第13章・Der Dichter spricht(詩人は語る)
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「つくづくも、予測のつかぬ生物となってきたものだな。人間も」
 忌々しげに、そして呆れ果てたように、神のひとりが言った。
「まったく。何がどうしてあのようになったやら」
「我々を模して作ったとは、とても思えぬ有様よ。もはや得体が知れぬ」
 他の神々も、同意を示して頷く。
「しかし、兎も角──、聖戦と呼ばれる戦に、とうとう決着がついたというわけだ」
 神の誰かが、面白そうな声色で言った。
「なあ? ハーデス」
 呼びかけられた神、冥王ハーデスは、最も美しい漆黒の瞳を細める。
 聖戦── 女神アテナ率いる、聖闘士と呼ばれる人間たちで構成された軍と、ハーデスが率いる冥界軍との、地上の支配権を巡る戦。二百何十年という、神々にとってはあっという間の周期で行なわれるその戦の決着が今こそついた、と、神々たちからニンフらまでの間で飛び交う話題は、最近専らそれであった。
「で、どちらが勝ったのだったかな」
「アテナであろう? アテナが投げたニケが、ハーデスを貫いたと聞いた」
「テュポンの時は山を投げたろう、あの娘。豪快な事だな」
「負けてはおらぬ」
 静かな声に、シン、と場が静まり返る。
「負けてはおらぬ」
 ハーデスは、もう一度言った。負け惜しみとも取れるその台詞に、神々の誰かが、意地悪げな笑みを浮かべる。
「クッ」
 ──そして、一番に声に出して笑ったのは、海皇。ハーデスよりほんの僅か前にアテナと闘った、ポセイドンであった。
「クックッ、……そうだな、ハーデス。我らはまだ、負けたと決まったわけではない」
「そなたら、一体何を言うておるのだ」
 不思議そうな表情で、女神の誰かが言う。ハーデスは何でもないように目を閉じ、そして口も閉じる気のようだったので、ポセイドンが引き続き話した。
「我々が取り合ったのは、地上。すなわち正義の星乙女に見放された土地」
 星乙女、アストライア。それがギリシャ神話に置ける正義の神である。はるか昔、神々は人間と同じく、全て地上に住んでいた。しかし時代を経ていくに連れて争い続ける人類を、神々は、ひとり、またひとりと見放して天に昇って行ってしまったが、アストライアだけは最後まで地上に留まり、人々に正義を訴え続けた。
 しかし人間は彼女の言う事に耳を貸さなかっため、アストライアは、欲望のままに行われる殺戮によって血に染まった地上に絶望し天に去ったのである。
「もはや地上に正義はない。そんな土地を巡る戦争で、勝った負けたで正義の証明など出来るものか」
「屁理屈だ」
 呆れ果てた声が、どこかから上がった。
「ハーデス、ポセイドン、そなたらは負けた。これは事実」
「然様」
「戦争は、聖なるものぞ。言い訳など止すがいい」
 咎めるような声や、不快げな声さえ上がる。しかしポセイドンは相変わらず悠然と微笑みを浮かべていた。
「確かに、我々が敗者であるのは認めよう」
「ならば──」
「女神アテナは、敗者である我々に、勝者としての要求を出してきた」
