る事もなかったかもしれない。
「それで、頼みというのはどんな事かしら?」
「……それについては、まず色々なことを知ってもらう必要がある」
魔鈴は、ゆっくりと、そして魔鈴らしく整然と話しはじめた。この世界の裏側、いや本当の表側の話を。
女神アテナに率いられる聖闘士の存在を話した時、彼女はそれを疑うでもなく、驚くでもなく、不審げにするわけでもなく、ただ頷いた。明日は雨だそうですよ、と言われて、ああそうなんですか、とでもいう風に。
「……相変わらず、動じないね。というか、信じるのかい」
「聖闘士の名前だけなら、知っている人は知っているじゃないの」
「メン・イン・ブラックと同列にね」
魔鈴は、仮面の下で小さく息を吐いた。どこかに実在するのかも、とぼんやりと匂わせる所までを含めて、どこかの誰かが言いだした架空の存在として、聖闘士は知られている。
かのギャラクシアン・ウォーズも、実際には、出演者を聖闘士という“設定”として開催された、という認識が、一般的には正しい。
「でも私、ギャラクシアン・ウォーズは観戦していたから」
「ああ、そうだったね」
魔鈴は納得した。
彼女は、生であの試合を観戦していた。しかも、肉眼で出場者の顔を判別できる最前列で。あの時のチケットはおそらくマイケル・ジャクソンのコンサート最前列レベルの高値がついていたはずだが、彼女ならその席に座っていてもおかしくはあるまい。
テレビ画面越しに彼らの所業を見ていた多くの者たちの殆どは、あの試合は何らかの最新鋭技術を用いたエンターテイメントであると認識しており、またそれが世間一般の認識でもあるが、生で試合を観戦した人々の中には、本気で聖闘士の存在を信じた者も少なくない。
そして、小宇宙に目覚めている彼女ならば、あの試合が本物である事を確信するだろう。
「……もしかして、その聖戦で、あの子たちは亡くなったの?」
「いいや、あの試合に出てた奴らは全員生きてる。入院中だけど」
「それは良かったわ」
彼女は胸に手を当て、ホッと息を吐いた。
「死んだのは──黄金聖闘士全員と、私ともう一人の女聖闘士以外の白銀聖闘士たちだ」
魔鈴は、緊張感の滲んだ声で言った。
「そしてさっきも言ったが、今回の聖戦は、今までと違って、和平締結による終戦を迎えた。よって、ハーデスらとの取り引きにより、戦死した者たち──聖闘士と、そして冥闘士海闘士全員の復活が確定した。あんたには、それを手伝ってもらいたい」
「……復活? まさかとは思うけど、その、ええと……それはつまり、キリストみたいに?」
彼女が目を丸くし、珍しくもつっかえながら尋ねるので、魔鈴は頷いた。いつも何事にも動じない彼女が驚いている事に、仮面の下で僅かに笑いながら。
「はあ……、世の中、与り知らない所で色んなことがあるものなのね」
「本当に。そしてあんたにも、与り知る所となってもらう」
「まさか、生け贄かなにかになれって言うんじゃないでしょうね」
僅かに眉を寄せて言った彼女に、魔鈴は思わず小さく噴き出した。
「なんだい、生け贄って」
「黒魔術的な手法を用いるのかと想像したのよ。あいにく、一度死んだ人間が生き返る方法については詳しくないものだから」
「全人類が詳しくはないさ」
魔鈴は、肩を竦めた。
「とりあえず、生け贄がいるとは聞いていない」
「それを聞いて安心したわ。それで、私は何をすればいいの?」
魔鈴は、話し始めた。すっかり驚きを飲み込み、いつもの調子を取り戻した彼女は、静かにそれを聞いている。そして、正しく理解した。
「最初の一人が蘇るまで、まだ少し時間がある。それまでに、あんたには、小宇宙の使い方を完璧にマスターしてもらう」
「もちろん、魔鈴が教えてくれるのよね?」
「ああ」
魔鈴は、頷いた。適任だからというよりは他に人が居ない為に魔鈴が行なうことになった役目だが、既に小宇宙に目覚めている者に対する指導は、星矢を教えるほどには厄介ではないだろう。
「同時に、復活した時に右も左もわからなくなっているあいつらが良く過ごせるように、とも仰せつかっているが……」
「それについては、任せておいてと言っておくわ」
そう言うと思った、と魔鈴は頷いた。言うまでもなく、それは彼女の専門であったからだ。
「そう。頼もしいけど、ほどほどでいいと思うよ」
魔鈴は本気でそう思っているが、彼女の事だ、やりすぎなぐらい完璧にそうするだろう。だが、そうなった時の彼らの顔が見物でもある。
「それと、報酬について聞いてこいとも言われている。希望はある?」
「では、これを頼めるかしら」
彼女は、ピアノの上に置かれていたアイボリー色の紙を取り、魔鈴に渡した。それは今居るホテルに備付けの便せんで、書かれた内容に、魔鈴はざっと目を通す。いくつかの常識的な事項と、弁護士の指定、各種連絡先。
書いてある事について、魔鈴には具体的なことはよくわからなかったが、隅々まで揃った、きちんとした書面であるようだった。冷たい鉄格子の部屋から出てすぐ長旅をして、翌日にこの書面を書き上げたと思うと、やはり彼女はしっかりしすぎるほどにしっかりしている。
それは、そうでないと生き残って来れなかったからなのか、それともそうだから生き残って来れたのか、魔鈴には違う世界すぎて想像がつかないが、大したものだ、とは思う。
「……多分、特に問題ないと思う。このまま渡しておくよ」
「そうしてちょうだい」
問題があれば書いてある弁護士の所に連絡が行くわよ、という彼女の説明にそんなものなのかと頷いて、魔鈴は便せんを三つ折りに畳み、渡された封筒に入れた。
「で、引き受けてくれたはいいけど、あんた、仕事はどうするんだい」
「辞めるわ」
即答された答えに、今度は魔鈴が、仮面の下の目を丸くした。
「辞める?」
「辞めるわ」
彼女は、もう一度、やはりきっぱりと言った。もうすっかり決めきっているらしいその声色に、魔鈴は黙る。
「今回こういうことになって、私も色々考えたのよ。──初めて、ね」
彼女が自分の事を語るのは、珍しい。
魔鈴は彼女との付き合いは長くないが、彼女が仕事柄以上に大変な聞き上手で、そしてその分、自分の事を話す事がない事も知っていた。
しかし今、彼女は、やや熱っぽいような、しかし同時に冷えきったような様子も滲ませながら、訥々と言った。
「産まれた時からあそこにいて、言われるがままに生きてきたわ。それについて不満を持ったことはないし、私に出来る最大限の努力をしたし、誇りにも思っている。だから、一生こうして生きるんだと思っていたの。何の疑問も持たずに」
「実際、それで問題なさそうではあったね」
魔鈴はそう言ったが、彼女は曖昧に微笑んだだけで、頷きさえもしなかった。そのどっち付かずの微笑みがあまりに不完全なので、魔鈴は逆に呆気にとられた。彼女はいつも、そのまま彫刻や絵画にして飾っておけるような表情をしていたから。
「色々考えたのよ。私って、なんなのかしら」
何もかもを超越したような彼女が言った台詞は、甘ったれた十代の小娘のようなものだった。
「何言ってるんだコイツ、と思ったでしょう、魔鈴」
「思った」
「あなたのそういう率直な所、私好きよ」
うふふ、と、彼女は声に出して笑った。黒猫のような、悪戯っぽい笑みだった。
「私は今まで、誰でもあって誰でもなかったと思うの。どこにでもいてどこにもいない」
「悪いけど、詩的な言い回しをされても私にはわからないよ」
「いいのよ、聞いてさえいてくれれば」
聞き上手の最たるものである彼女の言う事なので、説得力があった。
魔鈴は、素直に黙る。幸いにして、彼女の声は相変わらず歌うようなので、意味が分からなくても聞くのに辛さはさほどない。
「今私は、夢から覚めたような気持ちなのよ。とは言っても、初めてそう思ったのが鉄格子の中だから、気持ちのいい目覚めとは言えなかったけれどね。頭から水をかけられるとか、お尻を叩かれたりして目が覚めたような気持ちよ」
ポォン、と、彼女はピアノの鍵盤を一音叩いた。魔鈴には、その音がドレミのどれだかもわからない。
「でも、だからこそ色々と、目まぐるしい位にたくさんの事を考えたわ。今までの事や、これからの事、そして自分の事。そうしたら、今までの生き方を続けようという気持ちがなくなってしまったの。……そう、気持ち」
聴いていてくれればいい、というだけあって、彼女の言葉はまるっきり独白そのものだった。
「気持ちがあるのよ。好きとか嫌いとか、そういう原始的で単純で、理屈のない素直な心が、私にもある。参るわよねえ、空が青い事に今更気付いたみたいだわ」
魔鈴がじっと黙って慣れない聞き役に徹しているのを見て、彼女はくすりと笑うと、親切げに言った。
「要するに短く纏めると、今までしてきた仕事に後悔はないけれど、これからも続けていく気が無くなったのよ」
魔鈴は、肩の力を抜いて頷いた。
「じゃあ、これからどうするんだい」
「さあ」
するり、と彼女は暢気に言った。
「それをこれから考えようと思っているわ。だから、貴方たちからの頼み事は、私の個人的な考え事をするのにも丁度いい時間つぶしにもなるの」
「お互いに損がないのなら、それが一番だ」
「全くもってあなたの言う通りよ。だから気兼ねなくやらせて頂くわ」
にっこり、と、彼女は微笑んだ。
「光政氏からの頼まれごとを最後に、私は今までの仕事と、生き方を辞める。そして沙織嬢からの頼まれ事を最初に、新しい生き方を探すわ。……いい機会だから、その、皆さんと一緒にね」
彼女の目は、いつになくきらきらとしていた。真っ黒い目をした彼女だが、その輝きは明るい。まるで、夏の温かな夜空の中で星が輝くようなきらめきが、そこにはあった。
「……幸運を、オルタンシア」
「ありがとう」
彼女──オルタンシアはにっこりと笑うと、鍵盤に両手を起き、柔らかな旋律を奏でだす。
魔鈴はしばらくそれを聴いていたが、やがて、気まぐれに尋ねた。
「……それは、何という曲?」
「ロベルト・シューマンの、『トロイメライ』──」
目を細め、どこか遠い場所を懐かしむような表情。メロディを奏でたまま、彼女は言った。
「子供心を描いた、大人のための作品」
大人になった人々に、子供の頃の情景を思い出させる為の曲。
「──“子供の情景”」
大人になった子供の為の、夢を運ぶ子守歌。
星座を描く星たちが、闇夜の中で煌めいた。
第13章・Der Dichter spricht(詩人は語る) 終
Fan novel of "Seint Seiya"
【Kinderszenen - 子供の情景】
~ END ~