 目を閉じて黙り込んでいたハーデスが、言った。この神の発言がいつもどこか唐突である事はどの神もよく知っていたので、彼の次の発言を、黙って待つ。
「……それは、当然の事ではないのか?」
 無言のハーデスに、痺れを切らした神のひとりが言う。勝者として、敗者に何かを求める、それは当然の権利であると。
「それが、人間たち──聖闘士どもの復活であってもか」
「何」
「なんと」
 ハーデスの発言に、神々がざわめく。
「それは、転生、ではなくか?」
「両方だ」
「どういうことだ。説明せよ」
 誰かが言い、ハーデスに全員の視線が集まる。ハーデスは、重たげな口調で淡々と、神々の要求に応えた。
「……女神アテナが要求してきたのは、3つ。ひとつは、これまでの聖戦にて命を落とし、神──すなわち我、冥王ハーデスに逆らった罪の為にコキュートスに幽閉されている聖闘士たちの転生」
 基本的に、地獄でもってある程度罪を償ったとされる亡者は転生の輪に入れられるが、コキュートスばかりはそれに当てはまらない。神に逆らった者が堕ちる氷地獄・コキュートスは、まさに終身刑、終わりのない、永遠の牢獄である。
 そして聖戦を闘う事で、女神アテナの為に闘うと同時に、自動的に敵軍大将のハーデス神らに逆らうことになる聖闘士は、命を落とした後、漏れなくコキュートス行きになってきた。
 女神アテナは、その彼らを解放し、輪廻の輪に入れろと言ってきたのだという。
「まあ、妥当な所であろうな」
 “富める者”にはさぞ忌々しかろうが、と誰かがからかうように言うと、あちこちから、クスクスと笑いが漏れた。
 “富める者”とは、ハーデスの二つ名のようなものだ。その所以は、死んだものは地中に埋められ土に還るという事から、全て冥界のもの、すなわちハーデスの財産となるからだ。宝石などの貴石が地中にあるものであることからも、ハーデスは貯蓄家、資産家の様相を持つ。そして死んだものが普通二度と生き返らないのと同じく、彼は得た財産を返す事がない。これは世界の理である。
 しかし今回、アテナの要求はその理を覆さなければ為せないものだ。確かに、ハーデスには忌々しさ極まる内容であろう。
「……ふたつ目は、もう聖戦を二度と繰り返さぬという和平条約の締結と、その証しとして、我がハーデス軍、冥闘士の依代となった者たちの復活」
「我が海闘士たちもであるな」
「何と!」
 二度目のざわめきが湧く。
「そしてみっつ目が、こ度の聖戦で命を落とした聖闘士たちの、同じく復活である」
「自軍だけでなく、敵軍であるそなたらもとは。和平の証しとはいえ、女神の慈悲深さに感謝せねばならぬなあ?」
「何を馬鹿な事を。“転生”なら兎も角、“復活”であるぞ? この事がどれほどのものか、わからぬではなかろう」
 ハーデスが、表情の険しさを深くした。ポセイドンは、相変わらず薄い笑みを浮かべている。
「寿命を持ち、老い、死から逃れられぬはずの生物を“復活”させる、この事がどういう事態を招くか」
「…………」
「前例があるであろう。ナザレのイエス、ゴータマ=シッダルタ──」
「馬鹿な!」
 神の誰かが、玉座の肘掛けを叩いた。

「復活により、ヒトが──聖闘士らが神となると申すか!?」

 シン、と、沈黙が降りる。
「……その通り。不老不死ではないが」
「不老不死でなくとも、大層なことであろう」
「そうだ。特に黄金聖闘士らは、先の二人や、ヘラクレスなどの半人半神と同レベルか、下手をすればそれ以上のものとなろう。少なくとも、ニンフや小神よりは神格の高い存在となるはずだ。そして今回復活するのは、一人二人ではない。聖闘士だけでも、総勢30名近く」
「何という事」
 神々たちが、口々にざわめく。
「しかも、“転生”に関しては我ハーデスがコキュートスを解放するだけで良いが、“復活”は我の力だけでは為し得ぬ」
「何だと?」
「まず最低限、ヘルメスの協力は必須」
「へえ?」
 羽根のついたサンダルをはいた軽妙な美青年が、茶目っ気のある表情を作った。
 オリュンポス十二神の一柱、ヘルメス。旅人、商業、羊飼いの守護神であり、同時に窃盗・詐欺・博打の神でもある。
 オリュンポスの神々の中で最もフレキシブルな活躍を見せていると言っても過言ではない万能なヘルメスは、ゼウスをはじめとする神々の伝令役を務め、能弁、体育技能、眠り、夢の神とも言われる。神話では多くの密命を果たし、アポロンの親友であり、彼の持つ竪琴の発明者でもある。そしてゼウスとマイアの子であるヘルメスはアテナと異母兄妹の間柄であり、その関係も良好だと言われている。
 そしれ彼は、死者、特に英雄の魂を冥界に導く死神としての一面も持っている。コキュートスから解放された聖闘士たちを地上に導くのは、間違いなく彼の役目になる。
「そして、ヘパイストスだな」
「ヘパイストス? なぜ」
 鍛冶神・ヘパイストス。容姿に恵まれぬ上、不運な生い立ち故に脚の自由が利かぬ神であるが、彼の手に、およそ創れぬものはない。神々の装身具や武器防具の殆ど──ゼウスが持つ雷、そしてゼウスからアテナに譲られた正義の盾アイギスも彼の作品であるし、アポローンとアルテミスの矢もそうだ。更に酒杯などの生活用品から家具調度類、光り輝く戦車に宮殿、自分で歩くことのできる真鍮の三脚器、果ては生きた人間そのものまで、彼の作品は数え切れぬ程存在し、そしてその全てが最高峰の出来である。
「復活を希望している聖闘士らの殆どに、既に肉体がない。しかも復活によって神格が高まった奴らの魂を収めるには、普通の人間の肉体では耐え切れぬだろう。ヘパイストスに作成してもらわねば。なに、アテナから頼まれれば、ヘパイストス、そなたむしろ喜んでやるであろう?」
 ポセイドンがにやりと笑えば、周りの神が、クスクスと囁くような笑い声を上げる。むっつりと黙りこくった鍛冶神が、表情を更に険しくした。
「それに、他にも────」
「そなたら、己の敗北で我らに面倒を押し付ける気か?」
 迷惑そうな顔をした神々に、ハーデスは尊大に胸を反らした。
「何を今更。この聖戦が始まったとき、勝ったほうに何でもしてやろう、と殆どが面白半分に申したであろうが」
「むう……」
 事実であったので、皆渋々と拳を収める。
「……しかし、面倒という事以前に、その規模の神格の者が30名以上も一気に地上に輩出されるのは、大きな問題ではないのか」
「そうだ、そうだ」
 誰かの発言に、神々たちが一斉に同意を示す。
 ゼウスが神々たちの長となってからここ数千年、もしかすると数万年、彼らは変わらぬ立場を過ごしてきた。不変と永遠こそ至高とする神たる彼らにとって、新しい勢力の台頭は、忌々しい意外の何ものでもない。
 そして神々のそんな様を相変わらず薄笑いのまま見ていたポセイドンが、口を開いた。
「そなたらの言う事はもっとも。そこで、我らに提案がある」
「ふむ。聞こう」
 神々たちにとって周期的な娯楽ですらあった聖戦だが、他人事ではない被害が自分らに回ってくると自覚した事で、彼らにも真剣さが滲んできていた。現金な事である。
「先程も申したように、そもそも星乙女に見放された土地に関する正義を、戦争で決めようと言うのは無理がある」
「ううむ」
「まあ、聞け。……だが、我らが戦争、聖戦にて負けたのは事実」
「うむ」
「そこで、だ」
 ポセイドンは、敗者とは思えぬ鷹揚な仕草で、腕を広げる。
「まず、勝者の権利として、女神アテナの要望である転生と復活は、為す事としよう。それにかかる手間も、申し訳ないが、やると言ったからには被って頂く」
「しかし」
「最後まで聞け。──しかし、これは単なる猶予」
「猶予とな?」
 首を傾げる神々に、ポセイドンは笑みを深めた。
「そう──執行猶予だ」
「執行猶予?」
「戦争の後に待っているのは、単なる平和ではない」
 ポセイドンは、一呼吸置いた。


 「────戦争裁判だ」


 シン、とまた場が鎮まったが、徐々に、海皇の言葉を理解した神々たちが、得たりと頷いたり、近くの者と言葉を交わしたりし始める。その様を見て、ポセイドンは目を細めた。
「なるほど。しかし正義に見放された土地を、裁判というのもおかしな話ではないか?」
 勝った方が正義、という戦争ですら正義が立証できぬと言うのに、裁判でそれが成せるものかという当然の疑問に、ポセイドンは頷いた。
「それは、その通り。よって、理屈をこねるのは無しだ。もちろん、武を振るうのもな」
「ならば、どうする」
「感じさせ、語らせる」
「何?」
 疑問符を浮かべる神々に、ポセイドンは続けた。
「正義に見放された混沌の地で、理屈をこねても、武を振るっても、雌雄を決する事は出来ぬ。ならばあるがまま感じ、語らせることで決めようではないか。聖と魔、邪悪と正義、それぞれの魅力が平等に表現されるのは、芸術の世界だけに許された自由であろう?」
 魅了したもの勝ちの世界。芸術は、平等かつ厳粛に、そして無責任に作品たちを祝福する。美しいものは美しいのだと。
「詩人は、語るだろう。誰が、何が最も美しいか? 残るべきか? ──神たるべきか?」
「……ふん」
「詩に称えられるに、我らが負けることがあるか?」
「あり得ぬ」
「そうであろう」
 神々全員が首を振り、ポセイドンは満足げに頷いた。
「転生も、復活も、為す。約束であるからな。しかしその後、裁判の結果如何によっては、それが無効になる、そういう事だ」
「成る程、執行猶予と言ったのはそれか」
「その通り。“刑”が執行されるまでの、な」
 ポセイドンの笑みが、更に深くなる。まさに、海のように。
「しかし、誰に語らせる?」
「ぴったりの者が居ろうが。“彼女”に委ねよう」
「“彼女”……」
「“彼女”か」
 神々が、ざわめきを大きくする。
「……“彼女”が」
 ハーデスが、久々に口を開く。全ての視線が、彼に集まった。

 「“彼女”が誰を愛し、──誰に愛を語るかで、全てが決まるのだ」

 冥王の静かな声が、神々の座す至上の地に響く。
「正義に見放され、理屈も武も通じぬ混沌の地。そこで確かな真実は、芸術と愛くらいのものなのだろう」
「ほほう、ハーデス。そなたらしくない物言いだ」
「自覚はある。しかし、勝者の言葉を借りただけだ」
「女神アテナの?」
「そうだ」

 ──ハーデス! ……これが、愛です!

 人間が持つ偉大なる力、生命の源から沸き上がってくる愛の力。それは何者にも負けることはないのだと、人間の小娘の姿をした女神は言い、冥王に勝利の女神を突き刺した。
「愛こそ至上である、と、あの女神は言った。ならばその愛でもって、人間の未来を決めてもらおうではないか」
「そう、“彼女”──そして彼女らなら、時に喜劇で、時に悲劇で。英雄の叙事詩を交え、軽やかに舞い、笛を奏で、賛歌や歴史を語り、──そして未来を予知するだろう」
 ポセイドンが、それこそ詩を朗読するような風情で、朗々と言った。

 ──面白い。

 最終的に、神々たちの意見はそれでまとまった。
 最も美しく偉大なる存在こそ我ら神であると信じて疑わぬ、今まで疑った事のない彼らは、聖戦に続く娯楽を、この裁判とする事にしたのだ。
 しかも、かの九人の女神が陪審員ともなれば、さぞ見ごたえのある裁判になろう、と、大きな期待すらかけられていた。
「では、これより、かの女神による“聖戦裁判”を開廷したいと思うが、どうか?」
「異議無し」
「異議無し」
 全員が異議無しと唱えた所で、ステュクスの水が注がれた杯が配られる。
 “誓約厳守”の掟とは、一度何かをすると誓ったからには、たとえそれを為すことで自分自身が多大な不利益を蒙ることになっても、名誉にかけてそれを成し遂げなければならない、という掟の事だ。偽誓は重罪、誓約破棄した者にはゼウス他の神々から厳罰が下される。特に誓約の守護神たるゼウスの元で誓われたそれは、絶対的な効力を持つ。
 更に、オーケアノスの流れの十分の一を割り当てられている支流・ステュクス川の水を飲んでの誓言は、背けば、その者はまず仮死状態に陥り、さらにその後オリンポス山を追放されるという厳しい作用がもたらされる。
「よろしい! 杯を掲げよ!」
 最高神のひと声で、神々たちがステュクスの杯を掲げる。
「そなたらオリュンポスの神々を証人とし、我、誓約の守護神ゼウス・ホルキオスの“誓約厳守”の掟を適応した、聖戦裁判を開廷する!」

 神々たちが、杯を飲み干す。

 これが、聖戦を裁く、女神の審判。その開廷宣言であった。

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BY 餡子郎
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